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猫の憂鬱

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第3章
  ―7―

久し振りにゆっくり休めるなと、帰宅した龍太郎はタブの中で大きく息を吸った。青山涼子が発見され一週間、休みが無かった。刑事になった時其れは覚悟したが、前の休日から計算すると十日振りの休み、特に趣味も持たない龍太郎に休みは正直要らないが、頭を整理するには要る。肉体の休息は要らないが、脳の休息は絶対に要った。
井上は今頃、酒と女を楽しんで居るだろう。休日前夜の井上は朝四時迄飲んでおり、昼過ぎに其の時引っ掛けた女と一緒に目を覚ます。そして其処から夕方迄飲み、夜又寝る、という何とも不健康な生活をする。
本人が其れで良いなら良いが。
欠伸をした龍太郎は風呂から上がり、冷蔵庫から水を取ると、バスローブ姿の儘寝室のパソコンの前に座った。コピー用紙に今迄の事を纏め、プリントアウトした物全てをファイルに入れた。其れを三十分程眺めた。読み終わると前にある棚に滑らせた。
此の棚には龍太郎が担当した事件のファイルが入る。
龍太郎の楽しみと云ったら、此れ等を読み返す事。暗いと云ったら暗いが、知的と言い直せば悪く無い。
「んー、ソマリ。」
ギィ…と背凭れを軋ませた龍太郎は天井を仰ぎ、声を漏らした。
趣味も無い、結婚は疎か恋人も居ない、酒も飲まず、女とも遊ばなければ、ギャンブルもしない、御前一体人生何が楽しいの?と龍太郎自身偶に思う。
本当に、俺は何で生きてるんだろう。
普段はそんな事思わない。帰宅し、食事をし、風呂に入って寝るだけで終わるが、翌日が休みの日はこういった考えを持つ。
そして、何時もの考えになる。
俺は死体と同じじゃないか。彼奴等は何も考えない、俺も考えない。何が違う。息をするかしないか、心臓が動いているか否かで、決まってる。心臓が停まれば死んでるのか?考えなければ、其れは死体と同じじゃないのか?
俺は、生きてるんだろうか。
煙を吐いた龍太郎は一層背凭れに沈み、目を閉じた。
結婚すれば、何かが変わるんだろうか。
だからと云って見付けるのは面倒臭い。嗚呼、五年前、両親が持って来た見合い話に乗っておけば良かった。
でも俺が結婚した所で何になる。何も生み出せんのに。
龍太郎にとって結婚とは、恋愛の延長では無く、子孫を残す為の契約だと思って居る。居るからこそ、龍太郎には結婚する理由が無い。
死んでんじゃん、やっぱ俺。
井上の口調を真似、煙草を消した。


*****


「生死の境界線?」
小さな鉢にコップで水をやる宗一は、龍太郎の言葉に振り返った。
一人で来たと思ったら何だか面白い事を口走る。
大きな観葉植物に残りの水を全てやった宗一は椅子に座り、珈琲を飲んだ。
「其れは何?医学的に?宗教的に?道徳的に?社会的に?」
「肉体と魂です。」
「おおう、哲学的か。」
宗一は笑い、煙草に火を着けた。
「医学的には、生命活動が自力で行えず停止した時を云う。生命活動を終えた時、其れが“死”と位置付けられる。心臓、呼吸、脳、どれかが停まった時。一番判断が難しいのが、(ここ)。前にも云ったけど、此処や、此処が大事。脳幹が全滅した状態を全脳死、脳幹が機能を失った状態を脳幹死って言うんやけど、脳幹死の場合は、大脳の機能は未だある状態で、でも、暫くすると活動が止まる、其処から、全脳死に変わる。よぅ耳にする植物状態っちゅうんは、大脳の機能の一部か全部を失って意識が無い状態を指すんよ。脳幹や小脳は機能が残ってるんよ。脳は、全ての生き物の機関の中で一番複雑、一から説明するってなると、時間掛かるよ。」
「…判りました。では何故、脳死状態の人間は“生物”扱いなんです?」
「心臓が動いとるからや。」
「人工呼吸器ありますよね、其れって自力で生命活動をしていないから、死体じゃないですか?でも、生体扱いなんですよね?」
「ううん、本郷さん、医者困らせるなぁ。確かにそうや。電気止めたら死体と同じよ。死体に息させてんのよ。」
「死体に全く同じ事をしても、生体にはなりませんよね?」
「ああん、ええと…、脳に酸素が行ってないからや。人形同じ。」
「だから死体ですよね?」
「ああん、ええと…、だからぁ…」
菅原先生が困ってる、と時一以外のメンバーが、縦に頭を並べ覗いていた。
「本郷さん、どっかおかしん?」
一番上に頭を置く八雲が云った。
「哲学的なんじゃないですか?」
一番下の侑徒が、目を上に向ける。
「電気を流せ、電気を。死んだ蛙だって、電気板を頭とケツで繋いだら生き返る。げこー。」
真ん中の秀一。
「ほんまぁ?まぁたピョンピョン跳ねよんのか?内臓撒き散らし乍ら?」
「其れ、電気信号が見えてるだけじゃないですか?電気流された筋肉が動いてるだけでしょう?」
上下から云われ秀一は、動きゃ良いんだろう?、と顔を動かした。
「何故人が死ぬのか知りたいんです。」
「そんなん心臓にナイフさしたらええやん。」
「肉体は死にますよね?魂は何処に行くんです?」
「…そんなん…、知りませんよ、僕はぁ、其処等辺漂ってんと違いますぅ?」
「肉体は魂の器だって、思いますか?」
「何?宗教の勧誘なん?間に合ってますよ?」
「人は、肉体が死ねば死ぬんですよね?」
「…そ、そうやぁ?そうです!」
「じゃあ何故、霊は存在するんですか?其れは生きてますよね?死んでないじゃないですか!」
「そんなの知りません、帰ってくれや。警察呼ぶぞ。」
「私、警察です。」
「嗚呼そう、おめでとう。自分に手錠掛けて帰ってくれ。」
休憩所を追い出された龍太郎は、縦に並ぶ頭を眺め、秀一以外が目を逸らした。
「斎藤さん。」
「おお…、わいか…」
「如何思います。」
「いやぁ、僕ね、考古学者なんで、一寸そういう事は判らないんですよぉ。」
「橘さんは?」
「ええと、ううんと…。先生ぇと、同じ意見ですねぇ。」
「博士は。」
「あ?電気流せ、電気。人間は電気を流す。」
龍太郎のタイを掴んだ秀一は其の儘ホワイトボードの前に電気回路を書き、ね、此れ、此れが人間の中で起きてる、と云った。
「此れが血管、此れは神経。此れが脳で、此れが心臓。」
「はい。」
「此の線が切れたら、詰まり死体。電気が通らないからだ。乾電池、プラスとマイナス、逆に入れたら繋がらないだろう?」
「はい。」
「終わり。」
全然判らん。
秀一に聞いたのが間違いだったのだな、と龍太郎、其処だけは判った。
「何で誰も疑問に思わないんだ?」
「何が。」
マーカーを置いた秀一は腕組みし、ボードに凭れた。
「何故自分が生きてると、思うんだ。妄想かも知れないじゃないか。現に死んだ事を自覚しない幽霊だって居るじゃないか。」
「面白い事聞くな。」
「俺は、自分が生きてるって感覚が無い。見る死体と何が違うのかが判らない。此奴は死んでる、確かに死んでるんだ。でも、だからって、俺も生きてないんだ。違いが判らないんだ。俺と、其奴の違いが。動かないって位しか、違いが無い。なら何で、動いてる俺には、生きてる感覚が無いんだ?」
秀一は息を吐くとパイプ椅子に座り、龍太郎の顔を下から覗き込んだ。
「本郷さん、あんたさ。」
おかしいだろう。
「御前、絶対おかしいよ。病んでるだろう?絶対そうだって。辛いのか?人生が辛いのか。」
「いや、辛くは…」
「嗚呼そうだ、そう。セックスしたら良いよ、セックス。生きてるって、思うよぉ、超気持ち良いもん。心臓も一杯動くしね。うん、そうしよう。」
「運動なら、毎日剣道の稽古してる…」
「アドレナリンだよ、そうそう、アドレナリン。其れ沢山出しな、生きてる感覚するよ?」
「…そういう感覚では無く…」
「オッケオッケ、終わり。」
秀一は椅子から立つと、アイアム ジーニアスと両腕上げ、又世界を救った、救ってしまった、化学は世界を救う、と訳判らぬ悦に入っていた。
此れが、生きている感覚なのか…。
だったら一生判らんなと龍太郎は礼を済ますとラボから出た。
「御前んトコ、おかしなのしか居らんやないか。」
「は?御前の所には負けるよ。」 
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