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彼岸花

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5部分:第五話


第五話

「御命頂戴致します!」
 そう叫びながら剣を突き立ててきた。それは秦王の腹に突き刺さった。
 しかし秦王は用心深い男であった。彼は儀礼用の厚い服の下に鎧を着込んでいた。それは用心の為にであったがそれが功を為した。
 腹にまでは至らなかった。彼はそれを受けて後ろに飛び下がった。
「クッ!」
 荊軻は顔を歪めさせた。それを見た秦の重臣達と兵士達が一斉に驚きの声をあげた。
「賊か!」
 だが誰も動くことは出来なかった。突然のことで身体が強張ってしまっていた。兵士達は動こうにも命令がないので動くことは出来ない。王の命がない限り本殿に上がることは許されていないのである。
 荊軻はその間にも立ち上がった秦王に迫る。ようやく落ち着きを取り戻した重臣の一人が叫ぶ。
「陛下、腰の剣を!」
 本殿で剣を持っているのは王只一人である。秦では王にのみ本殿での帯剣が許されている。王故の特権であった。
 だがそれは儀礼の意味もあった。その為飾りも派手で長くとても実用に適したものではない。咄嗟には抜くことが出来なかった。
「おのれ!」
 秦王は苛立ちを覚えた。だが苛立ったからといってどうなるものでもない。荊軻はその間にも剣を手に迫って来る。
「お覚悟!」
「ヌウッ!」
 秦王は本殿の柱の陰に回った。そしてそこを回る。
「させんっ!」
 荊軻はそれを追う。だが秦王も必死である。彼とて死ぬわけにはいかなかった。
「陛下をお助けせよ!」
 重臣の中の誰かが叫んだ。そして素手で荊軻に立ち向かう。
「邪魔だっ!」
 荊軻は彼等を斬りつけた。軽く斬っただけである。
 だがそれだけで充分であった。それだけで彼等は倒れていった。
「なっ!」
「毒か!」
 重臣達はそれを見て仰天した。それは秦王も同じであった。
「毒!」
 脚がすくむ。そこに荊軻が迫ってきた。
 事は成る、荊軻はその時そう思った。だがそうはならなかった。
 御典医の夏無且が動いた。彼は手にしていた薬箱を投げつけたのである。
「ヌッ!」
 それは荊軻に当たった。彼は手で防いだが中の粉薬が目に入った。
 そこに隙ができた。重臣達が咄嗟に叫んだ。
「陛下、今です!」
 秦王もそれに応える。だがやはり容易には抜けない。それを見た重臣の一人がさらに叫んだ。
「剣を背負われるのです、そうすれば楽に抜けます!」
「おお、そうであった!」
 秦王はそれにハッとした。それを入れ剣を背負い引き抜く。
 一気に抜けた。荊軻はようやく態勢を立て直したところであった。
「おのれっ!」
 荊軻に斬りかかる。そして彼の左足を斬った。
 それで動きが鈍った。荊軻はそれでも立ち上がろうとするが傷が深くそれは適わなかった。だが彼はそれでもなお諦めてはいなかった。
「まだだ!」
 剣を投げた。それで最後の勝負で出たのだ。
 それを見た秦王は咄嗟に柱の陰に身を隠した。剣は鈍い音を立ててその柱に突き刺さった。
「まだ動くか!」
 秦王はそれを受けて完全に頭に血が登った。そして彼に斬りかかりその感情のおもむくまま斬りつけた。
 彼がようやく落ち着いた時には荊軻は切り刻まれ無残な屍となっていた。こうして彼は死んだ。
 秦舞陽はその間全く動くことができなかった。やはり彼にはこの大任はあまりにも荷が重かったのであった。
 秦王がこれに激怒したのは言うまでもない。即座に燕に兵が進められ丹はその責を問われて殺された。そして燕も滅んでしまった。
 荊軻は最後まで信頼できる友人を待っていた。だがそれは遂に姿を現わすことはなかった。もしかすると本当にいたのかも知れない。いなかったかも知れない。それは荊軻以外の誰にもわからない。
 だが彼にはもう一人友人がいた。高漸離という者である。
 彼は筑という楽器の名手であった。その名は天下に知れ渡っていた。
 これを聞いた秦王は彼を呼んだ。そしてその筑を実際に聞いてみた。
「ふむ」
 彼はそれを聞いていたく気に入った。だがここで問題が起こった。
「陛下」
 彼に注進する者がいたのである。
「あの高漸離という者ですが」
「あの者がどうした」
 その者は高漸離のことをよく知っていたのである。
「あの者は荊軻の友人ですぞ」
「何っ」
 それを聞いた秦王の顔色が一変した。
「それはまことか」
 秦王は問うた。
「はい」
 彼はそれに頷いた。
「共に酒を飲み親しく語り合っていた親友同士でございます。御側に置くのは危険かと」
「間違いないな」
「何故嘘を申しましょうか」
 彼は自信を以ってそう答えた。秦の法では讒言は死罪である。だが彼はそれをあえて行ったのである。
「わかった」
 秦王はそれに頷いた。
「今すぐ調べよう。だがそれが嘘であった場合は」
「わかっております」
 彼は答えた。こうして調査が開始された。
 その結果それは正しいことがわかった。周りの者は高漸離を殺す様に進言した。しかし冷酷な秦王も今回は悩んだ。
「殺すには惜しい人物だ」
「何故でございますか」
「あの筑の音を聴いたであろう」
 秦王は彼等に対して問うた。
「はい」
「あれだけの演奏はそうそう聴けるものではない。そなた等もそう思わぬか」
「は・・・・・・」
 彼は音楽も愛していたのである。
「だが予の命を狙っている可能性は充分にある。それは用心せねばな」
 だがだからといって警戒を怠る人物でもなかった。
「目を潰せ」
 彼は言った。
「そうすれば安心して側に置くことができる」
「はっ」
 こうして高漸離の両目は潰された。そのうえで秦王の側に置かれた。
 秦王と側近達の危惧は当たっていた。彼は友の仇をとる為に秦王の命を狙っていたのである。
 その筑には常に鉛が入れられていた。そして機を窺っていた。
 秦王は暇があるとその筑を聴いていた。それ程までに彼の奏でる曲に聴き入っていたのだ。
 それが狙いであった。彼は秦王が完全に油断するその時を狙っていたのだ。
 その時だった。彼は不意に演奏を止めた。
「む!?」
 そして筑を投げた。だがそれは外れてしまった。目が見えてはいなかったからだ。
 彼は秦王暗殺の咎で処刑されることになった。最後に彼はこう呟いた。
「荊軻殿、済まぬ」
 そして彼は荊軻の後を追った。
 荊軻の遺体は最初は晒し者にされ打ち棄てられていた。だが心ある者が密かに拾いそれを葬った。その墓は知る者ぞ知る存在となっていた。
 その墓には時折参る者がいた。
「項羽よ」
 初老の男の声がした。
「これが荊軻の墓じゃ」
 その墓の前に小柄な男がやって来た。
「ここがですか」
 その後ろから太い男の声がした。そして天を衝く程の大男が姿を現わした。
 威風堂々たる男であった。まだ二十にも達してはいないというのにその気は国を覆わんばかりであった。
「そうだ。あの男を暗殺しようとした男じゃ」
 彼は後ろの男に対して語った。
「失敗はしたがな」
「そうですか」
 若い男は何の感慨も込めずそれに頷いた。
「無念だったでしょうな」
「だがその心は忘れてはならぬぞ」
「わかっております、叔父上」
 彼は前にいる男に答えた。
「我々も秦を倒そうということでは彼と同じですからな」
「その通り」
 男は頷いた。
「例え三戸になろうと秦を滅ぼすのは楚だ。わかっておるな」
「はい。そして我が祖父の仇」
「うむ」
 男は険しい顔をしてそれに頷いた。
「秦を滅ぼすのは我等でなければならぬ」
「あの派手な宮殿も炎の中に入れて消してやりましょうぞ」
「そうだな。この世には秦は不要」
「そしてあの男も」
 二人は強い声で言った。その声には激しい憎悪があった。
「それがわかっておればよい。機が来たならば動くぞ」
「ハッ」
 二人はそう言うとその場を去った。その周りには赤い花が咲き誇っていた。
「まだ夏だというのに」
 若い男はそれに気がつき目をやった。
「不思議なものだ。それでもこの場によく合っている」
 だが彼はこの花を何故か好きにはなれなかった。
「私はひなげしの方がいいな」
 それもどうしてかわからない。これはあくまで彼の好みの問題であった。
 二人は墓から去った。それから暫くして一人の男が墓の前に姿を現わした。
「ここが荊軻の墓ですか」
 声も容姿もまるで女性のようであった。だが彼はまごうかたなき男であった。
「さぞかし無念であったことでしょう」
 彼は目を閉じそう言った。
「しかしあの男の命、そして秦は私が倒します。御安心下さい」
 そして墓に対して深々と頭を下げた。
「貴方のご無念も晴らしましょう。必ずや成し遂げてみせます」
 頭を上げた。ふとそこで墓の横にある赤い花に気付いた。
「彼岸花ですか」
 それは夏にあの二人の者が見たものと同じ花であった。
「もうそんな季節になったのですね」
 既に秋となっていた。空は高く青くなっている。
「では私も行きますか」
 彼は墓を後にした。そして歩きはじめた。
「使命を果たしに。私は私の天命がある筈ですから」
 その後には彼岸花が咲いていた。それは何時までもその墓を包み赤く咲き誇っていた。


彼岸花   完


                 2004・11・15

 
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