銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百九十話 仮面の微笑
帝国暦 488年 1月 1日 レンテンベルク要塞 ジークフリード・キルヒアイス
ヴァレンシュタイン司令長官はレンテンベルク要塞内に自分専用の私室を持たない。もちろん司令長官専用の執務室は有るが、夜休むときは必ず総旗艦ロキに戻って休む。環境が変わると良く眠れないらしい。意外に神経質な所がある。
その所為で司令部の人間は総旗艦ロキとレンテンベルク要塞にそれぞれ別れて休むことになった。毎夜半数がレンテンベルクに、残りは総旗艦ロキで休む事になっている。
今夜は私とワルトハイム参謀長がロキにリューネブルク中将とシューマッハ准将が要塞で休む事になっている。その他にも各分艦隊司令官達が要塞で休んでいる。
フィッツシモンズ中佐とヴェストパーレ男爵夫人は副官という立場から常に司令長官と行動を共にするためレンテンベルク要塞で休む事はない。まあ総旗艦にいるほうが女性には安全かもしれない。
司令長官室の前に来た。夜二十三時、司令長官はもう寝ているかもしれない。今なら引き返せるだろう、どうする、引き返すか……。ブラスターを抜く、そして司令長官室のドアの暗証番号を入力した。
ヴァレンシュタイン司令長官はまだ起きていた。上着を脱いでワイシャツだけのラフな姿になって執務机でコンソールを見ている。何か調べ物をしていたらしい。私を一瞬見たが直ぐに視線をコンソールに移した。ブラスターに気付かなかったのか……。
ゆっくりと司令長官に近づく。司令長官室は執務机とソファー、クローゼットの他には何も無かった。おそらく奥の部屋にはベッドが有るのだろう。隣には浴室とトイレ、洗面所だろう。司令長官まであと三メートルほどの距離で足を止めた。
「何の用です、キルヒアイス准将……。もう夜も遅い、出来れば明日にしてもらいたいのですが」
「申し訳ありませんが閣下に明日はもうありません」
私の言葉に司令長官は訝しげな表情をした。
「随分と物騒な科白ですね。それにブラスターを抜いているようですが、どういうつもりです」
「言ったとおりです。閣下には此処で死んでもらいます」
司令長官は私をまじまじと見た。
「ようやく傷が治ったのですけれどね……。キルヒアイス准将、私は無手ですが撃てますか?」
「……撃てます」
私の言葉に司令長官はおかしそうに笑い出した。
「なるほど、撃てますか。違うということですね」
「笑うのは止めてください、何がおかしいのです」
正直面白くなかった。恐怖も見せずただ笑っている司令長官が憎かった。そうだ、憎かったのだ。この人は常に私とラインハルト様の前に居た。私達が苦しんでいる時、常に涼しい顔をして前を歩いていた。私達を嘲笑うかのように……。
「そうですね、笑う所ではありませんね。しかしブラスターで射殺は賢いやり方ではありません。疑われますよ、准将」
その通りだ、射殺は拙い。それではラインハルト様にも疑いがかかる。
「射殺はしません。閣下にはこの薬を飲んでもらいます」
ポケットからカプセルを取り出した。司令長官は黙って見ている。目には興味深そうな色がある。
「この薬は心臓発作に良く似た症状を引き起こします。それにこの薬は一旦体内に取り込まれると検出するのは非常に困難です。他殺を疑われる事は先ずありません」
「私がその薬を飲むと?」
司令長官は口元に苦笑を浮かべている。嘲笑でも冷笑でもなく何処か楽しんでいるように見えた。どういうつもりだ。
「飲んでいただきます。拒否された場合は全身を麻痺させてから口に含ませます」
「なるほど、ブラスターを捕獲用にしましたか」
「……そうです」
司令長官は何度か頷いた。
「いつからその薬を用意していました?」
「閣下の幕僚になったときからです。出来ればこの薬は使いたくありませんでしたが……」
「残念でしたね、バラ園での襲撃は上手くいかなかった」
「……」
「否定しないのですね、准将。やはり関係していましたか」
その通りだ、あの事件さえ上手く行っていれば今頃はラインハルト様が宇宙艦隊を指揮しているはずだった。
「何故私を殺すのです、キルヒアイス准将」
「時間稼ぎですか」
「いいえ、ただ疑問に思ったのです。何故私を殺すのだろうと」
「邪魔だからです」
「邪魔とは?」
「ラインハルト様が帝国を手に入れ、宇宙を征服するには閣下は邪魔なのです。閣下さえ居なければラインハルト様は……」
「ローエングラム伯が帝国を簒奪するためには私は邪魔ですか」
司令長官はそう言うと苦笑を浮かべた。もう終わりにしよう、この人と一緒に居るのは不愉快だ。殺すのも不愉快だが一緒に居るほうがもっと不愉快だ。
「最後に何か言い残す事は有りますか」
「そうですね、是非も無し、それとも夢のまた夢かな……、どちらも陳腐ですね」
そう言うと司令長官はまた苦笑した。陳腐だろうか、どちらも印象に残る言葉だ。少なくとも私は忘れる事は無いだろう。
「御自身で飲まれますか、それとも……」
「自分で飲めますよ、こちらに薬をください」
執務机にカプセルを投げた。カプセルが執務机の上を転がる。司令長官がカプセルを手に取った。そしてこちらを見て笑った、先程までの面白がるような笑いではない、冷たくそして蔑むような笑い。
「これで自殺は出来なくなりましたね、准将」
「?」
「茶番は終わらせましょうか」
「そうですな」
背後のクローゼットから人の声がした! 人が居る! 馬鹿な! 振り返りざまブラスターを向けようとした瞬間に手首に何かがぶつかった。衝撃でブラスターが手を離れる。
一瞬視線がブラスターに向いた。そして足を払われバランスを崩して床に手を着いた瞬間、再度身体に強い衝撃を受け弾き飛ばされる。立ち上がろうとした瞬間に頭に冷たい何かを押し付けられた……。
帝国暦 488年 1月 1日 レンテンベルク要塞 ヘルマン・フォン・リューネブルク
「動くな、キルヒアイス准将」
「御苦労さん、シューマッハ准将」
「リューネブルク中将こそ」
シューマッハ准将はブラスターをキルヒアイス准将に押し付けながら答えた。甘かったな、キルヒアイス。背中を向けるなら念のためクローゼットの中を確認しておくべきだった。司令長官を殺す事に気を取られすぎだ。
キルヒアイスを床に押し付け、両腕を後ろにまわし手錠をかけた。更に両足にも手錠をかける。その上で体を引きずり上げ椅子に座らせた。俺とシューマッハ准将でキルヒアイスの後ろに立つ。司令長官がゆっくりとキルヒアイスに近づいてきた。
「ご苦労様ですね、二人とも。キルヒアイス准将、准将が来ると思ったのでクローゼットにはリューネブルク中将、浴室にはシューマッハ准将に待機してもらったのですよ。無駄にならなくて良かった……」
「……」
「全て喋ってもらいますよ」
「喋る事など無い!」
司令長官はキルヒアイスの拒絶の言葉に柔らかく微笑んだ。拒絶された事がむしろ嬉しいかのように。
司令長官の中で獣が歓びの声を上げているのが分かった。キルヒアイス、これからは貴様にとって間違いなく地獄だ、俺が保証してやる。お前達は司令長官を本気にさせた。その恐ろしさを十分に味わうと良い……。
「昨日、グリューネワルト伯爵夫人から連絡が有りましたね」
「……」
「隠しても無駄ですよ。准将の部屋には監視カメラと盗聴器が仕掛けて有るんです」
「……馬鹿な、何時の間に」
「何の為に要塞とロキで交代に休ませたと思っているんです」
「!」
「環境が変わると良く眠れないというのは嘘です。軍人なのですよ、何処でも眠れます」
そういうと司令長官はクスクスと笑い声を上げた。キルヒアイスの驚いた表情がおかしいのか、それとも他愛なく引っかかったことがおかしいのか……。
「監視カメラと盗聴器はこの部屋にも仕掛けて有るんです。分かりますか、その意味が?」
司令長官のその言葉にキルヒアイスが困惑した表情を見せた。
「困りましたね、私達がここで何を話したか、覚えていないのですか?」
「……」
「バラ園での襲撃事件、それと私を殺す理由、確かローエングラム伯が帝国を簒奪するためでしたね」
司令長官の楽しそうな言葉にキルヒアイスの表情が青褪め、体が小刻みに震え始めた。
「昨日伯爵夫人から連絡が有り、今日准将が私を殺そうとした。これはどういう意味なのか、どう思いますリューネブルク中将」
「伯爵夫人が准将を唆走した、そう思うでしょうな。今回の一連の陰謀の裏には伯爵夫人がいる……」
「アンネローゼ様は関係ない! あの方を巻き込むな!」
キルヒアイスが身を乗り出し、椅子から転げ落ちそうになる。襟首をつかんで椅子に引き戻したが、キルヒアイスは身を捩って暴れ続けた。そんな様子を司令長官は笑みを浮かべながら見ている。
「伯爵夫人が関係無い事、そんな事は分かっています。ですが、それを決めるのは卿ではない。分かりますか、その意味が?」
「卑怯な……。卑怯でしょう! 司令長官!」
卑怯、その言葉に司令長官が微かに苦笑した。気持ちはわかる、暗殺をしようとしていながら卑怯などと何を考えているのか。同じ思いだったのだろう、シューマッハ准将が冷たく言い捨てた。
「卑怯? 自分がしようとしたことを考えるのだな。卿にその言葉を使う資格があると思うのか?」
「……しかし」
「キルヒアイス准将、謀略に卑怯などという言葉は有りません。謀られるほうが間抜けなだけです。卑怯と罵られるのは最高の褒め言葉ですよ。それだけ相手を悔しがらせたという事ですからね」
「……」
キルヒアイスは唇を噛み締めたまま、じっと司令長官を睨んでいる。
「伯爵夫人を助けたければ正直に全てを話すことです」
「……そうすれば、助けられると」
「あの方が陰謀に関わっていない事は事実でしょう。それを証明できるのは准将しかいません。だから正直に話せと言っています」
「……」
「内務省の人間達は少しでも自分の罪を軽くしようと必死のはずです。当然誰かに自分の罪を擦り付けようとする。伯爵夫人は良い標的でしょう」
「……」
「准将が全てを正直に話せば、伯爵夫人に対する援護になるでしょう。しかし、一つでも嘘を吐けば伯爵夫人に対する証言も信憑性は低下する。分かりますか、私の言っている事が」
「……ラインハルト様は、ローエングラム伯はどうなります。ローエングラム伯も今回の一件には関与していません」
キルヒアイスが縋るような視線を司令長官に向けた。愚かな、伯爵夫人と伯では立場が違う。その程度の事も分からないのか、いや分かっていても縋らざるを得ないのか、哀れな……。
「ローエングラム伯には死んでもらう事になります」
「ですが、ラインハルト様は……」
「誰のために、何のために私を殺そうとしたのです、キルヒアイス准将」
「……」
「これは戦争だったんです。私と卿、そしてオーベルシュタイン准将の。卿らはローエングラム伯を中心とした帝国を作ろうとした。私は卿らとは違う帝国を目指した。帝国は一つ、敗れたものは消えるしかない……」
何処か自分に言い聞かせるような口調だった。司令長官は何処かでローエングラム伯を殺したくない、そう思っているのだろう。
「そんな、御願いです、ラインハルト様……」
「だったら何故こんな事をしたのです! 伯が私を殺せとでも言ったのですか! 自分達で勝手に始めておきながらこの期に及んで……。ふざけるな!」
「!」
司令長官の生な感情がキルヒアイスに叩きつけられた。荒い息を吐き、胸を喘がせ司令長官はキルヒアイスを睨み据えている。司令長官は怒っている。そしてローエングラム伯を殺さざるを得ない事を悲しんでいる。遣る瀬無さそうな司令長官の表情が見えた。シューマッハ准将も俺も何も言えず立ち尽くすしかない。
司令長官が手をキルヒアイスの目の前に差し出した。手のひらには例のカプセルが有った。
「選びなさい、この場で自殺するか、それとも全てを話すか」
冷たい声だ。先程までの激情は欠片も見えない。だが司令長官の心はまだ荒れ狂っている。先程までの感情が炎なら今は氷だ。優しさなど何処にも無い、視線までもが凍て付くように冷たい。その冷たい視線でキルヒアイスを見据えている。
「自殺すれば伯爵夫人の命も保証は出来ません。三人でヴァルハラに行く、それも良いでしょう。どうします」
キルヒアイスの体が小刻みに震えている。首筋から汗が流れ、何度か唾を飲み込む音が聞こえた。
「……全て話します」
「良いでしょう。自分で選んだのです、その事は忘れないで下さいよ、キルヒアイス准将」
司令長官が柔らかい声を出した。表情にも笑みがある。それだけなら何時もの司令長官だった。だが目は笑っていない、仮面の微笑だった。心を隠す仮面の微笑……。
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