猫の憂鬱
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第1章
―1―
世谷署の鑑識から回された書類を見る菅原宗一は、調子外れの歌声を垂れ流す人物に目を向けた。
うーーーんとモーター音に重なる調子外れの歌、廊下でセグウェイを乗り回す、IQ165を持つ天才にして奇人、化学担当の長谷川秀一である。
其の秀一を囲む心理担当の菅原時一、物理担当の橘侑徒。文書担当の斎藤八雲は元から此のメンバーと絡む事が無く、今は鑑識から回された書類を読んでいる。其の八雲の所有する純白の猫が、秀一の走らせるセグウェイの後ろを付いて回っている。
「長谷川ぁ。」
「うぃい。」
「其れ、歌っててもええけど、世谷署の一課課長の前で絶対しなや。」
声を張り上げ宗一は云い、なんで?と八雲が聞いた。
因みに秀一が調子外れに歌っているのは、X JAPANのendless rainである。
「彼奴、エックス信者なんよ。」
「あかーん、殺されるわ。」
其れは其れで見ものではあるが、と八雲は口端を吊り上げた。
「えぇええん、どれぇえす、れぇえええっへ…ごは…」
「噎せて迄歌うなや…」
あはは、と時一は笑い、秀一の歌声に苦痛を感じる侑徒は一層に哀愁漂わせた。
テーブルに残された、済みません、と書かれた便箋を袋から出した八雲は鼻に付け、大きく胸を膨らませた。
一旦便箋から鼻を離し、又同じ動作をした。
「猫の匂いがする。大きいかも…」
嘘だろう?と宗一は一枚の写真を八雲に渡した。
縫いぐるみのような長毛種が女に抱かれている。
「ソマリ…、此ん子の匂いか。」
八雲から便箋を取った宗一は同じに鼻に付けるが、猫の匂い所か便箋の匂いさえしない。御前の鼻如何なってんだ、と聞いたら、先生ぇの鼻こそ如何なってるんですか、と返された。
八雲の臭覚も凄いが、宗一の臭覚も問題ありで、強烈な臭いでないと嗅ぎとれない状態にある。
二十年以上強烈な薬品の匂いを吸い続けていた為、鼻が麻痺を起こしている。
切れ長の少し吊り上がり気味の目が丸いレンズの向こうから楽しそうに宗一を窺っている。
八雲が大概此の目付きをするのは、好奇心を刺激された時。
頬を手の甲で向こうに押しやったが、八雲の視線も好奇心も宗一から離れる事はなかった。
心理の時一、本職は精神科医であり、其の時一曰く、八雲に存在する感情は、憤怒と好奇心だけだと云う。
そんな男の好奇心を、五十になろうとする自分で刺激するとは、一体何に反応したというのだろうか。
「なぁんで、あの署に肩入れすんのぉ?」
ニヤニヤとチャシャ猫みたく笑う八雲の肉厚な唇が動いた。
「肩入れ?何が。」
便箋をパソコンだらけの机に置き、逃げるように宗一は離れたが、自分よりも一回り大きい手に手首を掴まれた。
虎の興味を、刺激してしまった。
諦めた宗一は、八雲の横に席を構える秀一のリクライニングチェアーに座り、身体を斜めに足を組んだ。
「なぁにが聞きたいの、八雲ちゃん。」
一方は洒落た椅子、一方は粗末な椅子、一見すると一昔前の診察風景に見える。
「何教えてくれるんですかね?」
見開いているのに態と下瞼を持ち上げ、椅子に両手を乗せる八雲は肩を竦め乍ら小首傾げて宗一を見た。
「疑問は何なんだ?」
「世谷署一課の扱う分析は此処が見る……世谷署の鑑識班、怒ってたで?なぁんでそんな事するのぉ?先生ぇ程他人に興味無い人、居てないでショ。」
「御前に、他人に興味無い、云われたら終わりやな。」
はぐらかすように宗一はキリキリ笑い、然し八雲の目に笑いが消えた。
「だぁれに、肩入れしてんのぉ?」
「…おい、誰か助けてくれ。」
「課長さんだよ。」
うぃーーーんとモーター音が聞こえ、又うぃーーーんとセグウェイは去って行った。
「長谷川!」
ぎ、っとリクライニングが戻り、秀一を追うが、セグウェイは廊下端…エレベーターの中に居た。
半分閉まり掛けのドアー。
「戻って来なさい。」
「いーやでーす。」
「長谷川!戻って来なさい!」
「三十分で戻りますよぉ。」
「長谷川ぁあ!」
宗一が追い付くより早くエレベーターは下降を始め、宗一の怒りをまともに受けたドアーが大きく揺れた。
あーあ、怒らせた、と時一は暢気に云い、侑徒も室内に入った。
自分の席に宗一は座ったが、八雲の視線が気持ち悪い程絡み付く。
「こっち見るな、丸眼鏡!」
「八つ当たりカッコワルー。」
「センセ、大人んなりましょ?ね?」
一課が課長の機嫌を一番とするように、此処科捜研も、宗一の機嫌は絶対だった。
何時も宥めるのは侑徒である。
何時も怒らすのは秀一である。
「誰なん!こんな考古学者受からしたん!」
「あっあー、矛先ちゃいますよぉ。」
「もっと居ったんと違う!?文書!」
そして被害を受けるのが八雲だった。
故に八雲、秀一が嫌いだった。
秀一が宗一を怒らせると必ず八雲が被害に遭い、侑徒がしなくて良い苦労を強いられる。
宗一を宥めるのも大変だが、八雲、此れが憤慨すると猛虎と化す。誰も手が付けられず、唯一云う事を聞く宗一の言葉も届かない。
秀一と八雲の喧嘩は凄まじく、関西弁で怒鳴り立てる八雲を挑発するが如く秀一はへらへら笑い乍ら口を開く。八雲が手を出そうものなら、エレ・キ・テルー!と絶叫し、改良した電気の流れるペン…ショックペンを白衣のポケットから取り出し、身長差を利用し、声帯にペン尻を突き刺す。
八雲と秀一の身長差は十五センチ程で、秀一の視線先が丁度首元、目掛け易いのだ。電流を受けた八雲は苦痛の咆哮を撒き散らし、此れが本当に虎に見える。
秀一が首、顎、八雲に至っては声帯を狙う理由は、電気で声帯機能を低下させるのが目的だ。がなり立てるのが煩いので声帯に電気を流す、すると一定期間掠れた声しか出ない。こうなると猛虎も大人しくするしかない。
没収しなさいよ、と皆思うが、没収したらしたで被害が拡散される。
八雲の逆鱗に触れないのが、一番の策である。
宗一を怒らせ、其の宗一が八雲に当たるの位秀一には判る、判るからこそ秀一はコンビニに逃げた。
「又来た…」
ウィーーーンと自動ドアーとセグウェイのモーター音が重なる。
レジに居た店員は此の奇怪な秀一が怖くて堪らない。
何故にセグウェイに乗っているのか、何故に白衣なのか、そして何故に何時も調子外れのX JAPANを歌っているのか。
客も客で、セグウェイで店内に乗り付けた秀一の姿に唖然とし、店員が何度、お客様、其方は店外に置いて頂けませんでしょうか?と云っても、差別だ、御前は車椅子の人間に、其れでかいから外に置いとけよって云うのか?と聞かない。
セグウェイは車椅子じゃないだろう!?と店員は思うが、関わりたくない気持ちが勝った。
「きゃっはは、やっだ、先生じゃあん!」
此の秀一の風貌、十代の阿保には相当受けが良いのだ。何回か秀一を見ている内に向こうが勝手に親近感を覚え、女子高生…所謂ギャル系の気さくな女子に声を掛けられる。
白衣だから、先生。
今日も案の定女子高生に声を掛けられ、籠を持って貰った。
「此れね、此れね、チョー美味しいんだよ!」
「マジやばいって!先生、買っとかないとやばいよ!?」
女子高生集団に勝手に籠に入れられ、レジに籠を置いた。
「ハイライト、ラッキーストライク、セブンスター、ええと…橘先生は…」
「パーラメントですよ。」
「嗚呼、そうそう。」
店員が馴染み客の煙草を覚える、というのは良くある光景だが、知りもしない“橘先生”の煙草を覚えてしまうのも悲しい。何故か秀一、宗一のハイライト、八雲のラッキーストライク、時一のセブンスターは覚えているのだが、侑徒のパーラメントだけ何時迄経っても覚えられない。
「なんでかな。」
其れは屹度、侑徒と煙草が結び付かないからだろうな、と秀一は調子外れの歌を女子高生と一緒に歌い乍ら店内を出た。
「ふぉぉおエバらぁあああ。」
「ふぉおおエバぢゅぃーーーーー。」
因みに秀一、X JAPAN信者である。
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