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猫の憂鬱

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第3章
  ―8―

目隠しをした八雲が廊下を歩く。其の手前に時一が居り、時折手を叩いた。
「視界奪われるて、しんどいな…」
一時間前から八雲はあのソマリと同じに視界を塞ぎ、ラボや廊下を歩いた。もう少しで感覚が掴めそうではあるが、些細な物音が大きく聞こえる為、神経が持たない。
一番癪に触るのは秀一の歌声、今日も絶好調である。
「五十メートル程後ろ居てるやろ。」
「おお、凄い。近付いてるよ。」
云われなくとも、あの調子外れの歌とセグウェイのモーター音で判るが、思いの外近くに居り、八雲が考えるより短い時間で歌声は横を通り過ぎた。
「音て、遠くに聞こえるな。」
「其れは廊下の作りでしょうね。此の廊下、音を良く響かせますから。」
入口から侑徒が云った。
「響かないと真後ろ聞こえますよ。」
ほら、と侑徒は八雲の後ろにびったりとくっ付き、八雲を脅かした。
「靴音は反響します。が、俺の声は響かない場所で話してます。」
「何であの音痴の声、阿保みたく響きよんねん。」
「其れは長谷川さんの口腔の作りでしょう。ホルンみたく口腔内に隙間があるので、声が良く響くんですよ。」
「存在も煩きゃ、声も煩いんか…」
「なんてぇ、斎藤ぉ、聞こえたぞぉ。」
「何も言うてませぇん。」
今日は何を歌っているんだ、あの男、と八雲は廊下に座り、愛猫の暖かさを太腿に感じた。
「御前は見えんでも、すぅぐ判るよぉ。」
「まー。あー。」
「ひぃひぃひぃ言いよるからな、御前は。」
八雲の此の猫、実は生まれた時から鼻の通りが悪い。其の為何時も鼻息荒く、ひぃひぃひぃと息をしている。ひぃひぃひぃ、というよりは、ひとへの中間音である。
「後、臭いし。」
「ひぃひぃひぃ。」
「お風呂、入れたら良いんじゃないですか?コタちゃん、臭いって。やぁなぁ、お父ちゃん。僕臭ないて云いなさい。お父ちゃんは胡散臭いて、怒んなさい。」
「まーぁ!もぉ!まあ!ひぃひぃひぃ。」
「入ってるよ、白虎と。なのに君、臭いよ。ひぃひぃひぃ。」
「あの虎、風呂に入るの?」
どんだけでかいんだよ、御前ん家の風呂、と時一は思った。
信じられないかも知れないが八雲、虎を飼っている、冗談で無し、本当に。二メートル以上ある雌のホワイトタイガーだ。最初皆冗談だと思うが、自宅に実物が居るので、冗談では無い
「風呂…ちゅうか、プールな。白虎様専用の。彼の子、水浴び大好きやから、コタも一緒んなって入りよんねん。」
「溺れません?コタちゃん…」
「溺れてるよ。見事に。阿保やぁ。君は猫ですよぉ。ひぃひぃひぃ。」
八雲はケラケラ笑い、猫みたく四つん這いになると、猫一緒に、ひぃひぃひぃと云い長ら進んだ。此の猫の鼻が悪いの、絶対斎藤さんの所為、と侑徒は思った。四つん這いの其の尻にセグウェイが激突し、虎が吠えた。
「おおこら、音痴ぃ、何で轢くねん!」
「見えーん、見えん、何も見えーん。」
そうだ、ジュディオング、ジュディオングを歌って居るんだ、と尻の衝撃で思い出した八雲はすっきりした。余りにも音程が違い過ぎ、秀一の歌ははっきり云って何を歌っているか判らない。
あ、ジュディオングか、と時一も納得した。
昨日は何か、モーニング娘。を歌っていた。
時代がおかしいんだよな、と全員思うが、秀一が今時の歌を知る筈が無い、世間に興味が無いのだから。
うぃーーーんとセグウェイは廊下端で迂回し、ナイトメア聞く、とラボの中に入った。
聞け聞け。悪魔だろうが悪夢だろうが、なんでも聞け。世界でも終わらせていろ。
「態勢低いと、見えんでもあんま不安無いな。」
「四本でバランス取れてるからじゃない?」
「そっちか。」
這うように八雲は進み、一通り廊下端迄行った。一息付いた其の時、目の前で響いたエレベーターの起動音に飛び上がり、そんな八雲の姿に、やっだ本当の猫みたい、と時一が笑った。
「ほんらな、時一さん、してよ。めっちゃ怖いよ、此れ。」
「あー、良いよ、僕は。」
「見えんて、怖いな。」
「怖いよ。其の怖さは良く判る。」
だから僕の左側に立たないでね、と時一は喫煙所のドアーを開き、腕だけ伸ばすと灰皿の横に灰を落とした。其の言葉に、しまった、と八雲は口を塞ぎ、然し今更遅い。
時一は左側が見えない。幼少時代の事故で完全に失明し、義眼が入っている。だから何時も左側の前髪を垂らしている。
確かに片方側が見えないのは不便ではあるが、慣れてしまえば案外平気である。あのソマリも、生まれた時から見えて居ないのだから、其れが当たり前で、多分、多分だが、自分以外が物を見る、見える生き物だと云うのを知らない。皆自分と同じに見えない生き物だと思っているかも知れない。
其れは其れで、幸せである。当人は全く気にして居ない、君達が見えるのが当たり前のように、僕達は見えないのが当たり前だから。其れで同情される覚えは無い、寧ろ憐れまれると、人間の醜さを知る。
憐れむ、詰まり、優劣。自分より劣っていると思う思考、時一は反対に其奴を憐れむ。
開いたドアーに八雲は又跳ね、ドアーとは逆側に尻を付いた。
「何のプレイだ、何の。」
楽しそうだな、混ぜろ、と低く掠れた声がした。
「なんや、課長さんか。」
「本当、此処は軽いSMクラブだな。主任の御趣味か、悪趣味の骨頂。」
秀一は手錠とガムテープ、八雲は目隠しで四つん這い、此れに鞭があれば良いが、と靴音を響かせた。
「何ぃ、此れ何ぃ。」
課長の持つ紙袋を四つん這いで追う八雲は、猫と一緒にひぃひぃひぃと云い乍ら鼻を近付けた。
「なんだと思う?よしよし。」
しゃがんだ課長は八雲の頭に手を伸ばしたが、瞬間八雲がびくんと後ろに跳ねた。
「…済まん。触るぞ。」
「えっと…」
「右。ええと、だから…左側だ。」
「ええよぉ。ひぃひぃひぃ。」
「ひぃひぃひぃ。まー。」
「嗚呼、可愛いな、御前。」
頭の左側に乗った手に八雲は喉を鳴らし、犬も良いが猫も良いな、生き物は大きいのが良い、と課長は破顔する。
「連れて帰りたい。ひぃひぃひぃ。」
「あかん。ひぃひぃひぃ。」
「ひぃひぃひぃ。」
「何をしよんの、真昼間から。ど変態共が。」
本郷さんの次は御前か、とラボから出て来た宗一は課長の背中を蹴り、袋を受け取った。
「木島と交換しよう。今なら加納も付けてやる。IQ145、如何だ、悪い話じゃないだろう。」
「やー。斎藤はやらん。お、タピオカドリンクやんけ!」
「其れ、御前のじゃない。」
「はあ!?俺のやないなら、誰のや!」
「俺のだよ。」
云って課長はぶっといストローを無慈悲に刺すとジューと飲み、八雲の顎を持ち、ほら、口、と一口やった。
「何此れ、むっちゃむっちゃしとるの!餅?」
「タピオカ。」
「おあー、此れタピオカかぁ。見えんとほんま判らんな。」
八雲の言葉に課長は眉を上げ、うぃーーーんと寄って来た秀一に白桃紅茶を渡した。
「俺、桃、好きぃ!えんだぁあ!いやぁあ!うぅうおぃやぁああふ…」
「喧しいわ、セグウェイ。時一はオレンジジュースだろう?」
「わー、覚えててくれたんですか。」
「勿論。よしよし。」
「タピオカもちもちぃ。」
「橘ぁ。」
「はぁい。」
「御前は…、一寸待て、取れん。お、はい。宇治抹茶。」
「おーいえ!おーいえ!宇治抹茶おーいえ!」
「橘は可愛いから、フローズン状だ。餡子も入ってるから、カキ氷飲んでるみたいで美味しいぞ。」
「大きに、大きに、課長はん!俺、先生ぇ捨てて、一課行きますわ!」
「斎藤は、んー?チョコだろう?ううん、此のかわい子ちゃんが。早く宗一なんか捨てて、俺の所に来い。」
「ああん!わい、課長になら掘られてええ!掘って下さい!わいの処女あげますよぉ!」
科捜研メンバーの餌付けに成功した課長は満足気に頷き、中身が無くなった紙袋を畳むと無言で宗一に渡した。
「ちょぉ待て、おいこら、クソ三つ編み。わしンは何処や。わしのタピオカドリンク何処や、出さんかい、こら。しばくぞ、三つ編み。」
「んー、此処。」
と腹を指した。
「大丈夫だ、俺、代謝が良い。後三十分待ってたら出る。若干、味は違うが。まあ、飲めん事も無い。」
「ソッチの趣味持ってないわな。」
「嗚呼本当。残念だな。」
ジューとストローで、宗一の好物のキャラメルラテを吸い込んだ。
嗚呼、ホイップクリームが、沈む。なんと勿体無い飲み方。今直ぐ其れをカップの中でぐちゃぐちゃに掻き回して、タピオカと一緒に飲みたい。
宗一の喉は干涸びる。
「俺はど淫乱で、此奴を強姦してるらしい。如何思う、人権侵害甚だしいわ。」
「ほんますんません、なんぼでも謝りますよって、ほんま御免なさい。ど淫乱言うて御免なさい。最初に強姦したんは僕です、ほんま御免なさい。貴方可愛かったんです、どストライクやったんです、ほんま御免なさい。後、バイク無くてほんま困ってるんです。」
「ジャガーがあるだろう、ジャガーが。」
おっと其のジャガーもナンバープレート無しの状態で見たな、何日前だったかな、御前が俺をど淫乱と罵った日かな、と課長はストローを咥える。
「本当に済みませんでした…」
空になったカップを宗一に渡し、本郷が迷惑掛けたな、其れで許してくれ、と秀一達に謝罪した。
「菅原先生。」
「はい…」
「下迄、送って頂けるだろうか。」
本庁はややこしい、とエレベーターのボタンを押した。
送って来る、と宗一はやる気無く答え、一緒にエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターは無言を運んだ。溜息は、一階に着いても吐き出さなかった。
「…動かないな、エレベーター。」
回数表示の明かりが、一階の儘消えない。
オレンジジュースを飲み乍ら時一は呟き、にやにや笑う秀一が時計を見た。
「ほう、三分動かんな。」
「ううん、後何分、停まってるのかな…?」
「三十分じゃないか?」
だって、飲むんだろう?元、キャラメルラテを…。
秀一は喉奥で笑い、セグウェイを動かした。
「おぉまえぇが、なぁがすぅっ、なぁみだぁもぉ、見詰ぅめてぇるぅ。…良い歌じゃないか、真昼の月。」
「課長さんが聖飢魔IIで一番好きな曲だよね?」
「私は泣いた事が無いぃ。」
「駄目じゃん、其れ。」
「私、泣いったぁり、するのぉは、ちっがうっと、おっもおってったぁあああ!ほぉうおおお!…井上陽水って良いな。」
「敢えて作った方ね。」
ガゴン。
頬と目元を桃色に染める宗一が、口元を押さえエレベーターから出て来た。其れを見た時一と秀一は、眉を上げた。
「美味しかったです、キャラメルラテ…、はぁ…」
「きゃーーーーらめる、さんせっ!」
「うっうー、うまうま!」
ノリノリな二人に一寸如何なってんのよ、と八雲は思わず目隠しを外した。
悍ましい、なんだ此の二人は、変態か、と見てはいけない物を見た八雲は又目隠しをした。踊り狂う馬鹿二人を其の儘に、宗一は空っぽのキャラメルラテのカップを机に置いた。
長谷川博士、今日も絶好調である。
尚、時一も、秀一に負けぬ、音痴である。
誤解されぬよう云っておこう、決してそんなスカトロプレイをした訳では無い。元キャラメルラテの液体を飲んだ訳では無く、きちんとしたキャラメルラテを飲んだ。…木島の飲み掛けだったが。
「木島、チョコで良いのか?」
「良いよー。」
脚長おじさん、今日の懐具合も絶好調である。 
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