Lirica(リリカ)
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
―1―
1.
花を摘む少女の歌が、窓の外で途切れた。ラプサーラは星図から顔を上げた。窓辺に寄り、外壁を伝う蔦をかき分けると、ルフマンの神殿に捧げる花を零しながら逃げていくペニェフの少女が見えた。
幼い少女を怯えさせた物が何か、ラプサーラは探した。
長い坂道を、三人のセルセトの軍人が下りてくる。その先頭に立つ男を見て、ラプサーラの心臓が強く脈打った。階段を駆け下りて、家の戸を開け放つ。
「兄さん」
自分と同じ鳶色の髪を夏のナエーズの太陽に輝かせて、セルセトの軍人ロロノイは片手を上げ、笑った。
「久しぶりだな。元気だったか?」
「ええ、兄さん」
ラプサーラは後ろに立つ二人の軍人に目をやる。
「そちらの方々は?」
一人は魔術師の腕章を二の腕に巻いた、水色がかった白い髪の、若い男だった。もう一人は口髭を蓄えた、中年の将校だ。胸にきらめく徽章から、歴戦の指揮官である事がわかる。
「上官のデルレイ特務治安隊長だ」
ロロノイは気のいい笑みのまま、中年の将校を紹介した。兄はラプサーラと正反対の気質の持ち主だ。明朗快活、人見知りせず、誰からも愛される。
「こいつは魔術師のベリル。友人だ」
続けて白髪の魔術師を紹介した。
「どうも」
ラプサーラは無言で二人を交互に見つめた後、挨拶した。
「ラプサーラと申します。兄が、お世話になっております」
「本日は、君がかなり精度の高い占いをすると聞いてきた」
デルレイが口を開いた。軍人らしい威圧的な喋り方だった。
「ロロノイの身内の贔屓目ではないならな。何でも、二本足で歩きはじめる前から占星符を捲っていたそうじゃないか」
「両親からそのように聞いておりますが、幼少期の記憶はございません。父も母も、間もなく殺されましたゆえ」
デルレイは途端に気まずそうな顔をした。
「本日は、どういったご用件でしょうか」
「ラプサーラ、お前に占ってほしい事がある」
ロロノイが答えた。
「ひとまず、一旦上がっていいか?」
家に通すと、三人はめいめい、鋭い直射日光から逃れた安堵から溜め息をついた。ラプサーラは三人に水を出すと、長い髪をまとめ、二階から星図と、楕円形の世界図と、占星符を持って下りてきた。
「どういった事柄を、占えばよいでしょうか」
デルレイと、兄の友人だと言う魔術師ベリルに尋ねた。ベリルはさっと目を逸らした。二人はロロノイの妹が、ロロノイとは正反対の気質の持ち主である事を感じ取り、戸惑っているのかも知れなかった。それはラプサーラ自身のコンプレックスでもあった。ラプサーラは星図に目を落とした。
「今後のセルセト本国の動きを見ていただきたい」
デルレイが答えた。ラプサーラは半透明の世界図を、季節の星に合わせて星図の上に置いた。描かれた星々が世界図を透かして、様々な情報を言語ならざる言葉で囁きだす。ラプサーラは目を閉じて、額に意識を集中した。
「木が見えます。燃えている木が」
沈黙。
「それは何の象徴だ?」
デルレイが尋ねた。ラプサーラは目を開ける。
肥沃な土と厳しくも豊かな自然に恵まれた島、ナエーズ。この地では、狩人の神リデルを奉じる山岳民族グロズナと、根と伏流の神ルフマンを奉じる農耕民族ペニェフが、有史以来殺し合い、和睦を結び、また殺し合うという事を、とめどなく繰り返していた。
両民族の対立を侵略という形で収めたのが、海を挟んだ大国、セルセト国であった。
圧倒的な軍事力の差を見せつけられたペニェフは早くにセルセトに恭順を示し、数の上で多数を占めるグロズナは根強い抵抗を示した。
ナエーズ全土がセルセト国によって平定され、多くのセルセト人が入植した後、セルセト人の有力者たちはペニェフたちを優先的に保護した。
グロズナたちは、武器を捨ててセルセトの発展した文化が流入する町の生活を選ぶ者と、厳しい山岳地帯に帰って行く者とに分かたれた。山岳地帯に帰った者たちは、民族の悲願を忘却する事を良しとしなかったのだ。
すなわち、自分たちの国を持つ事を。
ラプサーラの鼻腔を薫香が撫でた。生木のはぜる音が、微かに聞こえてくる。兄も、魔術師も、将校も、それらを感じていない。
「この匂い――燃えている木は竜香木です。包みこむ火は緋色。竜香木は享楽の神ギャヴァン、緋色の炎は戦火の神ヘブの象徴」
ラプサーラは占星符を切り、世界図上のセルセト国を囲む形で円く広げた。その頂点の符を捲る。死の神ネメスの符であった。
「死の女神ネメスが頂点にあるは、暗雲たちこめ草木朽ち、多くの命が損なわれる予兆」
一番下の符を捲る。その位置には最高神レレナの符があった。
「良くありませんね」
眉を顰めながら、左右の符を捲った。左はルフマン、右は竈の神コーンであった。
「大いなる災いによって根は枯れ、水が不足するでしょう。竈の火が絶え、餓死者と、冬には凍死者が出ます。救いと言えるのは、疫病の神ベナンが休息期にあり、動きを見せない事。そして友情と盟約の神ダレンと航行の神パンネンが、この最下辺の一円で力を増す事。同盟国タイタスに逃れれば、民は受け入れられるでしょう」
「王宮の動きはわかるか?」
デルレイに言われ、左右の端の符を捲った。まさしくギャヴァンとヘブが、その位置を占めていた。
「……セルセト本国において、享楽の神ギャヴァンは第四王子が、戦火の神ヘブは第六王子が奉じる神。そして両王子の王位継承争いにより、本国は大変な混乱にあると聞き及びます。あなた方は、何を聞き出そうと言うのです?」
星図への集中を解いて聞くと、デルレイは渋い顔をした。ロロノイが目線をくれる。ラプサーラは顔を背けた。
「妹の態度を不敬と思われるかもしれませんが――」
ロロノイが取り成すように口を開いた。
「星占を生業とするには、色々と難しい事があるんですよ。誰だって自分自身の運命は占えませんからね。まして占いが精確であるゆえに時の権力者に取り立てられて、揚句占いの内容が気に入らないからと殺された星占は数知れない」
「私たちの両親は、私を地方貴族に差し出すよう要求され、拒んだ挙句、殺されました」
淡々と語るラプサーラに、わかった、とデルレイは応じた。
「話そう……山岳民族グロズナの情勢はわかっているだろう。ナエーズの新総督にペニェフのラナシーバという人物が選任されて以来、セルセトとペニェフに対する反発を強め、ついに独立国家の建国を宣言した」
「よく存じております。グロズナの民兵たちがペニェフの村や町に襲撃をかけている事も、ペニェフの難民たちがここカルプセスに押し寄せている事も。それによってカルプセスが困窮している事も」
「その困窮が、グロズナによる物資搬入の妨害によって引き起こされている事も?」
「はい。それにより餓死者も出始めている事も」
「何故セルセト本国がこの状態を放置しているかは?」
「王宮の王位継承問題が内戦に発展しつつあるからでしょう」
ようやく話が読めて、ラプサーラはデルレイに頷いた。
「本国内の問題が収まり、いつナエーズに本国からの救援が来るかを読めという事でしょうか?」
「その通りだ。どちらの王子が勝とうと我々には関係ない。このナエーズをどうにかしてくれるならな」
ラプサーラは再び、燃えている竜香木の幻視に意識を集中した。
「今はヘブの力が強く、ギャヴァンは隣接する糸紡ぎの神エータの星の干渉により、勢いが衰えています。しかし、衰えは一時的なものです」
半眼で星図を読み取りながら言う。
「一方、間もなくヘブを筆頭とする緋の界の星々は、敵対する灰白の界の星々と急激に接近する為、そちらに注意を削がれ力を落とすでしょう。またヘブは気性が荒く冷酷な人間を好む故、宰相の傀儡でしかない第六王子を早々に見限る可能性が高い。現に竜香木を包む火は見る間に衰えています。この戦、緋の界の星団が灰白の界の星団と接触し次第、第四王子が勝つでしょう」
「どれほどかかる」
「三月ほど」
ラプサーラは占星符をまとめ、椅子に座った。三人の客の顔は冴えなかった。理由はわかる。カルプセスには時間がないのだ。ペニェフが多数を占めるカルプセスでは、街を守るセルセトの兵士達も含めて皆が困窮している。市街においては民族の違いを理由に隣人同士が殺し合い、民間人のラプサーラの目にも、これ以上の治安維持は限界であるように見えた。加えて、市門の外にはグロズナの軍事組織が展開している。カルプセスが三月も持ちこたえるとは、ラプサーラにも思えなかった。
「その言に偽りはないな」
「我が神レレナにかけて」
自分が行った占いの内容に絶望を感じながら、ラプサーラは答えた。
「俺は特定の神を崇めない」
デルレイがテーブルの向こうから身を乗り出してきた。
「君がレレナの名にかけて誓ったところで、俺にはその重みがわからん」
「レレナへの信仰は、セルセト本国より逃れ、ナエーズへの入植を選んだ私と兄の心を支えました。レレナは我が命であり、我が拠り所です」
「なるほど、宗教は人を幸せにする」
デルレイは歪んだ笑みを浮かべた。
「不幸になった人間は、もっと多いがな」
ラプサーラは、それを彼なりのユーモアであると解釈する事にした。デルレイが席を立ち、兄と魔術師も続いた。
「カルプセスは陥落するのですか」
戸口まで三人を見送りに行きながら、ラプサーラは尋ねた。
「神は人を救うかもしれんな」
それが特務治安隊長の答えだった。
「だが、直接救いはしない」
星占を行った後はいつも、酷い疲労と眠気に襲われる。昼下がり、ラプサーラはまどろみ夢を見た。
夢の中でラプサーラは、牛飼いになっていた。牛たちが草原で草を食み、中空で風が帽子を運ぶ午後、牛飼いは風の中で空気の湿りを感じている。眼前で木が燃えている。影のごとく朧な灰色の木と、黒ずんだ炎。背後の山々は眉間に怒りを湛え、牛飼いを睨みつける。平野の地霊は山の地霊を恐れ、静かに囁き合う。
雨が降り始めた。嵐が来る。牛飼いは牛を連れて、家に帰ろうとする。生ぬるい雨、黒い雨が、肌を叩き流れ落ちる。牛飼いは歩く。家を探す。やがて彼は断崖に出て、雨が平地で、家も人も家畜もどろどろに溶かしているのを見る。
ラプサーラは目覚めた。部屋は暗く、暮れかけている。喧騒が間近にあり、通りに怒号が飛び交っていた。
何事かと飛び起きて、髪をまとめた。上着を羽織り、階段を駆け下りた。兄に会わなければならないと、唐突に思った。間もなく自分はまた兄と会う運命だと。
戸を開けた。果たしてそこにロロノイが立っていた。ロロノイは家の戸を叩く前に妹が飛び出してきた事で、驚き目を丸くしたが、すぐに表情を引き締めて言った。
「すぐに支度をしろ」
「兄さん」
「カルプセスを出るぞ」
その時ラプサーラは、ようやく、喧騒の意味を知る。
※
ペニェフの娘ペシュミンは、カルプス川下流の村で生まれ、五歳までそこに住んだ。ある日隣人たちと荷物をまとめて家を出るまでは。父親はいつの間にかいなくなっていた。母親は父の為に祈っている。
カルプセスで宿無しの身となっても、ペシュミンの暮らしは変わらなかった。変わった事と言えば、花を納めるルフマンの教会が、田舎の質素な礼拝所から、都市の壮麗な神殿になった点くらいであった。神殿の長ルロブジャンは、その敬虔さと人柄から、セルセト人や街に住むグロズナの人々からさえも尊敬を集めていた。彼の趣味は神殿の前の木陰に椅子を出し、地中の蟻の王国のしきたりや、星の航行、海洋の不可解な生物とその生態について思いを巡らす事であった。そうしながら、誰に対しても開け放たれた門扉をくぐり小道を歩いてくる人々と、挨拶を交わす時間が、彼の至福の時であった。
その日ルロブジャンは、木漏れ日を見つめるさ中、今日、大いなる運命が定まるのだと直観した。老境の神官長は目を見開き、背筋を正した。木漏れ日の揺れるリズムや、目に映る限りの蒼穹の果て、下草と風の囁きから、意味を読み取ろうとした。
何かが来る。
逃れがたい、大いなるものが。
ルロブジャンは信じた。
門扉を通り抜け、幼いペニェフの難民の少女が走ってきた。
「神官長さま!」
汗を振りまいて走るペシュミンは、木陰の椅子からルロブジャンが立ち上がるのを見た。体ごとぶつかっていくと、ルロブジャンは容姿からは想像もつかぬ力強さでペシュミンを受け止め、高々と抱き上げた。ペシュミンは高らかに笑った。ルロブジャンが髭に覆われた顔で頬ずりし、歓迎を示すと、子供はまだ笑いながら言った。
「神官長さま、今日はね、ママの分もお花を摘んで来たの!」
「うん?」
ルロブジャンはペシュミンを抱いたまま、優しく首を傾げた。
「どこにお花があるんだい?」
ペシュミンは手の中の花が消え失せている事に初めて気付いた。地面に下ろされ、困惑しながら小道の向こうに目を凝らしたが、通ってきた道には花びら一つ落ちていなかった。
「お花、落としちゃった」
ルロブジャンはペシュミンの小さな頭に手を置き、髪を撫でた。
「お母さんの分も、持ってくるつもりだったんだね」
ペシュミンは俯く。
「優しい子だ。その気持ちが一番大事なんだよ」
神殿の裏の自由市では、ペシュミンの母が手作りのアクセサリーを売っている。珊瑚や貝殻といった装飾品、そして僅かな花の種だけが、彼女の財産であった。そして娘。
神殿を出たペシュミンは、母ナザエの露店の前に客が立っているのを初めて見た。グロズナの男だった。高い鷲鼻と大きな体でわかる。ペシュミンは恐れながら、露店に近付いていった。
「赤珊瑚には思い入れがありましてね」
グロズナの男性客はにこやかに話していた。
「私の弟の嫁が初産の時、赤珊瑚が子供のお守りになるって言うんでね、村を出て買いに行ったわけです。その時私は初めて海を見たんですよ。その広い事、美しい事ときたらもう――」
「どうしたの?」
背後から呼びかけられ、ペシュミンは飛び上がった。ナザエとグロズナの男性客が、少し離れた木陰に立つペシュミンを振り向いた。ペシュミンは後ろを見た。グロズナの少年が立っていた。自分と同じくらいの歳に見えた。少年は小首を傾げて微笑んでいる。
「ミハル、おいで」
少年はグロズナの男のもとに駆けて行った。
「甥のミハルです、どうも故郷がきな臭くなったもんで、弟夫婦がうちに預けに来ましてね」
ペシュミンもおずおずと、母親に近付いていった。
「娘のペシュミンです」
「かわいらしい子だねえ。幾つだい? ん?」
男が顔を寄せてくる。ペシュミンは身を竦めたが、ナザエに背中をつつかれて、「五歳」と答えた。
「ほぉう、じゃ、うちのミハルと同い年だ」
大きな手が伸びてきて、その手に頭を撫でられた。優しい手だった。ミハルという少年と目が合った。やはり彼は微笑んでいた。ペシュミンは少しだけ緊張を解き、微笑み返した。
「カルプセスには、お二人で?」
「いえ、村の人々と。でもカルプセスに入った時点で散り散りになってしまって……」
「そうか。それは心細い」
男は赤珊瑚の首飾りと、幾つかの花の種を購入すると言った。ナザエが目を瞠った。
「そんなに買ってくださるのですか……ありがとうございます」
「花はミハルに世話をさせましょう」
嬉しさよりも、むしろ困惑を示すナザエに男は微笑んだ。
「窓辺にこの種を植えた鉢を出しておきましょう。戦勝広場から西三番通りに入って二軒目の家です。ああ、そうそう、私はルドガンと言いましてね」
手を差し出され、ナザエは反射的に握手をする。
「何かお困りの事があれば、うちに来るといいですよ。お嬢ちゃん、よかったらうちに来て、ミハルと遊んでやってくれるかい?」
ペシュミンはミハルを見た。少年はにこにこ笑っている。
「うん!」
代金を受け取った後、ナザエがルドガンを呼び止めた。
「あの、何故そんなに……」
「民族が違う。ただそれだけで憎みあう」
ルドガンはミハルの肩に手を置きながら、尋ねられる内容を先読みし答えた。
「無意味な事だと思いませんか?」
その日、市が閉まるまで、ペシュミンはナザエと一緒にいた。母親は露店そっちのけで、暗い目をしてうなだれているだけだった。
夕日が自由市の通りを金色に染める頃、ナザエはその日の寝床を定めるべく裏通りを彷徨っていた。ペシュミンはあくびをしながら手を引かれるまま歩いていた。売り上げのおかげで、久々に屋根のある場所で眠れそうだった。淡い期待は、表通りの喧騒が高まり、それが日常の聞きなれた範囲を超えてなお高まりつつある事に気付いて破られた。
ナザエが足を止めた。ペシュミンは母親の顔を見上げた。怒号や叫び声、女の泣き喚く声や、馬の蹄の音、武装した兵士が歩く度に立てる金属的な物音が、喧騒の正体であった。小さな手が痛いほど握りしめられた。ナザエは足早に表通りに近付いて、建物の影から様子を窺った。
「兵役可能年齢のペニェフの男性は全員表通りに出ろ!」
カルプセスを守るセルセトの兵が、拙いナエーズの言葉で叫んでいた。
「繰り返す、兵役可能年齢のペニェフの男は表通りに出ろ!」
ナザエが座りこみ、ペシュミンの体を抱いた。
「女と子供は家にいろ! 男だけだ! グロズナも家に戻れ!」
ペシュミンは母の震えを体中で感じた。若い女が泣き叫びながら恋人にしがみついた。男も恋人を抱き返そうとしたが、兵士三人がかりに引き裂かれ、男だけ連れて行かれるのをペシュミンは見た。青年が母親を固く抱きしめ、同じく兵士に半ば強引に連れて行かれるのを見た。ナザエが目を塞いだ。それでも事態は変わらなかった。
「議員の奴らは全員カルプセスを出るらしいぞ。家族連れでだ」
カルプセスの市民が囁きかわしている。
「畜生、奴ら自分だけ安全な所に逃げる気かよ」
「やめてくれ! 妻と娘も連れて行かせてくれ! 頼む!」
中年の父親の悲痛な叫びが鼓膜を打つ。別の誰かが叫ぶ。
「あんた達がいなくなったら、誰がカルプセスを守るんだ!」
いなくなる。ペシュミンは理解する。セルセトの兵士がカルプセスからいなくなると。
「見捨てられた」
か細い女の声が言った。声はそのまま嗚咽に変わって、他の怒号や喧騒に、かき消されていった。
ああ。ペシュミンは理解する。
ああ――見捨てられた、と。
その本当の意味もわからぬまま。
※
暮れなずむ都市の騒乱の中を、ラプサーラはロロノイに手を引かれ急いだ。表通りにはペニェフの男たちが集められ、家族や恋人との別れを拒む者があれば、セルセトの兵士たちが強引に引き離した。何が起きているのか、ロロノイは急ぐばかりで説明しようともしない。
戦勝広場には備蓄庫から出された食料が積み上げられ、それを飢えた市民たちが遠巻きに見ていた。兵士たちは急ぎ荷造りをしている。そして、戦勝広場から東一番通りへと、ペニェフの男たちの行列が作られていた。ロロノイは行列を遡り始める。ラプサーラは荷袋を抱えて空を見上げた。茜から紫へと変わりつつある空に、明星が光っていた。
「兄さん」
ラプサーラは焦燥にかられて口を開く。
「兄さん!」
答えない。
「どこに行くというの?」
ロロノイは一瞬だけ振り向いた。目は殺気立っていた。
「北の港町の新シュトラトだ。安全地帯宣言が出てる。セルセトの治安維持が健全に機能しているのはそこだけだ。カルプセスに留まるより新シュトラトに逃げる方が生き残る可能性が高い」
「全員が連れて行かれるわけではないようね」
「さすがに守りきれん。民間人の中で連れて行けるのは兵役年齢に達した男性だけだ。そうでなきゃ行軍に耐えられない。あとは医業従事者、治世関係者とその家族。その中には女性や子供もいる。ラプサーラ、お前は耐えられるな」
「そうでない人たちは残されると?」
ラプサーラは息を切らしなら質問を重ねる。
「誰がその人たちを守るというの!」
「同盟国タイタスから贈られたネメスの木兵隊がある」
「それで守り切れるというの? これだけの兵がいてもできない事が、木人形ごときに――」
「ラプサーラ!」
ロロノイは叫んだ。
「俺たちの役目は一人でも多くの人を生き延びさせる事なんだ。少しでも可能性を増やす事だ。このままではどのみち全員死んでしまう! グロズナの軍事組織は虐殺を躊躇わない!」
ラプサーラは泣き出しそうになり、歯を食いしばった。一人でも多くを生き残らせる。生き延びる可能性が高い人を連れて行く。ここでは人は数字でしかないのだ。
「兄さん」
嫌な予感にかられ、尋ねた。
「何人ほどがカルプセスを出るの」
「二万から二万五千になる見込みだ。内六千はセルセトの部隊だ」
「ねえ、兄さん――ちゃんとした武装をしているのはその中の何割?」
真横で民家の戸が開き、ラプサーラは飛びのいた。
「お願いだ! どうか!」
男が兵士に引き立てられ、泣きながら戸口に手を伸ばした。
「その子はあさってで十三歳になるんだ! 兵役可能年齢なら連れてってもらえるんだろ!? 頼むよ! その子を――」
通り過ぎる時、戸の向こうで、顔面蒼白になった女が呆然と立ち尽くしながら、少年の肩を抱いているのを見た。
「畜生! たった二日の違いが何だっていうんだ!」
ロロノイは質問に答えなかった。ただ黙々と行列の先頭を急ぐ。横目で見る行列には、兄の言葉の通り、怯えた顔の女性や子供も混じり始めていた。
「連れて行ってくれ!」
裏道からグロズナの男が飛び出して来て、兵士に縋りつく。
「確かに俺はグロズナだ。でもそれが何だって言うんだ? 俺が何したって言うんだよ!」
ラプサーラは耐えきれず、目を背けた。
「連れて行ってくれ! お願いだ!」
「ラプサーラ」
ロロノイが振り向いた。
「占星符は持ってきたな」
「ええ――」
兄が腕を広げた。不意に抱きしめられ、ラプサーラは声を失う。革鎧の金具が頬に当たり、冷たい。
「過酷な行軍になる。食料も兵力も全然足りてない」
無精髭の生えた顎が額に当たり、少しだけ痛かった。
「生きるんだ、ラプサーラ。それでも行け」
「兄さん――兄さんも来るのよね? そうよね?」
「俺には最後まで行列を形成する任務がある。大丈夫だ。魔術師のベリルも一緒だから――魔術師が一人いれば百人力だろ?」
兄は妹への抱擁を解き、無理矢理に笑った。
「最後尾につく。少し離れ離れになるが大丈夫だ。明日の昼には最後尾の集団も出発できる見込みだ」
「明日の昼」
呆然と言葉を返すラプサーラの手を取り、行列の先頭集団へと連れて行った。武装した治安特務隊長の姿もそこにあった。
「隊長、どうか……」
ロロノイが両手でデルレイの手を取り、握りしめた。
「妹をお願いします」
「わかってる」
隊長は頷き、空いている方の手でロロノイの背を叩いた。ロロノイは隊長から手を離して、背を向け走り去った。たった今、兄妹二人で歩いて来た道へと。
「兄さん!」
ラプサーラは叫んだ。叫び、手を伸ばした。ロロノイは人ごみに紛れて、すぐに消えた。
両目から涙が溢れ、止める事ができない。デルレイが歯ぎしりし、その後口を開く。
「列を作れ!」
歴戦の将校の声はたちまち先頭集団の人々の目を集めた。
「この度の移動は静かに行われなければならない。次の合図以降、一切の私語を禁じる!」
口を閉ざし、嗚咽を殺して、荷袋を抱きしめた。その中にある折りたたまれた星図と世界図、一束の占星符だけが、心の支えだった。後からついて来るという、兄の言葉を信じるしかなかった。
日没、丘陵地帯に面した東の市門が密かに開かれた。行軍一日目は、夏の夜の闇の中、無言の内に開始された。
門をくぐる時、ラプサーラは空を見上げた。凶(まが)つ星ネメスの狂おしい光点がそこにあった。
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