銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第八十八話 第七次イゼルローン要塞攻防戦(その4)
■ 帝国暦487年4月24日 18:30 帝国軍総旗艦 ブリュンヒルト ジークフリード・キルヒアイス
開戦後五時間を過ぎた。戦況は悲惨なものとなった。損傷率は既に六割を超えるだろう。遠征軍二万隻、駐留艦隊一万五千隻は既に合わせても一万隻を僅かに超える程度に減っている。
帝国軍は撤退に失敗した。前面の第五、第十の二個艦隊の追撃を振り切れず、後方を敵第十二艦隊に遮断される事になった。何より痛かったのは要塞から出てきた半個艦隊が駐留艦隊の側面を突いた事だった。
駐留艦隊は側面から攻撃を受ける事で一時的に崩れ、遠征軍に雪崩れかかった。その事が遠征軍の撤退の足を止めた。そして遠征軍、駐留艦隊が混乱する体勢を立て直している間に後方を遮断した第十二艦隊が接近して攻撃を加えてきた。
三方から攻撃を受け、帝国軍は再度混乱し撤退の足は完全に止まった。潰走しなかったのが不思議なほどだ。遠征軍と駐留艦隊はもはや連携した行動は出来ず、バラバラに反乱軍に対応している。
ゼークト提督は前面の第十艦隊、後背の第十二艦隊、側面の半個艦隊に攻められている。残る一方には遠征軍が居る。何処にも逃げ場は無い。唯一遠征軍の側面が空いているのだが、敵との対応に精一杯でその余力が無い。
フォーゲル、エルラッハ提督は前面の第五艦隊に対応し、ラインハルト様は後背の第十二に対応している。分艦隊司令官の層の薄さが響いている。脱出口を確保し、味方を撤退させる指揮官が居ないのだ。
そして反乱軍は徐々に包囲網を閉じようとしている。包囲網が閉じられる前に何とか脱出しなければならない……。
■ 帝国暦487年4月24日 20:00 特設任務部隊旗艦 ヒューベリオン ヤン・ウェンリー
帝国軍は完全に包囲された。後は少しずつ包囲網を狭め削り取っていけば良い。敵の戦力は既に一万隻を割ったろう。艦橋の雰囲気も当初あった明るさから、早く戦闘が終わって欲しいという苛立ちのようなものになっている……。
無理も無いだろう。ここまで一方的になっては、まるで敵を弄っているような物だ。気持ちのいいものではない。
「ヤン司令官、敵に降伏を勧告してはいかがでしょう。このままでは徒に損害が増えるばかりです」
「そうだね。ラップ少佐の言うとおりだ。ビュコック提督との間に回線をつないでくれないか」
降伏か……。戦死も捕虜もグリューネワルト伯爵夫人にとっては同じだろう。要は帝国へ帰さなければいいのだ。
■ 帝国暦487年4月24日 20:15 帝国軍総旗艦 ブリュンヒルト ラインハルト・フォン・ローエングラム
「降伏勧告だと」
「はい」
「私に降伏しろと言うのか……」
オーベルシュタインの言葉に思わず俺は問い返した。敵は俺に降伏を勧告してきた。確かに戦況は悪い。エルラッハ、フォーゲルの部隊はもう限界だろう。残存兵力は遠征軍、駐留艦隊合わせても八千隻ほどしか残っていない。包囲され脱出の目処は立たない……。このままでは全滅は免れない。
あの男の上に立ちたい、あの男に俺を認めさせたい、その思いで行なった出兵だった。それなのにこの有様か……。周囲が俺を見ているのを感じる。艦橋は俺の返答を待って静まり返っている。
キルヒアイスを見たかったが、怖くて見られなかった。彼を此処まで連れて来てしまったのは俺だ。あの時、彼を軍に誘った時はこんなことになるとは思わなかった。だからといって許される事ではない。俺を恨んでいるかもしれない……。
「閣下」
キルヒアイスの声が聞こえた。何時もと同じ穏やかで温かい声だ。俺は少しずつキルヒアイスを見た。悲しげな、でも何処か俺をいたわるような表情をしている。
何を考えているんだ。キルヒアイスが俺から離れてしまう事などありえない。俺たちは何時も一緒じゃないか。キルヒアイスと一緒なら怖いものなど無い……。降伏勧告か、良いだろう……。姉上、済みません、今度は戻れません……。
「返信を、降伏勧告を……」
受諾すると言おうとしたときだった。後背から攻撃してくる敵の艦列が崩れる。
「味方です! 味方が来ました! 助かった!」
オペレータの絶叫が艦橋に響いた。
助かった。オペレータのその言葉に狂ったような歓声が答える。
「何処の部隊だ」
「今通信が入ります」
俺の問いにオペレータが答えスクリーンに映像が映る。メルカッツ……。
「司令長官、ご無事でしたか」
「救援、礼を言う。何故此処へ?」
「副司令長官が司令長官を案じられて小官に後を追えと」
「そうか……」
そうか……。ヴァレンシュタイン、また卿に助けられたか……。
艦橋にメルカッツ提督が来た、というオペレータの声が上がるとまた歓声が上がった。
「小官の他にロイエンタール、ミッターマイヤー中将が来ております。退き口を確保しますので脱出してください」
「分った」
メルカッツだけではない。ロイエンタール、ミッターマイヤーもいる。その事が更に艦橋に歓声を上げさせる。十分すぎる程の援軍だ。俺はそんなにも頼りないか。いやこの有様だ、頼りないと思われても仕方ないか……。
後背の敵はメルカッツ達の攻撃を受け艦隊が分断されていく。分断されたところから撤退できるだろう。
「ゼークト、フォーゲル、エルラッハ提督に連絡。直ちに撤退せよ、私が援護する」
彼らを撤退させなければならない。指揮官として最低限の義務を果たす。それが今自分にできる事だ。厳しい仕事だがやらねばならない。
「提督方から通信が入っています。繋ぎます」
オペレータが告げる。撤退の段取りか? 最初にフォーゲル、エルラッハだな。
三人がスクリーンに映った。
「司令長官、我等は此処で敵を防ぎます。司令長官は急ぎ撤退してください」
「何を言う、ゼークト提督、卿らを置いて撤退などできぬ」
「閣下、前面の敵も側面の敵も味方の到着と共に攻撃が激しくなっています。今我等が撤退すれば潰走になりかねません。本隊をも巻き込んでしまいます。そうなれば秩序だった撤退など出来ません。全滅することになります。我等に構わず撤退してください」
確かにゼークト提督の言うとおり敵の攻撃はまた厳しくなっている。メルカッツ達の一隊を前面に移動させるべきか?そうすれば多少息がつけるか? いや駄目だ、時間が無い。移動させようとする前に壊滅しかねない。今この場で撤退だ!
「司令長官を戦死させては我等の面目が立ちません」
何を言っている、ゼークト。面目とは何だ? ゼークトもフォーゲルもエルラッハも皆微動だにせず俺を見詰めている。俺に卑怯者になれというのか?
「早く撤退せんか!」
「!」
エルラッハ……。
「俺は卿が嫌いだ! だがな、卿は宇宙艦隊司令長官だ。司令長官は死んではならんのだ。判るか小僧、司令長官が死ねば軍が混乱する。体制を整えるのに時間がかかるのだ。卿の事などどうでも良い。しかし宇宙艦隊司令長官は死んではならんのだ!」
「エルラッハ……」
ゼークトもフォーゲルも、いや艦橋にいる人間全てがエルラッハを止めようとはしない。皆同じ意見なのか……。
俺は一体何を見ていた? ゼークト、フォーゲル、エルラッハ……。俺が無能だと思い、軽蔑していた男たち。だがその男たちが今、俺を、いや宇宙艦隊司令長官を逃がすために死のうとしている……。
宇宙艦隊司令長官……、実働部隊の最高責任者。その重みを俺は理解していたか?
何処かで軽く考えていなかったか? 死ぬ事が出来ない立場だと分っていたか? その事がこの男たちを死に追いやっている。俺は何をやっているのだ?
「早く行け、行かんか、小僧!」
エルラッハの怒号が艦橋に響く。誰も何も言わない。そうだ、これは俺が決断すべき事だ。
「閣下、ご決断を」
オーベルシュタイン……。
「本隊は直ちに撤退せよ」
唇が声が震える、いや震えているのは全身だ……。ゼークト、フォーゲル、エルラッハが敬礼してくる。
俺は答礼しなければならない。しかし手が震える。答礼できるか? いや宇宙艦隊司令長官として答礼するのだ。周りの景色が歪む。涙がこぼれそうだ。耐えろ。この男たちの顔をしっかりと見るのだ。
俺の愚かさが殺してしまう男たち。俺に愚かさを気付かせてくれた男たち。そして俺などよりはるかに軍人としての覚悟を持っていた男たち……。駄目だ、涙で見えない。眼を閉じるな! 涙がこぼれる……。
「済まぬ、卿らの献身に感謝する。さらばだ」
俺は震えながらも彼らに礼を言った。一人一人の顔を懸命に見る。お前たちを死なせてしまう男の顔だ。この馬鹿者の顔をしっかりと見てくれ……。
答礼を解く。彼らも礼を解いてくる。スクリーンが切れるまで俺は彼らを見詰め続けた……。
■ 帝国暦487年4月24日 20:30 特設任務部隊旗艦 ヒューベリオン ヤン・ウェンリー
敵の本隊が撤退していく。あの中にローエングラム伯がいるのだろう。もう少しだった。もう少しで息の根を止める事が出来た。増援部隊がきたということは、ヴァレンシュタイン大将が手を打ったということだろう。
こちらの動きを見抜いたのか? それとも偶然か? いや偶然は無いな。こちらの動きに不自然さを感じ取ったのだろう。それがあの増援になった。やはり簡単に倒せる相手ではないか……。
「閣下、ローエングラム伯は討ち漏らしましたが、イゼルローン要塞を奪取し、敵に大打撃を与えました。大勝利です」
ムライ参謀長が話しかけてくる。私が沈黙しているので心配しているらしい。
私の後ろでシェーンコップ大佐が“司令官は勝っても嬉しそうじゃない”などと言っている。そうじゃない、勝っていないから嬉しくないんだ。誰にも言えないことだが……。それと人の死をこんなに願う自分が、戦闘が終わると嫌になるんだ。
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