Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第4章 “妹達”
八月二日:『追憶』
窓の外は静寂の底、深い海のような群青菫の朝の気配に包まれた学園都市の摩天楼群。230万の内の八割が学生であるこの都市の朝は、登校時間となる迄は極めて静かだ。どのビルも窓硝子に反射する青い光に染められ、美しい蒼朝の色に。ただ一棟、黒一色の壁に窓もなく佇む、あの『ビル』以外は。
そしてそれはこの喫茶店の中も同じ、聞こえるのは小鳥の囀りくらいのもの。営業を終え、灯りの落とされた室内は朝日により青く染まっている。
その煌めきを背にした最愛は一種、神々しい程に────清々しいまでの殺意を放ちながら。
「さて、じゃあ超手短にいきますか。対馬嚆矢、異能力者『確率使い』……通称『制空権域』、ですか」
「…………調べたのか。何とも……周到な事だな」
何処かに依頼でもしたのか、缶珈琲を傾けつつ携帯の画面を見ながら。しかし隙無く、此方の様子を注視しながら。
そんな少女を見詰めながら、口を開いた。開いてから気付き、舌打ちしそうになるのを堪える。
気絶している間に“書庫”を調べられた、それが先ず一つ目の失策。
警備員の記述はないが、風紀委員の記述は有るだろう。それだけでも、暗部の存在にとっては看過できない筈。二重スパイの疑いを掛けられて始末される事も十分に有り得る。
「ふゥン、弐天巌流学園三年で合気道部主将……言ってた事には、超偽りはないみたいですねェ。そして────」
「……………………」
二つ目は、『兎脚の護符』を奪われている事。脱出させない為にだろうが、ショゴスが居るので拘束を脱するのは容易い。
しかし、問題はそんな事をすれば逆効果な事。だと言うのに、『話術』を担う護符がない。つまり、対馬嚆矢は……『本来は口を開くのも億劫な性質』の本人の弁舌のみで、この場を乗り切らねばならない。
「────それ以外に特筆に値する経歴はなし……超楽しそうな学生生活そうで、何よりで」
「……………………」
「どうかしましたか、急に超静かになって?」
「……痛くもない腹を探られれば、誰でも不愉快にはなる」
小馬鹿にするような口調で、最愛は携帯を仕舞う。その様を黙って見詰めたまま、努めてポーカーフェイスで。
(どういう事だ、これは……)
理解の及ばない事情に、端からは分からない無表情で困惑する。先に述べた通り、『風紀委員である』事は公然の事実。“書庫”にも明記されていなければ、いざという時に不具合が生じる。
今はまさにその逆の不具合で首の皮が繋がったのだから文句はないが、理由の分からない百分の九九など、胡散臭くて仕方がない。
まるで、何か────自分の預かり知らぬところで、取り返しのつかないツケが貯まっているような。そんな不快感と焦燥とが、心を埋める。
「じゃあ、超質問といきますか……『暗闇の五月計画』との関わりと、黒夜海鳥との関係について」
「……………………」
「だんまり、は超賢いとは言えませんけどねェ。つまり、超言えねェ事があるってェ事になりますから」
思考する合間を黙秘と取ったか、最愛は瞳を更に鋭く尖らせて。飲み干した缶珈琲……スチール缶を、『窒素装甲』で握り潰しての恫喝を。
「……別に、話して困る事はない。だが────話す事がないのだから、どうしようもない。調べたなら分かるだろう、俺に八年より前の記憶はない」
「……………………」
「分かっているのは、『暗闇の五月計画』の被験体で暗部の掃除機だった事。そして、『暗闇の五月計画』の後の実験で────」
別に珍しくもない、暗部ではよくある話だ。『能力が脳のどの部位に宿るのか』を探す実験。それ以上も以下もない、ただただ事実を返す。
「それ以外の記憶は、物理的に…………脳味噌を誕生日のケーキみたく切り刻まれた際に、海馬ごと奪われた」
「──────」
じっとそれを聞いていた最愛は、一度目を瞑って。何か、酷く────
「……つまり、『覚えてない』と」
「ああ。あの黒夜とか言う娘にも、君にも悪いが…………全く、覚えがない」
「…………………………」
数時間前にも見た表情を。酷く、嚆矢の言葉に傷付いたような表情を──フードの下で浮かべて。
「………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ」
「………………………………」
一体、誰に向けてか。握り潰した空き缶をテーブルの上に置いて、彼女は一度、諦めたかのように嘲笑って。
立ち上がり、歩み寄ってくる。力を籠めればへし折れそうに華奢な体に、装甲車くらいなら破壊できる攻撃力と防御力を与える『窒素装甲』を纏ったままで。
その右手を、此方に伸ばし────
「疑って超悪かったですね、次からの仕事も超宜しく頼みます────“回転流渦”」
「ッ………………………………」
彼のかつての『能力名』を口にして、嚆矢を拘束していた結束バンドを人差し指と親指だけで引き千切って。“兎脚の護符”と“輝く捩れ双角錐”を投げ渡して踵を返すと、ポケットに手を突っ込んで扉に向かう────
「ぎゃん!」
「さっさと超帰りますよ、フレンダ」
途中でテーブルに突っ伏したままの、フレンダが座っている椅子を彼女ごと蹴り転がして。
「……後、携帯の録音は消さないと超後悔する事になりますから」
「は、はい……」
有無を言わせぬ最愛の迫力に、狸寝入りを決め込んでいたらしいフレンダは女の子座りの状態で涙目だ。そのまま木扉を開いてベルを鳴らし、一瞥すらないままに最愛は出ていった。
その後を追うように、チラチラと何度も振り向きながらフレンダも。後には、嚆矢と市媛が残るのみ。
「…………………………」
それを見送り、漸くして。嚆矢は護符を首に掛けて懐中時計を懐に入れると、転がされていた椅子に座って。
その目の前のテーブルに、ソーサーに乗せられたカップ。中身は漆黒、芳しい芳香を放つホットコーヒー。
「いやはや、お疲れ様です」
「ローズさん……ありがとうございます」
「いいえ」
礼を告げて、師父の淹れてくれたコーヒーを啜る。無論、コーヒーに対する礼だけではない。その真意を過たず汲み取り、それでも何でもなさげに師父は厨房に引っ込んでいった。
温かなコーヒーの苦味が、舌を痺れさせるようだ。しかし、胸に蟠る『苦味』には遠く及ばず。
懐から取り出した煙草を銜え、火を点す。肺腑の奥まで目一杯に吸い込み────
「────ゲホッ、エホ……あ~、そっか」
新生したばかりの肺腑には、刺激が強過ぎたらしい。盛大に咳き込んでしまい、そんな素人みたいな有り様に苦笑いしながら。
「何か思い出したのかのぅ?」
いつの間にか隣でトーストにハムとチーズ、目玉焼きを乗せたものを食んでいる市媛が問う。興味無さげに、しかし嘲笑うように。
それに嚆矢は嘲笑うように、しかし興味無さげに応えて。肩を竦めながら、フィルターまで吸いきった煙草を足下の影──ショゴスに向けて、投げ渡して。
「別に。これから女の子に会うんだし、風呂くらいには入らないとって思っただけだ」
「呵呵呵呵、是非もなし」
嬉しげにそれを呑み込んで、現れた刃金の螻蛄を引き連れて。一息にホットコーヒーを飲み干すと、風紀委員の活動の準備の為に『自宅に帰る』と師父に帰る事を伝えに。
その背中に、嘲笑う視線が。燃え盛るような三つの眼差しが向いているのを、肌で感じつつ。
『……そォかよ、やっぱり忘れちまったのかァ。いや、ガキの戯言なンて信じて夢見てた私が馬鹿だったってェだけか』
『………………ははっ、忘れてた。結局──世の中なんて、こんなもんでしたねぇ』
「……………………」
思い返す、二つの『諦め』の言葉。自分がそうさせた、嘲りの言葉だ。その無力、その浅はか。自嘲の余り、自決してしまいそうな程で。
「……?」
探ったポケットに、違和感。取り出したのは────明滅する乳白色の宝珠と、有機的な銀色の鍵。その二つの『魔道具』に、甦る記憶がある。
極彩色の閉じた世界に、黒金の太陽と白銀の満月。そして────嘲弄する悪意の塊、見えざる皆既日食か皆既月食。
「どうした、嚆矢?」
「…………否、別に」
それを、背後で牛乳を飲んでいる市媛に悟られぬよう。再びポケットに押し込んで、螻蛄のショゴスを外に向かわせ、バイク形態で待機させる。
朝の日差しは既に、透明なものに。大好きな青の世界は既に消え、遠くに聳える『窓の無いビル』は揺るぎなく。
「……今日も暑くなりそうだな」
見習いたいくらいに早起きの、蝉の鳴き声を聞きながら。八月二日の今日に、悪態を吐いたのだった。
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