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彼岸花

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3部分:第三話


第三話

 彼は田光の言葉に従い丹の屋敷に向かった。程無くして丹が姿を現わした。
(ふむ)
 見たところあまり風格はない。背もやや小柄で身体も痩せていた。そして顔立ちも一国の太子にしては品がないように感じられた。
(見たところあまり大した人物ではないな)
 心の中ではそう思ったが当然口には出さない。丹は彼を奥の部屋に案内した。
(暗いな)
 その廊下は暗い。どうやら彼が考えていることもこれと同じ様に暗いのだろうか。そう考えた。
 部屋に入る。やはりその中も暗かった。
「こちらです」
 丹に勧められ中に入った。そこには蝋燭の炎だけがあった。
「殿下、はじめまして。荊軻でございます」
 彼はここでようやく己の名を名乗った。
「はい、御名前は田光先生よりお聞きしております」
 丹はそれを受けて言った。
「是非御力をお貸し下さい、燕の為に」
「わかりました」
 荊軻は答えた。
「この命、今から燕に捧げましょう」
「お願いできますか」
「はい」
 彼は答えた。
「この言葉に偽りはありませぬ」
「それは有り難い。ところで先生はまだですか」
 丹は何気なくそう尋ねた。
「先生ですか」
 その時荊軻の顔が曇った。
「はい。遅れて来られるのでしょうか」
「いえ」
 荊軻はそれに対して首を横に振った。
「ここには来られませぬ」
「どうしてですか?」
「殿下」
 彼は言った。
「先生の最後の御言葉です。『秘密は守りました』と」
「最後の言葉とは」
 それを聞いた丹の顔が暗転した。
「はい、先生は殿下の他言せぬようにとの御言葉を受け自害なされました。秘密を守る為にです」
「なっ!」
 それを聞いた丹は思わず身を乗り出した。
「荊軻殿、それはまことですか!?」
 そして震える声で問うた。
「残念ながら」
 荊軻は瞑目して答えた。
「私の家で自害為されました」
「何ということだ・・・・・・」
 丹の顔は暗闇の中でもわかる程蒼白となっていた。
「その様なつもりでお話したのではなかったのに・・・・・・」
「惜しいお方でした。しかし先生は私に後を託されました」
「そうですか」
 彼は青い顔のまま頷いた。
「先程も言いましたがこの命、燕に預けました。何なりと御申し下さい」
「わかりました」
 丹はそれを受けて頷いた。
「先生が貴方を推挙されたということは天はまだ燕を見捨てていないということでしょう。それならばお願いします」
「はい」
 荊軻は答えた。
「何なりと御申し下さい」
「ええ」
 丹はそれを受けて口を開いた。
「秦のことは既にお聞きだと思います」
「はい」
 その為に来たのだから当然であった。
「既に趙の滅亡も時間の問題です。すぐにこの燕にも迫って参りましょう」
「でしょうな。今の秦を見ていると」
「燕には残念なことに秦に当たる力はありませぬ。他の国もです」
「はい、秦の力はあまりにも強大です」
「各国と連合しても通用するかどうか。甚だ疑問と言わざるを得ません」
「御言葉ですが私もそう思います」
 荊軻もそれに同意した。
「今の秦の力は極めて強大です。どう考えても倒すのは不可能です」
「はい」
 丹はそれに頷いた。
「ですが一つだけ方法があります」
「方法が」
 だが荊軻にはそれが何かわからなかった。
(そんなものがあるのだろうか)
 普通に戦おうが外交を駆使しようが無駄だと思われた。彼にはやはりわからなかった。
「今の秦はどの様な体制ですか」
「秦の体制」
「そうです。秦王に権力が集中しておりますな」
「ええ」
 それが秦の目指した体制であった。貴族や王族の権力を弱体化させ王に集中させる。所謂中央集権体制であった。秦王は自分の下に権力を集中させ、全てを決裁する体制を目指していたのである。
「最早秦で彼に逆らう者はおりません」
「その様ですね」
 それは荊軻も知っていた。だが彼はそれには特に思うところはなかった。
「しかし彼がいなくなったらどうなるでしょう」
「秦王がいなくなったら」
「そうです、秦の全てを握る者がいなくなるのです。そうすれば必ずや秦の内部で動きがありましょう」
「それはそうでしょうが」
 実際に後彼が天下を統一した後で崩御した途端に大規模な反乱が置き秦は滅亡している。陳勝呉広の乱から項羽と劉邦の旗揚げである。
「秦は今秦王に従っております。その彼がいなくなると必ずや内で騒動が起こりましょう」
 そうした意味で丹の読みは当たっていた。だが彼の結論はその行動が問題であった。
「それで私はあることを決意したのです」
「あることとは」
 荊軻は問うた。
「暗殺です」
 丹は暗い笑みを浮かべて言った。
「暗殺!?」
「そうです。田光先生からお聞きしていませんでしたか」
「それは」
 今彼は気付いた。あの時の田光の唯ならぬ様子を。彼は言葉で言わずその様子で彼にそれを伝えていたのだと。
(そういうことか)
 荊軻はそれをようやく察した。その時彼は自分の命を燕に預けるとまで言っている。それを翻すことは彼の義侠心が許さなかった。
(よし)
 彼は決心した。だがまだそれを口には出さなかった。まずは丹の心を確かめることにした。
「お待ち下さい」
 丹を止めた。
「私は先生に知恵を貸すようにと言われてここに参上したのです」
「それは知っています」
 丹の声が強いものになった。
「しかし最早これしか方法はないのです」
「いや、それはどうでしょう」
 ある程度わかったがまだ試すことにした。
「もっとよくお考え下さい。必ず他に何か方法がある筈です」
「それも考えました。しかしやはりありませんでした」
「そうなのですか」
「はい」
(やるしかないようだな)
 荊軻は丹の様子を見て覚悟を決めた。だがそれもまだ口には出さない。
「それは不可能です」
「何故ですか?」
 丹は問うた。
「秦王の宮殿には無数の武装した兵士達がいるでしょう。彼等は秦の兵の中でも精鋭揃いです」
「それはわかっています」
「そのうえ彼は用心深い。側の者には帯剣すら許してはいないそうです」
「それもわかっています」
 丹はあくまで食い下がってくる。
「ですが私にも考えがあります」
「何でしょうか」
 荊軻は尋ねてみた。
「秦王が財宝を好むのは御存知でしょうか」
「ええ」
 彼は見事な宮殿を建てさせそこに天下の財宝を集めている。人を信じることのない彼はそこに心を満たすものを求めているのである。
「山の様な貢ぎ物を差し出せば必ず出て来るでしょう。そこを討つのです」
「そこをですか」
「はい、既にその財宝は用意してあります。私に出来ることならば何でも致しましょう」
「ふむ」
 荊軻はここで目を閉じた。
「燕の命運を私に委ねられるというのですな」
「はい」
 丹は答えた。
「私の命も全て貴方に捧げましょう。今私は貴方に全てを託します」
「わかりました」
 ここに至りようやく彼はそれを了承した。
「この仕事、喜んで引き受けましょう」
「まことですか!?」
 丹はその言葉に思わず顔をあげた。
「はい。この荊軻嘘は申しません」
 彼は強い口調でそう言いきった。
「必ずや秦王を暗殺致しましょう。その為にはこの荊軻全てを捧げます」
「有り難い」
 丹の目は既に濡れていた。そして荊軻に対して恭しく頭を垂れた。
 こうして彼は刺客になることを了承した。丹はすぐに彼を上卿に迎え、屋敷を与えた。そして彼に御馳走や美酒、美女を贈った。彼に期待しているからだ。

 だが荊軻はその生活を楽しむだけであった。腰を上げようとはしなかった。
 その間に秦の侵略の手は迫っていた。遂に趙を滅ぼし燕の国境に迫っていた。それを見た丹は危機を覚え荊軻の屋敷に向かった。
「荊軻殿」
 彼は慌てた声で荊軻に対して語りかけた。
「遂に秦が国境まで迫って来ました。最早一刻の猶予もないかと存じます」
「そうですか、いよいよ」
 だが荊軻は冷静なままであった。
「ではそろそろ動く時ですな」
「おお」
 丹はそれを聞いて思わず喜びの声をあげた。
「秦王は用心深い。これは以前にもお話しましたな」
「はい」
 丹は答えた。
「余程のことがない限り近付くことは出来ませぬ。しかし今ならば降伏の使者として近付くことが可能です」
「あっ」
 丹はその言葉にハッとした。
「そして殿下にお見せしたいものがあります」
 そう言いながら立ち上がると奥から一つの箱を持って来た。
「それは」
「はい」
 荊軻はその箱を開けた。その中には一振りの小さな剣があった。
「秦王の側には剣を持って近付くことは出来ません。しかしこの剣ならば隠す事が出来ます」
「服の中にですか」
「いえ」
 荊軻はそれには首を横に振った。
「巻物の地図の中に隠そうと考えております。おそらく服も事前に調べられるでしょう」
「確かに。あの男は実に用心深いですからな」
「これならばまさか隠しているとは思いますまい。そしてこれで秦王を刺します」
「成程。それはいいですな」
「はい。ですがまだあります」
「それは?」
「この剣に毒を塗るのです」
「毒を」
「そうです。それならばほんの少しの傷で殺すことが可能です。万が一外されたとしてもかすり傷さえ与えることができればそれで事は成ります」
「素晴らしい、そこまで考えておられるとは」
 丹は荊軻の周到さに思わず感嘆の言葉を漏らした。
「ただ一度試してみるべきかと」
「試す」
「はい、一度死刑囚を使ってお試し下さい」
「わかりました」
 こうして剣に毒が塗られた。これも荊軻の持っていた毒である。それが塗られ死刑囚の身体にかすり傷をつけた。その死刑囚はそれだけで息絶えた。
「これで剣はよろしいですな」
 話を聞いた荊軻は満足そうにそう言った。
「後はこれを隠す地図です」
 共にいた丹に対して言った。
「それなら燕の南の地図がよろしいのでは。丁度秦王が狙っている場所ですし」
「そうですな」
 荊軻はそれに頷いた。
「ではそれでいきましょう」
「はい」
「ですがまだ必要なものがあります」
「財宝と地図の他にもですか」
「はい、秦王が必ず跳び付くものです」
「秦王が」
 丹はそれを聞いて首を傾げた。この二つで充分ではないかと思えた。だが荊軻の考えは違っていた。
「首です」
「首!?」
「そうです、樊於期将軍の首です」
「えっ!」
 丹はそれを聞いて思わず声をあげた。
「樊於期将軍の首ですか」
「はい」
 荊軻は冷酷ともとれる醒めた声で答えた。
「秦王が出て来るとなればこれは必要であると存じます」
「しかし」
 見れば丹の顔は青くなっていた。
「殿下」
 だが荊軻はそれに躊躇することなく言った。
「将軍にどれだけの賞金がかけられているか、ご存知でしょう」
「はい」
 彼は力なく答えた。樊於期には金千斤と一万戸がかけられているのである。破格の懸賞であった。
 そして何よりも秦王は彼を恨み続けていた。虎狼の心を持つとまで言われた彼は樊於期に諫められたことを恨みに思っていた。絶対的な独裁者にとって諫める者は不要であったのだ。
 彼は一族を殺され燕に逃げ延びてきているのだ。そして丹が彼を匿っているのだ。
「荊軻殿お待ち下さい」
 丹は彼を止めにかかった。
「将軍は私を頼って来られました。そのようなことはとても出来ません」
「しかし」
 だが荊軻もこれは譲れなかった。
「どうかここは他のことで済ませて頂きませぬか。これは心からのお願いです」
 荊軻はそれに対して苦い顔をした。だがどうにもなるものではなかった。丹の心が硬いのは明らかであった。
 彼はそれを察しその場は退いた。だがその足で樊於期の下に向かった。
「将軍はおられますか。荊軻という者ですが」
「荊軻殿が」
 彼は丹の客人として知られるようになっていた。樊於期はそれを聞いて門に姿を現わした。
「おお、貴殿があの荊軻殿ですか。お話は常々聞いております」
「はい」
 荊軻はそれを受けて礼を返した。だがその顔は笑ってはいなかった。
(むっ)
 樊於期はそれを見て何かを思った。だがそれは顔には出さなかった。
「お話したいことがあるのですが」
 荊軻は顔を上げて彼に言った。彼はそれを受けて荊軻を屋敷に導きい入れた。
 自室に案内する。そこには机と書物が数冊あるだけだった。武人らしく質素な部屋であった。
「どうぞお座り下さい」
「はい」
 二人は向かい合って座った。樊於期はそこであらためて荊軻に尋ねた。
「してお話とは何でしょうか」
「はい」
 荊軻はそれを受けて話をはじめた。
「秦についでですが」
「秦」
 それを聞いた樊於期の眉がピクリ、と動いた。
「あの国の法はあまりにも惨いものがあります」
「はい」
 樊於期がそれに頷かない筈がなかった。これは読み通りであった。
「些細なことで惨い刑罰を課し、それは一族郎党にまで及びます。またその追及も執拗で将軍にもかなりの懸賞がかけられております」
「その通りです」
 樊於期はそれを受けて応えた。
「今もそれを思うと痛みが骨にまで滲みるようです」
「骨にまでですか」
「はい」
 彼は答えた。
「この恨み、何としても晴らしたいのですがそれも適いません。口惜しさだけ噛み締める日々です」
「左様ですか」
 荊軻はそれを受けて頷いた。
「その心、お察しいたします」
「はい」
 彼はそれに頷いた。
「ですがそのご無念、一つだけ晴らす方法があります」
「本当ですか!?」
 樊於期はそれを聞き思わず身を乗り出した。
「それはどの様なものでしょうか」
「燕の憂いも、将軍の仇討ちも出来るものです」
「その様なものがあったのですか」
 彼はそれを聞き曇りの中から白日を見た様な顔になった。
「それは一体」
「将軍」
 荊軻はここで声も顔を引き締めさせた。
「御命を捨てられることは出来ますか」
「命を」
 樊於期はそれを問われても動ずるところがなかった。
(よし)
 荊軻はそれを見て内心会心の思いであった。
「そうです。そのお覚悟はありますか」
「・・・・・・・・・」
 彼は暫し答えなかった。だがやがて口を開いた。
「荊軻殿、私は武人です」
 彼は言った。
「ましてや失うものなぞもうない。今更命を惜しんでどうしましょう」
「その言葉、偽りはありませんな」
「はい」
 彼は強い声で答えた。
「私を匿ってくれた燕の為、そして仇討ちの為ならこの樊於期喜んでこの命を捧げましょう」
「わかりました」
 荊軻はそれを受けて頷いた。
「それではお話しましょう」
 そして彼は秦王暗殺計画について話はじめた。話が終わると彼は樊於期をさらに強い目で見た。
「この様に将軍の首が必要なのです。お解り頂けたでしょうか」
「はい」
 彼は快く答えた。
「私の首一つでそれが成るのなら何と安いことでしょう」
「そうですか」
 だが荊軻はその言葉に哀しい陰があるのを見逃さなかった。だがそれを表に出すわけにはいかなかった。
「それではお願いします」
 そう言って頭を深々と下げた。樊於期はそれを微笑んで受けた。
「それではお待たせするのも失礼ですから」
 すぐに立ち上がった。後ろに置いていた剣を手にする。
「この首、存分に使って下され」
 そう言うと首を掻き切った。そして血の海の中に倒れた。
「・・・・・・有り難うございます」
 荊軻は彼の亡骸に対して礼をした。そして共の者を呼んだ。
「将軍は自害された」
「えっ」
 それを聞いた共の者は思わず声をあげた。
「立派な最期であった。だがまだやるべきことがある」
「それは」
「将軍の首を塩漬けにせよ。そして丁重に弔うようにな」
「わかりました」 
 共の者はそれに応えた。こうして樊於期の首は塩漬けにされその遺体は丁重に葬られた。そしてその後で丹に伝えられた。
「そうか」
 丹はそれを聞いて力なく頷くだけであった。こうするしかないのは薄々わかっていた。だがそれでも彼を殺すことはではしなかったのである。自分を頼って来た者を殺すことは彼にはできはしなかったのだ。
 しかし事は全てが済んでしまっていた。丹はそれを聞いて覚悟を決めるしかなかったのであった。
 荊軻はそれについては何も言わなかった。ただ屋敷に帰り何かを待っているようであった。




 
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