彼岸花
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4部分:第四話
第四話
全ては整った。だがそれでも彼は動こうとはしない。やはり何かを待っていた。
そんな彼に痺れを切らし丹は屋敷にやって来た。
「荊軻殿」
彼は荊軻と庭で話をした。既に寒くなりだしており木々にも葉は少なくなってきていた。空も沈んでいる。
「全て整っております。出られぬのは何かを待っておられるのですか」
「はい」
荊軻はそれに対して答えた。
「友を待っております」
「友を」
「はい。手紙をよこしたところこちらに来てくれるそうです。彼が来たならば事は必ずや成りましょう」
「その御友人を暗殺の補佐にするのですね」
「はい」
彼はそう考えていたのだ。
「それで全てが整います。私が動くのはそれからです」
「しかし」
だが丹は焦っていた。彼にとっては一刻も無駄には出来なかったのだ。彼は秦と秦王を心底恐れていた。
「一刻の猶予もなりませぬ。秦は既に国境まで迫っているのですぞ」
「それはわかっております」
荊軻は答えた。
「ですが焦ってはなりません。急いては事を仕損じます」
「ですが」
丹の顔が焦燥に支配された。
「いえ」
荊軻はここで語気を強くした。
「私はあの剣一本で秦王の前に向かうのです。失敗は許されません」
「共の者でしたらもう用意しておりますし」
「誰ですか」
荊軻は問うた。
「秦舞陽です」
「あの男ですか」
「はい」
秦舞陽は燕においてはそれなりに名の知られた男であった。
「彼は十三でもう人を殺し、力も肝もあります。彼ならばいいでしょう」
「いえ」
だが荊軻はそれに首を横に振った。
「あの者では荷が重過ぎます」
彼はやや下を俯きながら答えた。
「彼は只の乱暴者です」
「そうでしょうか」
「少なくとも私はそう思います」
彼はあくまで意見を変えるつもりはなかった。
「もうすぐです。その時になったら発ちましょう」
「わかりました」
丹はそれに頷こうとした。だがそれは出来なかった。
「殿下」
ここで燕の重臣の一人が慌てて入って来た。
「どうした」
丹は彼に対して問うた。
「秦が動きました。我が国の国境に向けて大軍を差し向けて来ました」
「何っ」
荊軻はそれを聞いて事ならず、と感じた。
「既に我が軍も兵を向けております、ですがやはりその差は覆せません。このままでは苦戦は必至かと」
「むむむ」
丹の顔が青くなっていく。そして荊軻に顔を向けた。
「荊軻殿」
「わかりました」
彼は観念したように言った。
「行きましょう、最早考えている暇はありません」
「はい」
彼は観念していても事を果すつもりであった。そう決心して丹に答えた。
こうして彼の出発が決まった。彼は秦に向けて発った。
事情を知る僅かな者達だけが彼を見送りに向かった。当然丹が主である。
皆白装束であった。それは将に死者を見送りものであった。
彼等は易水にて宴の場を持った。そしてそこで別れの杯を交わすことになった。静かな宴であった。
辺りにある草木も殆ど葉が落ちていた。だがただ一つ赤い花だけがそこに咲いていた。
(あの花か)
荊軻はその花を見て心の中で呟いた。彼岸花であった。
(こんな寒いのに咲いているとはな)
彼はそれを見ただけで何か嬉しい気持ちになった。これから死地に向かうというのに自分でも不思議であった。
思えばこの地に来たのもあの花が北に向いてなびいていたからであった。
(見送りかな。私をこの地へ導いた最後の仕事として)
そう思ったがこの花とはまた別の花だ。あれは衛の国のことであった。
それでも何故か同じ花に思えた。それが自分でも不思議だった。
「荊軻殿」
だがここで丹が声をかけてきた。
「あ、はい」
彼はその言葉にはっとして我に返った。
「飲みましょう、最後に」
「わかりました」
彼の他に誰もあの花に気付いていないようである。これは幸いであったかも知れない。
「では」
彼はそれを受けて杯を上にかざした。丹もそれにならう。他の者もである。
酒を飲み交わした。それから丹が彼に対して言った。
「お別れです」
「はい」
彼等は白い服のまま杯をあける。そして一通り飲み終えると荊軻は立ち上がった。
「ここで詩を一興」
「はい」
別れの詩であった。一同耳を澄ませてそれを聞いた。
風蕭蕭として易水寒し
壮士一度去かば復たび還らず
「ごきげんよう」
それを読み終えると彼は一同に背を向けた。そして馬車に乗った。
馬車は秦に向けて出発した。荊軻は後ろを振り向かなかった。
丹も他の者も何も言わなかった。ただ涙を流し荊軻を見送っていた。
彼の馬車が次第に遠くなっていく。そして遠い道の中に消えていった。
荊軻は遂に後ろを振り返ることはなかった。ただ秦の方を向いているだけであった。
やがて秦に着いた。彼は早速秦王の側近の一人に近付き贈り物をした。秦王へのとりなしを頼む為であった。
「陛下」
彼は秦王の前で上奏した。
「燕の使者が着ております」
「ほう」
彼は玉座の上からその者を睥睨しつつ問うた。
「燕は陛下を恐れ降伏を申し出てきました。そしてこれからは秦の臣下になると言っております」
「そうか、それはよいことだ」
彼にとってもそれは願ってもないことであった。一兵も減らすことなく国が手に入ればそれにこしたことはないからだ。
「その忠誠の証として燕の南の地図と財宝を献上に参っておりますが」
「よい心掛けだ。褒めてやると伝えよ」
ここで彼は荊軻に会おうとは考えていなかった。彼の読みは当たっていた。
「もう一つあります」
「献上する品がか」
「はい、逆賊樊於期の首でございます」
「何っ」
それを聞いた秦王の声がうわずった。まるで地の底が揺れる様な声となった。
「それはまことか」
「はい。この目で見ました故。間違いありませぬ」
「ふふふ、そうか」
彼はそれを聞いて笑った。
「どうやら燕も慌てているようだな。だがこれはよいことだ」
彼は低く笑いながらその側近に対して言った。
「よし、その使者に伝えよ」
「はい」
「予が直々に会うとな。最高の礼を以って迎える。よいな」
「わかりました」
ここで秦王は周りの者に対して言った。
「すぐにその準備に取り掛かるがよい。一国が手に入った祝いでもあるぞ」
「ははっ」
彼等は頭を垂れた。こうして荊軻は秦王に会うこととなった。
秦の宮殿は巨大であった。秦王が天下にその威を示す為に造り変えたものであった。それは将に帝王の城そのものであった。
荊軻はその中に入った。広大な庭の中央に道が開かれていた。
その左右に兵士達が整然と立ち並んでいる。皆武装しその道を守っている。
「強いな」
荊軻は彼等を見ながら呟いた。その様子からこの兵士達がよく訓練された強兵であることを見抜いていたのだ。
馬車から降りた。そして歩いて前を進んでいく。
だが進むうちに共を務める秦舞陽が宮殿と兵士達の威容に圧倒され震えだしてきたのである。
(やはりな)
荊軻の予想通りであった。だから彼は慌てなかった。
「お待ち下され」
ここで庭を守る将校の一人がそれに気付いた。
「そちらの方の様子がおかしいのですが」
「はい」
荊軻がそれに応えた。
「この者は北の辺境の地の者、これまでこうした場所には来たことがありませぬ。その緊張のあまり震えているのでしょう」
「そうでしたか」
「はい」
(この男はあてにはできないな)
荊軻は応対しながらそう考えていた。自分一人でことを為す決意をした。
二人は上に上がった。そこが本殿であった。
その本殿は極めて広かった。見れば玉座は遙か彼方にあった。
「秦王様です」
その入口にいた文官の一人が彼等に伝えた。
「はい」
荊軻はそれに応えた。秦舞陽を従え前に進む。
秦王は遠くで鎮座していた。左右には秦の高官達が立ち並びその脇を固めている。秦王はその中央で豪奢な玉座に座り彼等を待っていた。
二人は進む。荊軻は秦舞陽を急かしながら前に進む。
「しっかりせよ」
「は、はい」
だが彼は身体が完全にすくんでいた。荊軻はそれを見ていよいよ彼を心もとないと見放した。
(これは役には立たぬ)
しかしそれは最初からわかっていることであった。彼はそれでも事を成し遂げるつもりであった。
秦王の前に来た。彼はそこで二人を睥睨していた。
「よくぞ来た」
地の底から響き渡る様な声であった。
「燕からはるばる御苦労であったな」
「はっ」
荊軻は跪き頭を垂れた。秦王は彼に対して言った。
「顔を上げよ」
荊軻はそれに従った。
「名は何という」
「荊軻でございます」
彼は答えた。
「荊軻か。よい名だ」
「有り難うございます」
儀礼的なやりとりをしながら秦王の顔を見る。やはり極めて強烈な個性を感じさせる顔であった。
彫が深く極めて高い鼻をしている。どちらかというと白い顔だ。
眼は青く水の色をしていた。それとは反対に髭も髪も赤く長かった。中原では見られない顔立ちであった。
(秦の血か)
荊軻はそれを見て思った。秦は昔から漢人の血が薄い国とされていたのだ。
それが為に色々と軽蔑されることもあった。だがそんな彼等も今やこの天下で第一の国となっている。それが動かせない事実であった。
そしてこの秦王の力も動かせない事実であった。今天下は彼の手の中に収まろうとしているのだ。
(そうはさせぬ)
荊軻は心の中で呟いた。そしてそこで刃を抜いた。
「荊軻よ」
秦王は彼に対して声をかけた。
「貢ぎ物はどれだ」
「はっ」
彼はそれに従い手に持っていた箱を前に出した。そしてその中を開けた。
そこには樊於期の首があった。塩漬けにされたものである。
「うむ」
秦王はそれを見て満足そうに頷いた。
「皆の者」
そして左右の廷臣達に向けて言った。
「予に逆らう者は全てこうなる運命である」
やはり重く低い声であった。荊軻はそれを聞きまずは地響きを思い出した。
(似ているな)
まさしくそうした声であった。彼はその声に恐ろしいまでの威圧感を感じていた。
その威圧感は声からだけではなかった。秦王はその全身から異様なまでの気を放っていた。まるでこの世の全てを覆わんばかりであった。
(流石だ)
荊軻はそう思った。
(天下を一つにせんとするだけはある)
まさしく王の気であった。いや、王よりも器は大きいかも知れない。彼はそう考えると目の前のこの異様な人物に対して畏怖すら感じた。
だがこの男を今から暗殺せねばならないのだ。彼は抜いた刃を秦王に向けた。
「では次は地図だ」
秦王は首を確認し満足した後で言った。
「見せるがよい」
「わかりました」
荊軻はまた応えた。そして地図を入れた箱を前に出してきた。
「こちらです」
「うむ」
荊軻はその箱をゆっくりと開けた。そして中から一本の巻物を取り出した。
「これでございます」
彼はそれの紐を解いた。そしてその中を見せていく。
「燕の南方の地図でございます。我が国で最も肥沃な土地です」
「燕でか」
「はい」
荊軻は声に感情を込めないようにした。そして巻物を進めていく。
やがて中から光るものが姿を現わした。秦王はそれに目を止めた。
「ムッ」
しかしそれが何かはわからなかった。一瞬目の錯覚かと思った。しかしそれは違っていた。
それは小さな剣であった。それを確かめた瞬間に荊軻はそれを手にとっていた。
「秦王」
彼はそれを構えながら前に出て来た。
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