機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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66話
黒い海。
天上に、両脇に、真下にちらちらと瞬く小さな光。
それらを目にしながら、プルートはバーニアと四肢の稼働により、己の機体を滑らかに滑らせていく。
(デラウェアよりヴォルフ03、着艦準備よし。ガイドに従え)
「ヴォルフ03、了解」
応じながら、プルートは視線を前にやる。
ムサカ級巡洋艦『デラウェア』。長く突き出た船体の両脇のカタパルトを目標の座標に見定め、機体の減速やらなにやらの作業を淀みなく行っていく。
20m前後のサイズのMSと比べれば、その十倍ほどもあるデラウェアの緑色の船体には少しだけ圧倒される。思わず、自機の両肩が接触してしまうのではないか、と余計な気を使ってしまうのも無理は無かった。
何せ久々に乗る機体だった。今までずっと乗りこなしてきた機体だったとはいえ、数か月もブランクがあれば機体特性など忘れてしまうものであろう。それに、この機体は別に直ったわけではない―――あり合わせの装備でなんとか体裁を保っているだけの状態ともなれば、そもそも操作感覚は大きく異なる。
それでも、その機体はプルートの身体に良く馴染んだ。左右に突き出した両肩のスラスターユニットを折りたたみ、格納庫へと戻っていく様は巣へと帰った巨鳥といった風だった。
「んで、どうだったよ」
空気を十分に満たした格納庫で、エイリィは上下一体になったBDUの上半分だけをだらしなく脱いだ格好でプルートを出迎えた。
「まぁ整備兵の連中が言うよりは悪くは無かったよ」
先ほどまで乗っていた機体の足元に降り立ったプルートは、言いながらちらと一瞥をくれた。
両肩のユニットを下に降ろした様は、その流線型の流麗な外観も相まって、天使が羽を休めて佇んでいるようだった。
《キュベレイ》―――その、量産型モデル。プルート・シュティルナーが《ドーベン・ウルフ》を乗りこなす以前に愛機としていた機体だった。
だが、正確にはこの機体を《キュベレイ》と言うことは出来まい。元々プルートがキュベレイからの機種転換を迫られたのは、《キュベレイ》そのものの予備パーツの不足による整備不良からだった。確かに開発母体こそプルートの《キュベレイ》だったが、中身は大分安上がりなものに挿げ替えられているのである。掌を火器の運用を考慮して、《ズサ》のものに換装したり、機外兵装ステーションを増加させてシュツルム・ファウストの運用を可能にしたり―――と、まぁ《キュベレイ》の美しさ漂う外見とは異なった方向に改修されていた。
「乗った感じ、《ギラ・ドーガ》とどっこいって感じかな」
「そんくらいあれば十分十分」
朗らかな笑みと共に、エイリィが親指をぐいと突き立てる。
今でこそプルートが乗っていたが、この機体のメインパイロットはエイリィだ。プルートは長らく《キュベレイ》に乗ってきたため、以前までの《キュベレイ》との『乗り心地』を比較していたというわけだ。
「任務っていうくらいなんだから兵装くらい支給してくれてもいいのに」
思わず悪態をつく。
「まぁまぁ。パラオも余裕無いんでしょ。それに、最近なんか作ってるみたいだし」
口を堅く噤む。金のかかるわけのわからないワンオフ機を作るなら、ちゃんと軍そのものの兵装の充実を図ってほしいのだが。自分はともかく、エイリィは腕の立つパイロットなのだ。《ギラ・ドーガ》の1機も渡してほしい、と思う。
もちろん、そうする余裕がないと言ってしまえばそうなのだろうが―――。
整備班には悪いと思うが、こんなあり合わせの《キュベレイ》よりかはよっぽど《ガザD》の方が安心できる。
それに、次の任務はそれだけ規模の大きなものになる。参加する部隊だって、あまり目立った行動が出来ない現代にあって、MS2個大隊以上の戦力を投入するほどなのだ。
ぽん、とエイリィが肩を叩く。
「ま、今回は前みたいな危なっかしい奴と戦うわけじゃないし。だいじょーぶっしょ」
にいっとエイリィが間延びしたような笑みを見せる。エイリィはどうしてこう、無邪気さと大人の温かさが同居した笑みを浮かべられるのだろう―――?
嫌な予感がする。そんなに明瞭な輪郭を持った危機感ではなく、世界との境界線もおぼろげでそこに果たして存在しているのかすら不明な、漠とした負のベクトルの運動を持った存在の到来の予感―――。
シャワーでも浴びよう―――今日は、久しぶりに水を多く使える日だ。ノーマルスーツの前を開け、胸に風を入れる。エイリィも一緒にシャワーを浴びることにして、格納庫を後にする。ロッカーでノーマルスーツを脱ぎ、シャツとショートパンツ姿でシャワールームに向かっている途中だった。
「ねぇ、プルートってずっと軍人だったの?」
隣に並んだエイリィが、なんでもないことのように口にした。
「そうだな。そういう目的で作られたわけだし」
返すプルートも、特に含意することもない。ふーん、と相槌を打つエイリィも、大して気にした風ではなかった。
強化人間、作られた人間。それこそ悲劇のヒロインにでもなりそうな生い立ちだが、別にプルートは特に自分の人生に思うところなど無かった。そもそも、そういう風に作られているのである。幸福な人生とは何か、という問いは人類史の開闢から問われ続けた難題だが、目的に適った人生こそ幸福であるという思想も、強く信じられた幸福論だ。
そういう点から見れば、プルートの人生は比較的幸福であると言えるだろうし、プルート自身もそう思っている。自分は戦争の有益な資源として作り出された存在である。プロジェクトという点から見れば、MSパイロットの素養がどうしても発現しなかった彼女は失敗作のレッテルを張られ、同じような境遇の姉妹たちとともに後方の任務に就いてきた。当時の方が、よっぽど不幸な人生だっただろう。今の方が、その創造理念に適った人生を歩めているという自己効力感を持てている。
はっきり言って、そんなことを気にしたことが無かった。
どん、と強く押す感覚が頭を打つ。そうして、わしゃわしゃと髪を掻き毟り始めた。
「なんだよ」
不快ではなかったが、敢えて不快そうな顔でエイリィの顔を睨みつけてみる。それでも―――というより、やはり、彼女は「なんでもない~」と飄々とした素振りのままに通路の先に行く。
よく、わからない奴なのだ。彼女は―――。
ぽつねんと佇むプルートを置いて、すたすたと通路の先を行く金髪の彼女。その背中が遠ざかっていく。背中が小さくなっていく。手を伸ばせば、手のひらの中にすっぽり消えてしまいそうになって―――。
「―――待ってよ、エイリィ!」
不安からか、プルートは思いがけず声を張り上げていた。くるりと振り返ったエイリィは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「ほらほら早く。追いてっちゃうよ~!」
後ろ向きになりながら、無重力の中を泳いでいく。プルートは壁から迫り出した無重力中での移動のためのレバーを掴むと、遠ざかる彼女の元へと急いだ。
※
クレイ・ハイデガーは、自分の身体に当たる夜風を感じていた。基地内をぐるぐると走り回った後ということもあり汗まみれで、涼しい風が心地よい。
丘を登る。何も考えず、疲労で弱った足を前に進めていく。
さしたる距離ではない。司令部から格納庫のあるブロックへと続く道沿いの、小高い丘。軍靴を少し覆うほどの草が育生するそこは、なんとなく足を向ける場所だった。
なんとなく足を向ける場所である―――と、同時に、クレイ・ハイデガーにとって、その場所は唯一琳霞とまともな思い出のある場所だった。それは思い出というには酷く短く、さして即座核に深々と傷痕を残すほどの出来事があったわけでもない。だが、このニューエドワーズで彼女に関係する場所と言えばここくらいしかないのも事実だった。
丘のてっ辺に立つ。丘、といっても、少しだけこんもしりしただけの土の塊でしかないそれは、別に普通の平地と比べても5mとて上ではないだろう。
ただ人間以外の物が発する音だけが声をかける。
クレイ・ハイデガーは、感情の惹起の無いままに、ただ佇立していた。
知っている人間が死ぬことは、単純に悲しいことだった。胸が苦しくなった。だが、どこかその感情は皮相の経験でしかないようにも感じられ、悲しんでいる自分をどこか冷めた目で見ている感じは相変わらずで―――。
「あ! 見つけた!」
―――それは、どこかで聞いたことがある声の調子だった。声こそ全く異質だったのに、彼女のイントネーションを想起させる言い方。思わず振り返り、声の方へと目をやった。
「よお、探してたんだぜ」
手を上げる男。サービスユニフォームを着こんだ2人のうちの1人、手を上げてクレイに声をかけた男は、薄暗がりでもなんとなく人懐っこい表情をしているのだろうな、と思わせる雰囲気だった。
「俺をか?」
「じゃなきゃここに他に誰がいるよ?」
周囲を見回すまでもなく、確かにここに居たのはクレイ1人だけだった。それにしても、丘を上がってくる男―――神裂攸人の目的は、クレイにはさっぱりだった。
攸人の隣にいる人物は、部隊内の誰かだろうと見当づけていたがどうやら違う人物らしい。攸人とともに、まるで葡萄のようにビニール袋を引っさげた男と目が会うと、親しみ深い微笑を向けた。
「貴方は趙中尉の―――」
「ええ、共和国軍の人間です。中尉の部下でした」
ジオン訛りの英語で男が言う。多少虚を突かれる感覚を味わっていると、ほら、と攸人がビニール袋の中の何個かを持ち上げ、クレイの目の前に掲げた。
持ち手が皺くちゃになったビニール袋を受け取って中身を見てみる。暗がりでよくわからないが―――手を入れて確認してみれば、ジャンクフードらしきものの袋やら、コンビニで買ってきたであろうパンなどが無造作に犇めいていた。
その中の1つは、そういう既製品ではなかった。どこかつるつるながらも表面に傷のあるタッパーの内容物は未だにある程度の温度を抱えたままたしく、ビニール袋越しでも十分に生暖かかった。
「なんだ、これ」
その温かいビニール袋に手を入れて、タッパーを取り出す。角っこのほうだけ開けて匂いを嗅いでみれば、どこか脂っこい、慣れない匂いが鼻の奥に触れた。
「餃子だよ。本当は水餃子が良かったんだけど」
「ギョーザ……? あぁ、東アジアの」
食べたことは無かったが、聞いたことはある食べ物だった。
「なんだよ、夜食?」
「まぁ、そんなところ」
言いながら、クレイの右手に攸人がどっかりと座りこむ。共和国軍の人間も同じようにして座ると、ビニール袋から何かを取り出す。薄手の透明な袋を破き、中からプラスチックの脆そうなスプーンを抜き出すと、どこか親の仇にでも会ったかのような真剣な表情で中身を食べ始めた。
「おい、早く開けろよ」
攸人に急かされ、クレイも仕方なく固い地面に腰を下ろした。そうして中からタッパー2つを地面に置いて、蓋を開けた。
クレイは、自分に渡されたビニール袋のうち1つが比較的重いことに気づいた。その1つを右手に持って、しげしげと眺める。
これは一体何なのだろう―――この目の前の物体が、ではなく、この自分の周囲で始まった珍奇な儀式は。特に言葉も交わさずに器に入った何かをがつがつと口の中に詰め込み、時折思い出したように餃子を器用にスプーンで掬っては咀嚼する2人を横目で一瞥したクレイも、そのビニール袋の中の重量を手に取った。
肌触りからして固いプラスチックの容器は、その軽薄な触り心地に反して腕の筋繊維に確かな負荷をかける重量と熱を持っていた。
ビニール同士が擦れる耳障りながさがさという音からそれを引っ張り出して、容器の蓋を開けてみる。辛味を伴った濃い臭気が鼻孔にへばりつきながら突き抜け、食道を通り、居の底にじっとりと溜まっていく。
袋の中のプラのスプーンを右手に持ち、その塊へと突き入れる。初めにどろっとした感触があり、さらにスプーンを奥へと刺していけば、もっと固い感触へと変わる。上部構造とその下部の構造をまとめて掬い上げ、口に入れればその匂い通りの味蕾をざくざくと刺してくるような辛さが舌の上を跳ねた。
辛さと熱のせいか、特に意味も分からずただ口に運ぶという動作だけでクレイは身体が汗ばむのを感じた。
「中尉は―――」ぽつりと、隣に座っていた男がそう口にしたのは、クレイが辛さに負けて一端食べるのを止めた時だった。
「中尉は、最後はどうでしたか?」
口の中の煮えた米を飲み込む。顔色は窺い知れなかったが、その声色は奇妙だった。まるで自分に関係のないような、テレビの話を聞いているような平然さを感じさせた。だが、それは決して素っ気ないというわけではない。むしろその逆、その普段通りの声に、確かな切実さが含まれていた。
宇宙空間における戦闘の残酷なところは、死んだあとに何も残さないところにある。艦船はともかく、爆散した航空機やMSを回収するのはほぼ不可能といって良い。ましてビーム兵器でコクピットなどを貫かれれば、人間は髪の毛一本残さずこの世から蒸発する。ドッグタグなどつけていてもほとんど機能しないのだ。そんな過酷な戦場にあって、レコードが回収されなければその人間の死に際はほとんど葬られたと言って良い。
琳霞の機体はまだ回収されていない。畢竟、彼女の最後は喪いのである―――ただ、その撃破された機体と通信を行った別の機体の通信記録を例外にして。だが、どちらにせよ機密レベルの高いクレイの部隊の情報を他部隊、それもジオン共和国の人間は閲覧できないのだ。
故に、この彼女の部下の男はクレイに語りを期待している―――理解し、クレイは唇を噛んだ。
戦闘が終わってどれほどだろう―――1月経ったか、どうか。たかだかそれだけの時間の経過で、クレイは彼女の顔がどんなだったか思い出せないようになっていた。声色もなんだか不明瞭だ。
「任務だから、と言っていました」再び、クレイは麻婆豆腐を天上に掲げた米へとスプーンを突き刺した。
「中尉は、俺の任務は―――義務は俺の機体を持ち帰ることだ、だから早く逃げろって。自分の任務はお前を守ることだからって―――」
そして、死んだ。
麻婆の辛さは相変わらずで身体中がかっかする。焼き餃子なるものも初めて食べたが、薬味の独特な風味と共にタレが辛い。
だというのに心が冷たい。ただ冷静に、自分で語った出来事を系列として冷たく眺める差延が確かに働いている。
そうですか、と応えた男の声を聞いて、クレイは吃驚した。その男の声は、切実さというよりももっと軽さを持っていて、ともすれば微笑でも浮かべているのだろうと錯覚するような声だったからだ。そして、事実その男は微笑―――納得気なような、呆れたような親しげな微笑を湛えていた。
「あーいや、失礼。中尉らしいな、と思いましてね」
「中尉らしい?」
「ええ、中尉はああ見えて結構お堅い人でして。任務がーとか、軍人としての義務がーとか言う人だったんです。規律第一っていうんですかね、俺たちの世代でそう真面目に考えてる人なんていませんでしたから、本当にこういう人居るんだなと思いましたよ」
懐かしむように、男が言う。
彼女の声は遥かな遠雷のように頭の中で木霊する。機内カメラに投影された彼女の顔が朧に甦る。
それが私のやらなきゃいけない責務―――それは、いつ言った言葉だっただろう。不意に頭の奥底、記憶野から染み出してきた言葉がじっとりと前頭葉に浸透していく。
熱いな、と思う。もう気候は夏季をとっくに過ぎているのに、心臓にどろっとした溶岩でも流し込まれているように熱い。せっせと動く炉心の活動のせいだろう、身体中から汗が噴き出てくる。頭からも、咽喉元からも、腋からも、背中からも、胸からも、股関節からも、目からもよくわからない、汚れたタオルから絞ったような液が流れていた。
相変わらずクレイの感情も悟性も素っ気ないが、別にいいのだろう。〈感情〉は今まさに感じている感情に還元され得るものでもなければ、知性も全てが自分の統治のもとにあるのではないのだから。
きっと、身体が理解している。だから、クレイは身体中から液体を流しながら、もくもくと麻婆豆腐を口に入れ、男の語りに耳を傾けた。
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