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1部分:第一章


第一章

                     涙
 遂に来た、まずはそう思った。
 夏の暑い甲子園、久保田達明は新幹線に乗る前からはやる気持ちを抑えられなかった。関西に向かうプラットホームでもそれは同じであった。
「甲子園なんですよね」
「ああ、そうだ」
 顧問であり監督でもある桐生先生がその言葉に応えてくれた。まだ若く四角い顔をして筋肉質の身体をしている。角刈りにしてどうにも怖そうな外見だが常に気合を強調して自分でも声を出したり変な応援歌を作ったりもするかなり面白い人でもある。学校では体育の先生でその個性と生徒思いの人柄で中々人気のある先生である。
「これから新幹線に乗ってな」
「嘘みたいです」
「俺もだ」
 先生は笑って言ってきた。
「何か夢みたいだな」
「そうですよね。甲子園なんて」
「しかしな、久保田」
 先生はその達明に対して言うのだった。
「これは本当のことだぞ、夢じゃない」
「ですよね。俺今でも信じられないですけれど」
「その証拠に何度も頬をつねっただろ?」
「はい」
 その言葉にこくりと頷く。自分で自分の頬を叩いたこともある。けれどそれでも目が覚めない。本当のことなのだ。とにかく今の自分達が信じられなかったのだ。
「夢じゃないって」
「甲子園か」
 先生はふと遠い目をしてした。そこに遥かなものを見ている目であった。
「俺だってな、かつては甲子園を目指して野球をしていた」
「ですよね」
 高校球児ならばそれは当然のことであった。誰もが甲子園を目指して野球をしているのだ。まさに憧れの地である。それまでにもそこからも多くのドラマが繰り広げられてきたしきている。その甲子園を目指すのは本当に誰もが同じなのだ。ましてや達明達の学校といえば。
「あの時俺達はあの学校に負けた」
「やっぱりあそこですか」
「そうだ、三年の時は決勝でだった。結局負けた」
 先生の言葉が苦いものになった。学生時代の苦い思い出というやつだった。達明のいる県には一つ私立で強い学校があるのだ。そこは宗教団体が母体であり全国から生徒が集まる。野球部だけでなく柔道や吹奏楽にも力を入れており全国的にも名前の知れた学校である。達明達にとっても大きな壁だったのだ。
「けれど御前達は勝ったな」
「ええ、だから」
 達明は言うのだった。
「夢みたいなんです、俺達が甲子園だなんて」
「けれどな、それは全部御前達の努力の結果なんだぞ」
 先生は達明だけでなく他の部員達に対しても言った。
「俺達のですか」
「そうだ、御前等朝の早くから練習して夜遅くまでやってたよな」
「はい」
「それは」
 皆それに頷く。頷くと今までの練習の日々が脳裏に蘇る。それは辛いがそれでいて楽しい思い出であった。
「その結果なんだ。だから胸を張っていけ」
「胸をですか」
「そう、そしてここまで来たらな」
 先生は大きく出た。達明達を鼓舞するかのように。
「優勝するぞ」
「えっ、優勝って」
「まさか」
 皆この言葉には驚くしかなかった。甲子園に出られただけでも大変なことなのにこれで優勝とは。もう何と言っていいかわからなかった。
「そのつもりでいくんだ」
 先生はこう言葉を足してきた。
「そうじゃないと勝てはしないぞ。それとも何か?」
 不敵な笑みを作ってまた達明達に問うてきた。
「負けたいのか?違うだろ」
「それはまあ」
「やっぱり」
「そうだろ?どうせ出るんならな」
 先生はまた言った。
「勝って勝って優勝だ、いいな」
「わかりました」
「それじゃあ」
「いいな、久保田」
 そうしてまた達明に声をかけてきた。
「御前は一年だけれどな」
 達明は一年ながらその敏捷性と技を買われてレギュラーになったのだ。小柄だが頭の回転も速くセカンドを任されている。打撃も守備も抜群の巧さがあるがそれは彼の毎日の練習によるものだ。彼は練習の虫、野球の虫だったのだ。だから他の部員達からも評判はいい。
「頑張れよ」
「はい」
 達明は先生の言葉にこくりと頷いた。そうして新幹線に乗り甲子園に向かうのだった。
 宿に入ると夕食はステーキにカツだった。これは定番だった。
「敵に勝つ、ですね」
「そうだ」
 部員達と同席している先生が答えてきた。
「それに力もつくからな。どんどん食え」
「わかりました。それじゃあ」
「頂きます」
 ステーキにカツを食べる。それが終わると達明は宿の庭に出て素振りをはじめた。これは彼の日課である。
 
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