ルドガーinD×D (改)
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四十七話:かの人を刺し殺した日
前書き
ヴィクトルの過去は
――――――・・・・
こんな感じにこの線の中に分かるように書いてあります。
話を途中で区切る様に入るので一回目は飛ばして最後に読んだ方がいいかも知れません。
――――――・・・・
それではどうぞ。
あれから借金を返しながらヴェルからの連絡を待っていたルドガーの元についに連絡が入り、本物のマクスウェルを見てみたいので連れてこいというビズリーの指令の元、ミラとエル、そしてリドウの一件以来、クランスピア社が信用できないジュードとローエンが三人だけでは心配だと言う理由で一緒について来てくれた。ルドガーとしても“ミラ”の事を許せない為に二人の申し出は嬉しかった。
『ルドガーとマクスウェルだけを呼び出したつもりなのだが?』
クランスピア社前にルドガー達が着くと部下を整列させて待っていたビズリーは、ジュードとローエンを見るなりそう言った。その台詞に上司であるにもかかわらず思わず、ムッとして睨みつけるルドガー。しかし、そんな視線にもビズリーは全く動じることは無い。そんな姿を見てアーサーは今までは冷酷な本性を隠すために猫を被っていたのではないかと考える。
『クランスピア社は信用できませんから』
『意外にはっきり物を言うのだな、Drマティス。黒匣も精霊も維持しようなどという、半端な理想を語る割には』
ジュードが厳しい視線を向けながらハッキリと信用できないと言うのにも動じずに嫌味を返すビズリー。そんな様子にやはりビズリーという男は油断ならない男だと再認識するヴァーリ。ビズリーは、嘘は言ってはいないが真実を隠してルドガー達を利用していたのだ。もっとも、まだまだ真実を隠しているのだが。
『二ヵ国の和平条約は成りましたよ』
『わざわざのご報告、感謝します。一市民としても、喜ばしいことです、ローエン宰相』
一瞬で険悪なムードになるがそれでもビズリーは顔色一つ変えようとはしない。そもそも、なぜ、ビズリーがこうも険悪なムードを作り上げたのかというと目の前に彼がこの上なく憎んでいる存在がいるからだ。
『なるほど、お前がビズリーか。確かに、一筋縄ではいかないようだ』
『そういうお前が本物の、マクスウェルか』
『エルのミラだって本物―――』
エルがまるで自分の“ミラ”が偽物だと言われたように感じたのでビズリーに反論しようとしたが、それをミラが手で制して止め、エルを守るように前に進み出る。
『ミラ=マクスウェルだ。間違うな』
『さすが精霊の主。気位が高い』
睨みつけてくるミラに対して、瞳の奥に憎悪の炎を燃やしながら睨み返すビズリー。彼は黒歌達にはよく分からなかったが精霊を憎んでいるのは間違いない。故にこのような視線をミラに向けているのだ。しかし、ミラはそんな視線にも、たじろぐことなく時空の狭間は安定したことを聞く。それに対してヴェルが肯定し最後の道標が存在すると推定される分史世界の座標をルドガーのGHSに転送する。
『残る道標の正体は、判明しましたか?』
『……いいや』
ローエンの質問に対して含みのある言い方で答えるビズリーに朱乃は、ビズリーは最後の道標の正体を知っているのではないかと考えるが、なぜ、ビズリーがそれを隠しているのかの理由までは考え付かなかった。
『だが、これまでと同じく時歪の因子を探せばカナンの道標は見つかるはずだ。Drマティス一行が協力してくれれば、より確実に』
『ルドガーには、協力します。僕自身の責任と理想のために』
『はい。動かされるのではなく、自らの意志でね』
ビズリーのセリフに対してジュードはクランスピア社への不信をあらわにしながらルドガーには協力すると言う。そしてその台詞にローエンも同意し、自らの意志で行う事を強調する。そんな二人に対してビズリーは軽く笑い言葉を続ける。
『ふっ、己の意志に従う。それこそが人間だ。いい仲間をもったな、ルドガー』
その言葉には反論するところがなかったのでルドガーは黙ってうなずく。そしてビズリーはこれが最後の道標探しだと言い敬意を表し、見送るために周りにいたエージェントを一斉に敬礼をさせる。その事にエルが驚いて周りを見渡す。黒歌達もまるで英雄を見送るかのような態度に呆気にとられる。
『ルドガーに期待しているのだな』
『当然だろう。クルスニクの鍵は最後の希望だ。オリジンの審判を超えるためのな』
ミラの言葉に対してルドガーを見ながら最後の希望だと言うビズリー。しかし、ビズリー程の人間が本当にまだルドガーをクルスニクの鍵だと思っているのかと祐斗は疑問に感じる。ユリウスが気づけたことにビズリーが気づけないとは思えない。それに何より、ルドガーを見送るビズリーの目には鍵というもの以上に期待を向ける物があった。まるで親が子に期待するかのような。
『期待されてるって』
『ああ、エルと“ミラ”の為にも……』
ルドガーはエルにそう答えて覚悟を新たにし、信頼できる仲間達と共に最後の道標を求めて分史世界へと進入していく。そこに待ち受ける存在も知らずに……。分史世界に進入したルドガー達はカラハ・シャールに出る。ミラはその風景に懐かしそうにし、ローエンと始めてあった時のことを話す。しかし、なぜかそこで店の店員がローエンを見て、怒鳴る。そして何故かと理由を聞いてみると八年前に殺されたローエンの姿に動揺したらしい。
「ローエンさんが殺された…?」
その衝撃の事実にアーシアはこちらが一方的に知っているだけとはいえ、知っている人物の悲運にショックを受ける。そして、ジュードはその事実からこの分史世界は正史世界よりも未来の世界だと仮説を立てる。
『ともかく、ローエンが殺害されたという、現場に行ってみよう』
ミラの提案もありルドガー達はローエンの死の真相を知るため、遺体が浮かんでいたという水のあるウプサーラ湖に行くことになった。その途中、マクスバードで源霊匣を見かけ、ここは源霊匣が普及している世界とわかる。その事に喜ぶジュードだったがその半面、複雑な様子で表情を曇らす。それもそのはず―――
「ジュードも殺された…だと?」
話を聞くにジュードもローエンと同じように殺されたらしい。その事にこの世界で一体何が起きたのかとゼノヴィアが顔を青ざめさせる。しかし、ここまでなら、まだあり得ることだと祐斗は考える。
何故なら、正史世界ですらローエンとジュードは常日頃から命を狙われる立場であったからだ。アルクノアが二人を纏めて殺したと考えればそこまで不思議ではない。しかしルドガー達がウプサラーナ湖に向かおう町の中を進んでいた時、妙な会話が聞こえて来た。
『ウプサラーナ湖で妙なものを見つけたんだって?』
『これってあれじゃないのか? カラハ・シャールの領主さんが探してくれって頼んでたヌイグルミ』
『ああ、殺された女の子が大切にしてたっていう』
『犯人が捕まってないからな。恨みが残っているのかも……』
そう言って男性はルドガー達がよく見慣れたヌイグルミのなれの果てを持ち上げる。
『「ティポ!」』
その姿を見て思わず、イッセーとジュードの声が被る。そして同時にある結論に達する。殺された女の子とはエリーゼのことであると。ここまで来ると意図的にかつて旅をした仲間を殺したとしか思えない。ルドガー達は顔つきを険しい物に変え犯人の手掛かりを探すためにウプサラーナ湖へ行く決意を固める。
「……一体、どうなってるのこの世界? ジュード達を纏めて殺せる人って一体誰なの?」
「―――あ」
リアスの言葉を聞いた黒歌の脳裏にある人物の言葉が浮かび上がる。そしてある人物は自らを未来の人間だと言ったことも思い出す。さらにエルの家の前には湖があるという話とエルのパパが強くて料理が上手でさらには裁縫も得意だという事を思い出す。はじめはそんな完璧超人がいるのかと思っていたが自分は最初からその人物を知っていた。同時にエルの瞳に目が行ってしまう。ルドガーと同じ、エメラルド色の瞳に。
「う…うそ。そんな事って……」
「……姉様、どうしたんですか?」
「……なんでもないにゃ。多分……すぐにわかるから」
黒歌は嘘であってほしいと思いながらもウプサラーナ湖へと行くルドガー達について行くのだった。しかし、彼女の予感は当たってしまう。それも最悪の形で。
ウプサラーナ湖に着いたルドガー達は正史世界とは違い緑あふれる。ウプサラーナ湖の様子に少し感動したように辺りを見るがここがこの世界の自分達の殺害現場だと思うと素直に喜べず顔をしかめる。そして、その緑溢れるウプサーラ湖には一つの家が建っていた。
『緑がこんなに……』
『あれが、遺体が浮かんでいたという湖ですね』
『誰か、住んでいるのか……』
そんな仲間達の会話にルドガーは正史世界にはなかったと言い。この家は未来に出来た家か、もしくは正史世界では壊れてしまった家なのだと気づく。しかし、その横ではエルが、あの家の正体に心当たりがあるようでそわそわとしている。
『調べてみた方がよさそうですね』
『調べなくていいよ。あれ……エルの家だし』
ローエンの調べて見た方がいいと言う言葉に反応し、エルが自分の家だと言う。そのことに黒歌達も含めた全員が驚きの表情でエルの方へと目を向ける。エルはというと自分の家を前に我慢できなくなったのか自分の家だと叫んで家の方にルルと共に駆け出していく。
『パパァーッ!』
その後ろをルドガー達は何かあったら不味いと考えて追いかける。リアスはここが本当にエルの家ならようやくエルは帰れたのだと思い嬉しくなるがすぐにここが分史世界だと気づき、だとしたらエルの家は正史世界にはどこにもないのだと思い空しくなる。しかし、その虚しさは直ぐに驚愕へと変わることになる。
ルドガー達が追いつくと家の入口にはエルとルル、そして二人の見上げる先には全身黒ずくめの仮面の男―――ヴィクトルがいた。
「なんで、ヴィクトルが居るんだよ!?」
思いもよらない人物の登場に思わずイッセーが叫び声を上げる。そしてエルに危害を加えるのではないのかと考え記憶の中でもあるにもかかわらず、構えてしまうが―――
『パパ……』
『お帰り、エル』
「エルが……ヴィクトルの―――分史世界のルドガーの娘?」
エルがヴィクトルをパパと呼び、ヴィクトルもそれを認めたことに愕然として固まってしまう。それはイッセーだけでなく他の者も同様だったが、ただ一人黒歌だけはそのことに気づいていたのか悲しそうに顔を伏せる。
「やっぱり……」
「黒歌さん、あなた気づいていたの?」
「つい、さっきだけど……ヴィクトルは仲間を殺したって言ってたし。エルのパパの特徴も“ルドガー”と同じだったし。それに……目にゃ。エルとルドガーの目は……エルとヴィクトルの目は同じ色だったからにゃ」
ヴァーリの問いかけに黒歌はそう答える。その間にも、エルとヴィクトルは会話を続け、やがてエルは、今まで心配していた父親の無事が分かったことと、やっと帰ってこられたという安堵から今まで流さなかった涙を流して両手を広げて待つ、ヴィクトルに抱き着き声を張り上げて泣いた。
そしてヴィクトルはその背中をポンポンと叩きながら、優しくあやす。ルルも男に近づいて、一瞬不思議そうな目でヴィクトルを見、甘えるように擦り寄る。その姿は誰がどう見ても優しい父親で、黒歌達にはなぜ、このように優しいヴィクトルが―――ルドガーがあの冷たい目になり、兄と父、そして仲間達を殺したのかが分からなかった。
『娘が世話になったようだね。ヴィクトルだ。立ち話も何だ、大したもてなしは出来ないが食事でもどうかね―――ルドガー・ウィル・クルスニク君』
ヴィクトルはルドガーを、本物の自分を見てそう話す。
その目の奥には、確かな憎しみが存在した。
『お口にあったかな?』
『ごちそうさま。結構なご馳走だったよ』
ヴィクトルの料理に舌鼓を打ったルドガー達、エルは久しぶりに食べた大好きな父親の手料理に大満足といった様子でルドガーにおいしかったかと聞く。それに対してルドガーは素直に負けを認める。見ているだけで食べることのできない黒歌達もヴィクトルの料理がルドガーよりも遥かに洗練されているのを感じ取る。
『君もこれくらいはできるようになる。そう……十年も経てば』
ヴィクトルのその台詞にルドガーとエルは顔を見合わせる。二人としてはルドガーの料理はまだまだだと言われたのかと思い、エルは大好きな父親に自分のアイボーの料理もおいしいのだと本当に嬉しそうに伝える。しかし、ヴィクトルの正体を知る小猫はヴィクトルが自分の存在をルドガーにほのめかせているようにしか聞こえず酷く不気味に感じた。
『ふふふ、こんな楽しい食事は十年ぶりだ』
そう言ってヴィクトルはどこか遠くを見るような目で飾ってある写真を眺める。そこには父と娘の仲睦まじい写真や、今はこの世に居ないと思われるエルによく似ている妻と撮った写真が飾ってあった。
『たべすきちゃった……パパが、エルの好きなものばっか……つくるから……』
家に帰ってこられたという安堵感か、それとも大好きな料理で満腹になったためかエルが眠たそうに、頭を揺らす。しかし、真実としてはヴィクトルがエルの料理に微量に睡眠薬を混ぜたのかもしれない。
『頑張ったご褒美だよ』
そう言ってヴィクトルはエルをお姫様抱っこで、ソファーまで運んでいき寝かす。エルは数秒のうちに眠ってしまった。黒歌達はそんなどこまでも娘に甘く優しい父親があのヴィクトルだと未だに信じられない気持ちであった。
『……さて、ヴィクトル。聞きたいことがある』
エルが寝入るのを見届けたミラが固い声で問う。
『仮面の無礼は許して欲しい。ある戦いで、顔に傷を負ってしまってね』
『そうではない』
『では、何を知りたい?』
『あなたは、何者なんだ?』
改めてルドガーがヴィクトルに何者なのかと問う。それに対してヴィクトルは愛しげにエルの頭を撫でる。その姿からはヴィクトルが心の奥底からエルを愛している父親だということがうかがえる。
『この子の父親だよ』
『けど、あなたは―――』
『分史世界の人間、だろう?』
その言葉に息をのむルドガー達。ヴィクトルは正真正銘、この子の父親だと言い、ローエンは、それではエルもそうなのかと聞く。それに対してエルは、クルスニク一族でも選ばれた者だけに受け継がれる力を持っている、正史世界では失われた、時空を制する鍵なのだと答えるヴィクトル。
『……! クルスニクの鍵!』
『それは、ルドガーさんではないのですか?』
『本人が一番よくわかっているだろう』
ヴィクトル含めた、全員の視線がルドガーに向く。それに対してルドガーはばつが悪そうに顔を背ける。気づいてはいたが、ユリウスが黙っていろと言った為にジュード達にも教えていなかったのである。
『その力で、何を企んでいる』
ミラがルドガーの表情からそれが事実であると読み取り、ヴィクトルに向き直り再び固い口調で問いただす。
『ただ、鍵の力も万能でなくてね―――君が邪魔なんだよ。ルドガー』
ヴィクトルがルドガー達の目の前から消え、ルドガーの背後に回りこむ。ルドガー達も素早く立ち上がるがヴィクトルはルドガーの後ろで撃ち殺す真似をする。そしてその指をゆっくりと口元へと持っていき戦う姿勢を見せるミラに静かにするように促す
『娘が起きてしまう。外へ出よう』
そう言ってヴィクトルは再び高速で移動し外に出て行ってしまう。黒歌達もヴィクトルの目的が何なのかを知るためについて行く。
ルドガー達が外に出ると、すでに日は傾き、夕日が湖を美しく照らしていた。そんな景色を見ながらヴィクトルはルドガー達にいい景色だろうと問いかける。それに関しては黒歌達も同意見だった。
『ここでは源霊匣が完成しているんですか?』
『ああ。八年前に君が完成させた』
その言葉にジュードとミラは嬉しそうな表情を見せる。しかし、ヴィクトルの次の言葉でその表情は一変する。
『だが、君は私が殺した』
殺人犯の意外な正体が分かり、全員の顔が驚愕に染まる。黒歌達も分かっていたとはいえ、先程までの優しい父親の顔を見ていたので見ていて心苦しくなる。
『何故そのような!?』
『ジュードだけではない。この世界のあなたも殺した。アルヴィンもレイアもエリーゼも私が殺した』
ローエンの叫びに答えるヴィクトルの声がどんどん低くなっていき、あたりの空気がどんどんと冷たくなっていく。そんな様子にアーシアはヴィクトルにやられたことを思い出して思わず身震いをする。
『ビズリーを殺す邪魔をされたんだ。ユリウスと一緒になって……ビズリーは私から、エルを、奪おうとしたのに……』
今でも許せないのかエルを奪おうとしたと言う部分を強調するヴィクトル。ここで小猫はヴィクトルがなぜ、兄を殺したのかを理解する。ヴィクトルは娘を何らかの理由でビズリーに奪われそうになったために殺したのだ。ビズリーに味方をした兄とかつての仲間と同時に。そんなヴィクトルにミラが再び何を企んでいるかと聞く。
『“本物”のエルと暖かな暮らし―――だが、お前がいては、それが出来ない…!』
同じ色の瞳でルドガーに憎悪の籠った視線を向けたかと思うとヴィクトルは双剣を抜き、ルドガーに斬りかかって来る。ルドガーもすぐに双剣を抜きヴィクトルに対抗する。そんな様子を見たジュード達はある結論に達する。
『まさかヴィクトルさんは!』
『分史世界のルドガーか!?』
『そう! 俺は未来のお前だ!』
ヴィクトルは卓越した剣技でルドガーを追い込んでいき、ルドガーの腹部に強烈な蹴りを入れてふらつかせる。そして、その一瞬でルドガーの倒し、逃げられないように足でルドガーの腕を踏み抜き、剣を首筋に当て、もう片方を振り上げる。
『そして、今から“本物”のお前に、成り代わる!』
そして今、剣が振り下ろされようとした瞬間―――
『みんな、何してるの?』
エルの声によって動きは止まる。流石に愛娘の前で殺しをするつもりはないのかヴィクトルは口調を柔らかくしてエルに家の中にいなさいと言おうとするのだったが。
『戻っていなさい。パパ達は大事な話が……うっ!?』
突如としてヴィクトルはうめき声を上げ、苦しみ始める。その姿にエルは心配してすぐに駆け寄ろうとするが苦しみの余りに腕を振り回したヴィクトルの腕に当たってしまい押し倒されてしまう。そしてそれと同時にヴィクトルの仮面が外れ、その下から黒い靄と共にどす黒い肌と光を失った赤い目が現れる。
それに対して思わず怯えてしまうエル。ルフェイやギャスパーもその姿に悲鳴を上げてしまうが、祐斗はその姿が非常に時歪の因子に似ていたために眉をひそめる。
『ふ、ふふ……怖いか? だが、カナンの地へ行けばこの姿もなかったことに出来る。パパとエル、二人で幸せに暮らせるんだよ』
『ほ、んと、に……?』
その言葉につられて、エルはゆっくりと手を差し伸べる父親の元へと近づいていく。そんなエルにルドガーは倒れたままの状態で必死に叫ぶ。
『来ちゃダメだ、エル!』
『貴様が命令するな! カナンの地で大精霊オリジンに願い、私は人生をやり直す!』
「人生をやり直す……それがヴィクトルの目的だというのか?」
ルドガーを踏みつけ、憎悪と悲しみの籠った目でそう語るヴィクトルにゼノヴィアが呟く。正直の所、黒歌達には人生をやり直すという気持ちがわからなかった。過去を変えたいと思う事は誰しもあるが、人生をやり直すということをどんな手を使ってでもやり遂げようとする気持ちは分からない。故に、ヴィクトルがどれだけの過去を持っているのかが気になった。
『もちろん、エルも一緒にな。私の娘として、正史世界で生まれ変わるのだ』
『生まれ……変わる』
『それは別の人間になるってことでしょう!?』
『“私達”に変わりはない!』
ジュードの言葉にも全く聞き耳を持たないヴィクトル。黒歌はその言葉が信じられなかった。そして、それこそが今ここに居る君じゃないとダメなんだ、と言ってくれた彼との違いなのだと確信する。
『何も心配いらないよ。……思い出なんて、またつくればいい』
『……え?』
思い出なんて、またつくればいいと言われた瞬間、エルの表情が固まる。ヴィクトルはルドガーから離れ、エルに近づく。そして両手を広げてエルを抱きしめる構えを見せる。だが、エルはそれに抱き着こうとはしない。
『おいで。今度はきっとママも一緒にいられる』
『―――だ』
『そんなのやだぁっ!!』
エルはそう叫んで、ヴィクトルを突き飛ばした。娘に拒絶されたことが余程ショックだったのかヴィクトルは呆然した表情で倒れたままエルを見つめる。その隙をついてルドガーはエルを抱き上げ、避難させる。そんな様子を見たヴィクトルは今までで一番の憎悪の籠った表情でルドガーを睨みつける。その表情は独占欲などという可愛らしい物からではなくなにかとてつもない後悔や愛情から成り立っているものだった。
『エルは……私のものだっ!!』
『違う! エルは、エル自身のものだ!』
再び斬り合う両者。同じ構え、動き、技。改めて、黒歌達は二人は同じ存在なのだと感じる。だが同時に同じなのはそれだけなのだとも理解する。二人は全くの同一人物であり、全くの別人なのだと。
『入れ替わる為に、ルドガーをこの世界におびき寄せたのか!』
『エルを利用して!』
ミラとジュードがその非情なやり方に怒りをあらわにしながらヴィクトルに攻撃を仕掛けていく。それをヴィクトルは防ぎながら話を続けていく。その姿にはもはや優しい父親の面影はなかった。
『そう! エルは必ずルドガーと戻ってくる。なぜなら―――私が最後の道標だからだ!』
ミラとジュードを回転して吹き飛ばすヴィクトル。しかし、そこにすぐさまローエンが入ってきてヴィクトルを攻める手を休めない。しかし、ヴィクトルはその攻撃も軽々しく躱していく。
『娘の愛情を弄ぶとは!』
ローエンがヴィクトルの相手をしている所でルドガーが骸殻に変身して空中から槍で突き刺そうとするがヴィクトルはそれを双剣で受け止め弾き返す。
『貴様らに、何がわかるっ!!』
ヴィクトルは怒りの感情の籠った叫び声を上げ時計をかざす。そして以前、黒歌達の前で変身した時のように炎がほとばしり、光がヴィクトルを包む。次の瞬間、顔を含めた全身が黒と赤の装甲に変わる。フル骸殻だ。しかし、その姿は黒歌達が見たものとは違っていた。傷だらけでボロボロなのだ。そのことからアーサーはこの時の彼は全力が出せなかったのでは考える。そして、現在の全力を出せる彼の恐ろしさを改めて感じる。
『……兄と父を殺して手に入れた力だ』
クルスニク一族の業をそのままに受け継いだかのようなヴィクトルのセリフにルドガー達は思わず怯みそうになるが、ここで死ぬわけにはいかないと覚悟を決め立ち向かう。どんなに辛いことがあっても彼等は進み続けなければならないのだから。
それが―――
『やめて……やめてよ! パパっ、ルドガーぁ!』
少女の心を傷つけることになるのだとしても。
戦いはまさに死闘だった。ヴィクトルは強かった。本来の実力が出せるのならルドガー達は間違いなくここで殺されていたであろうと黒歌達は思ったが、勝ったのはルドガー達だった。エルの悲鳴が止むことのない戦いの末にヴィクトルは叫び声を上げながら崩れ落ちる。
『俺の…本当の、世界はぁっ!!』
戦いに勝利したもののルドガーの顔は実に苦しそうなものだった。当然だろう。死闘の後、しかも相手は異なる自分、そして何より―――エルのパパなのだから。
『ぐうっ……体が……』
体から黒い靄を溢れ出させながら苦しそうに喉を抑えるヴィクトルの姿は誰がどう見ても既に限界を超えていた。そんな父親の元にエルは恐る恐る近づく。そして、ヴィクトルがエルの首筋を見て驚愕の表情を浮かべる。
『くそ……間に合わなかった……! がふっ、ごほっ!』
何かが間に合わなかったことに後悔しながら地面に大量の血を吐き出すヴィクトル。そんな様子にアーシアが思わず駆け寄ろうとするがここが記憶の中だと気づき悔しそうに唇を噛みしめる。そしてヴィクトルはルドガーに向かって話しかける。
『聞け、ルドガー! 一族の力を……骸殻を使える限度は……決まっている』
『力の限度?』
『まさか、その代償が―――』
『時歪の因子化!』
驚愕の真実にルドガー達はそれ以上言葉が出て来ない。黒歌達も骸殻の真実にゾッとし、骸殻を使うルドガーの身を案じる。リアスはどうりで普段は骸殻を使いたがらないわけだと納得する。黒歌達が考えている間にヴィクトルは苦しげにしながらもさらに言葉を続けていく。
『力には代償が付きまとう……逃れる方法は……ない』
『骸殻にそんな代償があったなんて聞いてないぞ……』
ルドガーは自らの命に関わりかねないことを隠されていたことに茫然としながらもクランスピア社への不信を新たにする。そしてユリウスが必死に時計から自分を遠ざけようとしていた理由も同時に理解する。
『それでお前は、生まれ変わりを選んだのだな』
『ふっ……』
ミラの言葉にまるで自分を自嘲するように笑い、時計を拾い上げるヴィクトル。彼とて好き好んで愛娘を利用したわけでは無い。娘と共に過ごすにはそれ以外に方法がなかったのである。その事にイッセーはとてつもないやるせなさを感じてしまう。当たり前の幸せすら手に入らなかったのだ、ヴィクトルは。
『ルドガー!』
ヴィクトルが既に限界を超えているにもかかわらず、骸殻に変身してルドガーに襲い掛かってくる。その事に苦悶の表情を浮かべながらもルドガーは自身も骸殻に変身してヴィクトルを迎え撃つ。槍と槍のぶつかり合う音が静けさを増したウプサラーナ湖に響き渡る。
『お前はどう選択する!』
そう叫んで槍を突き刺そうとして来るヴィクトルはどこかルドガーの覚悟を問うようであった。そしてルドガーの決意した選択は。
―――ドシュッ!
響き渡る肉を貫く音と―――父親を目の前で殺されたエルの悲鳴。ルドガーはヴィクトルを、自分を殺したのである。その事に黒歌達は人が死ぬのには見慣れているはずなのだがどうしようもない、言葉にもならない声を上げてしまう。
『エルを……頼む。カナンの地を……開け……オリジンの……審判を越え』
最後の最後に初めてルドガーに微笑みかけ、エルを託し崩れ落ちるヴィクトル。彼は間違いなく娘を愛していた。ただ、彼には時間が残されていなかった。娘が独り立ちするまでも生きることが出来ない。だからこそ、生まれ変わりを祈った―――愛する娘を利用してでも。
『あああ……パパッ! やだよ、パパァッ!』
エルがヴィクトルに泣きつく。ヴィクトルはそんなエルの頬を優しく撫でて途切れ途切れで歌にもなっていない証の歌をエルの為だけに歌う。ルドガーはその様子を苦しみと悲しみ、そして罪悪感がごちゃ混ぜになった表情で黙って見続ける。エルが泣いている理由は何だ? 父親が殺されたからだ。誰に? 俺にだ。ルドガーの頭の中ではそんな思いだけが渦巻いている。
黒歌達はそんなルドガーの姿に慰めの言葉すら見つからない。そしてイッセーは悩む、自分達は両方を救う選択を選ぶ様にルドガーに言った。だが、このような二者択一だけを選んできたルドガーの顔を見てどちらも救うというのはそもそも不可能なのではないのかと弱気になってしまう。
―――――――――・・・
そんな時、黒歌達はある記憶を走馬灯のように見る。それは、以前見たようにルドガーが駅でエルに痴漢冤罪をかけられた光景だった。だが一つだけ違う点が存在したそれは―――
「エルの目の色が……アメジストになっているにゃ」
エルの目の色が違っていたのだ。ルドガーのエルはルドガーと同じエメラルド色の目だ。つまり、このエルは黒歌達の知るエル・メル・マータではない。このエルは―――ヴィクトルのアイボーなのである。
「つまり、これはヴィクトルの記憶……死ぬ間際の走馬灯でしょうか」
朱乃の言う通りこれはヴィクトルがルドガーだった時の記憶なのである。ヴィクトルもルドガーと同じ様に“エル”と出会い旅に出たのである。そして仲間達とも出会い共にカナンの地を目指したのだ。ヴィクトルもまたエルとカナンの地に行くと約束を結んだ。
『ホントのホントの約束だよ、“エル”と“ルドガー”は、一緒にカナンの地に行きます』
二人はルドガー達のように強い絆で結ばれていた。同じように“エル”の為に自分の腕を切ったりもした。同じように雷を怖がる彼女の耳を塞いであげたこともある。同じように彼女を大切にしていた。だが―――
『“ルドガー”の……嘘つきっ!』
彼は“エル”との約束を破ってしまった。同じように最後の道標を集めに来た世界で道標を手に入れるためにエルを見捨てる選択をしたのだ。その時のヴィクトルを見る“エル”の目は見捨てられたことにより憎悪で満ちていた。
ヴィクトルは世界を救う為に“エル”を見捨てたのだがそんなものが免罪符になるわけもなく彼は罪悪感で苦しみ続けることになる。彼はアイボーを犠牲にしたことによりカナンの道標を全て揃えることに成功した。だが―――
『なんでカナンの地が出現しないんだ!?』
『まさか……この世界は―――分史世界!』
彼の世界は“偽物”だった。彼はその事に絶望した。そして全ての事から逃げる様にエージェントの仕事も辞めてただ生きる屍となった。偽物の世界の為に犠牲にしてしまったアイボーに懺悔しながら。
「必死に道標を集めてきて、最後には大切な存在を捨てたのに世界が偽物だなんて……酷過ぎるわ」
リアスはヴィクトルの余りの悲惨な過去に唖然として思わず同情してしまう。自分がやってきたことを全て偽物として処分されてしまったのだ。その絶望は恐らくは黒歌達には到底、理解出来る物ではないだろう。彼は毎日をただ、何の目的もなしに生きていた。死ぬことも何度も考えたが兄がそれだけはやめてくれと泣きながら頼んできたのでそれは出来なかった。食事も殆どとっていなかったが―――
『ルル……どうして食べないんだ? ほら、今日はロイヤル猫缶だぞ』
『ナァ~』
急に一切食事をとらなくなった愛猫を心配してヴィクトルは自分の事を棚に上げてロイヤル猫缶をルルの前に出して食べる様に促す。しかし、いつもなら勢いよく食べるにも関わらずルルは全く食べる素振りを見せない。
『本当にどうしたんだ、ルル』
『ナァ』
不思議がるヴィクトルの前にルルは自分のエサ皿を押し出す。そしてヴィクトルを見て鳴き声を上げる。その様はまるでお前が食べろと言っているように見えた。そこでヴィクトルはハッとしてすぐに自分の食事を用意する。そしてルルの前でしっかりと食べる。するとルルも安心したように餌を食べ始める。
『ルル……お前、こんな碌でもない俺の事を心配してくれてたのか?』
『ナァー!』
『……ありがとうな、ルル』
ヴィクトルは泣きながらルルを撫でる。その様子にルルも満足げに鳴き声上げる。この日からヴィクトルは必ずルルの前でしっかりと食事をとるようになった。そんな様子にアーシアが思わずもらい泣きをしてしまう。
だが、ヴィクトルはまだ絶望したから抜け出せないままであった。しかし、その絶望は一人の女性との出会いにより取り払われた。ある日、ルルに連れ出されて渋々ながら外に出ていた時、突如としてルルが駆け出して行ってしまったのだ。
その事にいぶかしがりながら追っていってみると。自分のアイボーを思わせる髪の色をした一人の女性にじゃれ付いていたのである。その事にヴィクトルはよくルルに餌をくれる人なのかと思いながらその女性に近づいていく。
『ルル、あんまり貰い食いはするなよ。すいません、家の飼い猫が迷惑をかけてます』
『この子、ルルちゃんっていうんですね。可愛い名前ですね』
そう言ってじゃれていたルルから目を上げてヴィクトルを見る女性。その瞬間ヴィクトルは目を大きく見開く。なぜなら、その女性の瞳はアイボーと同じアメジスト色だったからだ。
『どうかされましたか?』
『あ、いや……知り合いと同じ色の目をしていたんで』
『そうなんですか? だったら何か縁があるのかもしれませんね。
私はラル・メル・マータです。あなたは?』
『俺は……ルドガー・ウィル・クルスニク』
その出会いは運命だったのか、ヴィクトルとラルは瞬く間に惹かれあい恋に落ちる。ヴィクトルはアイボーと同じ眼の色をしたラルに心を癒されて絶望の淵から抜け出す。そして愛し合った二人は結婚する。ヴィクトルは再び世界に幸せを見出し日々の生活を充実して過ごすことになる。
「元気になって、よかったですうぅぅ」
ギャスパーはヴィクトルが希望を取り戻したことに思わず喜びの声を上げてしまう。そして、二人は愛の結晶を授かることになる。
『ねえ、あなた、子供はなんて名前がいいと思う?』
『そうだな……女の子なら―――エル』
『エル……可愛い名前! それで決まりね』
彼は考えるまでもなくその名前を口にしてしまった。慌てて言い直そうかとも思ったが彼女がことのほかその名前を気に入ってしまった為に言い直すことはせずにかつてのアイボーの名前を生まれて来る娘につけることになった。それが幾度となく繰り返される運命の呪縛だという事も知らずに。
彼女は難産の末に一人の元気な女子を産んだ。余りにも難産だった為に彼女は身体が弱くなってしまい、もう子どもが出来ない体となった。しかし、それでも二人は幸せだった。かつての仲間や兄が生まれた女の子、エルを祝福してくれた。この幸せがいつまでも続いてくれると思っていた。エルが―――クルスニクの鍵だと判明するまでは。
『ルドガー、この世界を守る為にエルが必要なんだ』
『だとしても、エルを渡したくない!』
父ビズリーはその能力を利用しようとし、かつての仲間たちも自分達の世界を守るために赤ん坊のエルを正史世界への交渉材料に使おうとしていた。兄ユリウスだけは間に立ってくれてはいたが結局ルドガーの身を案じることを優先としていた為にどっちつかずの状態でエルを守るという選択は出来なかった。
ヴィクトルはかつて自分の“エル”を犠牲にした罪悪感から、世界の為に娘を犠牲にするということは許せなかった。ヴィクトルと仲間達の話し合いは平行線をたどっていた。そして、ビズリーが痺れを切らしてエージェントを率いて襲撃しようとしていることを知ったユリウス達は穏便に事を済ませるために最後の交渉としてウプサラーナ湖にある、別荘に泊まり込んで交渉を続けた。そしてどちらも譲れず議論が白熱してきた時―――
『子どもなんて、またつくればいい』
誰が言ったのかも分からない程の何気ない言葉がヴィクトルの耳に入った。その言葉はヴィクトルを激昂させた。ラルがもう二度と子供を作れない体になったにも関わらず言われた言葉。
皮肉なことにその言葉と同じような言葉をヴィクトルはエルに言ってしまう事になるのだがこの時の彼はまだそんなことなど知らない。彼は最愛の妻が身を削ってまで生んでくれた愛娘を利用しようとするもの全てに怒りを露わにし、かつての仲間と自分の味方にならない兄へと刃を向けた。
「ひっ!」
次の瞬間目の前に広がっていた光景に思わず、ルフェイが悲鳴を上げる。別荘の前は血の海が広がりジュード、レイア、アルヴィン、エリーゼ、ローエン、そして唯一、虫の息ではあるが生きているガイアスが見るも無残な姿で沈んでいた。立っているのは返り血と自分の血で銀色の髪を真っ赤に染めたヴィクトルと傷だらけながらも何とか立っているユリウスだけだった。
『ルドガー……お前はこの選択に後悔はないんだな?』
『ああ…何があっても、あの子は―――エルは渡さないっ!!』
『その覚悟……試させてもらうぞ!』
ユリウスの問いかけにヴィクトルは怒りの雄叫びを上げて骸殻に変身してユリウスに襲いかかる。ユリウスはそんな弟の様子に今まで迷っていた目を強い覚悟の籠った物に変え自らも骸殻に変身してルドガーを迎え撃つ。そして幾度となく金属音が響き渡り、激しい戦いを繰り広げるが、やがてその音もやむ。
最後に立っていたのはヴィクトルだった。ヴィクトルは骸殻を解き、激戦による刃こぼれで使い物にならなくなった双剣を捨てて、ガイアスの長刀を拾い、兄の息の根を止めるために、もう立ち上がる体力もない兄の元にゆっくりと近づいていく。
『ルドガー……』
『なんだい、兄さん?』
『ビズリーがもう少しでエージェントを率つれてここに来る……ビズリーは最強の骸殻能力者だ……今のお前じゃ勝てない』
『……だとしてもエルを渡す気はない』
『ああ……だから―――俺の時計を持っていけ』
そう言ってユリウスは最後の力を振り絞って傷だらけになった自分の時計をヴィクトルに差し出す。ヴィクトルはそれを戸惑った表情で見つめるがやがて全てを納得したように時計を受け取る。それをユリウスは今まさに殺されようとしているにもかかわらず満足げに見つめる。
『ごめんなぁ……ルドガー。俺は……最後までお前を傷つける事しか出来なかったよ』
『そんなことは……ない』
『なあ、ルドガー……勝手な兄貴の願いを最後にもう一つだけ聞いてくれないか?』
ユリウスはヴィクトルに優しげな声で語り掛ける。そんな様子に黒歌達は胸が張り裂けそうな悲しみを覚える。ユリウスはヴィクトルを守りたかったのだ。だが、ヴィクトルを優先するばかりにヴィクトルの大切な者を厳かにした。その為に兄弟で殺し合う事になってしまったのだ。全てはクルスニク一族に生まれてしまったばかりに。その事実が二人の人生の悲惨さを物語っていた。
『どんな手を使ってでもいい。他人を利用したって構わない。
だから―――幸せになってくれ』
その言葉は兄としてただ弟の幸せを祈るものだった。その言葉にヴィクトルの顔は思わずくしゃりと歪む。だが、決して涙は流さない。
『うん……必ず、幸せになるよ。だから……サヨナラ、兄さん』
『ああ……弟に看取られて死ぬなんて俺には過ぎた幸せだな』
最後に穏やかな笑みでヴィクトルに笑いかけてユリウスは目を瞑る。ヴィクトルは様々想いから体を大きく震わせながら刀を振り上げ、そして―――ユリウスの心臓に突き立てる。愛する者を殺す。その行動にイッセーはこの世の矛盾を心に刻む。
そのままヴィクトルの体は糸が切れたようにユリウスの体の上に崩れ落ちてしまう。しばらくそのまま状態で動かなかったヴィクトルだったが、やがて聞こえてきた大勢の足音に反応し、立ち上がる。最後の大仕事が残っているのだ。ヴィクトルは大勢のエージェントを率いたビズリーを睨みつける。
『ビズリー……俺はお前を殺してエルとラルを守る』
『結局はこうなる運命なのだな……来い! 息子といえど容赦はせん!』
『俺の本当の世界をっ!』
両者は共に時計を構える。ヴィクトルは自分の時計とユリウスの時計を、ビズリーは黄金の時計を構える。そして二人共、フル骸殻になりぶつかり合う。そして死闘の末にヴィクトルは骸殻を半壊させながらも全ての敵を殺すことに成功した。しかし、世界はどこまでも彼に対して残酷であった。
『はぁ…はぁ……これで、俺は幸せに―――ぐっ! がああああっ!?』
自分の顔の右半分を抑えてのたうち回るヴィクトル。骸殻の使い過ぎにより時歪の因子化が限度を超えて進行してしまったのだ。もはや、どうしようもないレベルの浸食は彼の寿命を大きく削り取ることになるだろう。だが、彼は最愛の妻と娘と暮らせれば、二人が自分の分まで生きられるならそれでいいと思っていた。しかし―――
『あ、ああ……どうして、あなた……』
『ラル! ……君とエルを守る為にはこうするしかなかったんだ』
今まで危ないからという理由で隠れさせていたラルが、ヴィクトルが兄と父、そして仲間達を皆殺しにした現場に来てしまったのだ。ラルはエルを抱いたままの状態でヘタリと座り込んでしまい。怯えた目でヴィクトルを見つめる、そんなラルにヴィクトルは安心させるために近づこうとするが。
『私が…私が…エルをちゃんと産んであげられなかったから……あああっ!』
『ラル? そんなことはないよ、君はちゃんと―――』
『いや! いやっ! いやぁぁぁあああっ!!』
自分のせいだと思い、悲鳴を上げるラルをヴィクトルは抱きしめてやる事しか出来なかった。この時から、ラルは精神を病み、病の床に伏せることになる。全てはヴィクトルがラルとエルを守る為に兄と父、そして仲間達を皆殺しにしてしまったがために。
「守りたかった者を守ったせいでその人が傷つくなんて……悲し過ぎるわ」
「他に方法もなかったのに……こんなのあんまりだよ」
ヴィクトルの悲劇にヴァーリと祐斗は同情という事すらできず。ただ、絶望に打ちひしがれる事しか出来なかった。そんな間にもヴィクトルの過去は流れ続けていく。ある日、ヴィクトルが家に帰ってくるとラルがぼんやりとした目で大量のパイを作っていた。その様子にヴィクトルは震える声でラルに問いかける。
『ラル……そのパイはエルに食べさせるのかい?』
『あら、知らなかったの、あなた。今日は―――ジュード達が遊びに来るのよ』
彼女は焦点の合っていない目でヴィクトルを見つめながらそう答える。ヴィクトルは思わず、泣きそうになるが、すぐに彼女を黙って抱きしめる。自分のせいで何度も何度も過去を繰り返し続ける事しか出来なくなった彼女を。
『エリーゼもレイアも食いしん坊だから。それに義兄さんも美味しそうに食べてくれるから、たくさん……たくさん作らなきゃ』
『ああ……そうだな……そうだな…っ!』
そんな光景に黒歌達は言葉が出ない。自分のせいでこうなってしまったと一体どれだけヴィクトルが自分を責めているのかも分からない。ただ、分かることは、彼はどんなに彼女が狂ってしまっても彼女を愛し続けているという事だった。そして、さらにヴィクトルとラルの思い出は流れていく。病が進行し、やせ細りベッドから起き上がることも出来なくなったラルに一歳か二歳のエルが元気に話しかけている。
『マーマ、おはよーっ!』
『……あら、可愛い子……お名前は何て言うの?』
『マーマ?』
『エル! ……ママはお病気だからあんまり騒いだらダメだろう。エルの大好きなスープが出来ているから先にリビングに行っていなさい』
『はーい♪』
トテトテと可愛らしく歩いて消えるエルの背中をヴィクトルは罪悪感に押しつぶされそうになりながら見つめ、そして自分の方すら見つめてくれなくなったラルの手を優しく握る。
『エルって言うのね、あの子……可愛い名前。女の子の名前候補に入れてみようかしら、ねえ、あなた』
『……そうだね』
今にも泣き崩れてしまいそうになりながらヴィクトルは答える。彼女はもはや愛する娘の事すら思い出すことが出来ないのだ。そして、彼女が話しかけている夫も今目の前にいる彼ではなく記憶の中にいるヴィクトルだった。それでも彼は彼女が生きていてくれさえすれば良かった。とにかく生きて自分の傍にいてさえくれれば、それでよかった……それで良かったのにもかかわらず―――
『ねえ、あなた……』
『ラル……俺の事が分かるのかい?』
『ええ……ずっと夢を見ていたみたい……自分が自分じゃ、なくなっちゃうみたいで怖いの……』
『ごめん……ごめん……』
ほんの少しの時間だけ正気に戻ったラルにヴィクトルは謝り続ける。もう、ラルに残された時間は殆どないのだろう。最後の最後に正気が戻った、そう感じずにはいられなかった。黒歌達もそんな二人の様子を悲しげに見つめる。
『ねえ、ルドガー……お願いがあるの』
『何だい? 何でも言っておくれ』
『ルドガー……私を―――殺して』
その言葉にヴィクトルの顔が凍り付く。そして聞き間違いだと信じてラルを見るがラルは穏やかな笑みでヴィクトルを見つめてそれが真実だという事を告げる。ヴィクトルはそれだけはやめてくれと必死に首を振るがラルはそんなヴィクトルの頬を優しく撫でて、彼の仮面を取る。
『あなたを……エルを……忘れたまま、死にたくないの。
お願い、ルドガー。私を―――あなたを愛した私のまま死なせて』
その言葉に聞いていた黒歌は思わず涙を流す。分かってしまったのだ、ラルの気持ちが。自分の愛する人を忘れたまま死にたくなどない。それにどうせ死ぬのなら愛した人に殺されたい、一生想い続けて欲しい、という気持ちが痛い程に分かってしまった。
『君は……卑怯だ…っ! そんな言い方をされたら……断れないじゃないか…っ!』
『ごめんなさい……ルドガー』
涙を流しながら何とか喋るヴィクトルにラルは微笑みかける。ヴィクトルはその笑みにさらに顔を歪ませて俯く。そして、しばらくそのままの状態で泣いていたがやがて顔を上げてラルに優しく口づけをする。
『愛してるわ、ルドガー』
『ああ……俺も、愛してる』
そしてヴィクトルはラルを優しく抱え起こして時計を握る。顔が見える様に傷だらけのスリークオーター骸殻になり、震えながらラルに向けて槍を構える。そんなヴィクトルを安心させるようにラルは笑いかけて最後に言葉をかける。
『安心して、ルドガー。愛する人に殺されるのって案外嬉しいことだから』
『………ラルッ!』
『ルドガー……私を―――愛してくれて……ありがとう』
その言葉を最後にしてヴィクトルは声にならない叫び声をあげながらラルを刺し殺す。そして、すぐに抱きしめながら泣き叫ぶ。流れる彼女の血は彼の骸殻を赤く、赤く染め上げていく。そして彼女は最後の最後にヴィクトルの頬を優しく撫でてから、その手を力なく落とす。そんな様子に黒歌達は涙が止まらなかった。愛の形は人それぞれだがこれはいくら何でも悲し過ぎる。
『うわぁぁぁああああっ!!』
彼の泣き声だけが辺りに響き渡るその様はこの世界の残酷さを表していた。
しばらく泣き通した後、ヴィクトルは考える。なぜ、自分には当たり前の幸せすら許されないのか。そもそも、こうなってしまったのは何が悪いのかと。彼は考え続けてやがてある結論に達する。
『ははは……なんて馬鹿だったんだ、俺は。偽物の世界に……幸せなんて許されるはずもない! 滑稽だ! あーはっはっは! 何もかも偽物だからいけないんだっ!!』
ヴィクトルは狂ったように笑いながらそう叫ぶ。その姿に黒歌達はそれが間違っているなどという言葉をかけることは出来ない。彼の過去の前ではどんな言葉も意味をなさない、彼はもう、この世界には何の希望も見出せなくなっていた。
『幸せになるためには……本物になるしかない!』
そして、彼は最愛の娘を利用して本物になるという計画を思いつく。そんな彼を誰が責めることが出来ようか。彼にはもう―――それしか残されていないのだから。
『必ず……俺は幸せになる…っ! どんなことをしてでもっ!』
ヴィクトルは仮面を拾い上げ、顔に付ける。そしてラルを抱きかかえ彼女にささやきかける。
『大丈夫だよ、ラル。俺とエル、そして君ともう一度、一緒に暮らせるようになるから……それまで休んでおいてくれ』
そして、場面は変わり、エルの旅立ちの日になる。エルがルドガーと出会う服装をわざわざその日に着る様に仕向けたり、エルの力が発動しやすいような行動をとったりなどしてヴィクトルは最愛の娘を本物の幸せを手に入れるために利用した。
『行け、エル! カナンの地へ!』
そこでヴィクトルの記憶は終わった。黒歌達は何とも言えない気持ちになりながら黙っている事しか出来なかった。
―――――――――・・・・
『パパァーーーーッ!』
世界が砕け散り、ヴィクトル諸共消え去ってしまう。正史世界に戻ったルドガーの手の中には最後の道標があったがその事に誰一人として喜ぶ者はいない。そしてルドガーの体は突如としてグラリと傾いてしまう。慌ててジュードが支えるがルドガーの顔は不気味なほど青白かった。
今の今まで崩れることなく進み続けて来たルドガーだが、今回ばかりは立っている事すら難しい程、心に傷を負っていた。それでもなお、立ち直ることが出来たのはエルの方が何倍も辛いと分かっていたからだ。そんなルドガーのすぐ傍に行って支えてあげたいと黒歌は願うが勿論そんなことなど出来ないので悔しそうに俯くことしかできない。
『エルさんは?』
ローエンが傍に居ないエルを探して見渡すとルルが鳴いてエルの場所を知らせる。エルは岩場の片隅で蹲り、未だに嗚咽をあげていた。そんなエルにルドガーはかける言葉が見つからずただ見つめる事しか出来ない。そんなルドガーの気持ちを察したのかローエンが代わりにエルの元に行き、優しくエルの肩を抱き起こす。その時、エルの首筋が見えた。その首筋は―――どす黒く染まっていた。
『これは!?』
『時歪の因子化!』
『なんで、エルが時歪の因子化を!?』
衝撃の事態に一同が騒然とする中、ルドガーは何かに気づいて顔を真っ青にする。ルドガーは気づいてしまったのだ。なぜ自分がクルスニクの鍵の能力を使えるのかを、なぜ自分ではなくエルに代償がいってしまったのかを。ルドガーが初めて時計と契約した時に時計を持っていたのはエルである。つまりルドガーは―――エルに代償を肩代わりさせていたのである。
『俺のせいだ……俺のせいでエルが…っ!』
『ルドガー!』
『エルを守る為だなんて言って、結局、俺はエルを傷つけていただけなんだ…っ!』
その後もルドガーは絶望した表情でうわごとのように俺が悪い俺が悪いと呟き続ける。黒歌達はそんなルドガーの様子が見ていられなかったがどうすることも出来ない。ルドガーは勿論、代償の事など知らなかった。おまけにエルに肩代わりさせているなんてことなど夢にも思っていなかった。
しかし、現実として今、エルを精神的にも肉体的にも傷つけているのはルドガーなのである。その事実がルドガーの心を蝕み、痛め続ける。その事に祐斗はある言葉を思い出す。『やめろっ! 誰にとっても不幸な結果になるぞ!』ユリウスの言葉だ。ユリウスはこうなることを知っていたのではないのだろうかとそう思わずにはいられなかった。
『ここではどうしようもない。ディールで宿を取ろう』
このままではどうしようもないと思ったミラがそう提案し、一同は重苦しい足取りでディールへと歩いて行くのだった。そして場面は移り変わり、ルドガーが宿でスープを作りテーブルに運んでいる場面になった。
スープが出来上がり、ジュードがエルを呼びに行こうとしていた時、エルが自分から降りて来た。危なげに力なく歩いて、若干俯いている。そして泣きはらしたせいか目も腫れている。
『お腹すいたでしょ、エル。ルドガーがスープを作ってくれたよ』
ジュードが優しくエルを椅子に座らせ、ルドガーがスープをエルの前に置く。エルは俯いたままの状態で顔を上げようとしない。そしてしばらくスープを眺めていたかと思うとポツリと呟く。
『………ちがう』
そこから抑えていた感情が一気に爆発する。
『こんなのちがう! エルが食べたい、パパのスープじゃない!!』
エルは手をなぎ払い、スープを叩き落とす。皿の割れる音が食堂に響き渡る。ルドガーはそれを血の気が引き過ぎて真っ白になった顔で見つめる事しか出来ない。そして黒歌達もエルの癇癪はどうしようの無い物だと分かっているので悲痛な面持ちで見つめる事しか出来ない。
『ちがう! ちがう! こんなのちがうっ! パパは、エルのパパはっ―――』
エルが立ち上がり暴れた拍子に、足が椅子に掛かり、エルの体が傾く。そして運の悪い事にその椅子がテーブルに勢いよく当たりテーブルの上に置いてあった鍋が浮き上がりエルの上へと降って来る。鍋の中は熱いスープだ。
それを頭からかぶれば大やけどは免れないだろう。黒歌が思わず、エル、と叫ぶが勿論意味はない。そして食堂に鍋が床に落ちた金属音が響き渡る。エルは来るべきに衝撃に備えて目を瞑っていたが何も来なかったために恐る恐る目を開ける。すると、そこにはルドガーが居た。
『ぐっ! ……大丈夫か、エル?』
『ルド―――! ……っ!』
エルを守る為にとっさに鍋を弾き飛ばした左腕を抑えて蹲るルドガーにジュードが精霊術ですぐさま応急処置をする。その様子にエルは心配して声を掛けようとするがその言葉は最後まで続くことは無く。エルは逃げる様に二階へと上がっていってしまう。そんなエルをルドガーは悲痛な面持ちで見つめるが声を掛けることは出来ない。
『これで大事は無いよ』
『……ありがとうな。ジュード』
ルドガーはジュードにお礼を言って、しばらく何かを考えたのちに転がった鍋の元に行き拾い上げる。そして再びキッチンに鍋を持っていく。そんなルドガーにジュードが声を掛けて来る。
『また、スープを作る気?』
『俺だけのスープのじゃないんだ……これは“ミラ”がエルに作ってあげたかったスープでもあるんだ』
『ミラさんの……』
ルドガーの言葉にジュードはそう呟きミラは胸に手を当てて、まるでもう一人の自分と話しをするように目を閉じる。ルドガーはそんな様子を見ながらさらに言葉を続ける。
『それにさ……俺も、兄さんが作ったスープをひっくり返して兄さんに火傷させたことがあるんだ。だから、これは当然の報いなんだ』
『もしや、ユリウスさんの手袋は……』
『うん……火傷を隠す為なんだ』
そう答えながらルドガーは再びスープを作り始める。美候はあのルドガーがそんなことをしたということに驚くが実はルドガーがユリウスに反抗したのはエルと同じような理由なのだ。共にたった一人の親を目の前で殺された為に起こした行動なのである。
ただ、ルドガーはその時の記憶にふたをしているために思い出していないというだけである。その後スープを作ったルドガーはエルが来ることを信じてただ待ち続ける。他の仲間達は気を使ってか、皆自分の部屋に戻ってしまった。
今、食堂に居るのはルドガーとルルだけである。そして何時間かたった時、エルがばつの悪そうな顔をして降りて来た。ルドガーはそんなエルに対して腕はもう大丈夫だと言う意味を込めて軽く左手を動かす。それに対してホッとするエル。エルとてルドガーを傷つけたかったわけではないのだ。
『お腹、減っただろ、エル』
ルドガーはエルの為にスープを皿に注ぎ、椅子を引く。エルは椅子に座りしばらくスープを凝視した後、一口、口に含み、おいしいと口にする。
『ルドガー……エル、いっこわかったよ』
小さく囁くようにルドガーに話すエル。その姿は今まで元気な姿を見せて来たエルからは考えられない程、弱々しかったが、どこか新しい強さも感じさせた。エルは一つ成長することが出来たのだ。……大好きな人達との死別により。
『消えちゃうってことは、その人のスープが、もう食べられないってことなんだよね?』
ルドガーはエルの言葉に悲しげに俯く。そして子どもながらに死というものを理解したその言葉はリアスが今まで聞いてきたどの言葉よりも重かった。その事にリアスは耐え切れずに涙を流してしまう。
『ごめん……全部、俺のせいで……』
『ルドガーはエルを……守って……くれたんだよね? パパ……から……』
エルはルドガーを庇うように言葉を続けるが、途中で耐え切れなくなり父親そっくりの目から涙をあふれさせる。そして涙は頬を伝いスープの中へと滴り落ちる。それは次々とまるで雨のように降り注いでいく。エルはそのまま大声でしゃくりあげる。ルドガーはそんなエルを慰めてあげることも出来ずにただ、その泣き声を黙って聞いていた。
朝になりルドガー達は宿を出た。エルはルドガーの隣にいるが何も話すことなくただどこかを見つめていた。そんなエルをルルが気遣うように足に擦りついて泣き声を上げる。そんなエルにジュードが大丈夫かと聞くがエルは何も答えず頷くだけだった。そんなところにノヴァから借金の催促が来て、ルドガーにどんな時でも現実はついて回ることを教える。
『現実を考えれば、エルをこれ以上危険にさらすべきではないだろう』
『ローエン、エルが安全に過ごせる場所を確保してもらえないか?』
『それは、構いませんが……』
『エルが、ニセ者だから置いていくの!?』
エルが悲鳴のような声で叫んだ。自分が偽物として扱われていらない物として扱われるのではないかと恐怖して叫んだのだ。そんな様子にヴァーリは自分が親に虐待されて無い物のように扱われていた時の事を思い出す。
『そんなはずないだろ』
『そんなことある! パパが……そうだし。パパが一緒にいたかったのは……“本物”のエルなんでしょ?』
ルドガーの言葉にエルは目に涙を溜めて言った。ルドガーはそれに何も答えられなかった。ヴィクトルは何も本物のエルがよかったのではない。エルと一緒に暮らしたかっただけなのだ。だが、そんな思いはエルには伝わることもなく、こうしてエルを苦しめるだけのものとなってしまう。そんな想いのすれ違いに黒歌達はどうして人の想いはこんなにも伝わり辛いのかと苦しみを感じる。
『わかった。一緒に行こう』
そう決めたミラをエルは涙を溜めた目で見上げる。そうしてルドガー達はエルも連れてマクスバード・リーゼ海停へと向かうのだった。黒歌達は何も話すことなく歩くルドガーの背中を見ながら思う。この背中に一体どれだけの苦悩を背負っているのかと、そしてそれに対して支えてあげることも出来ない自分達の無力さを。
世界は非情だ。当たり前の幸せすら―――“ルドガー”に許そうとしないのだから。
後書き
今回は二万三千字……調子に乗りすぎたぜ。
ヴィクトルの過去は結構オリジナルです。
どう思うかは皆様にお任せします。
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