姉ちゃんは艦娘
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7.姉ちゃんの謎
今日は少し気分がいい。岸田と勉強のことで話をしていた時のことだ。
「そういやシュウ、お前、確か歴史苦手だったよな」
「うん」
「俺、歴史は得意なんだよ」
岸田が鼻の穴を大きくして誇らしげにそうのたまう。こういう時の岸田は、自分の知識をひけらかしたいときだ。付き合いも長いから、そういうのがなんとなく分かる。
「へぇ?。まぁあれか。戦国時代とか三国志とか詳しいもんな岸田」
「そういうことだ。んじゃーシュウ、問題を出してやる」
「どうせ試験にもでなさそうなマニアックなことを問題にするくせに……」
「ほざけほざけ?。太平洋戦争が勃発したときの総理大臣は誰だ?」
あ、前に比叡さんが話してくれたやつだ。
「東条英樹だったかな?」
「バカなッ!! 歴史が苦手なお前がなぜ知っているッ?!!」
「たまたまだよ……」
多分、『どうせシュウごときに答えられるわけがないんだよ?』なんて高をくくっていたんだろう。それを僕が答えてしかも正解してしまったわけだから、よほど岸田は悔しかったようだ。『じゃあ近代史縛りだッ』と言い出し、僕の岸田の間で近代史クイズ勝負が始まった。
「んじゃあ開戦の時に真珠湾より前に日本軍が攻め込んだところは?!」
「マレー半島」
「開戦が決まった時の暗号は?!」
「ニイタカヤマノボレだっけ?」
「そのニイタカヤマは今で言うどこの山だ?!」
「台湾で合ってる?」
「日本の快進撃はいつまでだ?!」
「ミッドウェー海戦」
その後も岸田のクイズは続き、僕はそれにことごとく答えた。どうも比叡さんから聞いた知識は間違いではなかったようだ。いや別に疑ってたわけではないけれど。
岸田はというと、僕が答える度にイライラを募らせ、その後元気がなくなり、そして涙目になってきた。そんなに悔しかったのか……。
「うわぁあああああん!! おれが唯一シュウに勝てる分野だったのにぃぃいいいい!!」
ふふん。いい気味だ。そうやってぼくとの勝ち負けの中でしか胸を張れないからダメなんだよっ。
「うるさい!! このリア充吹奏楽やろうがっ!! お前なんか受験に落ちてしまえばいいんだッ!! 永遠にラッパを吹いているがいいッ!!」
そういや秦野から『たまには部活に顔を見せて下さい』って言われてたな……久々に行ってみるか……
放課後、少し吹奏楽部に顔を出すことにした。この時期の吹奏楽部は特にさしあたってやることもなく、催し物といえば年末のアンサンブル大会ぐらいだ。今はまだ秋で、アンサンブル大会まではまだ余裕がある。部活ものどかなものだ。
「……あ、先輩が来た」
僕が顔を出すなり、秦野が相変わらず愛想のないリアクションをしてきた。お前、自分で僕に『たまには来い』とか言っておきながら、その無愛想な受け答えは何なの?
「うわぁああああんせんぱぁああああい。会いたかったですぅううううう」
「ウソつけ。無表情でそんなこと言うのはやめなさい」
「すみませんでした」
「全然反省してないくせに……」
その後、秦野に言われて1年生たちのレッスンを見てあげた。見てあげたつっても、別に何かを教えたわけではなくて、単に『もっと大きい音を出せるようにしとこうね』とか、『スタッカートはしっかりね』とか、その程度のアドバイスだ。
「先輩、なんだか最近楽しそうですよね」
ひと通りレッスンを見てあげて休憩中、秦野にこんなことを言われた。僕の後を継いでパートリーダー兼ファーストトロンボーンになったそうだ。秦野とは校内でちょくちょく会うんだけど、秦野曰く、その時の僕が以前より心持ちウキウキして楽しそうに見えるらしい。
「そお?」
「はい。部活から離れられたのがうれしいのかなーと」
いやそんなことはない。言っても2年以上心血を注いだ部活だ。今だって、『毎日吹かなきゃカンが鈍る……』という意味不明の焦燥感みたいなのに時々襲われる。
「そうなんですか?」
「そうだよ。お前、僕がそんなに薄情に見えるの?」
「だって先輩、結局キャラメルくれなかったじゃないですか」
キャラメル? なんの話だっけ?
「草野球大会の時、キャラメル買ってくれる条件で先輩の楽器を学校まで運びました」
ぁあ?そういえばあったねそんなこと。……つーかよく覚えてるね。
「怒ってるの?」
「怒ってないです。拗ねてるだけです」
「お前、結構こどもっぽいとこあるのね」
「年下ですから」
大人っぽい秦野の意外に一面に驚かされた。次顔を見せるときにでも、キャラメル持ってきてあげようかな。
「約束ですよ」
「はい」
後輩たちへのアドバイスという先輩風を思いっきり吹かせてきた後、僕は家路につく。今晩は数学の勉強をしないと。
家に着くと、とりあえず自分の部屋に戻って荷物を起き、室内着に着替えて食堂に向かう。今日は比叡さんのバイトが休みだったらしく、晩御飯は比叡さんが作ったカレーのようだ。
「シュウくん! たくさん!! 食べてねッ!!!」
「そのトリプルリズムは絶対に崩さないんだね……」
この頃になると、比叡さんの料理ももう普通に食べられる程度には味が安定してきたわけだが……あれ? 母さんが作るカレーとほとんど同じ味……?
「ん? シュウくんどうしたの?」
「いや、……母さん? 母さんも手伝ったの?」
「そうよ?……比叡ちゃんね……カレーにアレを入れようとしてたのよ……だから母さん慌てて……」
「? アレ?」
途端に比叡さんが、慌てふためき両手をパタパタとさせはじめた。
「ひぇえええ!! お、お母様!! それは秘密にしてって言ったじゃないですかぁあ?!」
比叡姉ちゃん、何を入れようとしたんだ……
「母さんの口からは言えない……おぞましすぎて……あんなものを入れようとするだなんて……」
「ひぇぇえええ!!!」
僕は、母さんからはついにその“おぞましい食材”の正体を聞くことは出来なかった。父さんが僕のいないところで母さんから聞き出したらしいが……
―聞くなシュウ……思い出したくない……洒落にならん……本当におぞましい……
と青ざめた顔でつぶやいた。一体何を料理に入れようとしたのか……というのは、お風呂から上がった後の話だ。
お風呂から上がると勉強が待っている…風呂上がりの僕は、やや憂鬱な気分になりつつ気合を入れて風呂あがりの牛乳を堪能していたときだった。
「シュウくんは今日も勉強するの?」
僕より先に入浴を済ませていた比叡さんが、うちの港に海上保安庁が来たとか言ってるニュース番組を見ながら、僕にそう話しかけてきた。ひょっとしてこの前みたいに何か僕の力になろうとしてるのかな?
「するよー。今日は数学の予定」
「そっか?……それだったらお姉ちゃん力になれないな?……」
まぁ仕方ない。数学は得手不得手があるからね……と思っていたら、次の比叡さんの言葉はちょっと意外だった。
「私、弾道計算ならなんとなく出来るんだけど、放物線の計算が出来てもシュウくんの勉強の役に立ちそうもないもんね~……それにあれだって、結局挟叉にさえしちゃえばあとは当たるまで撃つだけだし」
……いや、姉ちゃん、僕が今晩やる勉強は理科じゃなくて数学です。
「あ、そっかぁ! 物理じゃないもんね! 計算っていったら弾道計算しか思い浮かばなくて……ごめんシュウくん!! あははははははは!!」
「あは……あはは……あははははは……」
比叡さんは屈託のない笑顔でケラケラと笑う。なんだよ弾道計算って……。
部屋に戻ったあと、さっきの会話のことが気になって、ネットでちょっと調べてみることにした。キョウサという言葉を調べると、軍艦で砲撃をするときの用語だそうだ。そして弾道計算……何かが引っかかる。
何か心に引っかかるものを感じ、僕は引き続き、パソコンで太平洋戦争のことを調べてみた。確かに、この前比叡さんが僕に話してくれていた内容は寸分変わらず事実だった。太平洋戦争はかつて大東亜戦争と呼ばれていたし、開戦時、真珠湾とともにマレー半島を攻めたことも正しかった。ミッドウェー開戦までは日本軍は快進撃を続けていたことも、その後の戦いは悲惨極まりない状況だったことも正しかった。伊達に岸田が悔しがったわけではない。
そして僕は、ある事実を知って血の気が引いた。
その時、日本には戦艦『比叡』がいた。戦艦・比叡は金剛型戦艦の二番艦。金剛型には同じく一番艦・金剛、三番艦・榛名、四番艦・霧島があったとのことだ。一番艦の金剛は、イギリスで建造された戦艦で、他の3隻は日本で建造されたらしい。
―榛名とか霧島とか妹はいたけど……シュウ君が弟か~……んっん~ふっふっ
ぁあ、私お姉様が一人いて、妹が二人いるの。
金剛お姉さまなら帰国子女だから英語詳しいんだけどね~……でね! でね!
番号を生まれた順番だと考えると、比叡さんの言葉は辻褄が合う。そして金剛はイギリスで建造された日本の船……言ってみれば帰国子女。
そして、戦艦・比叡は終戦を迎えることなく沈没している。
―よかったぁ~……私その頃にはもういなくて、
妹の榛名にしか聞いたことなかったから……
なんだこれ。比叡さんが言ってたことと、戦艦・比叡のことが気持ち悪いほどリンクしてる……。比叡さんと初めて出会った時の疑問が最近、再び頭をもたげてきた。比叡さんは何者なんだろう……一体どんな人なんだろう……
それから数日、ぼくの頭の中でその疑問が渦巻き続け、勉強がまったく手につかなかった。比叡さんとはいつも通り接していたが、その疑問が頭から消えることはなかった。
「おいシュウ、お前最近、全然授業聞いてないだろ」
今日の最後の授業が終わった後、もはや腐れ縁と言っても過言ではないキモヲタの岸田がぼくにそう話しかけた」
「声に出てるぞ。誰がキモヲタだ。つーか何のモノローグだそりゃ」
「だって岸田、前に自分で『おれはキモヲタだ。キリッ』とか言ってたじゃん」
「……まぁいい。お前最近なんか悩んでるのか?」
岸田はキモヲタのくせに、こういう時は意外と敏感だ。
「んー……まぁ」
「そっか。何のことか知らないけど、早く解決するといいな」
「うん。ありがとう」
ちくしょう。時々岸田はこうやってイケメンになる。
「そしておれのヒエイたんもいい加減帰ってきてくれよぉぉおぉぉおぉン」
そしてその直後にすぐこうやってキモヲタの一面をすぐ見せ……
「今なんて言った?!」
僕は立ち上がり、岸田の制服の襟を両手で掴みあげた。あまりに突然のことで、岸田は酷く狼狽しているようだった。でもそんなことおかまいなく、僕は岸田の襟をねじり上げた。
「ちょ……な、なんだよっ」
「今さっき!! なんて言った岸田!!」
「早く解決するといいなーって」
「そんなお約束はいらない! その後!!」
「俺のヒエイたん……?」
なぜだろう。なぜか顔から血の気が引いていくのが分かった。でも逆に、岸田の襟を掴んでいる両手には、どんどん力が入っていく。
「なんだよそれはぁあッ!!!」
「いや待て!! 落ち着けシュウ!! 離せッ!! 一体何なんだよッ!!」
岸田が僕の腕を強引に振りほどいた。僕と岸田は勢い余って床に倒れてしまい、岸田は顔面を床で強打、僕は尻をしこたま打った。
「ゼハー……ゼハー……ご、ごめん岸田……」
「いでで……いやいい。いいんだけど……どうしたシュウ……」
いえない。最近居候している比叡さんの正体が分からないだなんて……そんなことこいつに言えるわけがない。
「い、いや……なんでもない……ごめん」
「ったく……なんなんだよッ……」
さっき顔面から倒れたせいか、岸田の鼻からはちょっと血が垂れていた。とても不満そうな顔をしている。イライラが抑えられないという感じだ。
「ごめん岸田……本当にごめん……」
僕はとても申し訳ない気持ちになり、岸田にそう謝った。あの夜以降、僕は『ヒエイ』という言葉に少々敏感になっていた。比叡さんは、確かに悪い人ではない。悪い人ではないのだが、得体の知れない部分が多い。あまりにも矛盾がなさすぎる比叡さんの記憶と戦前から戦時中までの日本の歴史……金剛型戦艦の数と比叡さんの姉妹の人数……そして戦艦・比叡の運命……比叡さんの正体が掴めない。悪い人ではない。悪い人ではないけれど、比叡さんは一体誰なんだろう……
僕の謝罪を受けたあと、岸田はそばにいた女子からティッシュを数枚もらい、それで鼻血を拭きながら、だいぶ困った顔をしていた。僕から目をそらし、鼻をティッシュで抑えながら上を向いていたが、何か考えているような表情を見せたあと、思い立ったように僕の方を振り返った。上を向いたまま、目だけをこっちに向けて。
「シュウ、見に来るか?」
「え? 何を?」
「艦これだよ。すっげぇ気になるんだろ? ヒエイたんはまだ戻ってきてないけど、ゲーム画面なら見せられる。図鑑のメニューでヒエイも見られるぞ」
正直に言うと、僕は少し迷った。この岸田の誘いを飲むと、なんだか絶対に知らなくとも良いこと……知ってはいけないことを知ってしまうような気がしたのだ。
でもそれが、比叡さんの正体を掴むヒントになるのなら見てみたい……見なければならない……そう思った。一種の使命感のようなものを感じた。
「分かった。ありがとう。今日岸田の家で見せてもらっていいかな」
「おう。俺とお前の仲だ。じゃあこれから俺んちに行くぞ」
岸田の家は、比叡さんと出会った神社から見て、ちょうど僕の家の反対側にある。帰りが少々めんどくさそうだが、そんなことも言ってられず、僕と岸田は、岸田の家に向かった。
岸田の部屋は相変わらず萌えキャラのフィギュアがたくさんある。岸田はバッグを床に置き、制服の上着を脱ぐと、すぐさまデスクトップパソコンに電源を入れた。しかし、ここまでたくさんフィギュアが揃ってると壮観だね……。
「触るなよ?」
触りゃしないよおっかない……だから僕を殺しそうな目で見ないでくれ。
「さっきはえらい剣幕でおれに迫ってたくせに、よく言うよ……」
岸田はそう言いながら、マウスをカチカチと操作している。画面を見ると、壁紙は……なんとなく覚えてる。このキャラは、以前岸田がやられっぱなしになっていたフェイトそんとかいうキャラだ。
「当たり前だ。おれはフェイトそんが一番好きだからな」
ぼくは岸田の愛を甘く見ていたようだ。ごめん岸田。
岸田は僕と会話をしながらブラウザを開き、ブックマークから、とあるサイトにアクセスした。アクセスして若干のタイムラグの後、『かんこれッ!!』という萌えキャラに似合いそうな声が再生された。
その後も岸田は淡々とパソコンを操作していく。女の子キャラの声と、岸田がマウスをクリックするカチカチッという音だけが、部屋の中で聞こえる音だ。それが逆に、部屋の中の静けさに拍車をかけていた。
岸田が『図鑑表示』というメニューを選択し、女の子キャラのリストのようなものがゲームいっぱいに表示された。マウスのクリック動作を繰り返し、画面の表示を次々に変更していく岸田。
「ほら。これが今行方不明になってる、おれのヒエイたんだ。前にお前に話したと思うけど、急にうちから消えて、未だに運営からの連絡はない」
僕は画像を見た瞬間、体中から血の気が引き、胃袋の中の物が逆流してくるのを感じた。体中が震え、身体の芯は熱いのに体中に寒気が襲いかかり、僕の身体は鳥肌を立てて震え始めた。
「比叡姉ちゃん……」
確かにこれはイラストだ。イラストだけれども……この巫女さんのコスプレのような服……この特徴あるXアーム……カチューシャと耳飾り……そしてなによりこの笑顔……紛れも無く、比叡さんそのものだ。
そして声。
『井上提督も愛した、巡洋戦艦、比叡です!!』
―私はコンゴウお姉様の妹分! 巡洋戦艦、ヒエイです!!
聞き間違えるはずがない……これは比叡さんの声だ。この声質も、声の調子も何もかも……
ヤバい……気持ち悪い……このイラストを見て声を聞いているだけでなんだか頭がグラグラする……倒れそうになるのを僕は必死に堪え、画面を改めて観察した。
画像の左上隅っこに『母港』とデカデカと書いてある部分があるが、そのそばに書いてある言葉が目に入った。この言葉は聞き覚えがある。この珍妙な語句を、僕は聞いたことがある。
「岸田……これは?」
僕は胃袋をかき混ぜられる不快感に必死に堪え、その言葉を指差して岸田に問うた。
「ぁあ、ゲーム内でのおれの名前だよ。最初叢雲って子が気に入ってはじめたからこの名前なんだけど、変えるのも何だし、今もこのままで通してる」
―ご存じないですか? やっぱり近くじゃないのかな……
“叢雲たんチュッチュ鎮守府”ってところなんですけど……
「だけどゲーム内とはいえ、自分の名前が“叢雲たんチュッチュ”てのはどうかと今は思うけどな。まぁウチの子たちももう慣れ親しんでるだろうし……」
岸田はそう言いながら、ネットの動画サイトで何かを探している。ヤバい。気持ち悪い。悪寒がひどくて止まらない。頭がグラグラする……このヒエイというキャラの画像を見てられない……
「ぁあ、あったあった。……つーかシュウ、大丈夫か?」
「大丈夫……で、なに?」
「ぁあ、今検索したらYoutubeに他の音声アップされてたぞ。聞いてみるか?」
「あ……う、うん」
「ホントに大丈夫かお前……再生するぞ」
岸田は心配そうに僕の様子を伺いながら、マウスをクリックした。
『気合!入れて!行きます!』
―気合! 入れて!! 打ちます!!!
『私、がんばるから!! 見捨てないでー!!』
―ご一緒に! ポテトは!! いかがですか?!
比叡さんの声そのものの音声が次々パソコンから流れてくる。どれも他人の空似じゃない。あの比叡さんが言ったとしか思えない。胃の中のものが喉まで出かかった。口の中にすっぱい味が立ち込め、お腹が必死に胃袋の中のものを吐き出そうと波打った。僕は、ここで吐いてしまわないように……岸田に迷惑をかけないために、必死にその衝動を抑えつけた。
「おい大丈夫かよ……お前、顔真っ青だぞ……」
「い、いや……大丈夫……つーか、帰っていいかな岸田」
「お、おう」
「今日はありがとう岸田……ごめん……」
僕は口を押さえたまま、逃げるように岸田の家を出た。玄関から出たあとはなりふり構わず必死に走った。とにかくこの体中を襲う不快感と不安感をなんとかしたくて、必死に、ただがむしゃらに走った。気がついた時、僕はあの神社にたどり着いていた。
息が乱れているけど、なぜかうまく呼吸出来ない。苦しい。喉のところで呼吸がつっかえている感じがする……喉に穴を開けたくなるほど苦しい……
「あれ? シュウくん?」
今は絶対に聞きたくない声が聞こえた。比叡さんだ。最悪な偶然だが、比叡さんがこの神社にいた。
「どうしたの?」
比叡さんが近づいてくる。いけない。その姿を見ただけで、頭がグラグラして立ってられなくなる。胃袋がさらに中の物を吐き出そうと気持ち悪い動きでお腹の中をかき回す。気持ち悪い。寒い。頭が痛い。息が苦しい。
「どうしたのシュウくん?! 顔真っ青だよ?!!」
「なんでもない……大丈夫。大丈夫だから」
「そんなことないよ!! 全然大丈夫に見えない!!」
「大丈夫だから!!」
「ほらお姉ちゃんの肩に捕まって! 一緒に家に帰ろう!!」
比叡さんの手が僕の肩に触れた。普段なら心地いい比叡さんの温かさが、今回だけは不快な衝撃となって僕の全身を駆け巡った。僕の胸とお腹の不快感が最高潮に達し、僕は口から盛大に胃の中の物を吐いた。
「シュウくん?!」
やってしまった……駄目だ……頭痛い……息が苦しい……息ができない……口の中が苦酸っぱい……気持ち悪い……地面が上にある……横に来た……世界がぐるぐる回ってる……
「シュウくん?! 大丈夫シュウくん?!!」
ごめん比叡さん……今声を聞かせないで……触らないで……だんだん声が遠くなってきた……ヤバい……触られてる感触無くなってきた……
「シュウくん?! シュウく……」
周りの景色が回転しながら一点に集約していき、やがて視界が真っ暗になった。僕はこの日、生まれて初めて気を失った。
少しずつ意識が戻り始め、僕はゆっくりと目を開けた。頭がかなりボーッとする。周囲を見渡し、ここがどこかを確かめる。照明が薄暗いせいか、最初はよくわからなかったけど、次第に見慣れた光景が見えてきて、ここが僕の部屋だということが分かった。
「目、覚めたか」
父さんの静かで落ち着いた声が聞こえてきた。父さんの声は少し低めだが、小さな声でもよく通り、聞き取りやすい。
「うん」
「びっくりしたぞ~。比叡ちゃんがぐったりしたお前をおぶって帰ってきた時は……珍しく母さんも取り乱してな」
「そっか……ごめん……」
「いいよ。別に責めてるわけじゃないし、お前が無事ならそれでいい」
僕は上半身を起こした。その時、僕の額から濡れタオルが落ちた。濡れタオルが額に置かれたこともまったく気付いてなかった。相当身体が弱ってるようだ。
「とりあえず明日は学校休め。一日ぐらい休んだところで高校進学には響かんし、何よりお前、学校行ける状態じゃないだろ」
「うん……。母さんと比叡姉ちゃんは?」
「母さんはさっき寝かせた。お前のことで取り乱したせいで、だいぶ疲れたみたいでな。比叡ちゃんは居間にいるよ。理由は聞いてないけど、なんか責任感じてたみたいでちょっと塞ぎこんでたな……」
「そっか……」
ごめん比叡さん……比叡さん何も悪くないのに……
「大丈夫なようなら居間に行ってみたらどうだ? 比叡ちゃんがいるはずだ」
「うん。そうする」
「うし。父さんはもう寝るよ。明日も仕事だし、安心したら眠くなっちった」
「うん分かった。ありがとう」
「いいえ~。これでもオヤジですから」
父さんは僕の頭をクシャッと乱暴に撫でたあと、部屋を出て行った。フと思って時計を見ると、今は夜中の3時。普段は12時頃にはもう寝てる父さんたちだから、そら眠いはずだよ……ごめん父さん。
僕はベッドから起き上がり、自分の調子を確かめた。大丈夫。グラッともしないし、頭も痛くない。お腹も気持ち悪くないし、世界も回転してはいない。よし。これなら居間に行ける。まだ足に少し力が入らないけど、壁伝いにいけば大丈夫。
壁につかまりながら、なんとか居間まで来た。居間には壁掛け時計の音だけが鳴り響き、ベランダへと続く窓が開いていた。窓からは心地いい風が吹いていて、レースのカーテンを優しくなびかせる。窓の向こうのベランダでは、いつかのように比叡さんがこちらに背中を向けて、夜空を見上げていた。触れたら壊れそうなほどの脆さをたたえたその美しい後姿に、昼間岸田の家で見た『ヒエイ』のイラストが重なって見え、一瞬、僕のお腹がグリッと何かでえぐられたような感触に襲われた。でも大丈夫。だいぶ気持ちが落ち着いた今の僕なら、耐えられる。
「比叡姉ちゃん」
僕は静かに声をかけた。声をかければ消えてしまいそうな比叡さんだったが、今はそうも言ってられない。比叡さんは責任を感じているようだと、父さんは言った。なら、話をしないと。比叡さんは何も悪く無いって言わなきゃ。
比叡さんは、いつもより少しゆっくりとした動作で、僕の方を振り返った。少しうつむき気味なためか、表情が暗く元気がないように見えた。
「シュウくん……」
「姉ちゃんおはよ。心配かけてごめん」
「んーん。お姉ちゃ……私こそごめん」
あれ……なんで言い直したんだろう……
「なんかさ、私がシュウくんに触れた途端シュウくん倒れたから、何か私に関係することじゃないかなと思って……」
「そっか……」
僕は壁から離れ、ちょっとふらつきながら部屋に一つだけある二人がけのソファに座った。比叡さんも居間に戻り、その僕の前に立った。
「座らないの?」
「私が隣に座っても大丈夫?」
僕は比叡さんに右手を伸ばした。
「?」
「姉ちゃん、手出して」
比叡さんは怪訝な顔をして、素直に右手を出してきた。僕はその手を握り、今なら平気だと身を持って比叡さんに知らせた。
「ほら、大丈夫。だから座って」
心持ち、比叡さんの顔に元気が戻ったように見えた。よかった。ちょっとでも比叡さんに元気が戻って……いくら表情豊かなのが比叡さんの魅力といっても、落ち込んでる比叡さんは見たくない。
「よかった。ありがとう」
比叡さんは、少し間隔を空けて僕の左隣に座った。どうしよう。気を失う前はあんなに比叡さんに触れてほしくなかったのに、今は僕に気を使って比叡さんが距離を取ってくれるのがすごく悲しい。
「シュウくん……聞いてもいいかな」
「うん」
「……何があったの?」
正直な所、今日のことを話していいのかどうかが僕には分からなかった。あまりにもショッキングな体験をしたことは事実だし、それで体調を崩すほどのショックを受けたことも間違いないんだけど……
「今日、色々ショッキングなことがあって……友達の家に行ってね。ゲームをやってきたんだけど……」
「うん」
―姉ちゃんとしか思えないキャラクターがいた。
「……ほら、姉ちゃんが住んでた…なんだっけ……」
「“叢雲たんチュッチュ”鎮守府?」
―友達が、その名前でゲームをやってた。
「……」
「シュウくん?」
たまたまだ。きっとたまたまなんだ。たまたま比叡さんに似たキャラクターが存在するゲームがあって、たまたま比叡さんが住んでたところと同じ名前を岸田が使ってるだけだ。
ならば言うのは簡単なはずだ。それなのに、言う勇気が出ない。なぜか言おうとすると、僕の心が急ブレーキをかけて、僕の覚悟を減速させる。口に出そうとすると、途端に緊張して喉から声が出なくなる。クソッ……
僕はこんなに勇気がなかったのか。今目の前で苦しんでいる、たった一人の大切な姉を助ける勇気すら持てないのか……僕は不甲斐ない自分への腹立たしさと、それでも口に出すことの出来ない悔しさ……そしてなにより比叡さんへの申し訳無さで、少しづつ目に涙が溜まってきた。
「シュウくん……」
しばらく僕の答えを待っていた比叡さんだったが、僕が次第に涙を貯めていくこの状況にいたたまれなくなったのだろうか。一言『ごめんね』と言った後、立ち上がろうとした。いけない。今比叡さんを一人にしてはいけない。直感でそう感じた僕は、立ち上がる比叡さんの右手をとっさに掴み、比叡さんを逃がすまいと必死にくらいついた。
「待って……」
「……シュウくん……でも私……」
「“お姉ちゃん”」
「?」
「姉ちゃんは僕の姉ちゃんなんだから、“私”じゃなくて“お姉ちゃん”」
「……」
座っている僕の位置からは、立ち上がって僕から顔を背けている比叡さんの顔は見えない。でも、比叡さんが今、どんな表情をしているのか分かる。多分、誰にも面と向かっては見せたことのない、あの神社で空を見上げているときの表情だ。あの感情の読めない、だけど綺麗なあの表情だ。綺麗だけど、本当の比叡さんからは程遠いあの表情のはずだ。
「姉ちゃん、座って」
比叡さんは何も言わず、再び僕の左隣に座った。さっきまでと少し違うのは、僕と比叡さんの間に距離がなくなったことと、僕と比叡さんが互いにしっかりと手を繋いでいることぐらいだ。大丈夫。手から伝わる比叡さんの温かさが、僕に少しだけ勇気をくれる。
「今日、姉ちゃんがどこから来たのか……そのヒントを知った」
「そうなの? じゃあ、帰り方も分かるの……?」
「いや、今はまだ分からない。正直に言うと、僕自身今日のことはまだ整理がついてなくて、頭が混乱してる。今日倒れちゃったのも、それが理由だ」
「……そっか」
「でもね。約束する。整理が出来て、僕なりの答えが見つかった時、今日のことを姉ちゃんに話す。だからそれまで待っててくれるかな」
「シュウくん……無理してない?」
「大丈夫。必ず答えに辿り着くから」
そうだ。僕はまだ、今日知ったことの整理すら出来てないじゃないか。比叡さんが誰なのか。今日岸田の家で体験した一連のこととの関係は何なのか。自分なりの答えどころか、ただいくつかのヒントを突然ぶつけられただけで、まだ何も分かってない。自分なりの答えすら見つかってない。
だったら見つけて辿り着けばいい。僕が出来るやり方で、比叡さんの秘密にたどり着けばいいのだ。たとえ事実が分からなくても、自分なりの答えを見つければいい。今のまま何かに怯えて、比叡さんを悲しませるよりはずっといい。そして、それはきっと比叡さんにとっても、悪いことではないはずだ。何も分かってない今よりも、必ず前進するはずだ。
僕は決意と共に、左手で比叡さんの右手を強く握った。見つけてやる。比叡さんがどこから来て、何に巻き込まれて、なぜここにいるのか。絶対に探り当ててやる。だから待ってて比叡さん。
僕と話をしているあいだ、比叡さんは僕と目を合わせなかった。でも、僕の決意がつないだ手を通して伝わったのかも知れない。比叡さんも同じく僕の手を強く握り返し、やっと僕の方を向いてくれた。その表情は、目に涙が溜まっていたけど、いつものお日様のような眩しい笑顔をしていた。
「分かった。シュウくんがそういうなら、お姉ちゃんは待ってるよ!」
「うん。ありがとう姉ちゃん」
「うーうん。私こそありがとうシュウくん」
よかった。姉ちゃんは分かってくれたみたいだ。
安心した途端、僕は体中から力が抜けていくのを感じた。まだ本調子じゃないのは理解していたつもりだったけど、まさかこんなに体力が落ちてるとは思わなかった。緊張が途切れてホッとしたのも原因なのだろうか。途端に頭が重くなり、世界がひっくり返った。まるで頭にくっついたエナジーボンボンでも引っ張られたかのように、僕は比叡さんの膝に倒れこんでしまった。
「んぁっ……」
「?! シュウくん大丈夫?!」
大丈夫。気持ち悪くもないし頭も痛くない。ただ、ちょっと疲れただけだから……
「気分悪くない?! 大丈夫?」
うん。むしろ姉ちゃんの膝枕きもちい……だからもうちょっとこのままいさせて……
「……わかった。お姉ちゃんの膝枕でよかったら、このまま寝ていいよ」
そういって、比叡さんは僕の頭を撫でてくれた。優しく、だけど僕の髪の毛がくしゃくしゃっとなる程度にガサツに。それがすごくキモチイイ。
夕方の時みたいな、不快な感じはもうなかった。まぶたの重みが心地よく、膝枕の感触と相まって、とても安心しきった中で、僕は夢の世界に落ちていった。落ちる寸前、僕の頭を撫でながら比叡さんが呟いた言葉と声が、子守唄のように僕の耳にとても心地良かった。
―シュウくんみたいな頼りがいのある弟に、最初に出会えてよかった
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