銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百八十八話 三年の月日
宇宙暦 799年 10月 7日 ハイネセン 最高評議会ビル ジョアン・レベロ
「少しは落ち着いたかな、ホアン?」
「そうだな。多少は落ち着いたような感じはする。こうして執務室で君とコーヒーを飲む時間も有るからな」
こうしてソファーに坐ってコーヒーを楽しむなど久し振りな気がする。帝国政府が憲法制定を公表してから既に一週間が過ぎた。同盟領の彼方此方で起きていた反政府運動、反帝国運動は多少なりとも沈静化しつつある。
「油断は出来んよ。今の同盟市民は何時活性化して爆発するか分からない危険極まりない活火山の様なものだ。取り敢えずは地鳴り程度で済んでいるが……」
「羨ましいよ、無責任に爆発出来るのだからな。ほんの少しでも国の行く末を考えたらそんな事は出来ないのに……」
思わず愚痴、いや怨嗟が出た。ホアンが私を切なそうに見ている。いかんな、トップは簡単に弱音を吐くもんじゃない。トリューニヒトはいつも楽天的に振舞っていた。腹が立つ事も有ったが救われた気分になった事も事実だ。楽な事よりも辛い事の方が多かった筈だ。あれは演技だったのだろうか? 少しは見習わないと……。
「地球教の件、如何なっているんだ、レベロ?」
「軍の方で調べ始めている。しかしボロディン本部長は半信半疑だったな。殆どがフェザーンに逃げた筈、同盟での影響力は考えられない、有っても微々たるものだろうと言っている」
「今の混乱に関係は見られないか。……同盟よりも帝国の方が地球教に対する危機感は強いな。ヴァレンシュタイン元帥を何度か暗殺しようとしたからだろうが……」
「そうだな」
軍は今回の敗戦で責任を問われなかった。軍が帝国軍を引きずり込んでの一戦を考えたのに対し政府が水際での防衛を命じた事、宇宙艦隊の降伏は政府の命令であった事が同盟市民の軍への同情に繋がっている。同盟市民は軍が十分に戦えなかったと見ているのだ。軍上層部であった大きな人事異動はビュコック老人が退役しウランフ副司令長官が司令長官に就任した事ぐらいだ。そして国防委員長がアイランズからシャノンに代わった。
「それより例の件、如何する? 帝国からの提案だが……」
ホアンが身を乗り出してきた。
「株と国債か、頭が痛いよ」
私がぼやくとホアンが溜息を吐いた。深いな、ホアンもかなり参っている。まさかあれ程膨大な株と国債がフェザーンに、そして帝国に流れているとは思わなかった。経済が問題になるだろうと考えたから議長と財政委員長を兼任したが良かったのかどうか……。現状では極秘とされているが公表されればとんでもない騒ぎになるだろう。それこそ火山の大噴火だ、政府はそれに耐えられない。頭の痛い事だ……。
「財政委員会に検討させたのかね?」
「密かに検討させたけどね。予想通り、いや予想以上に碌でもない回答が返ってきたよ。聞きたいかね?」
「聞かせてもらえるならね」
物好きだな、ホアン。後悔しても知らんぞ。一口コーヒーを飲んだ。口中が苦い、さっきまでは感じなかったが……。
「株を得た場合、これを売却出来るかどうかが問題になる。売却出来ればかなりの利益が同盟政府の懐に入るだろう。政府は財源を確保出来るわけだ」
「良い話だ。それで、売却出来るのかね?」
「それを聞くな、ホアン」
ホアンが表情を顰めた。溜息が出そうになったが何とか堪えた。
「難しいだろうと財政委員会は考えている。財源が確保されているならともかく売却益を財源にするから株を買ってくれと言われて同盟市民が素直に株を買うか判断がつかないようだ。企業を取り巻く環境が不安定で先行きが余りにも不透明過ぎる。その所為だと思うが市民の間では株を買うどころか手持ちの資産を現金化しようとする動きが出ているらしい。銀行からも預金が減少しつつあるという兆候も出ている」
「本当か、それは」
ホアンの声が尖った。かなり驚いている。
「事実だ。まだ目立ったものではないがそういう傾向が生まれつつある。そして少しずつだが金の価格が上昇している。意味は分かるな?」
問い掛けるとホアンが頷いた。
「ああ、同盟市民の一部は経済的な混乱が発生すると見ている、そして貨幣価値が暴落すると見ている。そういう事だな」
「そういう事だ。つまり財政委員会は遠回しにだが無理だと言っているよ。私も同感だな、売却は無理だろう」
「その場合、如何なる?」
溜息が出た。医者が病人に余命宣告をするような気分だ。或いは家族への説明か。
「企業の業績が好調なら株の所持は問題は無い。しかし先ず有り得んな。おそらくは業績悪化、経営不振で政府に支援を要請する事になるだろう。筆頭株主でもある以上嫌だとは言えん。財源不足の所に支援要請、悪夢だよ」
「……」
ホアン、そんな顔をするな。未だ話す事が有る、これは入り口だ。
「言い忘れたが政府が株を売るのはそういう事態を恐れ責任を逃れるためではないかと取られる可能性もある。その場合酷い混乱が生じかねないと財政委員会は警告している」
ホアンが呻き声を上げた。
「しかし断ればどうなる?」
「企業倒産と失業者の増加だろう。そのうち革命が起きるな。帝国に併合される前に同盟が消滅するかもしれん」
ホアンが溜息を吐いた。背もたれに体を預けじっと天井を見つめた。
「……もし、株が売れたら?」
「万に一つも有り得ん事だが財源が出来る。但し、何のための財源になるかが問題になる。争奪戦になるだろう」
「景気高揚か国債の償還か、そういう事だな?」
「そうだ」
「夢も希望も無いな」
先行きが見えない今、同盟市民の多くが資産を現金化、或いは貴金属化しようとしている。財源は景気高揚よりも国債の償還に充てろという声は必ず上がるだろう。その場合失業者と国債の保有者の間で財源の奪い合いが起きるに違いない。つまり持てる者と持たざる者の争いだ。深刻な対立が生じる事になる。
「我々が株の受け取りを拒否した場合は?」
「最悪だな、同盟は自壊しかねん。先ず同盟政府が企業を見捨てたと言われかねない。深刻な政治不信が発生するだろうな。反政府運動が頻発するのも間違いない。そして業績の悪化した企業は否応なく帝国に支援を求める事になる筈だ。帝国がそれを断れば企業は倒産する。経済恐慌の発生だ」
「帝国が受諾した場合は?」
「その場合は企業だけじゃなく同盟市民も同盟政府よりも帝国政府を信頼するだろう。併合は早まるかもしれん。帝国政府の判断ではなく同盟市民の懇願によってだ」
沈黙が落ちた。ややあってホアンが首を激しく振った。纏わり付く重い空気を振り払おうとしているかのようだ。
「国債は如何なんだ?」
「国債か、……帝国政府の指摘通りだ。新規に発行しようとしても不可能だろうと財政委員会も見ている。つまり株が売れようが売れまいが関係ないのだ。景気高揚策など取れないし借金返済のために緊縮財政にならざるを得ない」
ホアンがまた首を横に振った。
「……とんでもない大型不況の発生になるな」
その通りだ。しかもこの不況、出口が見えない。同盟の力では脱出は不可能だ。
「結局のところ同盟政府には信用が無いという事が問題の根本に有る。これは政治、経済、財政の全てに於いてだがその事が状況を悪化させている」
「三十年後には国が消えるんだ。信用なんて有る筈が無い」
「その通りだ。……帝国の提案はその信用を帝国が同盟に付与しようというものだ。受け入れれば資産の現金化にも歯止めがかかるだろう。間違いなく経済面での効果は有る。直ぐには無理でも株の売却も可能になるだろうな。有り難い話だよ」
最後は吐き捨てるような口調になった。帝国はこちらの弱みに付け込んでくる、不愉快だった。
「提案を断るかね?」
ホアンが窺うように私を見ている。
「断っても誰も幸せにはならんよ」
「では受け入れるのだな」
念押しするような口調だった。私が断るとでも思ったのだろうか? それとも覚悟を確認した? 安心しろ、ホアン。不愉快だが統治を投げ出すような事はしない。
「受け入れれば少なくとも財政面では安定する。その影響は大きい」
「だが帝国への従属度は強まる。政治面での混乱が生じるだろう。そうは思わないか、ホアン」
「それが帝国の狙いなのだろう。経済面での安定と政治面での独立性、そのどちらを選ぶのか……。その選択を突き付けているのだと思う」
なるほど、人はパンのみで生きるものではないがパン無しで生きられるものでもないか。文句を言う前に腹を満たす事を考えろ、現実を思い知れ。そんなところだな……。
TV電話の受信音が鳴った。出たくなかったが無視するわけにも行かない。受信ボタンを押すと見慣れた顔がスクリーンに映った。
『やあ、元気かね、二人とも』
能天気な声に溜息が出た……。これは演技か? それとも……。八つ当たりだとは分かっているが殴ってやりたい……。
帝国暦 490年 10月 10日 オーディン 旧フェザーン高等弁務官府 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
「如何ですかな、少しは落ち着かれましたか?」
「なかなか、そうはいきません」
俺とボルテックは顔を見合わせて笑った。意味なんて殆ど無い。社交辞令の様な挨拶だがほのぼのする。相手はフェザーン人なんだけどな、妙な感じだ。多分ボルテックの出してくれるココアの所為だろう。オレンジが僅かに香るココアだ。これが美味しんだよ、凄く癒される。
帝国に戻って結構経つがなかなか落ち着かない。ようやく今回の遠征の戦闘詳報が纏まり論功行賞が行われる。まあこれは基本的に全員昇進だから問題は無い。問題は軍の編成と配置だ。同盟から領地が割譲されたからそれを含めて防衛態勢をどうするかを決めなくてはならない。それと人事異動、これも面倒な話だ。イゼルローン要塞司令官の人事を決めなければならないしガイエスブルク要塞を如何するかも決めなくてはならない。フェザーン回廊の出入り口に置くか、或いは同盟側の宙域に置くかだな。同盟側に置くとすればフェザーン回廊とイゼルローン回廊の中間あたりかな。要検討だ。
「同盟政府は帝国からの提案を受け入れるそうですな」
「ええ、レベロ議長が決断してくれました」
ウンウンという風にボルテックが頷いた。
「正しい決断をしたと思います。政治的には受け入れ難いでしょうが市民の生活を考えれば間違ってはいない。経済的には安定するでしょう。……それにしても上手いものですな、感服しました。株と国債を使って同盟を支配下に置くとは」
ボルテックが朗らかに笑った。
「支配下に置いた等と、人聞きの悪い。予算編成に関して拒否権を持っただけですよ」
ボルテックがまた笑った。
「私はフェザーン人です。金を押さえるという事が何を意味するのか、良く分かっています」
参ったね、俺も笑うしかない。確かにちょっとえげつなかったかな。リヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵も呆れていた。レベロも憤慨しただろう。
「トリューニヒト前議長がレベロ議長と連絡を取ったのですが彼が説得する前にこちらの提案の受け入れを決めていたようです」
「ほう、トリューニヒト前議長がですか。……傍に置いていると聞きましたがそういう事ですか。憲法制定、辺境開発のブレーンだけが元議長の仕事では無いのですな」
興味津々、そんな感じだ。
「まあそうです。こちらとしては出来るだけ混乱を少なくして併合を進めたいと思います。そのためには最低限の信頼関係を同盟政府との間に作っておきたい。同盟政府に暴走されては困るのですよ。同盟だけの問題では済みません、帝国も甚大な不利益を被ります」
「なるほど、そうですな」
「お互い大使を交換しますし人的交流も図ります。しかし何と言っても両国の最高レベルでの繋がりが有れば一番良い。例え帝国政府を信頼出来なくてもその周囲には信頼出来る人間が居る。そこから帝国の真意を知る事が出来る。或いは交渉が出来るとなればかなり違うでしょう」
「……閣下は慎重ですな」
揶揄しているようには聞こえなかった。いや例え揶揄だとしても俺は気にしない。原作を読めばバーラトの和約以降の同盟の暴走、混乱は悲惨としか言いようがない。ラインハルトにとっても想定外の事だっただろう。勿論そこには色々な要因が有る。レベロの判断ミス、オーベルシュタインの暗躍、レンネンカンプの個人的な怨恨、ヤン・ウェンリーの反撃……。
権力者は孤独だ。レベロだけじゃない、ラインハルトも孤独だと思う。オーベルシュタインやレンネンカンプの動きを知れば間違いなくラインハルトは余計な事をするなと二人を怒鳴り付けただろう。だがそうはならなかった。可能性は有ったのだ、ホアンが指摘したのだから。にも拘わらずレベロはラインハルトに接触しなかった……。結局の所レベロとラインハルトの間に信頼関係が無かった事が原因だったと思う。そしてレベロには良い意味での図太さ、図々しさが無かった、生真面目に過ぎるのだ。その事が彼を追い詰めた。
同じミスを犯してはならない。ミスを犯せば何十万、何百万という死傷者が出かねないのだ。その分だけ同盟市民と帝国臣民の間に憎悪が募るだろう。併合が早まってもそれでは意味が無い。それを防ぐためならどんな事でもする。ヨブ・トリューニヒトは今では俺の信頼厚いブレーンの一人だ。憲法の草案作りにも関わって貰うし辺境星域の開発にも関わって貰う。
トリューニヒトも俺の考えを理解して協力してくれている。民主共和政に関しては思う事も有るだろう、これからも俺を説得しようと考えるかもしれない。そういう意味では厄介だ。しかし同盟の暴発が百害あって一利も無いと思う事では俺と同意見だ。帝国と同盟の間に入って十分に潤滑剤の役割を果たしてくれるだろう。帝国に来てくれた事に感謝だ。
同盟市民、いや帝国臣民もトリューニヒトを裏切り者と見るかもしれない。しかしな、ルビンスキーとは違うぞ。私利私欲で帝国に来たんじゃない、自分の信念で帝国に来たんだ。どれほど非難を受けようと自分は未だ同盟のために役に立てると信じて帝国に来た。だから俺が使ってやる。同盟のためでも帝国のためでもない。人類の平和と繁栄のためにな。そして何時か心から俺の協力者にしてやる。
「来年、フェザーンに遷都を行います」
「……そうですか。フェザーンは落ち着いたのですな」
「ええ、問題は無いようです」
「夢が叶うのですな」
「はい」
ボルテックがゆっくりと頷いた。そして柔らかい笑みを浮かべた。
「不思議ですな。遷都のお話を初めて聞いたのは三年前の今日でした」
「そうでしたか」
「ええ、その五日後に十月十五日の勅令が有った……。良く覚えています」
「なるほど、そうでした。もう随分と前の様な気がします。……あれから三年ですか……」
不思議な話だ。俺は三年経ってあの日の答を聞きに来たというわけか。
「あの時の返事をしなければなりませんな。新帝国の閣僚として通商関係を取り扱う」
「協力していただけますか?」
「喜んで」
「有難うございます」
少しの間無言だった。感動は無かった、喜びも無い。ただようやくここまで来た、そんな達成感が有った。
いかんな、未だ終わっていないのに。フェザーンへの遷都と同時に通商省を立ち上げボルテックに通商尚書に就任してもらう。ボルテックには今から準備をしてもらわなければ……。フェザーンという中継国家が無くなった事で帝国と同盟は直接交易を行う事になった。今は未だ旧来のままだが遷都後には直接帝国政府が管理する事になる。商業ルール、商慣習の違いから混乱する様な事態を無くさなくてはならない。そして通貨の統一、これもボルテックに頼む事になるだろう。まだまだ始まったばかりだ。
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