藤崎京之介怪異譚
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case.4 「静謐の檻」
0 5.8.AM9:23~ prologue~
ある朝、家のポストを見ると、一通の手紙が入っていた。差出人の名に心当たりはなく、仕事の依頼かと期待して封を開けた。
正直な話、ここ最近まともな演奏活動をやっていないため、今だったらどんな仕事でも受けてしまいそうだ…。大学講師の給料じゃ、楽器を手入れするだけで吹き飛んでしまうからなぁ…。
ま、入院していた自分が悪いんだが、やはりたまには大きなホールで演奏したいもんだ。小ホールで数人相手に鍵盤を叩くのは性に合わない。
「さてと…割の良い仕事でもきてるか…。」
俺はそう言って封筒から中身を出すと、そこには数枚の便箋と二枚の小切手が同封されていた。
その小切手には数字が入っていたが、俺はその数字を何気無くみて…桁を何度も数え直してしまった。
「五百万が…二枚って…。」
一千万だ…。俺は慌てて手紙の方へ目を通すと、そこには美しい字で理由が書かれていた。どうやら送り主の地元で完成間近な演奏会用ホールがあるらしく、そこの柿落としを僕に依頼したいようだった。それだけでなく、古くなった旧ホールを解体する前にもそのホールで演奏会を開いてほしいとのことで小切手が二枚…。
各七日間ずつ演奏会を開いてほしいらしく、それでこの金額になったようだ。手紙には希望プログラムがあり、大半はバッハを中心としたバロック音楽で、これで僕に仕事が回ってきたのだと納得した。有名な指揮者や演奏団体を二週間も拘束すれば、この金額では難しい。
要は諸費用がかさむからなんだがな…。俺ならばこの金額でお釣りがくるわけで。ま、中三日は室内楽かソロでやらないと無理だが、それすら折り込み済みのプログラムだった。
「しかしなぁ…。柿落とし初日に…バッハのマタイねぇ…。」
柿落としに多いのは、ベートーヴェンの「第九」やヘンデルの「メサイア」なんかだ。ま、それは国内でのことで海外では無論違うが…。にしても、重い受難曲を選曲するなんてなぁ…。
俺はこの仕事の裏に、絶対なにかあるように思えて仕方なかったが、こんな旨い仕事を蹴るほど俺は金持ちじゃない。そのため、俺は何があろうとこの依頼を受けることに決めたのだった。
その日の午後、講義の後に俺は楽団員を集め、皆に依頼のことを告げた。それを聞くや、皆はやる気全開で二つ返事だった。
「久しぶりにまともな演奏が出来る!」
俺は楽団員達の正直な言葉に、胸が抉られるかと思った…。ここ数ヶ月、俺達に出演依頼は全く無かったのだ。俺が入院していたのもあるが、そんな真っ正直に言葉にしなくとも…。
「先生。復帰してから初の仕事で、これだけの大曲を連発するんです。大丈夫ですか?」
騒いでる楽団員を背に、田邊が聞いてきた。
「大丈夫も何も…。俺は退院して、もう一月以上経つんだ。これで出来ない程、俺の体力は衰えてないさ。」
そう言って俺は苦笑したのだった。
まだ依頼人について話してなかったな。依頼人は、此花市と言うところで会社を経営している社長で、名を山之内洋子と言う。山之内氏は数年前に主人を亡くされたためその後を引き継いだのだそうで、その山之内氏の会社が出資して建てたのが、此花市音楽ホールということだ。今は亡き夫が音楽好きで、山之内氏はそれを思いだして市にとある提案をした。
それは今ある旧いホールを解体して新しいホールを建てることで、資金の大半は山之内家が出すと言うもの。それも新ホールを建ててから旧ホールを取り壊し、その跡地には療養施設を建てるとか…。相当な資産家らしいな。まぁ、市も傍観しているわけには行かなかったのか、小切手の一枚は市からのもの…と言うことになっていた。実際はどうだか分からないがな。
「で、先生?その演奏会の予定は、一体いつなんですか?」
俺が考え事をしていたため、田邊は俺の顔を半眼で覗き込んで言った。見ると、楽団員達もこちらへと視線を集中させ、話が進むのを今か今かと待っていたのだった。
「あ…済まない。この予定は、六月下旬から七月にかけての話だ。向こうでの練習も含めて、約四週間近くの滞在になる。最初に言ったが、もう費用は受け取ってるから、途中で抜けられるのは困るんだ。」
俺がそこまで言うと、団員達は口を揃えて「大丈夫ですから次に!」と大合唱をかました。息が合うのも、過ぎたるはなんとやらだ…。そうして俺は、これからどう動くかを細かく説明したのだった。
「と言うわけで、コーラスはいつも通り田邊君に練習を任せる。僕が不在にするときは、オーケストラの練習をヴィオラの長橋君に任せることとする。言い忘れていたが、宿泊は依頼人が経営をしている旅館を用意してくれるそうだから、その点は心配無用だ。」
「以前、品川で泊まったようなとこじゃないですよね?」
そう心配そうに言ったのは、リュートの真中だ。
彼がそう言うと、皆が一斉に笑った…。ま、ありゃ酷かったがな…。
「皆静かに!」
俺が手を叩いて言うと、一気に笑い声は収まった。そうして全て説明し終えると、再び合唱で「了解しました!」と大きな返事。何だか軍隊の大佐にでもなった気分だ…。俺はこの先が思いやられ、一人深い溜め息を洩らしたのだった。
その後、俺はその場を解散させ、直ぐに家へと帰ることにした。此花市へ行く前に、かなり練習を入れなくてはならず、そのスケジュール調整と演目による各パートごとの練習日程を決めなくてはならないからだ。無論、田邊にも力を貸してもらうが、粗方は作っておかないと話にならないからな。
だが、ここで一曲だけそれが大変厳しい曲があった。バッハの<マタイ受難曲>だ。僕が振りそこねた宗教曲の大作。今度こそは自分の手で演奏したかったのだが…そんな思いもつかの間。俺は再び事件に巻き込まれることになるのだ…。
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