藤崎京之介怪異譚
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case.4 「静謐の檻」
Ⅱ 同日 PM.7:56
「藤崎先生…。少し、宜しいでしょうか?」
山之内氏が小声で俺を促した。
ここは宴会用の座敷で、今は楽団員達と夕食を食べていたのだ。ま、この人数にもなると宴会用の座敷じゃないと入らないがな。
「例の件ですね?」
「はい。別室の方でお願い出来ますでしょうか?」
俺は辺りを見回すと、皆は賑やかにやっている。まぁ、こんなところで話すことではないし、別室へ行くのは当たり前だな。
俺は山之内氏と部屋を移るべく席を立つと、田邊が目敏く見付けて声を掛けてきた。
「先生、どちらへ?」
「ああ、少し席を空けるから、このまま食事を続けていてくれ。後は自由にしていて良いが、部屋へ戻るようなら早めに就寝するようにとも言っておいてくれ。」
「分かりました。」
田邊の返事を聞くと、俺は山之内氏と共にその場を後にしたのだった。
山之内氏は、俺を旧館三階にある部屋へと連れて来た。そこは十六畳程の和室で、書院造りを思わせる風情ある部屋だった。奥には掛け軸が飾られ、それがより一層部屋の雰囲気を引き立てていた。
「どうぞお座り下さい。」
俺が部屋をあれこれ見ていると、山之内氏が座布団を出してくれたので、俺はそこへと座った。山之内氏は俺の目の前へと座ると、早速本題を切り出したのだった。
「このような場所までお連れしたのには訳が御座います。実は…この掛け軸なんですが…。」
俺は再び掛け軸を見た。それは見事な水墨画で、切り立った岩山の中に流れる河に、小さく船頭と船が描かれたものだった。主題としてはかなりポピュラーなものだが、その水墨画は少し風変わりではあった。船頭がこちらへと顔を向けているのだ。別に全く無いと言うわけではないが、どことなくこちらを覗き見ている様で、些か不気味とも言えた。
「で、この掛け軸が何か?」
「はい…。夜中にひとりでに落ちてしまうのです…。」
「落ちる?窓を開けっ放しにして風が入ったのでは?」
「いえ、ここは普段から閉め切っておりますので、風とは考えにくいのです。」
俺は考え込んだ。この分だと、どうやら一度や二度じゃないだろう。と言うことは、何か意図的なものを感じてしまうな…。
「この事、他に誰かに相談されましたか?」
「ええ。誰かの嫌がらせだと考えまして、探偵を雇ったことが御座います。」
「探偵…ですか?」
俺は何か嫌な予感がした…。
「はい。相模英二様と仰いまして、つい先日までこちらに…」
「相模だって!?」
俺は思わず声を上げてしまった。予感的中で、そいつは俺のよく知る人物だったのだ。そうなると大体話は見えてくるな…。恐らく、奴が俺の名を出したに違いない。目の前では山之内氏が目を丸くしている。
「これは失礼しました。では、相模探偵はやはり霊の仕業だと?」
「そうです。先生の名を教えて下さったのも相模探偵で、演奏もこの手の事件も一流だと太鼓判を押されまして…。」
相模の奴…自分の手に終えないと見て、全部俺に投げてきたな…。俺はそう考えつつ溜め息を吐いた。
しかし…ここで断るにはもう遅いと判断し、仕方無く話を進めることにしたのだった。
「そうでしたか…。まぁ、それは由として、この掛け軸には何か特別な由来でもあるんですか?」
「はい。この掛け軸は、元来義父の持ち物なのです。その義父なのですが、今から三十三年前に行方が分からなくなり、以後それきりで…。」
「失踪…ですか。何か心当たりは?」
「いえ…当時は私も未だ嫁いでおりませんでしたので、あまり詳しいことは…。」
これは何か根深いものを感じてしまうな…。俺がそんなことを考えいると、山之内氏は話を進めるために再び話始めた。
「それでこの掛け軸なんですが、私が嫁いできた時には、既にこの状態だったのです。昨年亡くなった夫が申しておりましたが、いつか義父が帰った時のために、一番気に入っていたこの掛け軸を掛けておきたいのだと。私も夫の遺志を継いで、ずっとこのままにしておいたのです。ですが…今年に入りまして、この掛け軸に異変が起こり、先程話しました通りの事が度々ありまして…。」
山之内氏は掛け軸を見ながら、不安げな表情を浮かべてそう言ったのだった。
「分かりました。この仕事もお引き受けしましょう。先ずは、前任の相模探偵にどうなっていたのかを聞いた上、仕事に取り掛かることにします。」
「有り難う御座います。これで一安心と言うものです。それで…おいくらなのでしょうか?私、こういった類いの職業の相場は知りませんもので…。」
俺は戸惑った。こっちの仕事で報酬をあまり受け取らないのは、相模だって知っている筈だ。何も説明してないのか?
「いや…この宿を提供して頂いてるんですから、それだけでも充分です。」
「いえ、これは私個人の依頼です。失礼とは存じますが、これだけご用意させて頂きましたので、どうかお受け取り下さいませ。」
困っている俺に、山之内氏は分厚い封筒を差し出した。
「二百万程ですが…。」
俺は驚きのあまり飛び上がりそうになった…。いくらなんでも…出しすぎだ。だが、山之内氏は真剣な顔付きでこちらを伺っている。受け取るべきか受け取らざるべきか…。
その時…あの掛け軸が風も無くひとりでに揺れ始め、俺も山之内氏も目を見張った。
「先生…ご覧の通りで…。」
山之内氏は真っ青になりつつ言った。
掛け軸は暫くユラユラと揺れて…そのままサラリと床に落ち、その後は何事も起きることはなかった。
「分かりました。これはお受け取り致しますが、これでは頂き過ぎです。演奏会終了後、宜しければこちらで単独演奏させて頂きますが…いかがですか?」
俺がそう提案すると、多少血色を取り戻した山之内氏は「良いお話です。その様にお願い致します。」と、しっかりとした口調で返答したのだった。
ここまでが、この恐ろしい事件の序奏だった…。
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