藤崎京之介怪異譚
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case.4 「静謐の檻」
Ⅰ 6.27.PM2:14
俺達は依頼人の住む街、此花市へと来ていた。
内陸で海は無いが、中程の澄んだ河が流れており、木々は陽射しを受けてその葉を深い緑へと色を濃くしていた。此花市へ着いた時、俺達はその生命力の美しさに感銘を受けていたのだった。
さて、俺達は計四台のバスで依頼人が用意してくれた旅館へと入った。旅館と言うより寧ろ、高級ホテルと言っても良かった…。
「いらっしゃいませ。遠い所を、よくお越し下さいました。私が山之内洋子に御座います。先ずは中へお入り下さいませ。皆様さぞお疲れのことと思いますので、直ぐにお部屋へとご案内させて頂きます。一先ずは、ゆっくりとおくつろぎ下さいませ。」
この山之内洋子と言う人物、どうやらここの女将も兼任しているようだ…。こうしてみると、会社社長よりもしっくりくる気がするが、それでいて大会社を切り盛りしてるんだからなぁ…本当に不思議だと思う。
ま、現代社会において、こういった女性社長は多い。いや、女性だからこそ出来ると言った方が良いかも知れないな。俺はそんな風に考えながら、山之内氏に案内されて皆と部屋へ向かったのだった。
「藤崎先生はこちらへどうぞ…。」
山之内氏は、どうやら俺だけ別室を用意してくれたらしい。まぁ、そうした方が打ち合わせなんかをしやすい様にとの配慮なのだろうが。
俺が案内されたのは最上階だった。
「こんな高そうな部屋…良いんですか?」
部屋には大きな窓があり、そこから景色が一望出来るようになっていた。俺は何だか気が引けて山之内氏に聞いてみたが、彼女は笑ってこう返した。
「ご心配には及びません。今は観光シーズンから外れておりますし、それに、先生がお考え下さっているような高い部屋では御座いませんので。」
そうは言っても、こちらは万年貧乏人だ。確かに、依頼人である山之内氏が用意してくれた部屋に、俺がどうこう言うのは筋違いなんだが…。これも性分ってやつだな。
そうして山之内氏は部屋の説明を粗方終わらせると、少しだけ不安気な表情を見せて俺に言った。
「藤崎先生…。大変申し訳ないのですが、後程ご案内したい所が御座います。夕食の後に、少々お時間頂けませんでしょうか?」
まぁ…何かあるとは考えていたが、恐らくは副業の方の話になるんだろうな…。全く、誰に聞いたんだか。最近はこんなのばかり舞い込んでくる…。別に経費さえしっかり支払ってくれさえすれば文句はないが、本当は音楽だけに専念したいんだがな…。
「分かりました。三十分程でしたら大丈夫ですので。その後は翌日からのスケジュール調整もあるので。」
「それで充分で御座います。では、これで失礼致します。」
山之内氏はそう言って頭を下げると、そのまま部屋を出ていったのだった。
確かに、ここは近代的な旅館だ。しかし、ある意味古めかしい雰囲気が全体を覆っているようにも感じていた。それが何なのかは分からない。恐らく、この後に分かることなんだろうが、あまり良い感じがするものじゃなかった。
「失礼します。」
俺が窓から景色をぼんやり眺めて考えていると、ノックの音と共にドアが開き、室内へと田邊が姿を現した。
「よくここが分かったな…。」
ここは団員達とは違う階だ。他にも幾つか部屋があるのだが…。
「仲居さんに聞きました。それで先生、この後のスケジュールなんですが、夕食前に打ち合わせをしておきたいんですが。」
俺は少し考えた。まだ三時前で、本当は四時前後の到着予定だったのだ。ここでさっさと打ち合わせを済ませれば、後は明日まで全員自由になる。
「そうだな…。それじゃ悪いが、各パートの連絡員を呼んでくれ。他の団員は、ミーティングが終わるまで待機だ。」
田邊はそう聞くと、直ぐ様「分かりました。」と答えて飛び出して行ってしまった。田邊のやつ…自分がフリーになりたかっただけじゃないのか?それから数分後、俺の部屋に十人程が集まり、直ぐに打ち合わせが始まった。まぁ、打ち合わせとは言っても、どこで何を練習させ、どこまでで全体を合わせるかが主に決めなきゃならないけとだ。細かい楽譜上の指示は、全体練習か俺が回って指示しまくるしかないからなぁ…。
「しかし、藤崎先生?我々通奏低音群は一部にソロもありますし…単独練習は厳しいかと。」
「真中君。それは分かってるんだけど、パート練習の場所が思ったより狭くてねぇ…。旧ホールの方で練習するから、最初はどうしても単独練習しかないんだ。」
練習は取り壊し間近の旧ホールで行うことになっている。こともあろうにこの旧ホール、オーケストラのパート練習が出来るような設計にはなってなった。どうやら、出来上がっているものをそのまま演奏するためだけに作られたらしい…。
何せ…ホール以外は、控え室と他5つの小部屋があるだけなのだ。
ホール自体は大小二つあるんだが、小ホールは只今使用禁止。古いため一部の床が抜けているのだそうで、とても使い物にはならんのだと…。大ホールは以前に修復工事をして床などを張り直したため、こちらは充分使用可能だそうだが…。
そのため、最初だけ各パートは五つの小部屋(一部は倉庫だったようだが)で練習するしかなかった。取り敢えず防音にはなっているようだが…まぁ、文句は言えないか。
「でも…コーラスはどうするんですか?旧ホールじゃ、とてもパート練習は出来ませんよね?」
田邊が心配そうに聞いてきた。そんな田邊に、俺は一つの提案をした。
山之内氏に言われたことなんだが、この旅館の裏手に、現在では使用してない旧館がある。山之内氏は、良ければその旧館を使っても良いと言ってくれていたのだ。確かに、そこは音楽専用に建てられた訳じゃないが、背に腹はかえられないからな。
「そうですね…。音程だけを拾うのであれば、それで充分ですから。まぁ、鍵盤一台持ち込まないとダメですけど…。」
「ま、それは俺のチェンバロを入れるさ。コーラスとオケは交互に場所を変えようと思ってるし、どうにかなるだろう。」
俺がそう言うと、その場にいた全員が頭を縦に振って肯定の意思を見せたので、この打ち合わせはそれで終了となった。
外は相変わらずの青空だ。しかし、この胸に掛かる霧の様なものは何なんだ?俺はそれを考えつつ、自らも部屋を後にした。
その感覚は何であるのか?それは、さして時を経ずして明らかになるのだった。
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