Lirica(リリカ)
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
―2―
2.
ペシュミンはナザエの腕の中で目覚めた。薄汚れた毛布の中で母子共に抱き合う、いつもと同じ格好だった。目覚めて母親の腕と毛布からすり抜けた。この毛布は肌が痒くなる。全身の皮膚がぼろぼろだ。表通りではまだ押し殺した人の声と足音が続いていた。首を伸ばして窺うと、薄暗がりの中を歩く人々の影と鎧が見えた。
ペシュミンはナザエを残して、表通りとは反対側の細い通りに行ってみた。取り残されたカルプセスの市民たちが所在無げに集っていた。
「野菜も果物も、全部持ってかれたよ」
市場のエプロンを来た女が、疲れた声で言った。
「うちもだよ。干し肉も香辛料も、鍋の蓋までさ」
主婦たちと、老人。グロズナの男たちも僅かにいる。人々が黙ると、表通りの足音がここまで聞こえてきた。
「うちの子は、今頃どこにいるだろうか」
悲壮感が、悲壮感なる言葉を知らないペシュミンの胸にも満ちてきた。それは生まれた村にグロズナたちが押し寄せて来た時に感じたものであり、父親をはじめとするペニェフの男たちが彼らについてどこかに行ってしまった時に感じたものであり、ある朝母親から、家を出るよう言われ、二度と帰って来ないのだろうと予感した時に感じたのと同じものであった。
「なくなったものを嘆いたってしょうがないさ」
と、女たちの中で比較的年配の、恰幅のいい女が沈黙を破った。
「あたしらの家族の事は、セルセトの人たちに任せておけばいいじゃないか。うまくやってくれるさ。あたしらは自分の生活の事を考えなきゃ。みんな、そのままでは食べられない物は家に残されてるだろ?」
人々が顔を見合わせた。
「麦……とかなら」
「上等じゃないか。バターは? 砂糖は?」
やにわに人々が色めき立ち、それならある、と口にし出した。
「うちにはチーズが」
と、老人。
「私のとこなら果物の砂糖漬けがあるわ。床下の貯蔵庫までは調べられなかったから」
「よし、じゃあみんなでまずは食料を集めよう」
「あのさ!」
グロズナの青年が立ち上がった。
「俺の家、パン屋だからさ。親父に言って家の竈を貸すよ。親父も賛成する。それで堅パンを焼こう! それなら日持ちもするし、皆に配ろうよ」
青年は緊張しながら全員を見回した。
「俺はグロズナだよ。だけどこのカルプセスで生まれてカルプセスで育ったんだ。グロズナである以上にカルプセスの市民なんだ。……なあ、そうだろ? おばさん」
「もちろんだよ」
隣の中年の女性が頷く。
「あんたはうちの大事なお隣さんだ」
「決まりだね」
恰幅のいい女が言った。
「みんなの家から食料や使える物を持って来よう。一時間後にまたここで集合だ」
集団が散った。大人たちの陰に隠れていた、建物の壁にもたれかかってしゃがんでいる少年の姿をペシュミンは見つけた。
「ミハル!」
グロズナの少年は顔を上げ、ペシュミンを見つけた。頬に朱色が差し、ミハルが微笑む。
彼が返事をしようと口を開いた時、遠い轟音が空を覆った。
薄明、東の門へと抜ける隊列が滞った。混乱が列前方から、最後尾の集団まで伝わってきた。その為、市内にいるロロノイも、街を取り囲むグロズナの軍事組織からの攻撃が始まったのだとわかった。
「行け、歩け!」
通りで兵士らが声を張り上げる。
「俺ら治安特務部隊が盾になる! 急げ!」
カルプセスを囲む壁の内側で、階段の上から逃走する市民がいないか見張る任務に就いていたロロノイは、段差に足を投げ出して不機嫌な顔で押し黙っているベリルに目をやった。
「始まったな」
生返事をくれる魔術師は、いつもそうしている通り、左手に大きなアクアマリンを握りしめている。眼下では死の行進に加わる市民達が、東の門へ、グロズナの兵が待ち構えるさなかへと駆り立てられてゆく。ロロノイは先頭集団にいる筈の妹ラプサーラを想った。無事だと良いが。
無事だと信じよう。近い将来必ず再会が叶うと。
「さぁて。何人が農耕地帯を生きて出られるかな」
黙っていたベリルが、それに返事もせず急に立ち上がった。表情は緊張で強張り、目になみならぬものを秘めている。
「魔術師がいる」
ベリルは早口で言うや、ロロノイを押しのけて階段を駆け上り始めた。後を追うと、ベリルは壁の天辺まで登りつめ、胸壁に身を隠した。
「どれくらいいる」
「わからない、でも気配が……東門に向かってる! 魔術師だけでも仕留めないと」
まだ弱い朝日を守護石に集めるかのように、ベリルは掌を開いた。目を閉じる。
ロロノイには魔術の才はもとより、妹が持つような巫覡の才もない。結構な事だ――と、ベリルは思う。魔術師同士の殺し合いは、陰惨な力の応報だ。清冽で神聖な神の力を、殺しの為に使う。陰惨にならない筈がない。
背後、頭の後ろの高い所、やや左寄り。そこが緑の界への通路が開く場所だ。緑の界から流れ出る魔力に呼応して、掌中の守護石が感覚を増幅する。魔術師は心を殺し、魔力の流れに意識を乗せた。流れはじきに何かにぶつかり、対流を起こした。緋黄の界の力だ。
目を見開く。緑の界の力が波となって世界に押し寄せる。その波を、緋黄の界の神を奉じる魔術師の気配の源へと一直線に流しこんだ。
直線上にいたグロズナの兵士達が、魔力の波に水分を奪われ、立ち尽くしたまま干からびていく。混乱が起き、敵の動きに乱れが生じた。緋黄の界の力が消え失せる。
「一人やった!」
悪意に満ちた別の気配が自分を探し始めるのを感じ、緑の界の通路を閉ざした。隣でロロノイが手を打つ。
「よし!」
「安心するな、まだいる」
今の攻撃は、不意打ちだったから成功したようなものだ。だが敵はカルプセス市内にも魔術師がいる事に、今、気付いた。魔力の道を細く絞って開き、先ほどよりも慎重に、敵の魔術師の気配を探り始める。ここから先は、いち早く敵の居場所を見つけて攻撃する、速さの戦いだ。
嫌な感覚が肌を包み、背筋が凍りつく。見つかった。ベリルは守護石を握りしめ、全方位に緑の界の力を発散した。
日が上る方向から、矢のように向けられる紫紺界の力を感じる。掌中の石の力を借り、緑の界の力で押し返した。
ぶつかりあう力の渦が、凄まじい頭痛を引き起こした。地上からの敵の悲鳴とナエーズ語の悪態が集中力を削ぐ。紫紺界は腐術の領域を支配する。渦の中で高密度の魔力が質量を持ち、雫となって地上に降り注ぐ。雫を浴びた敵兵の皮膚が黒く腐り、目玉が飛び出して落ちる。そうして、腐敗した黒い水たまりと、鎧があとに残る。額の内側にその光景が見えた。
ありったけの呪詛をこめて、ついに力を押し返した。額が激しく疼き、中年のグロズナの魔術師、心臓を緑の界の魔力に貫かれ、悶絶して死んでいく魔術師の姿を幻視した。
集中力が切れた。緑の界との接続が切れる。同時に五感が失われ、無明無音に陥った。ベリルは胸壁に手をつき、その触感を頼りに五感の回復を急いだ。酷く汗をかいている。徐々に聴力が戻り、市内でも混乱が起きていると把握する。ロロノイが何か喋りながら、肩を揺さぶっている。目を開けたが、世界は黒い霧がかかったように不鮮明だ。
肩を支えられ、葡萄酒入りの革袋を口に押しつけられた。それを呷ると全身の血が巡り、ゆっくりと視界に色が戻ってきた。
同時に、殺意に満ちた力が地上から飛んできた。
それがどの界の力か、分析する間もなかった。咄嗟に緑の界の通路を開く。頭の後ろの高い所から馴染みある力が溢れ、ベリルとロロノイを包んだ。
結界は敵の力を削いだが、集中力を欠いたベリルには防ぎきれなかった。結界に亀裂が入り、頭の中の血管が切れるような嫌な感覚を得た直後には、凄まじい力によって弾き飛ばされていた。
死んだな、とベリルは思った。敵の攻撃の致命的な勢いは削いだが、墜死は免れない。足許で、壁の石組が崩れるのを感じた。弾き飛ばされたロロノイの姿が、一瞬目に見え、遠ざかる。
ああ。
死ぬ。
意識が途切れた。
「起きろ!」
誰かが頬を叩いた。気が付くと胸倉を掴まれ、街を囲む壁の上に膝立ちの姿勢でいた。
男の足が見えた。
その向こうには分断され、崩れた壁が見える。
ベリルは少しずつ目線を上げ、男の顔を見る。
顔の特徴で、セルセト人だとわかった。浅黒い肌に黒髪。歳は中年、四十前後といったところだ。
「あんた、魔術師かい?」
ベリルは意識朦朧としたまま尋ねた。急に手を放され、床に倒れこむ。
「加勢してやる」
床に手をついて体を起こすと、待ち構えていたように男が言った。
「ミューモットだ」
瑠璃の界の魔術師だ。身に纏う気配から、ベリルはそう思った。男は苛立った調子で言葉を重ねる。
「名前だ。お前の名は」
急に後ろから抱きしめられた。ナザエだった。頬に当たる髪の感触と匂いでわかる。
「落ち着いてください! みなさん!」
ルドガンが走って来て叫んだ。一度解散した人々は、おろおろと路地のそこかしこで立ち止まっている。
「まだ敵は遠いです。カルプセスには入って来ていない」
「どうしよう、じきに攻めて来るんじゃ」
「セルセトの特務治安部隊が応戦しています。落ち着いてください。ここにいてはセルセト兵の動きの邪魔になるかもしれない。神殿に避難しましょう」
その言葉に人々が一旦落ち着きを取り戻す。ルドガンはペシュミンとナザエの姿を見つけ、無言のまま一つ頷いた。
人々は神殿に移動を始め、その集団の後ろを、ナザエに手を引かれて歩いた。神殿が近付くにつれ人の数が多くなった。
いつも全ての人の為に開かれている門の前に、長い列ができていた。
朝日が道を染める頃、ペシュミンはようやく神殿の中に入った。神官達が手際よく人々を整理し、ペシュミン達は普段は開放されていない二階に通された。ペシュミンは心細い気持ちで辺りを見回し、神官長ルロブジャンの姿を探したが、見当たらなかった。代わりにミハルの姿を見つけた。ミハルはルドガンに手を引かれ、やはり心細そうにしていたが、目が合うとそれでも微笑みを見せた。心和む微笑みだった。
ルドガンがミハルの手を引いてペシュミンの所に来た。
「ご無事で何よりです」
ナザエとルドガンは浮かぬ顔のまま、挨拶代りの軽い抱擁を交わした。
「ここはまだ、安全なんですよね?」
「ええ。セルセトの兵が応戦していると、表通りの兵士達が……」
「では、じゃあ」
ナザエが押し殺した声で言う。
「セルセト兵がみんな、カルプセスを出て行った後は?」
母親が話している間に、ペシュミンはミハルと手を繋いで廊下の壁際に座りこんだ。
「昨日の夕方、びっくりしたね」
話しかけると、ミハルが「うん」と手を強く握った。
「君は大丈夫だった? ぶたれたりしなかった?」
「ううん。誰に?」
「セルセトの兵隊さんに、ぶたれた人がいるんだって。どうしてだかわからないけど」
「そんな事はされなかったよ。ミハルの家は大丈夫だった? 兵隊さん、来なかった?」
「来たよ。でも大丈夫だった。怖くなかったよ」
やがて沈黙が、重みを持って降りてきて、人々を押し潰した。誰も皆廊下に座りこみ、口を利かなくなる。張り詰めた静けさの中で、幼いペシュミンとミハルは、繋いだ手を強く握ったり、握り返したりして、無音のコミュニケーションを行った。
時折声の漣が起きて、様々な情報を伝えた。
緊張する事に疲れたペシュミンは、まどろみの中で隊列の最後尾がカルプセスを出たという話を聞いた。目を覚ました時には、戦闘のどさくさでカルプセスに取り残された兵士とネメスの木兵隊、兵役経験のある市民とで、臨時のカルプセス守備隊を結成するらしいと、人々が噂していた。それを聞いて、何人かの老人が神殿から出て行った。ペシュミンは伸びをする。つられてミハルが目を覚ます。日は既に高い。
時は緊張を連れ去ることなく、秋の蛇のように進んだ。
神官たちが来て、避難所が分散される知らせをもたらした。二階の廊下から、更に人が減る。少なくとも魔術による攻撃は止んだようで、もう轟音は聞こえない。
次に兵士が来て、避難民たちの数を数えていった。
とうに正午を過ぎたと思う。ペシュミンは空腹だが、それを言い出せない。誰も言い出さないからだ。
次に来たのは、ペシュミンから見たら大きなお兄さんたち、大人たちから見れば、十三歳以下の少年たちだった。彼らは街を守る大人の手伝いができる誇らしさで胸を張り、
「グロズナはみんな外に出て!」
と、神殿中に触れ回った。
「外に出てどうするんだい?」
ルドガンが尋ねる。少年は答える。
「何かね、グロズナの人たちはリデルの神殿に避難してもらうんだって! 理由はわかんないけど」
グロズナ達は不審に思う。しかし、それを伝えに来たのが子供である事が、彼らの油断を招く。
「ミハル、待ってなさい」
ルドガンは腰を上げ、最後にミハルの頭に手を置いた。
「おじさんは少し、行って来るよ。何もなければまた後で迎えに来る」
ルドガンは戻って来なかった。時折ナザエがもらってくる水以外、二人は何も口に入れず、またも過ぎ去る時をやり過ごすのみとなった。
大人たちはぽつぽつと、声を潜めて話し始めた。
「おじさん、遅いね」
ペシュミンが話しかけたのをきっかけに、ミハルとペシュミンの間にも、ようやく会話が生まれた。
ミハルは初めてカルプセスに来た時、おじさんが食べきれないほどの手料理でもてなしてくれた事を喋った。生まれ育った村にいる両親の事や、心躍る狩猟祭の事、その祭りで行われる、子供たちによる狩りの演習の事を喋った。
「その出しものにはね、木をこう、人の形に束ねた物を使うんだ。それを、弓とか槍で射ったり、射したりするの」
「ミハルもそれをやったの?」
「ううん。だけどね、お父さんが、この出しものの事は、カルプセスに言ったら話しちゃ駄目って言うんだよ。特にペニェフには駄目だって。でも、そんなの、おかしいよね。おじさんはペニェフにもグロズナにも違いはないって言うのにね」
廊下に射しこむ日差しの角度が変わり、少しずつ暗くなる。どこかで赤子が泣き始めた。赤ちゃんも何も食べてないんだとペシュミンは思った。ペシュミンはやはり空腹だった。そしてやはりそれを言い出せなかった。
階下からざわめきが立ち上ってくる。
「少し様子を見てくるわ」
ナザエが腰を上げる。
「ここにいて。動いちゃ駄目よ」
母親が廊下の角を曲がり消えると、入れ違うように若い女性神官が小走りでやって来た。神官はいきなりミハルの手首を掴み、立ち上がらせた。
「待って!」
ミハルは立ち上がらされ、どこかに手を引かれていく。恐怖が滲む顔で振り返るミハルの後を、ペシュミンは追った。
「どこに行くの? ミハル、ねえ、神官さんどうしたの?」
女性神官はミハルを三階に連れて行き、長机と椅子の他何もない、小さな部屋に通した。ドアを閉め、ミハルを抱きしめると、続けてついて来たペシュミンを抱きしめた。
「あなたはここにいるの。絶対に出ては駄目」
と、ミハルに言い、今度はペシュミンと向き合う。
「いい? あなたは絶対……」
神官は声を詰まらせた。
「この部屋の事を人に言っては駄目よ。お友達やグロズナの人がどこにいるか大人の人に聞かれても、絶対に言っちゃ駄目。お姉さんと約束できる?」
ペシュミンはわけもわからぬまま、うんと頷いた。
「待って、神官さん。僕のおじさんが僕を迎えに来るよ。僕、待ってろって――」
神官は、何かを堪えるような声を漏らした。顔を引き攣らせ、ぎこちない笑みを作る。
「もし君のおじさんが戻って来るような事があれば、私が教えるから。いいわね」
ペシュミンは元通り二階の廊下に戻されて、一人きりになった。ナザエは戻って来ない。
様子を見に行くことにした。
ナザエは混雑する一階の礼拝所の片隅で、セルセトの兵士を相手に何かを話していた。
「ママ?」
呼びかけると、すぐに話を中断してペシュミンの前に立ち、両肩に手を置いて、膝を屈めた。
「ペシュミン、ミハルと一緒じゃないの? あの子はどこにいるの?」
問いかけるナザエの表情が、不意に恐ろしく感じられた。
「知らない!」
ペシュミンは咄嗟に答える。ナザエの表情は恐ろしいままで、ペシュミンの言葉を信じていない事が伝わってきた。ペシュミンは言葉を繋げた。
「えっとね、さっきね、お外に出て行ったの」
「……そう」
ナザエはペシュミンを信じる事にしたようだが、顔には落胆と気疲れが、深く刻まれていた。
二階への階段に続く廊下に戻ると、そこにミハルが立っていた。ミハルは青白い顔をして、唇に手を当てて黙るよう合図すると、ペシュミンの手を引っ張って、神殿の裏口に連れて行った。
「何だかおかしいよ!」
裏庭に出て、ミハルは泣き出しそうな表情で叫んだ。
「ミハル、どうしたの? 何がおかしいの?」
「だって、だって、おじさんの帰りが遅いし……『グロズナはリデルの神殿に行け』なんて変だよ……そこだってきっと、避難してる人いっぱいいる筈なのに……」
その目に涙の粒が浮かび、ペシュミンは動揺する。
「ミハル、泣かないで、ミハル――ねえ、じゃあさ、リデルの神殿を見に行こうよ!」
泣き出しそうだった表情が、その一言で和らいだ。
「おじさんの所に行ってみよ。きっと何かわけがあって迎えに来れないんだよ!」
幼い二人は手を取り合って、神殿の通用門を抜ける。ルフマンの神殿が背後に遠ざかる。来た時には道を染めていた朝日が、今は夕日になっていた。
狩人の守り神リデルの神殿への道は、ミハルが知っていた。道にセルセト兵の姿があると、それを避けて遠回りをした。子供ゆえの直観で、そうしなければならないとわかった。
リデルの神殿の通用門は施錠されていた。二人は柵によじ登り、堅い地面に着地する。
「おじさん、おじさん」
裏の扉も鍵がかかっていた。扉に耳をつけてみるが、何も聞こえてこない。建物をぐるりと回ってみたが、どの窓にも人の姿はなかった。表に回ると、門を守るセルセト兵の背中が見えたので、そっと後ずさった。
ミハルが突然走り出した。待ってと叫びたいのを堪え、ペシュミンも後を追う。ミハルは物見櫓の下で足を止めた。梯子を掴み、猛然と上り始める。
「どうしたの?」
櫓の上に立つと、夏の夕日が顔を焼いた。ペシュミンは細めた目で、凍りついたように立ち尽くすミハルの姿を見る。
「どうしたの? ねえ……」
ペシュミンはミハルと同じ方向に目をやって、同じ光景を見た。
カルプセスを囲む壁の上に、人々が立っている。きらきらと光っているのは、鎧が夕日を跳ね返すからだ。セルセトの兵士達だ。それだけではない。ペシュミンは目を凝らす。
壁の上で夕日を浴びる顔の中には、角ばった輪郭と鷲鼻を持つ、グロズナの顔が多数見受けられた。
そして、壁の上には何十という数の木の棒が立てられていた。
グロズナたちが抵抗しながら棒に縛られていく。
「おじさん」
ミハルが声をあげた。ペシュミンは壁の上のグロズナたちの中からルドガンを探そうとしたが、突如、冷たい物で目を覆われた。
ペシュミンは冷たい物を押しのけ、怯えながら振り返る。
木兵が立っていた。くり抜かれて作られた右目から蜂が黄色い頭を出し、触角をそよがせながら、ペシュミンを見つめている。
そして、木でできた人差し指を立てると、同じようにくり抜かれて作られた口に当てた。
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