黒魔術師松本沙耶香 客船篇
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12部分:第十二章
第十二章
「それではですね」
「どういった話なのかしら」
「個人的な話です」
これは前置きであった。それからまた言うのだった。
「あくまで個人的な話ですが」
「そう、個人的なね」
「私には友人がいました」
言葉は過去形だった。そこからはじまる話だった。
「いい奴でした」
「親友だったのね」
「はい」
「大切だったのね」
話を聞きながら今はカクテルを頼んだ。頼んだのはアドニス=カクテルである。ギリシア神話に出て来る絶世の美少年の名前を関したそれはシェリーとイタリアン=ベルモットを組み合わせたものである。その濃い、黒に近い赤のカクテルを頼んだのだ。
そしてそれを右手に持ちながらだ。彼の話を聞くのである。
「その人が」
「いい奴でした」
また言う彼だった。
「ずっと。子供の頃から」
「幼馴染みでもあったのね」
「その通りです。ずっといい奴でした」
「そう、ずっとね」
「一緒にいて。いつも助けてもらって」
そのことを話していくのだった。だが語るその顔には懐かしさよりも苦さ、それに悲しさがあった。その二つの感情に支配されながら語っていた。
「そんな奴でした」
「本当に大切だったのね」
「今もそう思っています」
そしてそれは過去だけではなく現在もだという。そう語っていくのだった。
「ですが」
「ですが?」
「あいつは死にました」
こう言うのだった。話は本題に入った。
「もうこの世にはいません」
「そうなの」
「呆気ものですね」
それは人の死を語る言葉だった。その言葉をここで出したということが何よりの証だった。それは沙耶香も話の最初でわかった。だがそれはあえて言わずに彼の話を聞くのに徹したのである。それが一番だということもわかっていたからだ。
「事故でね。病院に行った時には既に」
「全てが終わっていたのね」
「手遅れでした」
そうだったというのだ。深く沈んだ声での言葉だった。
「何もかも」
「それでどうなったのかしら」
「私に言ってきました。これは申し遅れたことですが」
また話に前置きが入ったのだった。それは何かというとである。
「私は彼の姉と長い間交際していました」
「お姉さんとね」
「彼女とも幼い頃からでして。本当に子供の頃から長い間一緒にいて。そんな関係でした」
「そしてその人はどうなったのかしら」
「彼は言いました」
ここで話が戻った。その親友のことにだ。
「姉を頼むと。自分の分まで」
「貴方に託してくれたのね」
「それが彼の最後の願いでした。それを私に告げてこの世を去りました」
「そうだったの」
「それで私は彼女と結婚しました」
そうしたというのだ。それでだ。
「それが私の今の妻です」
「成程ね」
「ですが」
しかしなのだった。ここで言葉がまた暗鬱なものになった。その言葉と共に彼はまた話すのだった。
「妻は今ここにはいません」
「どうしたの?」
「妻もまた事故に遭ったのです」
声には無念なものが宿っていた。その言葉と共に話したのである。
「一週間前に」
「それで奥さんは無事なの?」
「今も生死の境を彷徨っています」
そうなっていると話す。話すその言葉は沈痛な響きの中にある。その響きの中でさらに話すのだった。話すだけでも辛く苦しい、彼の今の心理もそのまま透けて出てしまっている、まさにそんな言葉であった。
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