Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
断章 アカシャ年代記《Akashick-record》
??.----・error:『Nyarlathotep』Ⅶ
草木も眠る丑三つ時の第七学区、人気の絶えた道を歩く小柄な人影が一つ。
学園都市でも治安の悪い路地裏、其処をこんな時間にただ一人で歩くなど。全うな人間ではないか、正気ではないかの二つに一つ。
「ちっ……腕はともかく、目の方か。こうも見えにくくちゃ、やりづらくて仕方ねえ」
『生命を削っているのだ、肉体にガタが来るのは仕方在るまい』
「分かってるっての、クソ虫が」
そして、その人影は前者の方。暗部に属する彼女──海鳥は動かない右腕を無視して、ぽろぽろと血の涙を溢す両目を拭っている。
背後に浮遊する魔導書“妖蛆の秘密”の言葉に反駁しながら。
「──あら、随分と仲良くなったようね。良い事だわ。魔導師と魔導書も、信頼がないと勤まらないものね」
「『────!?」』
刹那、闇の中から『青』が滲み出る。夜の大洋のように果てしなく底知れぬ、生命に根源的な恐怖を思い出させる息吹を纏って。
「你出去了、可愛らしい海鳥ちゃん?」
「テメェ、何でこんなところに居やがるんだ……“黒扇膨女”」
「此処は私の店の前。居ておかしい事はないわ」
確かに、何かしらの店の前。学園都市でもは余り見かけない、中華風の建築様式の。
その前に立つ、波の模様の蒼いチャイナドレスを纏って、腰に釣る五つの黒い扇の一つで口許を隠しながら。妖艷に笑う美女は、見惚れる程に麗しく。
『……………………』
(ちっ…………ビビりやがって)
即座に無数の蝿となり、散り散りに飛び去っていった“妖蛆の秘密”に反吐を吐いて。目の前の、霞んでよく見えない『魔人』に相対する。
彼女も知っている、目の前の存在は自分にあの魔導書を与えた人物。何の為か迄は理解が及ばないが、関係はない。この化け物も利用して、目的を成し遂げると決めたのだから。
「最初の獲物は狩り損ねたようね。やはり、人間に愛を切り捨てるのは無理かしら」
「ざけんな。次は殺す、あんなヘボ野郎くらい」
「そうね、あの程度の男にも勝てないで────“第一位”に勝つなんて、夢のまた夢だものね?」
本当に口から発されているのか分からない声で嘲笑われた海鳥が、女を睨み付ける。激しい敵意と殺気、だが海原を思わせる女は微塵も揺るがない。
寧ろ、それを楽しむように。女は彼女の背後を見遣る。背後の闇の中に潜み、声無く肩を震わせて────口許を両手で押さえて嘆くかのように嘲笑う、エプロンドレスの人形の娘を。
「まぁ、次に期待……かしらね」
それと全く同じように、海鳥を見下ろすように嘲って。投げ渡した『何か』が一つ、闇に紛れながら海鳥の左手に収まって。返した踵で、女は中華風の建物の中に消えていく。
見送った海鳥は、一度盛大に舌を打って。受け取った『何か』をコートのポケットに仕舞うと、夜空に浮かぶ繊魄の月を眺めて視力の回復に努めながら。
「どいつもこいつも……ああ、ウザってェ!」
余りに情けない己の現状に癇癪のような叫びを放ち、根城に帰る為に再び歩き始めた。
………………
…………
……
水滴。無窮の虚空から霊質の一滴が、ポタリと。それに目を醒ました、天魔色の髪に蜂蜜酒の瞳を持つ少年が見たのは────海岸。
「此所は……」
金色の塵が舞う、菫色の霧。夜明けの青に煌めく銀燐。星の煌めきだと気付いたのは、僅かに遅れて。
明瞭となりゆく意識がまず認めたのは、白く香しいロトスの花。そして紅いカメロテが、星を鏤めたかのように咲き乱れた海岸だった。
「あぁ────やっと目を醒ましたのね」
「あぁ────ついに目を醒ましたんだ」
声が降る。煌めく花と星の砂の褥横たわる彼の、背後から。全く同じ声色、しかし正反対のイントネーションで。
目を向けた先、混沌が渦を巻く宇宙の天元。宇宙を満たす霊質の波が押し寄せる、『揺り籠』で。
四度目の邂逅、ならばもう驚く事もない。ゆっくりと体を起こし、そちらを見やれば────
「御早う、こうじ。お寝坊さん?」
「今晩は、コウジ。寝坊助さん?」
「今日は、二人共。早起きさん達?」
燐光を放つ黒金と白銀のドレスを各々に纏い、薄紅色と薄蒼色の星雲の瞳を各々に持つ『双子』が其処に。前回は眠りこけていた二人から同時にそんな事を言われてしまい、面映ゆい気持ちになりながら返事をすれば。
一人は嬉しそうに、一人は迷惑そうに。各々に、違う表情で。しかし同じように、歩み寄ってくる。
「変なの、わたしは一人よ? ところでどうしたの、こうじ? なんだか……悩んでるみたいだけど」
「変なの、ワタシは一人だよ。ところでどうしたの、コウジ? なんだか……悩んでるみたいだけど」
そして全く同時に、同じ事を口にして。やはり、隣に居るお互いの事には気付かずに。
温かな黒金の“開闢にして終焉”は不安そうに、冷たい白銀の“始源にして終末”は不審そうに。
「ああ……まぁ。昔の事で、少し……もう思い出せない事で」
「むかし? う~ん、ごめんね。過去視はわたし、得意じゃないの」
「ムカシ? なんだ、そんな事。だったらワタシには簡単な話だよ」
申し訳無さそうにしょんぼり項垂れた陽光のような金髪の娘に対して、得意気にふんすと胸を反らした月影のような銀髪の娘。差し出されたその『右手』には────白く明滅する、乳白色の宝珠。
それを受け取り、見詰め……るような迂闊な真似はしない。どんな魔道具かも分からないものに迂闊に手を出す真似は、“妖蛆の秘密”で懲りた。
「これはね、過去を覗き見る事が出来る物なんだ。昔、これの贋作でワタシの身体を覗いていった男が居たくらいさ。悲鳴を上げて逃げていったけどね。失礼な話だよ」
「そ、そうか……」
「そうさ、勝手に覗いといて。本当に頭に来る」
そして何か癪な事を思い出したらしく、薄蒼色の星雲の瞳に不愉快を宿しながら腕を組んで唇を尖らせる。
空気が冷やされていくような感覚、その燐光はさながらダイヤモンドダストのようで。
「まあ、とにかく過去を覗き見るには十分な性能があるよ。けど、あんまり使ってると『ワタシ』に還ったり『猟犬』に見付かるからね」
「猟犬……」
思い出したのは、『幻想御手事件』で相対した化け物。時間の角度の螺旋を走る、悍ましき怪物……“ティンダロスの猟犬”を。
二度と出会いたくはない、あの異形。あれに再び見付かる危険性を孕む魔道具だと思うと、途端に悍ましく思えてきて。
「あ、そうだわ、こうじ! ヨグに聞いてみたら良いわ、あの子は全知だから」
「ヨグ……ああ、ヨグ=ショゴス?」
と、その時。うんうんと唸りながら考え事をしていた金髪の娘が、ぽん、と手を叩く。その『右手』には何時の間にやら、有機質な質感の────鈍い銀色の鍵が握られていた。
それを受け取り、握り締め……るような迂闊な真似は、やはりしない。どんな魔道具かも分からないものに迂闊に手を出す真似は、“輝く捩れ双角錐”で懲りた。
「うん、あの子とっても賢いのよ。だってあの子は、それだけで『この世総ての識』なんだから」
「そ、そうか……」
「ええ、そうなの。わたしの『無明の霧』から生まれたのよ?」
そして何か佳い事を思い出したらしく、薄紅色の星雲の瞳に歓びを宿しながら指を組んで微笑む。
空気が暖められていくような感覚、その燐光はさながら木洩れ日のようで。
「その鍵を使えば、あの子の本体の居るところに行けるわ。でも気を付けてね、近くの『わたし』に抹消されたり門番に変な場所に落とされちゃったりするかもしれないから」
「門番……」
思い出したのは、つい先程まで己の影に潜んでいた化け物。矢鱈に悪食の、異空間で『門番』を名乗った怪物……“虚空の粘塊”を。
また直ぐに出会う事になるだろう、あの異形。そうなれば何を食わせる事になるだろうか、などと急に面倒になって。
「まあ、とにかく。それでさ」
「うん? なぁに?」
「うん? なにさ?」
貰った魔道具二つをポケットに仕舞いながら、二人を同時に見遣る。黒金の太陽と白銀の望月を思わせる二人に、同時に。
その『右手』を────
「一緒に行こう。此処は駄目だ、こんな檻の中は、君達には似合わない」
「「……………………」」
造化の、空も色もない、この世界の中で。伸ばして────
「……だめ。だめなの、こうじ。わたしはここで待ってないと────ワタシと逢えなくなっちゃうから。だって、あの人達がそう言ってたもの」
「……ダメ。ダメだよ、コウジ。ワタシはここで待ってないと────わたしと逢えなくなっちゃうんだ。だって、アイツらがそう言ってたから」
「ッ────…………」
虚空を彷徨う。別離に怯える少女らの『右手』は、伸びる事は無くて。ただ、無力な『右手』だけが────『混沌』に。
────さあ、時間だよ。
カチリ、と針が廻る。ある種の実感だけが、その『右手』に。虚空を彷徨うその腕が、何か────酷く邪悪で非情なモノに。
聞こえたのは、鐘の音色か。はたまた、そう聞こえるだけの機械音か。或いは────人の言葉に聞こえるだけの機械の駆動音か。
「……ありがとう、こうじ。代わりに、見ているから。貴方を、わたしは」
「……ありがとう、コウジ。代わりに、見ているから。貴方を、ワタシは」
そして、慈しむように。双子の造花は、儚い笑顔と共に。
「「貴男を、ずっと──────…………」」
「───────………………」
そんな言葉すらも掻き消す、野卑で愚劣な、嘲り笑うような鐘の音色の中で。理不尽そのものに、無尽の悪意に満たされた人理の外宇宙に。無力と共に投げ出されて。
『あと、二度だ。選ばなければならぬ者よ、我が聖餐よ────お前の右腕は一つ。あの双子の右腕は二つ。故にお前は、選ばなければならぬ』
正視してはいけない、正気で居たいのであれば。くぐもった下劣な太鼓の連打と、呪われたフルートのか細く単調な音色。躍り狂う不定形の神々の中で、ただ一柱のみ正気のまま嘲笑う新月を。
認識してはいけない、安息に死にたいのであれば。奸佞邪智そのものを体現した、目に見えぬ月が、其処に在る事は。
「────巫山戯るな」
その月に、悪態を。『右手』の親指を、真下に向けて。
「また、奪いに来る────諦めるのはお前だ、あの娘達を────」
魂からの震えを、覚悟で抑え込んで。何処へとも知れぬ流浪の波、菫色の“芳香”に拐われながら。
『それは────愉しみだ。実に、実に』
混沌は歓喜に満ちて、更なる嘲りを。矮小な虫けらの強がりを弄ぶ、子供じみた声で答えた…………
………………
…………
……
ソファに寝そべっていた眼が開いて見詰めたのは、仄かに明るい朝日の射し込む木造の室内。耳が聞いたのは、壁に立つ大きな柱時計が朝五時を知らせる音色。
状況掌握を開始する。場所、純喫茶『ダァク・ブラザァフッヅ』。時刻、午前五時ジャスト。状態────
そこで身体を動かそうとして、気付く。足と腕──正確には後ろ手に組まされた親指──が、結束バンドで縛られている事に。
恐らく、それを為した人物が。時計のベルなど気にせずに対面のソファで眠りこけている市媛と、アイマスクと耳栓を装着してテーブルに突っ伏して寝ているフレンダ。そして────
「超目が覚めたみたいですねェ。それじゃあ、尋問と超洒落こみますかァ」
「把握完了…………状態、百分の一」
その朝日を背にするように窓に寄りかかり、此方を炯々たる眼差しで睨み付ける最愛の姿だった。
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