黒魔術師松本沙耶香 客船篇
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13部分:第十三章
第十三章
そしてその言葉でだ。彼は沙耶香に対して話を続ける。
「ですが私は今ここにいます」
「どうしてなのかしら」
「家の、一族の者に言われまして」
「一族のね」
「はい、この船の客には妻と二人で予約を取っていました」
そうだったというのだ。このこともここで話す彼だった。
「ですが生死の境を彷徨っている妻の傍を離れることは嫌だったのですが」
「それで何故ここにいるのかしら」
「その一族の者に無理に言われまして」
だからだというのだった。
「それでなのです」
「それは何故かわかるのかしら」
「わかりません」
今度は首を横に振っての言葉だった。
「私にはそれは何故か」
「そう、わからないのね」
「とにかくここには行くように無理に言われまして」
「それで今ここにいる」
「妻は今にも死ぬかも知れません」
また沈痛な声を出した彼だった。
「本当にです」
「不安なのね」
「はい、不安で仕方ありません」
このことも言葉に出すのだった。不安そのものが具現化した言葉だった。
「どうしてもここにはいたくないのに」
「けれど言われて」
「本当に。妻は」
「場所を変えようかしら」
ここで沙耶香はこう言ってきたのだった。
「それじゃあ」
「場所をですか」
「ええ、場所をね」
変えるというのだ。彼女はだ。
「変えましょう」
「何処にですか?」
「外よ」
含むものを隠した言葉であった。
「外でね」
「外にですか」
「中にばかりいてもよくないわ」
そしてこうしたことも言うのだった。
「だからね。今はここを出ましょう」
「そうですか」
「もっともそれが嫌ならいいけれど」
「いえ」
しかしであった。彼も思うところができたのか沙耶香のその提案に頷いたのである。そしてそのうえで静かに述べてきたのである。
「わかりました」
「それではいいのね」
「外ですね」
今度は問うた。沙耶香に対してだ。
「外に行けばですね」
「そうよ。そこよ」
やはりそこなのだという。沙耶香の言葉は動かなかった。このことについてはだ。
「外よ。いいわね」
「わかりました」
男は沙耶香の言葉に頷いてであった。そのうえで席を立った。
沙耶香もそれに続く。二人は勘定を済ませてそのうえでまずはバーを出た。そうしてそのうえで客船の中から外に出るのであった。向かうのは甲板であった。
甲板の縁に向かう。案内をするのは沙耶香であった。夜の星達が二人を照らしていた。
沙耶香はスーツで男はタキシードである。その夜の闇に隠れる服をそれぞれ着てであった。まずは沙耶香が言ってきたのである。
「それでだけれど」
「先程の話の続きですね」
「ええ。それで奥さんのことが心配で仕方ないのね」
「今ここにいていいのでしょうか」
沙耶香は甲板のその縁に背をもたれかけさせた。両肘もそこにかける。そのうえでゆっくりとした姿勢になって男の話を聞く態度になった。
男はその横に来て海の方に身体を乗り出す姿勢で縁に両肘をついた。二人の影はそのまま海面に映っていた。客船の大きな影の下にぽつりとである。
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