異界の王女と人狼の騎士
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第八十三話
Quintuple!!
いや、その速度では間に合わない。もっともっと、もっと早く、限界を超えて、考えうる限界のさらに彼方まで一気に加速するんだ。
するしかない!
Accelerate……8 times!
駄目だ! それでも追いついていけない!
漆多はそれよりも、速い!!
瞬時に回避を諦め、必死に防御姿勢を取るが、間に合わない。
まともに食らった気がする。衝撃が襲う。
何が起こったかさえ判らなかった。意識が瞬間的に吹っ飛ぶ!
気づいたときには、地面をごろんごろんと転がり、コンクリートで強く後頭部を打ったところだった。頭の中に響く鈍い音と、じんわり頭を伝い、頬を流れ落ちるぬるぬるした血の感触。
そして―――
俺が起き上がるより早く、すでに眼前に漆多の顔があったんだ。
ありえない!!
大きく振りかぶったアイツの右腕が、俺に向けて振り下ろされる。
不可避の死が見えた。
刹那、……世界のあるべきはずの音声がすべて途切れたことを感じた。
俺は思った。まじでかなりのダメージを受けた……はずだった。
しかし、まともに食らったはずだけど、どういう訳か回避できていたんだ。
そして、どういうわけか、俺は漆多から10m以上離れた場所に移動していたんだ……。
俺を取り囲んでいたはずの、柱と柱の間に隠すように仕込まれたワイヤー状の罠をすべてすり抜けて。
―――そして俺は、不思議なことに落ち着いていて、冷静に分析を始めるんだ。
相変わらず絶体絶命の場面が継続中だっていうのに、頭の中だけはクリアだ。
なんでだろ?
加速能力→8倍では全く歯が立たなかった。
速度勝負だけで考えれば、俺の出しうる限界速度であるレベル10までギアを上げれば互角となるのだろうか? しかし、最大速度まで持って行った時、俺はどうなったか?
漆多と相まみえたショッピングセンターでの闘いが思い出される。
あの時、俺は一瞬ではあるけど、自己限界速度に達していた。そうだ、そしてその速度に身体が耐えきれず、肉が裂け、骨が折れたじゃないか!
何よりも重大な問題は、絶対に体が持たないってことだ。
今、王女は傍にいないんだ。そして、固有結界の中にいるために彼女からの魔術経路は遮断された状況。ゆえに、魔力供給による回復は不可能なんだ。
怪我をしたら、自然治癒で傷が治るのを待つしかない身。俺自身に、あの治癒力が有るわけじゃない。たぶん、俺の自然治癒能力は、王女と契約する前と何ら変わりない人間のものでしかないはず。
骨が折れたらギブス固定で一ヶ月はかかる。怪我をすれば縫合し、何週間もこまめに消毒と包帯の交換も必要だろう。それだけ脆い存在でしかないんだ。王女がいないと俺という存在は防御力を無視で創りだされた、スピード特化・防御力無視の張りぼての戦士といえる。少しでも攻撃が当たったらそれまでだ。
厄介な状況。いや、そんな生易しい言葉で言い表せるようなレベルの状況じゃない!
逆に漆多は常軌を逸し、科学的・生物学的な法則性を全て無視した【過変態(hypermetamorphosis)】となっているから、その体は生物の「種」としての個体固有の限界値を遥かに超えて強化されているに違いない。だから、あのゼロヨンレースとかで使う【ニトロパワー】のようなチート的能力値の底上げにも楽々耐えることができるんだろう。
俺にはそんな頑丈な体なんて無い。漆多と同じ速度でやり合うなんて、体が持ちこたえられるはずがない。そして、壊れた体はすぐには治らない。そんな状況。
まだある。
やっぱり問題は、ここが漆多の結界内ということだ。
奴の能力だけは強化され、こちらの能力はスポイルされているという超不平等な世界なんだ。
限界値同士でやりあった場合、俺の能力が奴の力を下回る可能性が高い。あの、物理法則なんて遥か彼方に置き去りにしたような加速度はありえない。俺が100パーセントの力を搾り出したとしても、この結界の俺に対する負の影響力をモロに受けてしまうことで俺の能力が低減されてしまうんだ。
さて、何パーセントの減額となるか。
そして、あることを思いついてしまい、思わず笑ってしまいそうになる。
もちろん、楽しくて笑ってしまうんじゃない。直面した現実に呆れてしまった笑いなんだ。
少し考えれば分かること。……これまでの戦いの中で繰り出した漆多の加速度は、限界速度じゃないってことを。
これまでのアイツの動きは、どうやら今のは単なるデモンストレーションでしかなさそうだ。
俺が回避できたことに何のショックも受けていないようだ。何で当たらなかったんだろう? って頭をかしげたりもしているけど、実に余裕を持っている。
速度を考慮し、アイツは残り2つを同時使用するつもりらしい、ぞ。
何か言葉を話すが、今の顔のカタチに馴染んでないために上手く喋られないようだ。それに気づいたアイツは、右手で背中のドーム状のコブを指差した後、こちらに長く伸びた人差し指と中指を突き出した。
二つ使うよ、今度は。
そう言いたいらしい。
能力の底上げは1+1は2のような単純計算ではない。1+1が3にも4にもなり得るパワーアップなんだ。
一つのコブに入った心臓を使うだけであの加速度。
二つを同時使用した場合はどうなるのか? ……その先は考えたくなかった。
アイツは次で決めるつもりらしい。
俺には、猶予はないみたい。
まともにやり合えば勝算は乏しい。限界速度への加速をしたところで果たして勝負になるか? 攻撃を回避したとしても、限界速度によるダメージを受けて、結局、俺は自爆するしかなさそうだ。
しかし、諦めるわけにはいかない。
唯一の勝利への可能性は、先刻、漆多のラッシュをかわし、それどころかあの罠によって包囲された空間から移動した現象だった。
あの現象を再度引き起こすことができるなら、もしかするかもしれない。
どうやる、どうやった、どうすればいい?
どのような経緯であの能力が発動したというのか?
必死であの現象を解析しようとする。
解っている事は絶体絶命の状況下だったこと、それだけだ。
その瞬間、俺は駆けていた。
柱の森の中へ。
張り巡らされた罠を慎重にかわして。
ゆっくり動いたからはっきりと見えた。張り巡らされた鋭利な糸を。
ここで襲われたら、死ぬな。間違いなく死ぬ。漆多の爪で切り刻まれるか、逃げようとして張り巡らされた鋭い糸にトコロテンのようにされてしまうのか?
どっちにしてもかなり痛そうだ。
ここのところ、ずっと痛い思いばかりしている。いい加減ウンザリだし逃げ出したいよ。
さあ、俺は追い込まれたぞ。次の一手で詰む。
どうしてだか恐怖は感じない。感覚が麻痺してるのか?
俺の行動をさっきからじっと見ていた漆多がついに動く。
中腰に体を沈め、吠える。
背中の二つの瘤が沸騰したかのように沸き立ち、渦巻く。
同時に、首筋に開いた左右4つずつの穴から水蒸気の様なものが再び噴き出す。その勢いは先ほどとは比較にならない。
その現象で、今思い出した。亜酸化窒素噴射方式で圧倒的スピードとパワーを生み出すドラックレースで使うニトロ。そして、噴出した白煙は、ニトロが稼動するとき、周囲が一気に冷やされる現象であることに。
「ダイレクトポート、オン! 」
変形した顔に慣れたのか、今度の漆多の喋りはキチンと聞き取ることができた。
一気に距離を縮めてくる漆多!
ニトロタンクのデュアルパワーを使用した急激な加速、そしてあの爪での攻撃。破壊力は、もはや比較対象がこの世界に存在しないレベル。
回避不可能、防御力無視の攻撃が……来る。来た。
避けることも、防御することも圧倒的攻撃の前では無意味だ。ならばどうする?
どうする?どうするどうする?
「攻めるしか、ない」
即答だった。
刹那、時が静止する。
完全に。
思考するより早く、俺の体が漆多の体の直ぐ前にたどり着いていたんだ。
漆多が来たのか??
否―――
そうじゃない、俺が動いたんだ。
あたかも静止した世界を俺は駆けている。
張り巡らされた糸も、障害物も、邪魔になる岩も礫も、すべてが無意味な存在となる。
すべての存在をすり抜けて俺は駆ける。
なんだ? なんだ?
思考が追いつかない。
疾走する俺、俺、俺。
漆多は全速力で走っているはずなのに、これまでの攻撃と比べ物にならないほどの【この世界の速度という概念】を超越した高速で加速しつづけているはずなのに、俺にとっては、まるでそれが停止しているかのように、ごくごく緩慢に動いているようにしか見えない。
摂理概念崩壊。
むしろ、俺がこの世のあらゆる摂理を越えた世界で動いているかのようだ。
なんなんだ、これは。
「順列置換」
それは時間軸すらをずらしてしまう力。
この世の始まりと終わり、そして結果へといたる経過そのものを、その順序すら消し去ったような動きが俺に宿っているというのか?
こんなの使える存在なんて、俺は「一人」しか知らないぞ。
この能力がホンモノなら、俺は、俺は一体何者なんだ?
俺は奴の死を導く瘤を見て取る。心臓の直ぐ側、そこに漂う大きな鉛色の瘤。それが見える。
それにむけてゆっくりと手を伸ばす。
指先が発光する。
あれに触れれば、指が撫でるだけでもいい。それですべてが終わりだ。
あの瘤を俺が触れ、破壊するだけでいい。
存在の破壊・不可逆の呪い・寛解不可の攻撃。一度破壊されたものはいかなる治癒も再生も不可能となる。この破壊を逃れるためには、新たに作り上げたものを移植する以外は術は無い。
それがすべてを終わらせ、始まりに戻す能力。つまり、この移動速度と絶対破壊の能力は一つのものなんだ……。
漆多の顔を見る。
漆多の眼が俺の指の動きをゆっくりと追っている? ようにみえた。
貌に恐怖が張り付いたような!
アイツには俺の動きが―――
見 え て い る ?
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