涙
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2部分:第二章
第二章
「今日もか」
「あっ、キャプテン」
そこに主将である鈴木国友が来た。彼はキャッチャーをしている。温厚でそれでいてしっかりした性格で人望が篤い。達明にとってもいい先輩である。
「頑張ってるな」
「何か素振りをしていないと落ち着かなくて」
達明はそう彼に答える。側の池には月が映っていてそれが幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「気がはやるか」
「はい、何か今日は特に」
「まあそうだろうな」
国友もその言葉に頷く。実は彼もなのだ。
「俺もだ」
「キャプテンもですか」
「甲子園だからな」
彼は言う。
「やっぱり何か特別な気がする」
「そうですよね。俺、行けるとは思いませんでした」
そう国友に述べる。これは本音である。
「レギュラーになっただけでも信じられないのに」
「御前以外にセカンドはいないからな」
「俺以外にですか」
「ああ、皆そう思っている」
達明に対して告げる。
「御前の守備にかなり助けられてきたしな」
「有り難うございます。そう言ってもらえると」
「本当のことだぞ。それでだ」
達明に顔を向けて言う。宿の明かりが背にあって顔はよく見えない。だがその表情は真面目なものであるのは声からわかることだった。
「甲子園でも頼むぞ」
「わかりました。俺頑張ります」
達明はその言葉にこくりと頷く。そうして彼はまた素振りをしようとする。ここで国友はまた彼に言う。
「もっとコンパクトにな」
「小さくですか」
「そうだ、大振りになっている」
こう彼に注意する。
「御前にはそれは合わないからだ。だからもっと」
「鋭くしてそれで」
「ヒットを狙っていけ」
そう言うのだった。
「塁に出ればそこから仕掛けてもいいしな」
「わかりました。それじゃあ」
その言葉に頷いて振りを鋭くさせる。その振りは国友のアドバイス通りコンパクトで鋭いものになった。その素振りを続けるのであった。
やがて開会式も終わり試合が近付いてきていた。達明は相変わらず練習に精を出していた。
真面目な彼は守備練習もランニングもこなしている。それが一息ついた時だった。
「おい」
先生が彼に声をかけてきた。
「調子はいいみたいだな」
「はい」
達明は先生の言葉に元気のいい声で答えた。
「何か気合が入って」
「そうか。それはいいことだ」
先生はまずはその言葉に笑顔で頷いた。そうしてそれからまた述べた。
「けれどな、気をつけろよ」
「気を?」
「そうだ、よく言われるだろ。甲子園には魔物が棲むってな」
「あっ、それ聞いたことがあります」
これは彼も聞いたことがある。昔から甲子園という場所では多くの奇跡や異変が起こっている。有り得ないことが度々起こる、それが甲子園なのだ。
「何が起こるか全くわからないんだ」
「甲子園だけはですか?」
「そうだ。阪神の試合を見ろ」
そうしてその甲子園を本拠地とする阪神について言うのだった。
「あのチームの試合なんて本当にどうなるかわからないだろ」
「そうですね」
達明もそれに頷いた。これもまた伝統的なものであろうが阪神の試合というのも実に筋書きがないドラマになっている。この球団の試合というのは最後の最後までどうなるか全くわからない。優勝が確実な状況で果たせなかったこともある。そうかと思えばいきなり優勝したりもする。鮮やかな勝利もあれば惨めな敗北もある。何時どうなるかわからない、阪神タイガースというチームは甲子園のドラマの中にある存在なのだ。
「それも甲子園にあるからだ」
「だからですか」
「何があっても後悔するな」
そう言ったうえでの言葉であった。
「いいな」
「わかりました」
達明は答えた。だが答えはしたが実はそうなるとは思っていなかった。
「何があってもですね」
「実際な、気の抜けた野球だけはしなかったらいいんだ」
先生はまた言った。これは先生の本音だった。
「それだけはですか」
「そうだ、ここまで来れたんだ」
語る目が優しくなった。甲子園に来れたということだけでかなり満足しているのがわかる。
「だからな」
「先生、けれど」
しかし達明は言う。
「優勝しましょう、絶対に」
「それはな。当然俺もそのつもりだ」
それと共にこうした気持ちも持っていた。満足していると共にさらに上を目指すというのだ。
「やるぞ」
「はい」
達明はまた頷いた。見ればもう全身汗まみれだ。汗と砂で汚れた実にいいユニフォームになっていた。
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