蒼き夢の果てに
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第6章 流されて異界
第150話 その火を……飛び越えるのか?
前書き
第150話を更新します。
次回更新は、
9月21日。『蒼き夢の果てに』第151話。
タイトルは、『誓約』です。
ほんの五分前まで、この場所は日本のごくありふれた宿の露天風呂であった。
人工の光と明るすぎる夜空により照らし出された其処は、白い湯気が霧のように立ち込めた一種独特の……ただ、俺一人しか存在しない孤独な世界。
しかし――
しかし、ここに彼女が現われてからは変わって仕舞った。重要な何かが変わって仕舞ったのだ。
当然、風景自体が変わった訳ではない。仲冬の夜にしてはかなり珍しい部類の、風のない穏やかな夜であった。確かに俺の目の前には普通に考えるのなら居てはならない存在が一人、身に何も纏う事もなく、ただ立ち尽くすのみ。……と言う異常事態ながらも、それでも、その事自体は通常の世界でも絶対に起きない、奇跡に類する出来事と言う訳ではない。
匂い……ではない。匂いに関して言うのなら、ここは相変わらず温泉に相応しい臭気と言う物を感じさせる場所であった。
当然、温度でもない。いや、彼女が現われた瞬間、気温が一、二度上昇したように感じたのは確かだが、それはこの異常事態に小市民的な俺がそう感じたに過ぎない。
ここ……弓月さんの親戚が営む露天風呂に降り注ぐ、明るすぎる月の光や、溢れんばかりの星々の姿も、西宮に居ては感じられない物なのだが、それはこの地の呪いが祓い清められてからはずっと続いている当たり前の夜の姿であった。
変わったのは……。
「有希。オマエが相手をして居る連中を舐めてはいけないぞ」
月明かりが今、ふたりだけを照らし出すこの場所。
周囲を取り巻く気配。開放的であった場所が、妙に閉ざされた空間のように感じさせるようになった事について気付いた風もなく、そう話し続ける俺。
そう。確かに彼女に人間と同じ生殖能力が存在している理由で、今、彼女が話した内容……自らが、邪神の贄であると言う可能性も低くはないでしょう。
歴史が改変される前。ハルヒと名付けざれし者との接触が為されたままの状態。黙示録へと一直線。異世界よりクトゥルフの邪神が大挙して押し寄せた挙句に、滅びて終った世界と同じ軌跡を辿ろうとしたままの時間軸ならば。
しかし、この世界はその滅びて終った世界の轍を踏まないように、其処から発生したやり直しの世界。この世界の防衛機構はクトゥルフ神族の暗躍に関して見逃す可能性は低いと思う。
ここにこうして、俺と言う、本来この世界には居ないはずの人間が異世界より召喚されて存在している。更に、ソイツが奴らの企みを大枠では阻止した事でも証明されていると言っても良いでしょう。
「つまり、奴ら。俗物の可能性の高い名づけざられし者だけならいざ知らず、這い寄る混沌が絡んで来て居る以上、一度、何らかの方法で歴史の改竄、修正を行ったとしても、もう一度、世界に大きな影響が出て来るその前に、元の黙示録で予言された歴史に向かう流れから、別のもっと安全な流れの方に戻される可能性の方が高いと考えるはず」
この世界の名づけざられし者は何故か、全にして一、一にして全の属性を帯びさせられているので、こう考える方が妥当。
そもそも、情報統合思念体が関心を惹こうとしたのはコイツの方。その為に打った策は、暴走した朝倉涼子が彼を襲い、そのギリギリのタイミングで長門有希に助けさせると言う物。しかし、その策は、後の七月七日にその名づけざられし者自身が自称未来人の朝比奈みくるに連れられて一九九九年の長門有希に未来の情報を渡す事や、その他の事象から、思念体自体が、朝倉涼子暴走事件が発生する事や、長門有希が十二月に事件を起こす事を最初から知っていた可能性に気付くはず。
少なくとも、何らかの形で……。例えば、彼らの能力で情報だけでも時間移動が可能だと言う事は簡単に想像が出来るでしょう。
この場合、普通に考えると、未来を知っているのに事件を防ぐ手立ても行わず、その結果、俺は何度も死に掛かったのか、……と考え、それ以後、長門有希と思念体の事を信用しなくなる可能性の方が高いと思うのだが。
然るに、その事を何故か思念体は考慮する事もなく、そんなチャチな策を実行し続けた、と言う事は、この名付けざれし者自体がクトゥルフ神族特有の現代人として必要な知能や思考、判断する能力を有していない存在だったのか……。
もしくは、そもそも、その事さえ欺瞞で、初めから思念体とこの名づけざられし者は裏で繋がって居て、朝倉涼子の暴走も有希に心を発生させる為の手段に過ぎず、その後の数々の事件により心の疲弊した彼女が、終に十二月に事件を起こし失敗。その結果の絶望した魂を邪神の贄としたのか。
今となっては、真相は藪の中。
まぁ、自らが本名を明かす事なく現代社会で暮らしている事に気付かないほど、思考能力が欠如した現代人が居る……とは考え難い。そもそも、日常生活に於いて友人関係から通称や仇名を呼ばれるだけで過ごして行けるのならば、それでも何とかなるのかも知れないが、現代社会と言う場所ではそう言う訳にも行かない。
ほぼひとつの村落内で話が完結するような時代ではない。
確かに、そう言う呪を掛ける事も可能だとは思う。例えば、自らの名前を名乗る瞬間、名前を呼ばれる瞬間、更に、某かの書類に自らの名前を書き込む瞬間にその場に居る全員……当然、自分を含むすべての人間の意識が混濁して、その瞬間に何があったのか分からなくする。答案用紙に書かれた名前も、それを見る度に見た人間の意識を吹っ飛ばせるような強力な呪を。
但し、それはあまりにも意味がない。確かに、其処に発生する矛盾は凄まじい物があるとも思うが、それが出来るのなら、さっさと本体がこの世界に現われて、この世界の生きとし生ける物を蹂躙した方が早いでしょう。
クトゥルフ神族と言う連中も、俺たち……地球出身の神や仙人たちと同じように分霊、人間の身体を得て自由に行動出来るように成るのも事実。ここに大きな違いはない。
但し、その時は奴らも俺たちと同じように、人間としての能力の限界を得る事となり、更に、もうひとつ。奴らに取っては厄介な弱点を得る事となる。
普段……本体の方ならほぼ不死身。殺す事はおそらく不可能で、ある種の結界の内側に閉じ込めるしか対処の方法がない奴らなのだが、人間としての身体を得て現界している時に限り、人間と同じ方法で殺す事が可能となる。
古の狂気の書物に記載されている情報からすると、この部分に関しては俺たち……龍種やその他の地球産の神族よりも、かなり脆弱な気配がある。
何を考えているのか分からない這い寄る混沌ならば死も一興。……と考える可能性もあるが、果たして俗物として知られる全にして一、一にして全が、そんな危険な状態……自らが何者なのか分かっていないような状態で、人間界にて生活を続けるのか、と考えると流石にそれは……。
「そして、名づけざられし者……ではなく、能力としては全にして一、一にして全の能力を持った存在と、奸智に長けた這い寄る混沌が現われているのに、地球側の生命体が歴史の再度の改変を行わない。……すべて自分たちの思うがままだ、と考えて居ると仮定する方がどうかしている」
つまり、歴史の改変。俺たちの側から見ると、本来のあるべき歴史の流れに戻された世界。ハルヒと名づけざられし者の接触が行われなかった分岐から発生する世界だとしても、再度、この世界に対してチョッカイを掛けられるだけの足場を残して置く。その程度の策謀を奴ならば行う可能性がある……と言う事。
確かに大きな括りで言うのなら俺も一種の神。……道士と言うには、最早能力が突出し過ぎていて、その範疇に納まってはいない。ついでに、牛種から見ると明らかに邪に属す龍。オマケに、この世界の天津神からまつろわぬものの筆頭に挙げられている存在、現在の水晶宮を復活させたのも何回前か分からないぐらい前の俺の人生なので、今現在の俺が邪神扱いされたとしても不思議ではない……とは思うが。
「他の世界の長門有希の役割は分からない。しかし、この世界――」
少し冷たいイメージを抱かせる原因の銀を掛けていない今宵の彼女は、普段よりもずっと幼く、更に、現在の姿形。すべての虚飾を取り払った素のままの彼女は、未だ少女期の域を大きく出る事もなく……。
「俺と出逢わされて終った長門有希の役割は、千の仔を孕みし森の黒山羊の顕現涼宮ハルヒが産み出した存在……。
ひとつの世界に同じ魂が同時に存在出来ない……の法を明らかに破って、同時に複数人が存在していた自称未来人の朝比奈みくる。
宇宙誕生と同時に発生。以後、情報を収集する事によって進化の極みに到達したと自称していたにしてはやる事の程度が低く、情報収集能力がかなり低いと言わざるを得ない情報統合思念体に作成された人型端末の少女たち――」
上空に対して遮る物のない、露天風呂と言う開け放たれた空間内で、何故だか微妙な余韻を伴いながら、僅かに遅れて耳に届く自らの声。
まるで何か。見えない屋根の如き物に反射されているかのように……。
そのような、ふたりだけしか居ない閉じられた世界に、俺の声だけが響き続ける。
そして――
そして、何時もと同じ透明な表情に、何時もとは明らかに違う何か熱い物を籠めた瞳で俺を見つめ続ける彼女。
それは……おそらく、十二月二十四日と言う日付がもたらせる魔法。
「そのままでは、この世界に対する足掛かりを完全に失くす危険性のあった這い寄る混沌が為した策。オマエと俺を出逢わせる事に因って、長門有希に代表される人型端末たちや朝比奈みくるがこの世界に生き残る可能性を作り出した」
いや、おそらく奴らは生き残らせる為に彼女らの設定を作り出したのだと思われる。更に、俺がこの事件に関わって来る事も最初から知っていた可能性の方が高い。
流石に、何の手がかりも、足場もなしに混乱させられるほど、この世界は脆弱には出来ていない……と思う。世界の覇権を握る為に普段は凌ぎを削っているヘブライや、その他の神族に関しても、事、その関係の事件に関しては足並みを揃えられるのも間違いない。
……そうでなければ、奴らに取って不倶戴天の敵とも言うべき俺に対して加護を与える訳がない。ハルケギニアの事件に対して。
「この世界の……」
彼女も薄々は感付いているはず。自分がこの世界に産み出された意味を。
元々、彼女が信じさせられていた事実が欺瞞であった事。普通の人間であると信じて疑わなかった相手が、他者に自らの名前さえ知られる事もなく、更に偽名さえ使用する事もなく現代社会で暮らして行ける異常な存在である、と知った時。
そして、その人物と涼宮ハルヒが接触した瞬間に世界が……思念体が言うには世界が誕生した瞬間だった。地球に暮らす全ての生命体の立場から言わせて貰うのならば、世界が歪められた瞬間だった事を知らされた後には。
「俺と出逢って終ったこの世界の長門有希の役目は、俺と出逢う事」
出逢って終えば、俺は奴らの予測通りに行動する。悔しいがそう言う事。
当時の俺が、退魔師の基本から大きく外れた行動を取るとは考えにくい。更に、当時の有希が闇に染まった存在になっている可能性も非常に低い以上、俺が彼女と契約を交わす事となる流れは、俺と言う個人を知っている人間……を含むすべての存在ならば、誰にだって見通す事の出来る自然な未来と言うヤツ。
後は至極真っ当な流れの中で事態が推移すれば……。俺や水晶宮の面々が人型端末たちや朝比奈みくるが将来、危険な存在。歴史や世界に悪影響を与える存在となる可能性があるから……と言う理由だけで、彼女らを歴史の闇から闇へ葬り去る事が出来ない事を知っていれば、自分たちの企てが成功する事は簡単に予見出来るはず。
「結局、あの出逢いの瞬間に、有希がこの世界に産み出された目的は達成されている……と言う事やから、そんな些細な事を気に病む必要はないと思うぞ」
思念体の思惑……そもそも、ハルヒの妄想を叶える為にクトゥルフの邪神によりでっち上げられた高次元意識体の思惑などを気にする事に意味はない。おそらく、当のハルヒにしたトコロでこう言う連中が居れば面白いだろう的な思い付きでしかないはずだから。
かなり優しい声音になっている事に気付きながらも、そう話し終える俺。
ただ、確かに、後になって。更に当事者ではない第三者の目から見ると、当時の俺の行いは非常に危険な行為だったと責められる可能性はある。但し、その事を現場で予見出来る人間はいない。……とも思う。
そもそも、目の前で命が尽き掛けて居て、その事を従容と受け入れようとしている存在を見過ごす事など誰が出来る? 少なくとも、俺には出来ない。
……相手が歴史に悪影響を与える可能性があったとしてもだ。
何処かから反響して来たかのような自らの声を最後まで聞き終え、目の前にただ立ち尽くすのみの彼女の答えを待つ俺。
彼女が現われてから、ここは霊的な閉鎖空間と化して居る。ただ、だからと言って、双方とも産まれたままの姿。確かに、簡単に湯冷めをして風邪を引くようなヤワな人間ではないし、彼女の方もその辺りは考慮してこの結界を構築しているのでしょうが……。
日本人にしては、少し白すぎる肌を見せて居る彼女が、実は寒いのではないか、などと少し場違いな事を考え始めた俺。確かに今、目の前にいるのは一糸まとわぬ姿で何を隠す事もなくただ立ち尽くす少女……なのですが……。
何と言うか、元々存在感が薄い上に、色素の薄い、その儚げな容姿が、どうにも人間の少女がいると言うよりは、高位の精霊か何かが目の前に居るような気がして……。
流石に俺は古の王のように仙女に欲情して余計な呪いを受けるような真似はしたくない。……もっとも、この王の残虐な行為を記された書物の内容が何処まで正確なのか、俺には分からないのですが。
少なくとも、王位を奪った男が自分に都合の良いように記した書物など参考程度にすべき物だし、ソイツを唆した釣りをしていた仙人と言う奴に関しても、果たして何処まで信用に足るのかと言われると……。
因みに羌氏と言うのは炎帝神農に繋がる家系。俺たちのサイドから見ると、仙族内に取り込まれた牛種の親分の一族と言う奴の事。
牛種と俺たちが基本的に相容れない理由は、俺たちは流れのままに。人間界に過度に干渉する事なく、自然の流れのまま人間の手に委ねる。そう言う方針である事。そして、牛種の方は、基本的に自らの管理、統制の元で人間界を運営する事。まぁ、ぶっちゃけ、支配すると言った方が良いか。
そう言う点から言うと、この殷周革命と言うのは、非常に牛種らしい経緯で始まり、そして、終わった歴史的な出来事と言う事になる。
大陸の歴史が何故、王朝の勃興と滅亡を繰り返したのか。血で血を洗う騒乱が続いたのか。日本の皇室が万世一系と称しているのに比べると、どちらの方がより優れているのか分からないが、それでも日本人と言う存在を形成するには重要なファクターと成っている根っ子の部分に思いを馳せかけた俺。その俺をじっと見つめる有希。
そして、小さく首肯く。
それまで彼女としては珍しく、躊躇いと決意の間を揺らめいていた気配がその時、決意の方向へと大きく傾いた事を感じる。
そうして――
ある種の期待に似た気配を放ちながら一歩、二歩と近付く有希。
僅か三歩。その僅かな時間の間に二人の距離はゼロへと縮まり――
硫黄の臭いの中に強く感じる彼女の香。但し、何時もは精神を落ち着かせる香、彼女の声、それに気配も、今はまったく逆の効果をもたらせる役にしか立っていない。
俺の身体に、未だ花開く前――蕾の段階の彼女の身体が触れる。乏しい……とは言わない。勝手にインストールされた記憶の中には、俺自身が今とは違う性別で暮らしていた時代も確かにあった。あれが俺の妄想から産み出された物でないのなら、彼女の身体は多分……。
その乏しくはない、しかし、現在の俺以外の知識から言わせて貰うのなら、これ以上、彼女が歳を重ねる事がない事が酷く残念だ、と言うしかない双丘。繊細さと、そして滑らかさを持つ肌は弾力に富み、形の良い双丘を僅かに持ち上げている。その頂点……。未だ誰も知らないであろうと言う其処には、薄い桜色の蕾が小さく自己を主張していた。
直接触れてみる事で改めて分かる彼女の肌の冷たさ。これは、彼女自身の不安による物なのだろうか。
いや、俺自身も経験の少なさから多少なりともテンパっているのは理解している。
そう、普段と同じように俺の左胸に彼女の手が触れた瞬間、一気に跳ね上がる心臓。そして、意味もなく……まるで、周囲の空気自体が薄くなったかのように感じ、浅い呼吸を繰り返す。
「帰る前に一度。一度で良いからわたしを――」
上目使いに俺の瞳を覗き込んだ後、躊躇いがちに最後の半歩を踏み込む彼女。普段通りに。しかし、普段は常に某かの服を着た上で触れていた物が、今はすべて素のままの状態で触れて居る事が分かる。
そう、早春の蕾にも似た、未だ完全に花開く前の其処が触れる感触。予想よりも少し硬く、そして冷たい感触に……。
イヤイヤイヤイヤ!
かつて俺であった存在たちの記憶を糧に、更に長門有希と言う存在が現在まで歩んで来た道のりから推測出来る、彼女の状態を一瞬考え掛けた俺。しかし、その不埒な想像を一瞬で吹っ飛ばす。
そもそも、彼女は俺の心音を聞く事により、自らを落ち着かせる術を学んでいる。これは術を行使する際の条件付けにも近い物があるのだが、残念ながら俺にはそんな精神を一気に落ち着かせるような条件付けを行った物はない。
いや、ない事もないのだが、その俺の精神を落ち着かせるべき存在が、今、俺の胸に自らの身体を預けているのだから――
「意味もなく付けられた機能でも、その事に対して、今のわたしは感謝をして――」
初めからこの流れに持ち込む為の展開だったのか。確かにそれならば、ここに彼女が現われてからの、彼女から発せられる躊躇いと決意の間で揺れ動く感情の意味も理解出来た。
それに、少なくとも俺の答えが、彼女の想定していた答えとの間に大きな開きがなかった事についても。
――ただ、何にしても!
何か言い掛けていた、目の前に居る少女を抱き上げる俺。少女はその突然の行為に対しても嫌がる様子もなく、ただ柔らかく受け止めるのみ。
普段以上に軽く感じる彼女。三年前から一切、成長していないと言う事なら、中学一年生としてなら、それほど小柄と言う訳でもなければ、痩せていると言う訳でもない。
そして、そのまま、彼女がある種の決意を持って進んで来た道を逆に辿り――
白い湯気を発生させ続けている場所へと、ゆっくりと身体を沈めて行った。
当然、彼女を胸に抱いたままで。
深い霧に等しい湯気を浅く吸い込み、少し熱すぎる感はある物の、身を包む湯は柔らかく肌に触れる。まるで生来の重力を操る能力を行使しているかのような浮遊感も悪い物ではない。
「それで、抱き上げたけど……これで良かったのか?」
何にしても、何時までも彼女に主導権を握られたままでは問題がある。確かに、有希は皆まで願いを口にした訳ではない。……が、しかし、あそこまで言われて、先を予測できないほどマヌケではない。
但し、それと、彼女の願いを受け入れるのとでは天と地ほどの差が存在する。
俺の問い掛けに、一瞬、むっとしたかのような感情を発生させる有希。……これは、もしかすると、コチラの世界にやって来てから初めての事かも知れない。
しかし、直ぐに、
「確かに、わたしの見た目は日本人の平均的中学一年生程度の身長しか存在していないのは認める」
でも、その他の女性としての機能は先ほども告げたように、この世界に呼び出された瞬間から存在しているので、あなたを受け入れるのに問題はない。
しかし、直ぐに、俺に言葉が上手く伝わらなかったのかと考えたのか、妙に生々しい内容の言葉を告げて来る。
誰も居ない二人だけの世界。術の作用により外から見られる事もなく、互いに身に纏う物は何もなし。首に回された彼女の腕は、それまでと比べると少し力が籠められ、高校生としてはかなり小振りながらも、確かに女性であると主張している胸を強く押し付ける結果となっていた。
但し、彼女が言うように、現在の彼女の身長は、平均的な中学一年生女子の身長と同じ程度だと思われるので……。
おそらく、胸のサイズに関しても中学一年生と考えるのなら、妥当な数字を叩き出しているとは思うのだが。
もっとも、その姿形のまま成長する機能を有していないと考えると、思念体の本当の目的が更に謎に成るとも思うのだが。
「……すまない、少し茶化し過ぎたみたいやな」
まぁ、自称進化の極みに達した情報生命体の事はもう忘れよう。確かに有希が産み出された当初は今の姿形でも良いとは思うが、それから三年後にハルヒと接触してから後の事を一切、考えていないように見えたとしても、其処に某かの意味はあったのでしょう。最低でも高一から高三までの間は長門有希が中心となって観察を行う予定だったはずなので。
おそらく、彼女の情報が更新される度に、思念体の方で身体的情報の書き換えも行い、人間として周囲に違和感を覚えさせない程度には成長し続けているように見せかけていた……とは思うのですが。
ただ、それならば。其処まで細かなサポートを行って居たのなら、彼女が思念体に対する反逆にも等しい事件を起こすようなバグを放置し続けて居た明確な理由が分からなくのるのも事実なので……。
もしかすると、人間とは成長する生命体である、と言う事すら知らなかった可能性も否定出来ないのが怖いトコロなのですが……。
「有希の見た目が幼い事に不安を抱いた訳でもなければ、好みの女性でなかったからはぐらかした訳でもない」
せやから、術で見た目を変える必要もないで。
人生経験の差……いや、そんなはずもないか。確かに、俺自身が蘇えらされた記憶は複数の人生に及ぶ。しかし、それは有希の方にも大きな違いはない。報告書に記されていた、彼女が生きて来た時間は軽く数百年分の時間に相当するらしい。
彼女の場合、ループする時間の中を延々と旅し続けて来た、と言う、もしかすると俺よりも苛酷な人生を送って来たかも知れない魂。おそらく、その所為で本来は心のない人形に魂が定着したのでしょうが、その事を素直に良かったと言ってやる事は出来ない……と思う。
恋も知らず、愛も識らず、心を持たない道具として使い続けられた数百年。ただひたすら涼宮ハルヒの観察と、名づけざられし者の関心を買う為に費やされた時間が彼女に何をもたらせたのか。……正直、俺なら途中で発狂していた事でしょう。
おそらく、人生経験に関してはどっこいそっこい。知識に関しては魔法関係なら、俺と出逢うまでの有希は、その手の知識から敢えて遠ざけられて居た雰囲気があるので俺の方が上。その他に関して言うのなら、一度見た物、触れた物を決して忘れる事のない彼女の方が上だと思う。
そう言う相手に対するにしては、少し失礼かも知れない口調……彼女の見た目が自分よりも幼く見える事により、自然と諭すような、かなり優しげな口調で話し掛ける俺。
そう、確かに変化系の術を俺は得意としていないが、それはおそらく俺が常態的に人型に変化を行っている龍だから。龍に取って人間の姿で居る事は非常に無理を伴う行為であり、故に人間の姿でいる龍の寿命は本来の龍としての寿命などではなく、人間の平均的な寿命となって仕舞う、と言う説もある。つまり、俺の心の奥深くにある人間以外の姿へと変わる事への恐れが、俺に変化の術……例えば三面六臂などの系統の術の取得を不可能な状態にしている可能性がある。……と言う事。普通の仙人ならば、少なくとも自分の見た目ぐらいなら、触られたとしてもバレない程度には簡単に変える事は出来ると思う。
そして、今の有希ならば、その程度の術の行使が出来る可能性はある。
「……それならば何故」
他に誰か心に秘めた相手が……。現実に発せられた言葉の外にそう言う意味が込められている事がありありと分かる問い掛け。
その言葉の中。そして、彼女の瞳の奥。表面上からは絶対に分からないような、かなり深い部分にある種の期待に近い色を浮かべて。
ただ……。
ただ、成るほど、そう感じたか。ハルケギニアに残して来た女性が居る、と話した事が彼女に与えた影響と言うのは、俺が考えて居る以上に大きかったのかもしれない。
今の彼女が発して居る期待に近い感情の意味は分からない。多分、今、俺が持っている情報からは推測出来ない、何か彼女の心の奥に秘めた感情の発露なのでしょうが……。
しかし――
「多分、今の処、そんな相手はいない」
据え膳喰わぬは何とやら、と言うが、俺の立場でそれを言い訳にすれば、それは単に節操がないだけの軽佻浮薄な輩と成り果てて仕舞う……と思う。
但し、彼女への気持ちは多分、それ……いないと言い切った存在に近い。それは分かっていながらも、その部分を今は押し殺す。
「有希――」
それまで、異常に近い位置に居ながらも、決して交わらせる事のなかった視線を合わせる俺。本当は話したくなかった。告げたくなかった言葉。
しかしこのまま。……曖昧にしたままでハルケギニアに去って仕舞えば、彼女を間違いなく湖の乙女へとして仕舞う可能性が高いと思う。
「もしも、俺が去った後に――」
後書き
長門有希に成長する機能が無さそうなのは、私が原作を読んだ上で得た感想なので……もしかすると違うかも知れません。
まぁ、この物語内の世界はある程度、現実世界とイコールで繋ぐ事の出来る世界なので、主人公が1999年の世界に時間移動したと仮定、その時間の長門有希に出会ったなら、真っ先にその辺りの違和感に対してツッコミを入れたのでしょうが……。
少なくとも、俺の知っている長門有希だ、などと感じる事はないでしょうね。
おそらく、情報を収集して進化の極みに達したと言う割には、有機生命体は基本的に成長する事に因り外見が変わって行く……と言う、非常に基本的な事も知らんのか、コイツらは、と呆れる事となるのでしょうね。
イカン、また毒を吐き出して仕舞った。
それでは次回タイトルは『誓約』です。
追記……と言うか蛇足。
羌。こう書いてどう読むか知っていますか?
おいおい、そりゃ本文中に「きょう」と振り仮名を打っていたのだから「きょう」なんだろう、……と考えていますよね。
答えはキョン。八丈島などに生息する鹿の一種の事。
まぁ、偶然の一致だと言って終えばそれまでなのですが……。
もっとも、これを偶然の一致で終わらせるようなヤツはクリエイターには向いていないとは思いますけどね。
尚、オマエ、このネタ、何処から呑んでいた、と聞かれるとこう答えるよ。
最初からに決まっているでしょ、……と。
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