ソードアート・オンライン‐黒の幻影‐
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第1章転節 落暉のアントラクト 2024/11
貴方へ贈る物語:仄暗い情念
元よりNPCさえ姿を現すことさえ稀なこの主街区は、攻略と同時にプレイヤーに見放され、最前線からも置いて行かれた伽藍堂だ。
誰からも見向きもされず、必要とされない。ただの一人にさえ顧みられることのない。
私の拙い感性でさえ、ここは《終わってしまった》のだと思い知らされる。
――――この街はまるで、私のようだ。
自虐的な思考。幾度となく脳内から湧き起こり、脳裏を駆け巡った劣等感の証左。
――――苦しい。
壊れてしまいそうな自身への惨めさと情けなさは、かつて私が護るべきだった妻の変容によって日増しに膨れ上がっていった。
既に私の許容量を超えた思いは、項垂れた視線の先に透明な雫となって木張りの床に吸い込まれる。忸怩たる思いを振り払おうにも、剣を取ることさえ出来ない私には叶わない。それほどにこの世界は無力な者に対して無慈悲で理不尽だ。
已むに已まれず、酔いもしない酒に縋っては、ギルドのメンバーが圏外へ出向いた頃合いを見て酒場まで通う。なんと空しく、醜い行為か。
どこで道を誤り、こんな結果に甘んじてしまったのか。過去に答えを求めては虚しさに苦しみ、惰弱に溺れる。しかし、誰がこんな私を責められようか。
――――私には、それしか許されないのだから。
「それは違いますよぉ? 貴方はぁ、な~んにも悪いことしてないじゃないですかぁ」
「………ッ!?」
不意を突かれ、耳朶を撫でた声に心臓が跳ね上がる。高く、甘い声。女性のものとみて相違ないだろう。
間延びした緩やかな口調にはある種の可愛らしさがあるものの、気配のない場所から突如として発せられただけに、実感した違和感は筆舌に尽くし難い。
視認した容姿さえ貌を覆い隠すほどにフードを目深に被り、厚手のローブは体型さえ測ることを許さない。先の気配のなさ――――こんな寂れた主街区でさえ行使されていた、その卓越した隠蔽スキル――――も相俟って、恐らくは女性であろうプレイヤーからは、言い知れない気味の悪さを醸し出していた。
しかし、そんな彼女に対しての警戒心さえ天秤に掛けられるほどに、彼女の第一声は私を強く惹き付けた。得体の知れない不気味で抗えない魅力を、私は彼女に見出していた。
「………どういう、意味かね?」
口から零れた言葉に、僅かに覗く小さな口の端が吊り上がった。
彼女はきっと美人なのだろう。折角の容姿を隠す事情云々はさておき、隠れた美貌の主は、少なくとも私を突き離すような意思はないように思える。それだけで、言い知れない安堵が拡がった。先程までの心中の疼痛が、不自然に和らぐような気さえしてしまう。
今度は私の問いかけに応じるように、フードの奥で唇が開いた。
「そのままの意味ですよぉ。思わず独り言にお返事しちゃいましたけどぉ、死が怖いのは誰だっておんなじなんですぅ。そんな中で戦える余裕があるんでしたらぁ、わたしなら先ず愛する人を慰めますねぇ~」
「………どこまで聞いた?」
「さぁ~、どんなお話なのか、全部は分かりませんもの~」
自身でも、胸中を無意識に呟いてしまうほどに精神が擦り減ってしまっていたのか。
羞恥に駆られた問いは呆気なく躱されて、代わりにおどけるような仕草ではぐらかされる。
しかし、彼女の言葉からは少なからぬ妻への糾弾が聞き取れた。見知らぬ何者かから愛する妻への讒言は本来ならば聞き逃せるような仕打ちではないが、どうにも今日は疲れているらしい。若しくは、魔が差しているのだろう。そのまま、二の句を聞いても良かろうという気持ちがあった。
「………つまり、私の妻は、君から見て不躾だとでも言うのかね?」
「ヤですねぇ~、そんな悪口言いませんってば~。ちょっぴり強かな奥さんだなぁって思っただけですよ~」
強か。目の前のフードの言葉に意識が向く。
妻はアインクラッドに囚われてから大きく変わっただろう。しかし、何か野心を秘めて剣を握っているというようには見受けられない。多少の性格の変貌はあったかも知れないが、それでもまだ愛しい妻の片鱗は確かに残っている。
まるで、そんな妻に何か良からぬ腹積もりがあるような、棘のある言葉に思わず背筋を怖気が走った。
「君は、何を以て妻を強かと評したのか、聞かせて貰えるかい?」
私の何度目かの問いかけに、フードの下の唇は僅かに微笑む。
「だってぇ、貴方がこんな酒場に独りで居ること自体がそもそもおかしいんですよぉ。一人で怯えているのに、奥さんは自分だけですものねぇ? 傍に居てもぉ、お互いはこんなに違う。それは全部、奥さんが一人で強くなっちゃったからでしょう? 貴方を放ってぇ、貴方を無視してぇ、貴方を蔑ろにしてぇ、踏み出せない貴方を置き去りにしてぇ、どんどんとその距離は遠くんですぅ」
一言毎に重圧の増す響きは、一拍の間を空けられる。
鉛のような沈黙は疼くように心を責め立てた。そして、死刑を執行するように、無慈悲な問いかけとなって投げ掛けられる。
「そうして遠くへ行ってしまった奥さんはぁ、そのお互いの間に出来た溝を理由にしてぇ、貴方をどうするんでしょうねぇ?」
「………妻との絆を、愛を、否定したいということか」
「絆、愛、素晴らしい言葉ですねぇ。でもぉ、それは双方が認識しあって初めて成立する不明瞭な存在じゃありませんかぁ?」
「黙れ! 知った風な口を利くな!?」
「貴方がどんなに耳を塞いだってぇ、現実はそんなに優しくないんじゃないんですかぁ? 奥さんはぁ、もう別人になっちゃったんでしょ~? ………それを理解しているからぁ、貴方は涙を流すんですよねぇ?」
言われなくても理解している。
だが、この残酷な事実を如何に認めろというのだ。現状を打開できず、ただ意識が保つ限りを惰性で生きるしかない私には到底叶わない。こんな情けない姿を晒し、妻に置いて行かれるなど、その結末が訪れることをただ静観している現状を認めるなど、私には出来ない。
そうでなければ、私に剣を握れる力さえあれば、妻を繋ぎとめられる術さえあれば、こんな寂れた酒場で思考が堂々巡りに陥ることなどなかった。こんな惨めに涙を流すこともなかった。言葉の責め苦は毒のように染み渡る。それだけに見ず知らずの彼女の発言は真を射抜き、心を砕き得る鉄槌と化していた。
「………勘違いしているかもですけど、わたしは貴方が悪いとは思ってないですよぉ?」
涙で僅かに霞む向こうで、彼女は不思議そうに小首を傾げる。
脈絡を無視したような発言に困惑してしまうものの、彼女はそんなこちらの様子など気に留める意思さえないとばかりに話を始めてしまう。
「本当に死んでしまうかも知れない世界で剣を持てないのは弱いからじゃないですしぃ、仮に圏外で戦えるとしても旦那サマを見ぬフリする時点で奥さんは既に貴方を見ていないでしょうねぇ~。悲しいですけどぉ、きっと、このまま生還したらぁ、貴方は以前のように奥さんと一緒には居られないと思いますよぉ? もしかしたら、奥さんは今と同じように貴方を見捨ててしまうかも知れないですねぇ~。困っちゃいますよねぇ~?」
より踏み込んだ推測は、本当に私の実情を知悉しているかのように正鵠を得ている。
しかし、それだけは断じて認められない。可愛らしくて従順だった妻が私の下から去っていくなど、斯様な不幸に耐えられるだろうか。
苛まれる私を見て、彼女は何を思うだろうか。正しく現実を突き付けるフードの彼女は、どのような表情で私を見ているのか。恐ろしくて堪らない。まるで何もかもが敵になったような心地さえしてしまう。
そんな私を見てどう思ってか、フードに覆われた頭がゆっくりと耳元に迫った。仄暗い陰が間近に寄る光景には、これまで痛烈に心をいたぶられた事による恐怖があった。それと同じくらいに、その接近を待望する感情。正常な思考であれば、それを《期待》とも表現できるような感情があり、その板挟みにあった仮想の肉体は退避と静止を同時に命じられ、しかしその結果として身震いのような奇怪な動作で落ち着く。故に、フードから漏れる幽かで柔らかな笑声が耳朶を撫でた。
「それでも貴方はぁ、身勝手にも貴方を見捨てた奥さんを悪くないなんて思えますかねぇ?」
「………つまり、君は何が言いたいんだ?」
思わず、聞き返してしまう。
これまでにような苦言じみた内容ではないにしても、それまでの前提――――私の薄弱さによる現状への
指摘ではなく、向きを真逆に変えたような問いかけ。既に思考をやめてしまった私には、その彼女の提示した未知に惹かれていた。
「こんなにわたしに意地悪な事を言われても、貴方は奥さんについての不満を零しませんでしたぁ。貴方は本当に奥さんを信じているんですねぇ~。
でもでもぉ、奥さんが貴方を裏切っても気にも留めないなんてぇ、こんなに苦しんでいる貴方への冒涜以外の何でもないですよねぇ?」
「………………それは………」
その通りだ。内心で、彼女に頷く。
この現状に、開いてしまった夫婦間の溝に心を痛めているのは私だけだ。彼女は一切気にも留めてはいないだろう。
それに、彼女だって言っていたではないか。剣を取る勇気があるのならば愛する者を慰めるだろうと。私が圏外へ向かえるくらい勇気に満ち溢れ、妻が怯えていたならば、私は間違いなく妻を労わっていた。何に代えても、この世界が齎す恐怖から妻を護る盾となっていた筈だ。愛する者には当然の行為だ。なのに、どうして………
――――どうして、妻はこれほどに苦しむ私を見てくれないのだろう?
「あ~、そ~言えばぁ、圏外へ出るのだって一人じゃ危ないですよねぇ~? お仲間さんなんていたりするんじゃないですかぁ~? 今頃楽しそうにしてるんじゃないですかぁ? 貴方の事なんかすっかり忘れてぇ………これじゃぁ、辛いのって貴方だけですねぇ」
生じた怒りが、蓄積した鬱屈を喰らって燃え上がる。
彼女はこの世界に閉じ込められてから、目覚ましく変化しただろう。
地に墜ちる私を差し置いて、彼女は強い輝きを得た。剣を扱うセンスは、元来剣士であった私を呆気なく凌駕した。ささやかながらに仲間を募り、ギルドを設立してプレイヤーを鍛え始めた。実力を伴ったカリスマ性はギルドメンバーを惹き付け、その絆を強固にしていった。
私だけのユウコは、いつしか私以外の誰かに必要とされる戦士となっていた。私には、そんな彼女を誰かの後ろから遠巻きに見つめるしか出来なくなっていた。思えば、この溝は、心の距離は、彼女の行いによって生じていたのだ。
――――つまるところ、この苦しみは彼女が齎したものに他ならない。
だが、私はそれでも妻を許し、これまでと同じように愛し続けるだろう。
多少、変わってしまうところがあるかも知れないが、私にはそれしか考えられない。
「ですからぁ、わたしが及ばずながらお力添えしようかなぁ~と思いましてぇ」
「私を助ける、というのか?」
「ですです~。むしろその為にお声かけしたんですからぁ」
彼女には感謝している。
私の目を覚ましてくれた。私を導いてくれた。これほどに清澄な心情は後にも先にもないだろう。私自身はそれだけで満足だ。しかし、もしも彼女が手を貸してくれるというのならばという一縷の望みも捨てられなかった。
「………それは、私が妻を殺したいと願っても、君は意見を変えないかい?」
明らかに狂った質問であっただろう。如何にゲームであれ、SAO内では殺人は成立する。命を奪えてしまうのだ。倫理の外にあるような言葉を耳にした彼女はしばしこちらに視線を向け続けた。
しかし、フードの奥から漏れたのは訝しむでもなく、怯えるでもなく、不可解なほどに楽しげで無邪気な笑い声。身体を曲げ、肩を震わせて笑う様に唖然としつつも、彼女はすぐに持ち直す。
「いやぁ~、まさか貴方自身からそんな申し出を頂けるなんてぇ、夢にも思いませんでしたよぉ~。お手伝い、させていただきますねぇ~」
一頻り笑った後、二つ返事で了承を得るに至る。
「作戦なんかは手取り足取り教えちゃいますよぉ~。ですからぁ、奥さんについて教えてくれると嬉しいですぅ」
彼女の要求に訝しむ余地はなかった。
私は妻に対しての仔細を全て話した。出会い、結婚までの道のり、夫婦生活でのお互いの在り方、殊にSAOでの出来事は精緻を極めたことだろう。何しろ彼女は私の理解者で協力者なのだから。
「ふむふむ、いやぁ~、これだけ情報があれば名作が出来ちゃいますよぉ~」
「………で、どうなんだ?」
「むむむぅ、せっかちさんですねぇ~。ではではぁ、これをお渡ししますねぇ」
メニューウインドウを操作し、オブジェクト化されたのは転移結晶をスケールアップしたような直方体。最前線でさえおいそれとは出回らないという結晶アイテム《回廊結晶》だった。
「さっきのお話のぉ、すごーい指輪の売却はぁ、奥さんが直接向かわれるんでしたよねぇ?」
「その通りだ。明日、最前線の層に向かうらしい」
「ではですねぇ~、貴方は奥さんに圏外村へ一泊してもらうようにお話して頂いていいですかぁ? それとぉ、ギルドの誰でも良いのでぇ、この回廊結晶とメモをアイテムポーチに入れちゃってくださいな~」
「………それだけで良いのか?」
「えぇ、そこから先はお任せくださぁい。あとはお楽しみですねぇ~」
作戦、殺害計画というものだから気構えてはいたのだが、どうにも単調な指示で肩透かしを受ける。
しかし、私の関与が少なくて済むのは彼女なりの配慮だろうか。痕跡を少なく済ませれば、疑いの目を向けられるリスクを減らせるというもの。第三者の手に因るものならば、私は安全圏から願いを叶えられることとなる。
もう、これで辛くなくなる。
もう、これで寂しくなくなる。
――――妻を私の記憶の中に留めて、ずっと二人きりで居られるのだから。
後書き
ゆるふわ鬼畜殺人プレイヤー、降臨回。
碌にキャラ名も出さずに終了してしまいましたが、一応はグリムロックさんと、久々登場のピニオラとの遭遇と不穏な現場という構成でした。時間軸としては、前話の一日前となるでしょうか。
久々に登場したオリジナルプレイヤーキラーですが、《自分の手を汚さず、PKにストーリーを見出す》彼女の手口と趣味趣向も強調できていればと思います。投石MPKはあくまで手段の一つというわけですね。
しかし、ピニオラの殺人教唆でグリムロックさんの立ち位置が加害者なのか被害者なのか曖昧になってしまいました。キャラがブレないか心配なところですが、私個人としては単純な悪役よりも深味が増して狂気にアクセントがついたような気がしますので良しとしましょう。
さて、次回はスレイド君からの視点に戻ります。
この章も何気に終盤ですね。頑張ります。
ではまたノシ
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