黒魔術師松本沙耶香 客船篇
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14部分:第十四章
第十四章
だが男は今は海面を見ていなかった。陸の方を見ていた。そこには東京の夜景があった。永遠の魔都のその光をである。
その光を虚ろに見ながらである。男は沙耶香に対して言うのであった。
「どうしてだと思います?」
「どうしてとは?」
「いえ、何故私を無理にここに来させたのでしょうか」
不安と絶望に満ちた顔を沙耶香に向けての言葉だった。
「それは一体何故なのでしょうか」
「それはね」
「おわかりになられるのですか?」
「ええ、わかるわ」
その言葉と共にであった。沙耶香の方を見ている彼は気付かなかった。彼の影から何かが出て来た。それは不気味に蠢く、蛇に無数の触手が生えた様なそうしたものだった。それが彼の影から出て来たのである。
そして沙耶香の影は彼女が動いていないのに自然に動いていた。その右手に何か剣を出しそのうえでだ。男の影から出て来た禍々しいものと闘いはじめたのだ。
しかし沙耶香はそれを見ていない。その闘いが映る海面には背を向けたままである。そのうえで男に対して言ってきていたのである。
「よくね」
「よく、ですか」
「それは貴方も奥さんも救われる為によ」
「私も妻もですか」
「そうよ。人は気付かれないうちに」
沙耶香は言うのだった。その間にふと左手を軽く自分の顔にやった。そこに黒い輪、チャクラムに似たものを出していた。だが闇の中に沈んでいるそれは男の目には見えないものだった。
そのチャクラムを人差し指だけで後ろに投げる。それは彼女自身の影に変わっていきそのまま飛んでいくのであった。魔都の中に。
その素振りを一切気付かせないままだ。沙耶香は男に対してさらに言うのであった。
「因果の中にいたりするものよ」
「因果のですか」
「そうよ。自分でも気付かないうちにね」
静かにこう語ったのである。
「まずは貴方は」
「私はですか」
「失う因果の中にいるわね」
それが彼の因果だと告げたのである。
「どうやらね」
「失う因果をですか」
「まずはそのお友達ね」
最初に話に出したのは彼だった。
「大切に思っていたのよね」
「はい、何よりもです」
彼は沙耶香に答え続けていた。やはり彼女が闇の輪を飛ばしたことには気付いていない。
「あいつは本当に」
「けれど失ってしまったわね」
「それが私の因果なのね」
「そういうことよ」
「では妻は」
沙耶香は今ここでは彼の問いに答えなかった。そのかわりにこう言ってきたのである。今度の言葉はというとだ。
「そして貴方のそのお友達も奥さんも」
「妻もまた、ですか」
「因果の中にあるわ。それはね」
「はい、その因果は」
「悲しみを与える因果よ」
それが彼女の妻の因果だと話すのである。
「それがなのよ」
「それが妻の因果ですか」
「そうよ。お友達は死んだことによって貴方に悲しみを与え」
それこそが悲しみを与えるということなのだというのだ。
「そして奥さんもまた」
「それなら」
「安心して」
その話の最中にも沙耶香の影とその異形の影の闘いは続いていた。沙耶香の影は剣を振るっている。そうしてその異形の影を次第に追い詰めていた。
その闘いの中でだ。沙耶香はまた言うのであった。
「因果というものはね」
「因果は」
「断ち切られるものなのよ」
そういうものだと教えるのだった。
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