銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百八十七話 飴と鞭
帝国暦 490年 9月 25日 オーディン ミュッケンベルガー邸 ユスティーナ・ヴァレンシュタイン
夫が帰ってきた。玄関で優しく微笑んでいる。懐かしさに胸が熱くなった。
「ただいま」
「お帰りなさい。お疲れでしょう、さあ中へ」
なんてもどかしいのだろう、ありふれた事しか言えない。それでも夫が嬉しそうにしてくれている。涙が出そうになった。
「義父上、今帰りました」
何時の間にか養父が後ろに立っていた。
「御苦労だったな。その姿では落ち着くまい。早く着替えた方が良かろう」
「そうします」
「ユスティーナ、着替えを手伝ってあげなさい。居間でお茶でも飲もう」
「はい」
着替え部屋に行き夫の着替えを手伝う。マントを外し軍服を脱がせた。
「ワイシャツも脱ぎますか?」
「いや、このままで良いよ。ズボンを取ってくれないかな、それと薄地のカーディガンを」
「これで良ければ」
明るいグレーのズボンと淡いグリーンのカーディガンを渡すと夫が“有難う”と言ってくれた。それだけでも嬉しい。
服を片付け居間に行くと既にお茶の用意がされていた。養父がシュテファン夫人に用意させたようだ。私と夫が養父に向き合う形でソファーに坐った。
「御苦労だったな。それにしてもとうとう反乱軍を下したか……。不思議な気分だ、お前には悪いがどうも実感が湧かぬ」
養父が困った様に言うと夫が軽く笑みを浮かべた。
「そう思っているのは義父上だけでは無いと思いますよ。帝国と同盟は百五十年も戦争をしてきたんです。実感が湧くのはこれからでしょう」
「それにしても遅かったのではないか? 陛下への御報告が長引いたのかな」
「いえ、報告の後リヒテンラーデ侯と話をしていました。ちょっと困った事が起きましたので」
沈黙が落ちた。夫は伏し目がちにココアを飲んでいる。多分政治の事で話し合う事が有ったのだと思う。また忙しくなるのだろうか?
「少しはゆっくり出来るのですか?」
「……いや、難しいと思う。明日もリヒテンラーデ侯、ゲルラッハ子爵と話をする事になったから」
「明日? でも明日は」
「祝賀会は夕方からだからその前にここに戻るよ。祝賀会は皆で一緒に行こう」
夫が柔らかく微笑んでいる。そして“済まない、ユスティーナ”と言った。
「いえ、私は良いんです。貴方が御疲れじゃないかと、それが心配で……」
「大丈夫だよ、私は。宇宙に居る間は何もする事は無かった。暇過ぎて時間をどうやって潰すか困ったくらいだ」
夫が声を上げて笑ったけど養父は無言のままだ。それを見て夫が“本当に大丈夫だから”と小さい声で言った。本当にそうなら良いのだけれど……。
帝国暦 490年 9月 26日 オーディン 新無憂宮 ライナー・フォン・ゲルラッハ
「株、ですか」
「それと国債じゃ。そうだの、ゲルラッハ子爵」
「はい」
私が肯定するとヴァレンシュタイン元帥がフーッと息を吐いた。帰還早々また厄介な問題が持ち込まれた、そう思っているのかもしれない。
「先ずは株なのだが帝国の株については放出する。同盟、フェザーンのものについては当分は所持した方が良いと我らは考えているのだが卿は如何思うか?」
元帥が小首を傾げた。
「……当分所持した方が良いと仰られるのは同盟、フェザーンの混乱を抑える為ですか? 経済面で両者の首に紐を付けたいと」
“ま、そんなところだ”とリヒテンラーデ侯が答えた。どうも元帥の反応は良くない。
「ヴァレンシュタイン元帥は反対でしょうか?」
「そうですね。フェザーンはともかく同盟の株は帝国が所持するのは問題が多いと思います。いずれ厄介な事になるでしょう」
リヒテンラーデ侯が“フム”と鼻を鳴らしたが元帥は全く気にする事無く紅茶を一口飲んだ。落ち着いたものだ。
「戦争が終結しました。その所為で同盟だけでは無く帝国も経済面で大きな変動が発生します」
ヴァレンシュタイン元帥がリヒテンラーデ侯と私に視線を向けた。何処まで理解しているかを確認している。
「……なるほど、戦争が終結したか。兵器が売れなくなるの」
元帥が頷いた。確かに兵器は売れなくなるだろう。つまり今後軍事費は或る程度削減出来るという事だ。
「そうです、これまでは戦争を前提にした生産活動をしていましたが今後はそうは行きません。兵器以外の物を売らなければならない。軍を相手にした商売は難しくなる。上手く切り替えが出来れば良いですがそうでなければ……」
元帥が言葉を途切らせた。表情は厳しい。軍から民への切り替えか。確かに厳しいかもしれない。
「経営が傾く、そうですな?」
「そうです。特に同盟は軍を縮小しますから帝国より厳しい状況に陥ると思います。軍需産業に限りません。どんな企業もその影響を受けます、場合によっては倒産という事も有るでしょう。そうなった時、帝国が株を持っていると色々と問題が発生しそうです」
「なるほど、帝国が故意に潰したと言い出すか」
「それは……」
私が侯に抗議しようとすると元帥が首を横に振った。
「有りそうな事だと思いますよ、ゲルラッハ子爵。同盟政府はともかく同盟市民にとっては真実よりも帝国の責任に出来る事を望むでしょう」
「……」
「帝国にとっては只で手に入れた株券が紙屑になるだけです。実質的な損失は無いに等しい。痛みを負うのは従業員とその家族。そしてその企業と取引をしていた企業です。連鎖倒産という事も有るでしょう。経済危機という事にもなりかねません。経営の悪化を株主でありながら故意に見過ごした。同盟の力を弱め併合し易くしていると受け取る可能性は十分に有ります」
「帝国の援助を求める声も出るかもしれん。混乱させて併合を前倒しにしようとしている、そう取るかもしれんの」
思わず溜息が出た。リヒテンラーデ侯もげんなりしている。
「売るか?」
リヒテンラーデ侯が私と元帥を交互に見た。
「膨大な量です。売ると言っても買い手が有るかどうか……。むしろ混乱が生じかねません。それこそ非難を受けるでしょう」
「財務尚書の意見に同意します。混乱が生じるだけでしょう。むしろ同盟政府に譲渡した方が良いと思います」
「譲渡!」
私とリヒテンラーデ侯の声が重なった。だが元帥は“ええ、譲渡です”と平然としていた。
「持つ事が出来ない、売る事が出来ないとなれば譲るしかありません。譲ってしまえば妙な言いがかりは付けられずに済みますし同盟政府、市民も帝国は同盟を苦しめようとしているとは非難出来ません。むしろ政府は政治的な立場を強化出来るでしょう。良い事尽くめですよ、感謝して貰えますね」
笑いを含んだ声だ。リヒテンラーデ侯が呆れた様な表情をした。
「酷い男だの。同盟政府のためとは言っているが内実は爆弾を押付けるような物であろう。いずれ気付くぞ、してやられたと」
非難されて元帥が肩を竦めた。
「非難は心外ですね。同盟市民の生命の安全と財産の保全は同盟政府の仕事です。帝国政府の仕事では有りません。後三十年は責任を持って仕事をしてもらいます」
溜息が出た。元帥は何事も無い様に紅茶の香りを楽しんでいる。リヒテンラーデ侯が困った奴だと言わんばかりの表情で私に視線を向けてきたが私には答えようがない。確かに酷い様にも思えるが実際言われてみればその通りで譲渡が最善の対応策だろう。利益も無いが損失も無い。ただ勿体無いという感情が有るだけだ。それだって面倒事を避けるためと思えば我慢出来る。それに同盟政府の仕事であるのも事実だ。
「分かった、そうしよう。この件はゲルラッハ子爵の方で同盟政府と話を付けてくれ」
「承知しました。……もう一つの国債の件ですがこちらも?」
「そうよの」
リヒテンラーデ侯と私が元帥に視線を向けると無言で一口紅茶を飲んだ。気が付けば喉が渇いていた、私も一口紅茶を飲んだ。リヒテンラーデ侯も同じだ。
少しの間が有った。元帥は眉を寄せている。
「国債ですが、……帝国政府が所持していた方が良いと思います」
良いのだろうか? 同盟との関係を良好に保つ為に還すと言うかと思ったが。リヒテンラーデ侯を見たが侯も意外そうな表情をしている。
「宜しいのですか? 国債を帝国に握られていては如何にもならない。同盟では反発が起きそうですが」
「……」
反応が無い、未だ考えている?
「国債を持っているのは我々だけでは有りません。同盟市民、フェザーン市民も所持している筈です」
「……」
「帝国が償還を要求するのは無理でしょう。金額が大き過ぎます。帝国が償還を要求すれば皆が同盟に国債の償還を求める筈です。それに応える力は今の同盟には無い、あっという間に国家破産です。市民が国債を売ろうとしても買い手が付かない。暴落ですね。酷い混乱が発生するでしょう」
「……」
「帝国側に同盟を潰す覚悟が無ければ国債は交渉のカードにはなりません。何の価値も無いシロモノです」
「その通りです。だから返還という選択肢が出ると思いますが」
私が答えると元帥が笑みを浮かべた。
「価値が無ければ付ければ良いでは有りませんか」
リヒテンラーデ侯が笑い出した。如何して笑えるのだろう、私は寒気がする。
「またあくどい事を考えておるのだろう」
侯が揶揄したが元帥は笑みを浮かべたままだ。そして紅茶を一口飲む。飲み終わった時には笑みが消えていた。
「今の同盟には致命的な弱点が有ります。国家の寿命が三十年しかない。国家としての継続性、持続性、成長性が無いのです。つまり国家としての信用が有りません」
「……」
「この状況下において同盟は経済面で混乱します。それに対処するためにもっとも必要になるのが何か、分かりますか?」
「必要になるものか……。財務尚書、卿は分かるか?」
リヒテンラーデ侯が問い掛けてきたが……、困った……。
「金、でしょうか」
ありふれた答えだ。はっきり言って失望される事を覚悟したが元帥は“そうですね”と頷いた。……正解か。ホッとした、一口紅茶を飲んだ。
「同盟政府は混乱を回避しようとして手を打つ筈です。しかし何を行うにしても必要なのは金、つまり財源でしょう。その財源が足りない筈です。企業の経営状況が厳しくなればなるほどその傾向は強まります」
「軍事費は削減出来ると思いますが?」
問い掛けると元帥が首を横に振った。
「安全保障費を払いますから殆ど意味が有りません。それに軍人の多くが失業者になります。税収は間違いなく減少しますね」
なるほど、それが有ったか。国務尚書も頷いている。
「財源が無いとなれば国債を発行して財源を補うという手段が有ります。しかし残り三十年の寿命しかない同盟の国債を買う企業、人間が居ると思いますか? しかも現時点で相当な量の国債を発行し償還されていない。この状況でです」
「難しかろうな」
「長期はおろか短期でさえ買い手は付かないと思います」
今更だが同盟のおかれている状況の厳しさが分かった。これでは混乱するなというのが無理だろう。リヒテンラーデ侯も厳しい表情をしている。三十年後の統一がスムーズに行くのだろうか……。思わず溜息が出た。元帥がクスッと笑った。如何して笑えるのだ?
「同盟政府も頭を痛めているでしょう。国家の信用をどうやって保証するかと。……という事で帝国がその信用を付与します」
「付与と言うが如何する?」
「帝国政府が同盟政府の保証人になるのです」
「保証人?」
私とリヒテンラーデ侯の声が重なった。思わず二人で顔を見合わせたが……、保証人? ヴァレンシュタイン元帥は悪戯を思い付いた子供の様な笑みを浮かべている。
「同盟政府が発行する国債は三十年以内は同盟政府が、それ以降は帝国政府が責任を持って償還する。同盟政府の信用に不信を抱く人間は居なくなる筈です」
「……」
「現状帝国政府が所持する国債は同盟に返還しません。万一返還しそれを売りに出されては帝国の負担が増加しますから」
「しかし、無制限に国債を発行されては……」
私が抗議すると元帥がニッコリと笑みを浮かべた。
「ええ、大変な事になります。だから同盟の予算案は帝国の承認を得る事を義務付けるのです。国債をどれだけ償還しどれだけ発行するのか、三十年後、帝国が受け持つ分はどれだけになるのか、予算案から確認させて貰います。不備が有れば当然突き返す」
「それは……」
思わず絶句するとリヒテンラーデ侯が元帥に問い掛けた。
「同盟政府が断れば如何なる?」
「帝国政府は保証人になる事を拒否します。そして密かに同盟政府に対して帝国政府が所持する国債の償還に応じるように交渉します」
「……密かにか」
侯が問うと元帥が笑みを浮かべた。
「ええ密かにです。でもこういう交渉は自然と漏れるものです。あっという間に混乱が生じるでしょう」
リヒテンラーデ侯が元帥を一瞬睨んでから声を上げて笑った。
「酷い男だの。財政面から同盟を支配するか。民主共和政等と言っても帝国の言うがままじゃ、逆らえまい。理念など金の前には吹き飛ぶの。怖いものよ」
「そうですね」
「フェザーン人も顔負けの悪辣さじゃの。同盟政府など卿にかかっては赤子の手を捻る様なものか」
リヒテンラーデ侯が更に笑う。元帥は笑みを浮かべていたが侯が笑い終ると笑みを消した。
「国債だけでは有りません。年金も帝国が引き継ぎます。同盟政府が同盟市民に保証していた金銭面での権利を帝国が全て継承する。それによって同盟市民を安心させるのです。帝国は軍事面で同盟を圧倒しました。政治面、経済面で彼らの権利を保証すれば反帝国運動は小さくなる筈です」
リヒテンラーデ侯が大きく頷いた。
「つまりそれが憲法制定と国債、年金か……」
「そうなります」
「憲法、ですか?」
私が問うとリヒテンラーデ侯が“うむ”と頷いた。
「驚かせたか。新帝国を創るためには国の形を定めねばならん。近々に閣議を開き憲法の制定を諮るつもりじゃ。閣議の決定をもって陛下の御許しを得る。憲法制定のため、先ずは草案作りだがそれはヴァレンシュタイン元帥にやってもらう」
元帥に視線を向けたが驚く様子は無い。既に二人の間では決定事項か。一体どんな憲法を創るのか……。
「安心してください、ゲルラッハ子爵。皇帝主権は変わりません」
「……そ、そうですか」
ギョッとした。心の中を読まれたのだろうか。元帥がじっとこちらを見ていた。冷たい視線ではないが気圧されるような気がした。喉が干上がる、唾を飲み込む音が大きく響いた。元帥の口元が微かに緩んだ。
「民主共和政も取り入れません」
「は、はい」
リヒテンラーデ侯が笑い出した。如何して笑えるのか? 恨めしかった。政治面で待遇を保証しつつ経済面で抑え付けて従わせるか。飴と鞭そのものだな。今後の同盟対策は硬軟両用という事になるのだろう……。リヒテンラーデ侯とヴァレンシュタイン元帥を見た。この二人の飴と鞭か、同盟も大変だと思った。
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