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蒼き夢の果てに

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第6章 流されて異界
  第126話 犬神

 
前書き
 第126話を更新します。

 次回更新は、
 10月21日。『蒼き夢の果てに』第127話。
 タイトルは、 『奪還。しかし……』です。

 

 
 障子越しに差し込んで来る蒼い光輝が現在の天候を示し、遠くから聞こえて来る犬の遠吠えが、今宵が風のない静かな夜である事を教えてくれた。

 室内には古い木と真新しい畳の香りを含んだ闇が蟠り……。
 いや、だからと言って何も見えない訳ではない。
 桟に区切られた天井板と土壁に守られた広くも狭くもない部屋。淡い蒼の光に沈む旧家の和室には、それに相応しい日本式の家具に小物の数々。しかし、その中に何故か少し若い女性の臭いを感じる。
 ここまではごく一般的な……かなり高級な感じのする日本家屋の一室。

 そして、ここからが普通の部屋とは違う。
 左右に張られた注連縄(しめなわ)と、それぞれの先に存在する榊の枝。
 部屋の四隅には盛り塩。

 室内にこれだけの準備をした上に、建物や周囲にも結界を施してある。
 これをどうにか出来る相手は早々いない……とは思うのですが……。

 そう考えた瞬間、部屋の中心に敷かれた布団が微かに動いた。おそらく普段と違う状況に、流石の彼女も少し寝苦しかったのかも知れない。

 現在、十二月二十一日夜中の三時すぎ。この部屋は、弓月さんの従姉で、この温泉旅館の若女将……女将見習いの女性の部屋。
 刹那――

 また犬の遠吠えが聞こえた。
 その瞬間、俺の腕の中に存在する彼女が僅かに身じろぎを行った。微かな洗い髪の香が鼻腔をくすぐり、普段よりもずっと密着させた身体が、彼女の小さな心の動きすらも伝えて来る。
 それは、彼女の疑問を……。

 昨夜、この付近の土地神を召喚しようとして失敗した後、弓月さんに頼み込んで訪れた彼女の従姉の部屋。其処に漂っていた微かな異臭。いや、これを感じられるのはかなり呪法に詳しい人間で、更に言うと見鬼の才に恵まれた人間でなければ無理であっただろう。
 それぐらい微かな異――獣臭。

 これは多分、呪いの痕跡。

 流石にそんな部屋で弓月さんの従姉を眠らせる訳にも行かない。
 確かに、今俺が持って居る情報だけでどのような呪いが実行されているのかを特定するのは不可能でしょう。簡単に思い付くだけでも、呪いを実行して居る相手に、弓月さんの従姉の真名や忌み名を知られている。彼女が長い間身に付けて居た品物や髪の毛などを利用した呪いを行使されている、等々の方法が有り、その方法を完全に解明して、然る後に対策を施す事は現状では無理。但し、それでも現実に何らかの呪術が為されている痕跡が有る以上、この部屋に呪いを受ける人間を留め置くのは非常に危険だと言わざるを得ない。
 先ず、何が行われて居るのかを知る。その為にも、この部屋にその呪いを掛けられて居る人物を置くのは得策ではない。
 ……と言う説明。一般人相手では信用させるのも難しい説明をあっさり受け入れて貰い――

【何かが近付いて来ている】

 心の中にのみ響く有希の声。そして同時に強く感じる彼女の香り。
 ここはうら若き女性の部屋。部屋の中心には明らかに何者かが寝て居ると思しき布団が敷かれ、その布団の足元の方に抱き合うように――丁度、体育座りをした有希の背中を抱き留めるような形で存在する俺。
 どうも有希は、俺の鼓動を感じると安心するらしいのですが……。
 ただ、なんと言うか、見ず知らず……とは言い難いけど、それでも病人のいる部屋で何と言う不謹慎な姿。バカップルぶりにも程があるだろう、と言われても仕方のない状態。

 但し、現在の俺と有希の姿が見える人間が本当に存在しているのならば、ですが。

 そもそも、ここは何者かの呪いが溢れている場所。まして、明日の夜……最悪、今夜中に何か危険な事件が起きる可能性の高い場所。そのような場所で意味もなくバカップルぶりを披露する訳はない。
 そう、今の俺たちは仙術により他者の目から見えない存在となっている。
 もっとも、完全にその場から消えて居る訳ではなく、其処に存在して居る事を他者から認識出来なくしているだけ。当然、臭いや気配などは完全に断って居るのですが、それでも大きな物音を立てて仕舞えばアウト。更に直接触られてもアウト。そうすると出来るだけ静かに、そして、小さくして居なければならず……。

【弓月さんの従姉には移動して貰って正解やったな】

 接触型の【念話】で答える俺。腕の中で微かに首肯く有希。彼女の手の中には普段通り、小さな文庫本が。
 まったく緊張している様子はなし。但し、現在の彼女自身は普段よりも少し不機嫌。
 もっとも、これでもこの部屋の護衛に入ろうとした時に比べると大分マシになったのは間違いないのですが……。
 ……有希には弓月さんの次の動きの予測を伝えてあったハズなのに。

 少し恨みがましい視線で有希が目を落としている文庫本に視線を送る俺。もっとも、俺自身は暗視の術を行使して居る訳ではないので、その本の内容までは分からなかった。

 尚、この布団の中で寝た振りをしているのは弓月桜さん。当初は有希、もしくは万結が布団の中で囮の役を。そして俺が穏行の術を行使して夜の襲撃に備える……と言う心算だったのですが……。
 その案には何故か弓月さんが強硬に反対。いや、彼女の言うように、この事件自体が弓月の家に持ち込まれた事件であるが故に、自分が安全な場所に居る訳には行かない、と言う言い分には一理も二理もあると思いますが……。
 ただ、そうかと言って、弓月さんを囮に。俺一人が穏行の術を行使してその護衛。有希と万結が弓月さんの従姉を護る、と言う配分は……。

 敵の力量如何によっては、非常に危険な状態と成りかねない。俺は自分の実力はある程度分かっている心算ですが、弓月さんの実力は知りませんから。

 それで結局、弓月さんの従姉に関しては万結とアガレスで。そして、この部屋の方には弓月さんと俺、それに有希の三人と言う配置に。
 この呪いの術がどのような系統の呪詛に分類されるか分からない以上、弓月さんの従姉の囮……呪的に呪いの相手だと錯覚させるような方法を施した所で、その呪いの元が分からなければ、囮を無視して本体の方に呪が向かう可能性が有る。故に、ある程度の戦力の配置を怠る訳には行かず……。
 結局、もしかすると完全に無駄に成る可能性も考慮しながら、万結とアガレスと言う貴重な戦力を配置せざるを得ない状況に成って仕舞ったのですが……。

 こうなって見ると、ハルケギニアに残して来た戦力。ルルド村を護る為に置いて来て、その後こちらの世界に流されて来てからは、ガリアの状況が分からない以上、召喚をする事も躊躇われる状態と成って居る俺の式神たちが居ない事が悔やまれるのですが……。

 ただ、無い袖は振れない。現在、俺に付き従っている戦力だけで今晩はやり繰りするしかない。

 そう覚悟を決めた刹那。再び、犬の遠吠えが聞こえた。今度は先ほどまでのソレよりもかなり近い。
 そして同時に、僅かに自らの口元が嗤いの形を取った事に気付く。今まではまったく敵の手の内が分からなかったのですが、この瞬間にようやくその一端を掴めた可能性が出て来た、と感じたから。
 これで少しはやり易くなるでしょう。

 有希たちが施した結界を、今近付いて来ているヤツラが越えられるかどうか。微妙な線か。ヤツラを使役している存在の呪力、もしくはソイツが持って居る可能性にすべてが掛かっている、と言う感じかな。
 口元を嗤いの形で歪めながら、冷静な頭脳でそう判断する俺。

 確かにヤツラは、人間が使役出来る人造精霊としてはかなり強力な部類のヤツラ。更に、複数体同時に使役する事も可能でしょう。
 但し、ヤツラは使役者に祟る存在でもあるのだから……。

 使役者が自らの存在を全て賭ける心算――それは当然、自らの生命を全て差し出す事は言うに及ばず、その人間の家系に連なる者すべての可能性を差し出す心算ならば、どのような結界でも食い破られる可能性は有る。
 憑き物筋と言うのは家――家系に現われるものだったはずですから……。

 思考は巡る。身体は適度な緊張を伴った臨戦態勢。そして、その視線を古風な障子により隔てられた外界へと向ける俺。
 果てさて。俺たちの仙術と外法。どちらがより強固なのか。有希や万結が施した結界は小さな結界を幾重にも重ねあわせた物。その内のひとつやふたつが破られたとしても、全体がすべて無効化されると言う物ではない。
 確かに万能の神ならぬ身が施した術だけに絶対に破られない代物ではないが……。

 その瞬間――
 何かが爆ぜるような感覚。そして、彼女を抱き留めた腕に感じる生暖かい感触。
 ――結界が破られたか。

 意外に冷静な頭でそう判断する俺。それならば、さてどうする。
 現状、この部屋を護る結界は存在する。但し、これも時間の問題だろう。破られる度に次々と防壁を立ち上げ続ける。これは可能だが、そもそもそんな事をするぐらいなら、こんな囮作戦など労しはしない。
 今回の呪いの矛先が偶々弓月さんの従姉に向いて居るだけで、そもそも高坂の家に繋がる人間ならば誰でも良い可能性もゼロではない。

 いや、むしろ、これまで数年間に犠牲になった人間たちの顔ぶれから推測すると、むしろそちらの可能性の方が高いと推測出来る。

 短い逡巡。しかし、結論は早い。今回はこの場で迎え撃つ!

 刹那、障子に映る庭木の影が揺れ――
 低い獣の唸り声。そして、微かに感じるだけであった獣臭が俄かに強くなる。

 十……いや、そんな数では納まらない。
 縁側から迫って来るような威圧感。多くの猛獣が其処に居る存在感。低い、威嚇の為のうなり声が、重なって、重なって、重なり合い――

 一瞬、視界が歪む。この時、世界が変わった瞬間を経験――つまり、結界が破られた、と言う事。そしてそれと同時に表皮が弾け、俺の周囲で紅い血霧が発生。
 その数三つ!
 これは俺が施した守備用の結界の数に合致。ひとつはこの部屋。いまひとつは弓月さんの従姉の部屋。そして最後は――
 マズイ!

 最早悠長に身を隠す結界の内に籠って居られる訳はない。有希の肩を軽く左手で触れ、強く右脚を蹴る。そしてほぼ一瞬の後、二間の距離を無にして、先ずは左右に張られた注連縄。次いで障子を突き破ると同時に右腕を一閃。
 その刹那、一瞬にして現われた光り輝く長剣が、大きさにして三十センチ程の丸い物体を斬り裂いた!

 チッ、予想通り最悪の外道が相手か!

 刹那、冷えた空気が肌と意識を同時に撫でた。
 鼻を衝く獣臭、そしてそれにも勝るとも劣らない鬼気を放つ異形たち。その異様な姿形をどう表現するべきか。
 縁側を、そして、和風の庭園を埋め尽くす多種多用な丸い物体。
 まるで闇深き海の底から次々と現われ出でる異形。手も、まして足も存在しない、見様によっては愛らしい、と言う表現が出て来ても不思議ではない形。
 有る物はブチ。有る物は耳の垂れた物。中には狼に似た物や、ハスキー犬などの大型の犬種も存在する。

 煌々と輝くふたりの女神。冬の夜に相応しい冷たい大気が目蓋を、そして頬を突き刺し、呪いに相応しい腐臭が強い吐き気を誘発させた。

「これは一体、何モノなのです、武神さん!」

 俺の右側から跳びかかって来たふたつの首を有希が、そして反対側を九つの格子状の光で浄化して仕舞った弓月さん。これはおそらく早九字。流石に巫女さん姿の彼女なら、この術は基本中の基本と言うトコロか。
 但し、初歩の初歩。早九字だけで簡単に複数の犬神を浄化して仕舞うとなると、彼女の術者としての力量はかなり高い事が見て取れるのだが――

「こいつらは犬神。大峰山に居る大神から派生した狼神の犬神などではなく、人間が人工的に造り出した呪い神としての犬神!」

 ふるべゆらゆらと、ふるべ!
 剣を顔の正面に立て、普段は使用しない魂振り……つまり、身体強化系の呪文を使用する。その刹那、勝利をもたらせる剣に更なる強い輝きが宿り、身体の奥底から強い力が涌きだして来た。
 弓月さんが敵になる……可能性を考慮した訳ではない。ただ、こちらの手の内を明かし過ぎるのも問題がある。そう考え、彼女の前では一部の術を封印。それに、元々、俺の家系は神道系の家系。当然、魂振りもその術の内に含まれて居る。

 狂ったように首だけの犬が同時に五体、空中を舞った。そして同時に足元からも同じだけの犬神が――
 しかし!

 アガレスが居ずとも、相手は所詮一般人を呪い殺す為の人工精霊……つまり、人間が造り出す事が出来る霊的な生命体。この程度の連中が千や二千、束になって襲い掛かって来ても今の俺を害する事など出来る訳がない。
 俺は半端者だが、それでも龍種。この程度の連中に遅れを取っては、彼の世に行った後に、御先祖様に申し訳が立たなくなる。

「犬を首まで穴に埋めて餓えさせ、怨みが最大と成ったトコロで首を刎ねる。そして、その首を今度は人の往来する道に埋め、多くの人々の足で踏ませる事により更に呪いを強くする」

 こうやって出来上がった怨念の塊が今、俺たちの前に現われた犬の首だけの魔物。
 弓月さんの問いに答えながら、更に、同時に四方から跳びかかって来る犬神を、三度手首を翻しただけで無力化して仕舞う。その姿はハルケギニアのラ・ロシェールの街で野犬に囲まれた時と同一人物だとは思えない動きのはず。
 そう、こいつらは犬神。そもそも、ここは人里からは少し離れた山の中。付近に野犬の群れが居ると言うのなら未だしも、先ほどから度々聞こえて来ていた犬の遠吠えの数は異常。

 少なくともこの街に到着してからコッチ、俺の感知能力が野良犬の存在を察知した事はない。

 地を這うように接近しつつ有った犬神を数体散じさせる有希。後から後から、まるで地の底から湧き出して来るかのような犬神と(いえど)も、ここに集う者たちの前では単なる作業で処分して行ける相手でしかない。
 その有希が作り出した唯一の安全地帯に、表の世界で達人と言われる存在を遙かに凌ぐ速度で斬り込み、庭に降り立つ俺。それと同時に振り抜かれる白銀の一閃。刹那、眩いまでの銀が爆流となって斜め上へと駆け抜ける。
 その瞬間、俺を支点にして前方を扇型に安全地点が作成された。

「臨める兵、闘う者、皆陣裂きて前に在り!」

 刹那、まったく間髪入れる事無く放たれた格子状の光によって、俺の背後に存在していた犬神たちが弓月さんにあっさりと排除されて仕舞う。
 急造のチーム。そもそも、ここに来るまではどの程度の……。いや、確かに球技大会の時の彼女……弓月桜の活躍から考えるとかなりのレベルの術者だろう、と言う推測は立って居たけど、よもやこれほどの術者だったとは……。

 視線すら向ける事もなく、思考のみでそう考える俺。当然、身体はその動きを止める事なく右腕を一閃。それと同時に左手から放たれた呪符が蒼白き炎を纏い――

 想定していた……。実際に遭遇経験のあるライカンスロープ系の人狼などから想定していた人工精霊としての犬神の能力からはかなり劣る能力しか示して居ない、この周囲に集まった犬の首だけの魔物に対して多少の違和感を覚えながらも、身体は自動的に魔を滅する動きを続け、
 思考は、ハルケギニア世界で妖精女王と名乗った少女の異世界同位体について巡らせる。

 そう、この様子ならば、表の世界で名を轟かせている売名だけが上手な連中なら鎧袖一触。皆が魔術師シモンの如き末路を辿る事は間違いない。裏の世界……魔法が支配する世界の裏側には、流石に俺では想像も付かないような、そんな底知れぬ闇が揺蕩って居ますが、それでも、其処の表に開いた入り口のひとつ。陰陽寮に通えばかなり良い成績を納められたのは間違いないでしょう。

 この場は二人に任せて――
 瞳を閉じれば感じる。有希、万結。このふたつの光点……気配は未だこの旅館の敷地の中に。しかし、ハルヒとして感じている気配がここからドンドンと遠ざかって居る。
 あいつは完全に部外者だと考え、結界の内側……ハルヒの部屋に施した結界は彼女の気配を完全に消し去る類の結界なので、其処に誰かが居る事を始めから知って居なければ絶対に破られる事のない結界のハズ……と考えて居たのですが。
 何にしてもハルヒでも可、ならば問題がある。確かにハルヒ自身から強い魔力を感じる事はある。まして、それでなくてもアイツは未だクトゥルフの邪神……風の邪神ハスターの贄から完全に脱し切っていない存在。更に言うと土の者。黒き豊穣の女神シュブ=ニグラスの苗床とされた少女。……つまり高坂。いや、黄泉坂(こうさか)と同じ土属性を持って居るのも間違いない。
 もし、ハルヒがここで、……こんな中途半端な、妙に素人臭いヤツが行う召喚作業の贄にされたのなら――

 元々、召喚しようとした存在が現われる可能性はゼロだが、それ以上に厄介な存在を呼び寄せて仕舞う可能性がある。
 そもそも俺自身は、今回のこの事件の目的がどのような存在を召喚しようとするモノだとしても失敗する、と考えていた。それは当然、俺が一切の手出しを行わず、弓月さんの従姉が死亡したとしても……だ。

「行って」

 俺の僅かな迷い。その僅かな迷いに気付いたのか、俺の背中に掛けられる小さな声。いや、間違いなく俺の迷いに気付いたが故のこの言葉。
 表情は無。口数も異常に少なく、普通に考えるととてもおとなしい少女のように見える彼女が、実は非常に気が強く、更に頑固である事は、他ならぬ俺が良く知っている。
 無造作に見える仕草で右腕を振る。たったそれだけの動きで跳びかかる猛獣に断末魔の悲鳴を上げさせながら、軽く右後方に視線を送る俺。
 其処には――
 縁側。誰が見てもただ静かに佇んで居るようにしか見えない彼女の周囲に迫る首だけの犬。その先頭の一群が何の前触れもなく宙を舞い!

 しかし! 何もなかったはずの宙空にて阻まれる突進。その獰猛な牙も、何もない空間を空しく噛むのみ。
 そして次の瞬間、ただ無為に何もない空間に食らいつくだけであった犬神の一群が、蒼白き炎によってすべて焼き尽くされて仕舞った。

「ここは問題ない」

 不可視の壁にこびりつく微かな残滓が風に散じた後に、俺を真っ直ぐに見つめた彼女がそう言う。俺の迷いの元凶。彼女にこの場を完全に任せる事への不安が――
 いや!

 小さく首肯く俺。今、危険に晒されているのは有希ではなく、ハルヒの方。これ以上、ここでグズグズして有希を幻滅させる必要はない。
 人間が走るのよりは速い移動で遠ざかって行くハルヒの気配。但し、その移動は直線的でどう考えても地上を走って居るような気配はない。
 確かに瞬間移動を繰り返せば、間に多少の障害物が有っても問題はないでしょう。しかし、実際に目で見えない場所への転移は非常に危険――例えば、その転移した場所に樹木があれば、人体と樹木の融合した不気味なオブジェが出来上がる等の危険を伴うので、初めから準備をしていなければ行う可能性はゼロ。
 そして何より、ハルヒとして感じている気配が地上よりもやや下。おそらく、地下数メートル程の場所から感じているので……。

 この移動方法は、おそらく土遁の術か地行術の類。
 そう判断した瞬間、大地を蹴り宙空にて導引を結び、口訣を唱える。そして、日本風の塀の上に降り立った時には――

「オマエは有希と弓月さんを護れ! 俺はハルヒを追う!」

 後方に向かって複数の呪符をばら撒きながら、自らのコピー。飛霊に対してそう命令を行う俺。
 その言葉が完全に終わる直前。立て続けに起きる爆発を背に受け瞬間移動。俺の完全なコピーである飛霊からの返事など待つ必要もないし、更に言うと、背後から跳びかかろうとして居たはずの犬神の末路などに然したる感慨も涌く事はない。

 最初の一跳びで見える範囲内で一番高い木の枝に。次に、其処から見える木の枝へと瞬間移動を繰り返す俺。
 目印はハルヒの気配。アイツ本人の気配と、それに俺が渡した護符(銀の首飾り)を身に付けている限り見失う事はない。

 そして、確信する。矢張り、アイツの気配を感じるのは地下深く。地上を走って居るのなら、ほぼ原始林に近い林を、このように真っ直ぐ移動する事はそもそも不可能だし、もし空中を移動しているのなら、枝から枝へと瞬間移動を繰り返している俺の視界に入っても不思議ではない。

 但し、ならばどうする?

 移動速度は人間が全速力で走って居る程度なので、術者として考えるのならかなり遅い部類に入る相手。既に完全に追い付いているのは間違いないのだが……。
 但し、地上に引っ張り出す方法が――

 大地に爆発を起こす類の呪符を複数枚投入して大穴を開ける……これは流石に乱暴過ぎるし、ハルヒを無事に取り戻せるか微妙。そもそも相手は、ハルヒを抱えている可能性が高いので、爆発の範囲を細かく、それも複数の術を制御するには……俺だけでは無理。
 もっとも得意な電撃を使用する方法もダメ。ハルヒを抱えている相手を、ハルヒと別の存在だと護符が認識出来る訳もなく、雷撃自体が俺の渡した護符により完全に無効化される可能性が大。
 流石にこれから本格的に戦う可能性の高い相手に、俺の属性を知られるのは問題が有り過ぎる。

 それならば――

 ハルヒを示す光点を中心に半径二メートルを不可視の手で無理矢理に掴み上げる。そして、そのまま上空に馬鹿力に物を言わせて放り出した!
 そもそも、俺の動体視力は非常に良い。球技大会の時には名付けざられし者の投じた一五〇キロオーバーの速球ドコロか、有希が投げて来た手加減なしのセカンドへの送球をいとも簡単に捌く事が出来たのだ。人間の全速力、時速三〇キロ程度で地下を行く物体を捉える事など児戯に等しい。

 そして次の刹那、無理矢理に上空へと放り出された土砂から何かが跳び出す。
 その次の瞬間!

 上空で閃く白刃! 交差する三つの身体。雲ひとつない満天の星空に、黒い何かを放ちながら宙を舞う人間の腕。
 そして!

「遅い!」

 今まで何をやって居たのよ。罰金モノの遅さよ、これは!
 何故か非常に元気な様子の元人質の少女が俺の腕の中で騒いだ。

 そう、突如、ハルヒを抱えたまま空中に放り出された襲撃者。当然、その無防備な状態を見逃してやるほど俺は甘くもなければ無能でもない。
 突然、上空に向かうベクトルを付けられたとしても、土の中を時速三〇キロ程度で進んで居た力が無くなる訳ではない。そもそも大地を踏みしめて走って居た訳ではなく、土を大気と同じような存在と為して土の中を飛んでいる状態だと考えた方が分かり易い物体。
 当然、半径二メートルの土塊など一秒もかからず駆け抜け、次の瞬間には何もない氷空に跳び出す黒い人影。

 上空で体勢すら整える事の出来ない襲撃者。完全に合一した女神をバックに足掻く姿は、まるで深海で空気を求めてもがく者の如き。少なくとも空を飛ぶ、と言う能力を持つ者とは思えない動きなのは間違いない。
 そして――
 足場にした高き枝を強く蹴り、十数メートルはあろうと言う距離を一瞬でゼロに。その時には光り輝く剣を手にしていた俺が――

 しかし、流石に相手もまったくの無能と言う訳ではなかった。人質……おそらく生け贄とする為に運んでいたはずのハルヒを、自らと俺の間に割り込ませる。
 生ける盾。但し、これは蘇生の術を行使出来る俺には無意味な行動。更に言うと、単に俺を怒らせる結果となる極めてリスクの高い選択肢。
 但し――
 ここで僅かな逡巡。ハルヒごと相手を両断した時に発生するリスクと、この場は彼女を奪い返すのみに留め、その後にこの素人臭い襲撃者を叩きのめすリスクの両天秤。
 しかし、それも刹那の間。そう、答えは簡単。クトゥルフの邪神の苗床から完全に脱し切れていない彼女の生命を一時的にも消滅させる方が、敵を生き残らせるよりリスクが高いと判断。

 その結果。ハルヒに掠りさえしないように振るわれた白刃が得た戦果が、ヤツの左腕と、そして、無傷のまま好き勝手な事をホザキ続ける元気な元人質、と言う事。

「……と言うか、ハルヒさんよ」

 上昇した時の百分の一にも満たない速度でゆっくりと地上に向かって下降する俺。左腕を斬り跳ばした相手に関しては、大地に叩きつけられ、バウンドして木の陰へと入って仕舞った。
 通常の人間ならば死亡している可能性が大なのだが、おそらく無傷に等しいでしょう。
 ……あれだけ大量の犬神を使役して、その犬神を倒されたとしても無傷に見えた相手が、高々二十メートルほどの高さから放り出されたぐらいで死亡するとは思えませんから。

「なによ?」

 未だ来るのが遅いとか、明日はあんたのオゴリよ、とか好き勝手な事をほざいていたハルヒが俺を睨みつける。
 絡む視線。ふたりの身体の距離はゼロ。本来なら多少、甘酸っぱい感情に支配されたとしても不思議ではないシチュエーション。
 しかし、ハルヒの表情が――
 ただ、口では文句を言っていたけど、腕の方はしっかりと俺の首に回していたので……。
 要はどう言う態度で居たら良いのか分からないから、取り敢えず悪態を吐く事に決めた。……と言う程度の事なのでしょう。

 何故か、妙な睨めっこ状態となって仕舞った俺とハルヒ。但し、俺の方はやや笑みの混じった呆れ顔。
 対して、ハルヒの方は相変わらず怒ったふり。

 しかし、終に我慢が出来なくなったのか、プイっと視線を逸らして仕舞うハルヒ。本人は気付かれていない、と思い込んで居るのでしょうが、その仕草は明らかに俺の視線から逃げようとした事が丸分かり。
 ただ、何を考えているのか分かりませんが、何故かその後、それまでよりも首に回した腕に力を籠めて……。
 より密着するようになった為に触れる彼女の長い髪の毛が妙にくすぐったく……。

「オマエ、もしかして、そんな目でずっと相手を睨んでいた、なんて言う事はないよな?」

 未だ気を緩めるには早すぎる。そう考え、出来るだけ普段の……。妙に近すぎない友人に対する口調で続ける俺。

 それに――

 それに、流石にハルヒの視線は普通ならあまり考えられない。確かに一般的な拉致事件――例えば、多少気が強い人間ならば、そう言う態度でずっと犯人に敵対的に取り続ける人間もいるでしょう。そもそも、そう言う態度で臨む事がストックホルム症候群を防ぐ方法だとも思いますし。
 但し、今回は一般的な事件とは違う。そもそもあの犬神使いが施して有った結界をどう破ったのかも謎なのですが、それでも、襲撃者が単独でハルヒの前に現われたとは思えない以上、ハルヒは犬の首だけの化け物の姿を見た後に、壁抜けや土の中を飛ぶように移動する、と言う非日常を嫌と言うほど体験したはず。

 普通に考えると、この状況下では絶望的な未来しか想像出来なかった、と思うのですが。

「そんなの当たり前じゃないの」

 相変わらず不機嫌な振りをしながら答えるハルヒ。
 そして其処から先の言葉は口にしなくても分かる。今の彼女には具体的に反撃する方法がない。でも、諦めて仕舞えば心が折れる。暴力に屈して仕舞う事が分かっているから。
 だから、瞳や口だけでも反抗し続けたのでしょう。

 ただ、おそらくそんな部分も――

「そうか――」

 短く答える俺。まぁ、今回は幸いな事に大事には至らなかった。それにこんな事件は、一生の内にそう何度も出会う事件ではない。
 俺が居なければ弓月さんは今回の依頼をSOS団に持ち込む事もなく、ハルヒが危険な事件に首を突っ込む可能性も低くなる。表だって事件にハルヒを関わらせなければ、有希と万結が人知れず処理して仕舞うでしょう。

 ハルヒのハルヒ足る所以を壊すような訳にも行かない。例え、その性質を何モノかに利用されたとしても。

 冷たい大気の下へ……。まるで深海に向かってゆっくりと下降して行くふたり。

「まったく、土ごと空中に放り出されるとは思わなかったよ」

 
 

 
後書き
 素朴な疑問。犬神って分かるのだろうか?
 それでは次回タイトルは、『奪還。しかし――』です。
 
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