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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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65話

 クレイ・ハイデガーの人生の記憶というものを形容詞的に表現するならば、それは黴臭そうなと言えるかもしれない。
 彼の人生の端緒は一年戦争終結から1年と経たない年、UC.0080年の、9歳か10歳ころの記憶から始まる。当時としては地球上でも各コロニーでもごろごろ居た戦災孤児のうちの取るに足らない1例でしかなかった少年は、地球連邦軍に所属するとある女性に引き取られたことがその人生の開闢で、少年の記憶もまたその瞬間から開始されたといっていい。
 ここで、幻想的な原初の記憶から始まり、どこか意味深い物語の開始を暗示する―――などということは無い。名無しの少年の最初の記憶は孤児院に居た綺麗なお姉さんの大きくはないが柔らかそうなおっぱいだった。母親だった人の印象も、綺麗な人だなぁというなんとも俗物な考えでしかなかった。
 その綺麗な女の人は、独り身だった。正確には、一年戦争の折に戦死した夫が居たらしい。彼女がクレイを引き取った理由は、ただ子供が欲しかったからだった。じゃあもっと小さな子供を引き取ればいいのに、と思ったが、彼女曰く、自分は夫にほんのちょっとだけ似ていたからだ―――と言っていた気がする。
 女の人は、家に訪れた人によればとても腕のいいMSと呼ばれる兵器のパイロットらしかったし、事実そうだった。頭もよく、連邦政府の偉い人と懇意にしたりもしていた。優秀な人だったのである。
 そんな養母に対し、少年は、言ってしまえば平凡な能力しかなかった。スクールの成績は下から数えたほうが早かったし、運動能力はやや高かった程度だった。顔も凡庸の一言で、身長はまあ―――普通よりちょっと高いくらいの話だ。重ねて言うが、畢竟して彼は凡夫だったのである。
 当初はそれでも別に気になどしなかった。周りと同じ水平に並んでいても、特に支障は無かったのである。
 問題が生じたのはジュニア・ハイ・スクールに入ってからだった。彼は、異性という存在に初めて固有の重力磁場が備わっていることを理解したのである。
 少女に愛されるにはどうしたものか。水平的な人間では、自分を選んでくれる必然性が無い。理由がない。彼が有していた評価は概して優しいだけであり、その評価は、言ってしまえば取り得の無い人間に対して、周囲の人間がなんとか取り繕うために苦肉の策として考慮された思慮深いく、優しい、死刑宣告なのである。
 己のあまりに水平的な存在様態、それは己の存在根拠の貧困をありありと突きつけた。
 だから、彼は何か人より超えようとした。人より何かが出来れば、自分は誰かから注目を浴びるということであり、注目を浴びるポイントはすぐさま自分を売り出すセールスポイントへと転換し得る。酷く打算的であるが、合理的には間違ってはいないように思われた。
 ―――幾許かの論理の飛躍をしながらも、彼が選んだ水平の突破、己の実存の獲得の術は「努力」という行為だった。何のことは無い、世間ではその努力という行為が称賛されていたし、それを馬鹿正直に鵜呑みにしただけだった。そして、そもそも何かを超えるためには努力と言う行為が不可分であるからに、まずその行為に全霊を賭して取り組まねばならないという推論を行ったのである。
 これは結果として――――だが、彼が理想のモデルとしたのは所謂ルネサンス的な万能人だった。だから彼は毎日身体を酷使し鍛えることにしながらも、それと同じ―――それ以上に勉強という行為、道徳とは何かという堅苦しいことにも死にもの狂いで没頭しなければならなかった。周囲のクソガキ供の反社会的行為には侮蔑しか抱かなかったし、大人の達観は短慮だとしか思わなかった。周囲で唯一嫌悪感を抱かせなかったのは母親と自宅に訪れる、思慮深い大人たちだった。そんなこんなで、全き憎悪だけで己に鞭打っていた彼は、10代前半にして彼の睡眠時間は既に6時間あれば惰眠を貪ったと己を責めるほどになっていた。身体が故障しなかったのは、身体が結構頑丈だったというだけのことだ。
 悲しむべきことがあるとするならば、まず、彼の努力を肯定してくれる存在が身近に居なかったことであろう。当たり前だが、人は自分一人だけで自分を肯定できる存在ではない。その端緒は、親密な他者からの無条件の肯定によって―――世間ではそれを愛、というように表現される。より広範には、見られ、受け止められるということだ―――己の存在の安定を知り、あとは自然と自己を肯定できるようになっていくのである。
 残念なことに、彼の母親は多忙な身で息子に構う暇がなかった。近所の人が家事の手伝いに来てくれたりもしたが、そうした他者に対して彼は己の秘奥を見せることはしなかった。
 もう一点、こと恋愛について限れば、彼の選択がそもそもミスだった。
 恋愛には恋愛の力学がある。その固有の運動に対して、彼が重んじたのは公的な測定基準だった。彼は、教室で華やかな男女が会話するその端の方で、ただ一心不乱に己の内面と実在的な道徳はあるのか、仮に無かったとしたらどのような悲惨が起きるのか、あるいは起きないのかという果てのない無謀な格闘を繰り広げ、体育の授業ではふざけ合っている少年少女の隣でただ巌のような顔つきで己の身体の優位性を誇示しようと足掻いていたのである。
 そして最後に、彼が不運だったのは彼自身に相対性を覆す才能が無かったことである。彼がどれほど努力しようとも、彼の上には常に人が居た。スペシャリストを志しながらゼネラリストでもあろうとした彼は、畢竟スペシャリストには敵うはずもないのである。
 まだなんだ、と彼は思った。自分は努力をしていない、足りてない、だから自分の上には誰かが居る。才能のある、誰かが居る。その誰かのせいで、自分を注視してくれる人が居ない―――。
 彼の行動理念は最早怨嗟の域に届いていた。己の貧弱さと上の人間へのルサンチマンを糧にして、ただひたすらに己という世界卵を破壊し、雄々しきハイタカへと成ろうともがいていた。
 結局、彼は片手で数えられるかられないか、というくらい異性に振られ続けた。時にストーカーまがいの行為にまで及び、彼は世界から存在価値を拒否されているという誇大妄想な現実に敗北し続けた。そしてその度に、自分はこの世界に居て良いんだという単純な意義を見出すために、逆説的だが取りあえず自分を殺すことにしたのである。
 ハイスクール時代も、青春などというきらきらした言葉に憧れを抱く感覚すら持つことが出来ずに過ぎていき、気が付けば大きな人生の岐路に立っていた。
 数ある選択肢の中で、彼が選んだ将来は軍人だった。義務感、と言ってしまえばその通りだ。彼の行動理念がなんであろうと、自己教育の結果彼の理法たる善への意思が彼を支配していたからである。MSパイロットになったのは、それなりの適性というだけだ。あとはMSパイロットという高度な知性を要求される都合、彼の理性の存在は適応的だったのである。
 士官学校時代は、ただひたすらに規則に支配されながらも、その少ない間隙を縫うようにして思想に没入していた。相変わらず、彼は孤独な戦いを人知れず繰り広げていたのである。『1』という数字の孤独と恐怖にもがきながら、『多』の隣で独り静かに血を流していた。
 士官学校を卒業すると同時に教導隊に入ったという事実は、彼にとって報いだった。それは精鋭であることの証であり誇りである。彼自身もそれを強く自負とした。だが、言ってしまえばそれのためにほかの人生全てを毀したのである。
 23年、そんな人生。仮に比喩的に人生を道と考えるならば、彼の道は常に工事され真新しい舗装の道路だった。ただそこを歩む人は無く、足跡一つついていない道路のくせに欠陥を見出しては常に道路を舗装し続ける。孤独と言えば孤独な道なのかもしれないし、孤独であることは悲しいことだ。一人でいることと、独りでいることは類似性に富んだ言葉で近似したスペクトラム上に存在する言葉だろうが、その言葉の意味には微妙な差異がある。
 だが、振り返ってみれば綺麗な道だなぁ、と思う。ちょっとだけ満足いかないところもあるけれど、隣の道は華やかに飾られていて羨ましくて、自分の道路の設計図は間違えたかなーなんて思うけれど。
だが、これはこれで、いいのだろう。孤独ではあってもそれは絶対の孤独だったわけではない。どこかの道と交わろうと思えばつながったし、そしてまた彼は進んで孤独から抜け出しては、また進んで一人へと還って行った。己に主体性があるという自己効力感は、常に感じていた。善い人生とは、主体性が実体的か非実体的かの次元の話ではないのであろう。
 まぁそういう理屈は、ともかく。
 もっと単純に考えることもできる。
 だってほら、道路の先に目を向ければ―――。
 ※
 意識は、クリアだった。
 浅い眠りと覚醒を繰り返すこと何度目か、疲れたと文句を言うように欠伸がせり上がってきたが、脳みその方はまだクレイの身体を明瞭な意識の統括のもとに置いておきたいらしい―――。
 クレイは、やや輪郭がぼやけながらも普段通りの明晰さの意識の中で、眼前の物体に顔を埋めた。
 擽るようなチクチクするような銀髪の感触に、煽情的鎮静的なその彼女の薫り。背後からエレアの身体を抱くようにしながら、クレイは彼女の後頭部から項に顔を当てる。
 彼女の柔らかいお腹に当てた両手のうち右手を脇腹の方へ回して、そして下半身へ。臀部の感触を肌に触れさせ、そして大腿部に忍ばせていく。
 彼女の白い太股を幻視する。一見蝋か瀬戸物にでも見える無機物的な白さの肌のすぐ下を網目のように奔る蒼い血管。どろりとした熱の液を運ぶ器官、生命の鼓動の管。まるで血管の1本1本を愛しく思うように、指の腹を微かに触れさせて彼女の足の肉の柔らかさを蝕知し、そうして内腿へと這わせながら手のひら全体で掌握の挙動を取り―――。
 クレイは、なんとも言えない溜息を吐いた。彼女の下半身に浸透していた手も、お腹を抱いていた手も退け、彼女の髪に埋めていた顔も離すと、音も無く素早く上半身だけを起こした。
 そのまま営みを継続させるには、彼の意識ははっきりしすぎていた。ぐしゃりと髪の毛を掻き毟り、殺しきれない奇妙な気恥ずかしさが頬を緩ませ、クレイは何も言わずに天井を見上げた。そして、首に手を当てて、 壁に身体を寄りかからせる。ひんやりとした感触が、火照った身体に丁度良かった。
 枕元の時計を視線だけの一瞥で見る。消灯時間は当に過ぎ、もう起床時間まで数時間ほどしかない。睡眠を取るのが最も賢明な判断だとはわかっていたが、眠れないのはしょうがない。
 取りあえず、クレイは起きることにした。無為な時間の消費は、やはり気質に合わないのだ。
 ベッドからそろそろと抜ける。汗のせいで着るに絶えないシャツを脱ぎ、代えを着る。1人用のベッドに2人で寝ているのだから熱いのは当たり前だが、それにしたって最近熱いと思う。気候的にはもうあと1か月もすれば雪が降るらしいのだが―――。
 乾燥した服を着て、ぽつんと突っ立ってみれば少しは涼しい。理性はなおのこと冷え冷えしていき、身体は嘘のように重力を感じない。かといって地についていないわけでもなく、彼は確かに大地の存在を感じていた。
 己の為すこと。靄の晴れた意識は、それがなんであるかを把握していた。
 カラーボックスから分厚い文庫本を抜き取り、それをデスクに置きながら椅子に座る。
 デスクの端で、途中で首を折ったデスクライトのスイッチを入れる、光量をライトと首の間ほどにある絞りで最低限にし、台座部分のボタンを押せば、どこか神経質そうな白い光がデスクを照らし、瞬間明順応しきれなかった虹彩が多量の光を眼球の中に導き、思わず目を細める。
 背もたれに体重をかけながら、クレイはその分厚いながらも片手で持てるそのなんだか珍妙な本をぱらぱらとめくり始める。大分読み始めたはずなのに一向に読み終わらない本。流石にそうちゃっちゃと読み進められるわけもないか、といつも通りに思いながら、クレイはその本の最初のページを開いた。
 比較的大柄な身体を丸め、食い入るように文字に目を走らせるその読み方で、今までよく視力が落ちなかったものである。MSパイロットに要求される水準を超え、彼の視力は両目とも裸眼で2.0を超えていた。
 どれほど時間が経ったか。かさかさと布の擦れる音が耳朶を打ち、クレイは文字列から顔を離した。
 回転式の椅子をくるりと回し、デスクと反対側に視線をやれば、ちょうど紅い目がこちらを注視していた。
「起きてたの?」
 椅子から立ち上がる。微かにエレアは身動ぎして身体を起こそうとしたが、そうしなかった。代わりに、ふぁあと欠伸をして、眠たそうな顔をした。
 子どもはもう、寝る時間だな―――などと思っていると、エレアは少しだけむくれたような表情をした。
「子どもじゃないもん。わたしだってもう、大人なんだから」
「よくわかったね」
「だって年寄りみたいな顔してるんだもん。すぐ寿命で死んじゃいそうな顔」
 むー、と口を堅く結ぶ。そういう無邪気な仕草があどけないのだが、まぁ、美徳であろう。
 寝転がったままの彼女の隣に腰を下ろす。
 特に交わすべき会話も無い。互いの器質が鳴らす小さな霊魂の音だけが部屋を満たしていく。
「ねぇ」
「なにか」
 疑問に対しての答えは無い。ただその粘着質のその空気感で、何を言わんとしているのかは自然と知れた。
 彼女は素直すぎる。頬が変に緩むのがなんとなく癪で、クレイはエレアの頭をぐしゃぐしゃに掻き毟った。
 きゃっきゃと一頻り騒いだ後、エレアは頭に乗せられた手を取る。
「今度休みが一緒の日があるんだけどさ、暇だったりするかな。街に行こうかなって」
「暇じゃなくても暇にする」
 うん、と肯く彼女は嬉しそうに笑みを浮かべる。
 思えば、エレアとそういう関係になってどれほど経ったか―――その間、彼女と過ごした時間は左程濃かったわけでもない。2人で街に行くなど数か月ぶりだった。
 いくらなんでもそれはどうよ、とは思う。しかも毎回エレアが行こうと言って、クレイはただそれについていくだけというのも非常に不味い。
ここは―――。
「あーそうだな、街もいいんだけどさ」
 「?」エレアが小首を傾げる。
「まぁすぐにってわけじゃないんだけど、どっか遠くに行ってみないか?」
「遠くって?」
「地球とかかな。俺もまだ一度も行ったことは無いんだ」
 地球、と応えたのはただの思い付きだった。別に地球に思い入れがあるわけでもない。ただ遠いところ、と言ってスペースノイドが思いつくのが地球だったというだけである。今では環境保護だなんだといってスペースノイドが地球に降りることはそれなりに制限がかかっているが、クレイの親と本人の社会的地位を考慮すれば地球降下は多分できるだろう。特権なんて使ってなんぼのもんである
 エレアはうーんと唸って、「地球には海があるんだよね」と疑問を口にした。
「もちろんあるよ―――って海に行きたいの?」
 元気よく首を縦に振る。肯定。
 海―――蛇に噛まれた思い出を惹起させながらも、クレイは笑みで肯定した。引きつった顔にはなってない筈である。
「じゃあ約束ね、今度ちきゅーに行くって」
 言いながら、エレアが手を掲げる。握りこみながら、何故か小指をひょこりと突き出させ、その先をクレイへと向けた。
「なにこれ?」
「ゆびきり。約束するとき日本でやるんだって」
 へぇ、と自分の知らない文化に感心しながらクレイも同じように手を握み、小指だけを立たせた。
 小指をフックのように曲げると、小指同士を絡ませる。
「ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのーます」
 まるで呪文でも唱えるように言うエレアの日本語のイントネーションは、なんだか奇妙だった。
 ぶんぶんと手を振った後、ゆびきった、の掛け声とともに小指を離す。これで契約完了、ということなのだろう。えへへー、と満足そうにエレアは笑っていた。
 小指を立たせたまま、少しだけ感じる名残惜しさを飲み下した。
 地球に行くともなればそれなりに手続が必要になる。試験武装の運用試験の後ともなれば2年ほどは先だろうけれど、政府高官でもない人間の地球降下にはそれくらい前もって準備しておく必要がある。取りあえず、近いうちに母親にでも連絡を入れておこうかしら―――?
 くいくいと腕を引っ張られる感触に、思案から顔を上げると、彼女の瞳が真っ直ぐにクレイを見つめた。
 紅い瞳。あまりに純粋な色、不純物など含んでいない綺麗な硝子玉のように澄んだ瞳―――。
「今わかったことなんだけどね」彼女は、そのあどけない見た目通りの無垢な笑みを感情に満たした。
「やっぱり、わたし、クレイのこと好きなんだなって」
 まるで水でも飲むように、彼女が声を出す。表情はいつも通りで、声もまるでいつも通りで。感情を生に、そして直接的に言うのがエレアという少女だった。
 だからだろう。クレイ・ハイデガーは、薄暗がりの彼女の声が、少しだけ―――ほんの、少しだけ、濡れていたことに、気づかなかった。 
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