Lirica(リリカ)
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意味と狂人の伝説――収相におけるナエーズ――
―3―
3.
ラプサーラは夜通し歩き続け、ついに朝日を拝んだ。太陽が中天に差しかかっても休憩は許されず、水の一杯も与えられなかった。その上、隊列の先頭集団は昼前から山道に差しかかっていた。喉は渇ききり、胃が空っぽなせいで吐き気がした。時折隣を馬に跨った伝令が行き来し、獣臭い風を起こした。常に頭の中を占めているのは、カルプセスに残った兄の事だった。最後の集団は、もうカルプセスを出ただろうか。列後方からは、夜明け頃までは様々な噂が伝わってきたものだが、今は誰にも口を利く元気がない。
喘ぎながら山道を進み、そのせいでますます喉が痛くなる。足が上がらなくなった頃、ようやく大休止の号令が出た。水と食料が配られた。革袋の水を飲み干すと、配られた保存用の硬いパンを一かけらも口に入れぬまま、ラプサーラは眠りこんだ。
揺り起こされて目を覚ました時には、周囲は薄闇に包まれていた。
「もう夜なの?」
起こしてくれた女性に聞いた。医業関係者のダンビュラという女性で、セルセト人だ。出発からずっと隣り合って歩いて来た。
「もう朝、よ」
ラプサーラは目をこすりながら、昨夜配られたパンを荷袋から出し、唾で湿らせながら食べた。水が配られた。次の配給がいつになるかわからない。味わって飲む。
「一番後ろの人達はどの辺りにいるのかしら」
「それが、後ろの集団が昨日から酷い攻撃にさらされているって」
ダンビュラが声を潜め、答える。
「あくまで噂よ、だけど……」
出発を告げる笛が鳴り、二人は口を噤んで立ち上がった。行軍中は私語を慎まなければならない。足の筋肉が硬直し、感覚がなかった。それでも誰も何も言わず、前進を再開する。
隊列は幾つも峠を越え、ほぼ尾根伝いに山を進んでいった。ラプサーラは黙々と歩いた。座りこみたかったが、後ろに二万を超す人々がつかえている事を思うと歩かざるを得ない。歩きながら、グロズナ軍はどこまで迫っているだろうと考えた。
頭の中で持っている知識を反芻する。
ナエーズ総督にペニェフの代表者が選ばれ、ペニェフ有利の政策が行われる事に反発し、グロズナは独立宣言を公表した。それまでグロズナは、ナエーズ南部の山岳地帯と西の半島を実質支配していた。だが、彼らの悲願である独立国家樹立には、地理的に連続した土地が必要不可欠となる。
独立宣言から間もなく、グロズナは民族浄化の御旗のもと、南の山岳と西の半島を結ぶ地域のペニェフを武力で排除し始めた。その勢力はナエーズ中西部のカルプセスにも迫り、排除は殺戮に形を変えながら、徐々に北上を続けている。
これは、グロズナという民族が特別に自己中心的であり残虐であるという話ではない。ペニェフが優位の時には、同じ事をペニェフもしてきたのだ。
ラプサーラは一度だけ、世界図上のナエーズから過去を幻視した事がある。見えたのは、並べた椅子に座らされ、戦斧で順に頭を潰されていくグロズナの男達の姿。喉をかき切られ、谷底にゴミのように捨てられた子供達の姿。ルフマンの神印の形に立たされ、油をかけられ焼き殺される女達の姿。襲撃された村で、倒れている人々を更に剣で刺し、入念に殺し尽くすペニェフの兵士達の姿。
同じ事を、ペニェフとグロズナは何度も何度も繰り返してきたのだ。それがナエーズの歴史だ。
ラプサーラは幻視した事を後悔した。何より後味が悪いのは、数々の戦闘と虐殺が神ルフマンと神リデルの名の許に行われた事実だ。ルフマンは皮肉屋ながら温厚寛大な農耕の神であり、リデルは狩人の守護神であると共に、公明正大な平和と秩序の守護神でもある。人間に神の御心を推し量る事はできないが、これらの神が虐殺を求めているとは、少なくともラプサーラには思えない。
何故、神の名を唱えながら殺しを行うのだ? それは、殺されたくないからだ。神からの守護を得る為に、神の名を唱えるのだ。では何故、殺されるかもしれない危険を冒して殺しに行くのだ? それは、殺された同胞の遺恨と無念を晴らす為だ。
同胞とは、同じ神を崇める共同体の一員の事だ。共同体同士の戦いはいつしか、神と神の代理戦争のようになった。そこに神が不在のまま。
戦いの起源を遡れば、そこに戦いの意味は見出せるだろうか? あるいは歴史の意味が?
わからない。わかるのは、今もグロズナ達が背後に迫りつつある事だけだ。彼らの軍勢の内の何割が、この隊列を追って北上してきているだろうか。カルプセスから新シュトラトの間には、他にも村や町がある。カルプセスを出た隊列だけにかかりきりにはなるまい。それでももし……山岳民族と山中で戦闘に陥るようなことがあれば……。
ダンビュラに服の袖を引かれ、ラプサーラは我に返る。蹄の音が後方から迫ってきた。道の脇に身を寄せると、獣臭い一陣の風と共に馬が通り過ぎた。
馬の背に跨る人物の背中に見覚えがあった。緑色のマント。長い、水色がかった白髪を一本に束ねた後ろ姿。
カルプセスを出た日、兄と共に家に来た魔術師だ。
後ろからもう一頭の馬が来る。今度は知らない男だった。土埃で汚れた灰色のマント。そのフードを頭にかぶり、顔を隠している。
すれ違う時、目が合った。色黒の肌で、無精ひげを生やした、中年の男だった。男は冷たい目でラプサーラを見た。たくさんの人の中から、ある邪悪な意志で以って、まっすぐラプサーラを見つけ出したかのように。男はラプサーラの背に寒気を残してたちまち通り過ぎた。
それから間もなく小休止が与えられた。一度座りこむと、両脚が激しく攣った。沢に水を取りに行く兵士らの声を聞きながら、冷たい岩に頬を寄せて体を冷やし、ラプサーラは束の間まどろんだ。
その内誰かが前に立ち、その気配で目を覚ます。
あのセルセト人の魔術師だった。
「ラプサーラだな」
魔術師はぼんやりと目を開けるラプサーラの前にしゃがんで言った。
「俺の事がわかるかい?」
「あなたは、魔術師の……」
記憶をたどりながら、掠れた声で答える。
「……ベリル」
頷くベリルの後ろに二人の男がやって来た。一人はこの隊列を率いるデルレイ。もう一人は、先ほど馬に乗っていた、中年の色黒の男だった。
「大丈夫か? 今話せるかい?」
ベリルは落ち着かない様子で左手を動かしながら言った。無意識の動作だろう。彼は左手に水色の大きな石を持っていた。魔術師は自分を守護するための道具を持つ事が多い。この石が彼の守護であるなら、何が彼を落ち着かなくさせて、それを何度も握り直させているのだろう。嫌な予感がした。
「兄さんは?」
ベリルは深く俯いて答えた。
「カルプセスで……戦死した」
ラプサーラは意志に反して両目が大きく見開き、全身が硬直するのを感じた。顔からさっと血の気が引いた。ついで、カッと熱くなった。脈拍が次第に高まり、怒りとも焦燥ともつかぬ複雑な感情が、煮えたつように湧き上がってきた。
カルプセスに戻らねばと思った。ベリルの言う事が本当なら、ロロノイが、少なくともその肉体が、カルプセスにいるのなら。
「カルプセスを出る前に、グロズナの魔術攻撃にやられたんだ」
「君のお兄さんは立派に戦った」
デルレイも言葉を添えるが、殆ど聞こえなかった。
ラプサーラの頭の中では、兄と死に関する様々な情報と、焦燥に関するあらゆる感情が、複雑に絡み合っており、しかし結びつく事はない。カルプセスに戻らなきゃ。ラプサーラは落ち葉と柔らかい土に指をついたまま、しかし実際には動けない。
死んだ。
死。
もう会えない。
では、あれが最後だったというの? カルプセスでデルレイに妹の行き先を託し、踵を返して人ごみに消えて行った、あの後ろ姿を見たのが?
嘘だ。
言わなければ。そんなのは嫌だと。さあ、何か言わなければ、馬鹿だと思われるわ。ラプサーラは焦る。唇が震える。頭の中でベリルの言葉が浮かんで消える。戦死した。カルプセスで。敵。魔術。やられた。
「魔術――」
ラプサーラは、もはや自分が何を思っているかも自覚できぬまま口を開く。
「魔術師がいれば百人力だと――兄さんは言っていたわ――魔術師が一緒だから大丈夫だと――」
ベリルの頬がさっと赤くなった。申し訳ない事を言ったわと、ラプサーラは鈍麻した頭で思った。そんな悲壮な顔をしないでと思う。やめて。本当に兄さんが死んだみたいじゃない、そんな悲しい顔。
「この人は誰?」
兄の代わりに立っている、見知らぬ男について尋ねた。ベリルの肩が震える。全く意外な一言だったようで、顔を上げた彼は少しだけ動揺を見せたが、すぐにそれを隠した。
「セルセト人の魔術師だ。名はミューモット。カルプセスで助けてくれた」
助けて。じゃあ、兄さんの事は? 助けてくれたの?
「お前、星占だな」
ベリルとデルレイが目を丸くした。ベリルが尋ねる。
「あんた、何で――」
伝令が人々を押しのけて馬を走らせる、その叫び声が聞こえた。
「何事だ!」
伝令は馬から下りず答えた。
「後続の集団が敵弓射部隊の襲撃を受けています!」
その報告はラプサーラの心に衝撃を与えた。ロロノイの生死に関するベリルの情報より、遥かに直接的で、わかりやすい衝撃だった。
伝令は各地点に設置されており、最後尾から前方へ、前方から最後尾へと伝達される。
デルレイは直ちに前進を開始した。山の中の坂道を、石や木の根を跨いで急ぐ。
行軍が滞る瞬間があった。
それは峠の、左手側の木々がなくなり、視界が開ける箇所で起きた。
ラプサーラも思わずその場所で足を止めた。
蟻のように蠢き逃げ惑う、人間の姿が見えた。先頭集団がとうに通り過ぎてきた道にいた、後部集団に違いなかった。
左右の支道から、矢の雨が降り注ぐ。
道には既に人の骸が積み重なり、行く手を塞がれた後続の人々が、為す術なく倒れていく。
混乱に陥り、敵のいない支道に迷いこんではぐれていく人々も見えた。そっちじゃない、と叫びたかったけれど、渇ききった喉からは、声は出なかった。
「急いでください! 立ち止まらないで!」
セルセト兵に肩を突かれ、ラプサーラは歩きだした。目を前に戻せば、また森と道しか見えなくなる。殺戮を隠す緑の幕。
視界は木々に遮られ、じき何も見えなくなった。
※
木兵が佇む街を、セルセト兵の目を避けながら二人の子供は歩いた。ミハルの家にたどり着いた時にはすっかり日が暮れていた。ミハルは震える手で家の戸を開いた。そのまま奥の台所へと歩いて行き、震えだしたかと思うと、その場で立ったまま涙を流し始めた。
「おじさん……おじさん……」
泣いているミハルの姿を見るのは辛く、悲しみが伝播して、ペシュミンの目にも涙が滲んだ。
突如、何かに気付いたようにミハルが走り出した。彼は台所の奥の戸を開け、あっ、と声をあげた。ペシュミンも後を追った。戸の向こうはちょっとした庭だった。一斉に飛びあがった蠅の羽音が耳を打ち、むせ返る悪臭に息を詰まらせた。
大きな塊が、庭の隅に転がっている。暗くて見えなかったが、ミハルがそれに縋りつくと、尚も蠅が飛びあがった。
「ノエ、ノエ」
ミハルは大きな塊を揺さぶっている。ペシュミンも庭に出て、一歩ずつ歩み寄った。塊は、黒い犬の死骸だった。舌をだらりと地面に垂らし、地面を覆う草は、血で濡れている。
「ひどいよ――ねえ――こんなの――」
ミハルはしゃくりあげながら、ペシュミンに語りかけた。
「どうして――何で――」
堪らない気分になり、ペシュミンも草の上に座りこんで共に涙を流した。通りから足音が聞こえれば、慌てて声を殺してまた泣いた。
「いい子だったんだよ――ノエは凄く……」
やがて二人の頭上に満天の星が輝きを放つ。月は生ぬるく満ちて光り、立ち舞う蠅の虹色の翅をきらめかせる。
ミハルが涙を拭いて立ち、どこかに行った。戻って来た時には、小さなスコップを持っていた。それで土を掘り始めた。ペシュミンも意を汲んで、両手で湿った土を掘り返した。
二人は力を合わせて猟犬の体を引きずり、穴に落とした。埋めるというよりは、僅かな窪みに落とし、その上に土を盛る形となった。涙は枯れていた。二人は疲れ、土まみれで、更に空腹だった。
台所に戻ると、ミハルが汲み置きの水でペシュミンの手を洗ってくれた。二人は台所を漁り、砂糖の壺を見つけ、夢中になって舐めた。
「神殿に戻って」
暗闇の中で、ミハルの声が聞こえた。
「怪しまれちゃうよ」
ペシュミンは呆然としながら、うん、と答えた。意味を受け止めたくない光景を見たせいで、疲れ果てていた。
「僕はここにいるよ」
うっすらと影のように見えるミハルの輪郭が動き、手と手が触れ合った。ペシュミンはミハルの手を握り返した。冷たいのに、嫌に汗ばんだ掌だった。
「忘れないでくれる? また会いに来てくれる?」
「来るよ。約束するよ」
「ねえ、もし何かがあったら、僕はノエのお墓にいるから……」
二人は家の玄関口まで歩いて行き、耳を澄ませた。戸の外からは何も聞こえてこなかった。
「気を付けてね」
「うん」
ペシュミンは名残惜しく、繋いだ手に力をこめた。ミハルもそれに応えた。
「ばいばい」
そして、二人は手を放した。
戦勝広場からルフマンの神殿に続く道を、ペシュミンは一人で歩いた。服は土まみれで、血がつき、長い犬の毛もこびりついていた。指と爪の間には土が詰まり、口の周りは砂糖でべたついている。頭には如何なる思考もなく、惰性で足を引きずるように歩いていた。そんな有り様だから、セルセト兵の足音に気付くべくもなかった。
カンテラの火が視界に入り、ペシュミンは息を止めた。顔を上げると革鎧を着た大柄な男の姿が目に入った。セルセトの兵士だ。怖くて顔を見れなかった。相手も驚いた様子で、息をのみ、声を出さない。
ペシュミンは踵を返して逃げ出した。
「待ちなさい!」
たちまち兵士に肩を掴まれた。
「ペニェフの子だな。今までどこに隠れてたんだ」
「放して!」
ペシュミンは手足をばたつかせてもがくが、兵士は放さない。
「落ち着きなさい! こら! 何もしないから!」
「嘘!」
街を覆う壁に連れて行かれ、縛られていく人々の姿が頭をよぎり、ペシュミンは泣き叫んだ。思わず座りこむと、兵士は軽々と抱き上げて、一番近い避難所である、ルフマンの神殿に向かって歩き始める。
犬の毛と土と血のしみに、兵士は気付いていた。
確か、猟犬を殺処分した家が何件かあった。凶暴化しては手に負えないから、処分するしかなかったのだが。だが、自分の知る限りでは、ほとんどがグロズナの家だった。
ペシュミンは、兵士の自分への扱いが存外優しい事に拍子抜けし、もがくのをやめた。
「おお、良い子だ良い子だ。名前は何て言うんだい?」
兵士は間を持たせる為に口を開いた。
「俺はな、ロロノイって言うんだ」
※
木々に張られた幕の中から、軍人たちが出てきた。軍議が終わったのだ。夜は頭上に忍びより、己の手も見えないほどの暗闇を、もうすぐ連れて来る。軍人たちは小声で囁きながら散っていく。
魔術師ベリルが近付いてきた。
「これからどうなるの?」
ラプサーラは木の根本に座りこんだまま聞いた。ベリルが眼前に片膝をつき答える。
「分断された後部集団の救出作戦が行われる。それに魔術師も二人投入される。俺じゃないけど」
休めよ、とベリルは言った。それは心からの気遣いであると共に、ある種の逃げである事をラプサーラは感じた。
「待って」
「何だい」
「兄さんはどうやって死んだの?」
ベリルは唇を噛んでうなだれる。無残な死だったの? 心の中で更に尋ねる。だって、魔術で殺されたという事は?
「明け方、カルプセスを出発する隊列に向けてグロズナ軍の攻撃が始まったんだ。俺は市内にいたけれど、敵に魔術師がいる事を感じて攻撃を開始した。魔術師を生かしておくと厄介だから」
魔術師は希少であり、かつ強大な力を持つ。それゆえセルセト本国では、魔術の才を持つ者を幼い内からかき集め、特別な教育を施す。
そのような育ちゆえ、魔術師は魔術師の脅威を誰より分かっている。
「敵の魔術師は三人いた」
「そんなに……」
「あいつら、本気でカルプセスを落とすつもりだったんだ。二人までは俺が殺した。ロロノイはずっと俺の隣にいた。戦闘が始まってからも、経緯を見守るために。俺が死んだら、俺の代わりに、見たものを報告しなきゃならないから」
「その三人目が兄さんを?」
「ああ」
ラプサーラは、胸の底で冷たい憎悪が震えるのを感じた。
「街の壁を攻撃された。防ぎきれなかったんだ。あいつ……ロロノイは……壁の上から弾き飛ばされて……」
ラプサーラは想像する。夜明けの薄紫色の空を。カルプセスを囲む高い壁を。
そこから墜落する兄を。
目を見開き、口も開き、信じられないという顔をして落ちていく兄を。
妹を頼むとデルレイに懇願した時の表情を思い出そうとした。カルプセスを出ると告げに来た時の切羽詰まった表情を思い出そうとした。陽気だった兄の、笑った顔を、酔って騒ぐ顔を、思い出そうとした。
できなかった。頭に浮かぶのは全て想像の中の、墜落していく兄の顔だけだった。
「手を伸ばしたんだ」
ベリルは右手で土を掴んだ。
「でも届かなかった」
彼が掴む土のその下に、兄の指がある事を思った。それを掴めば兄の命が助かる事を思った。まだ助けられると。過去は変えられると。
「兄さん」
ラプサーラはベリルの右手を払いのけ、彼が抉った土を更に深く、両手で掘り始めた。
「兄さん!」
ベリルが身を引き、続いて身を乗り出して手首を掴んだ。
「おい、どうした?」
「兄さんが」
手を振りほどき、尚も両手で土を掘る。
「兄さんを助けないと!」
「やめろ!」
左手の守護石を懐にしまい、ベリルは今度は両手でラプサーラの両手首を掴んだ。
「どうしたんだよ、やめろよ!」
「兄さんが落ちてしまうわ!」
「土掘ったってしょうがないだろ! あいつは死んだんだ!」
「邪魔しないで!」
「目を覚ませ!」
両肩を掴まれ、揺さぶられた。ラプサーラは咄嗟に土まみれの右手を上げ、ベリルの顔を平手で叩いた。
「どうして兄さんは死んだの?」
乾いた音で狂乱から覚め、怒りが宿る目に、暮れの空の光を集めながらラプサーラは尋ねた。
「どうして同じ場所にいたのに、あなたは生きてて兄さんは死んだの?」
「ロロノイは運が悪かった」
「運ですって?」
低い声で繰り返す。
「よくもぬけぬけとそんな事が言えるわね!」
「ラプサーラ、駄目よ。ラプサーラ。静かに」
立ち上がったラプサーラの肩に、誰かが後ろから手を乗せる。ダンビュラだった。ラプサーラは脱力して、その場に座りこんだ。胸に冴え冴えとした憎悪が夜の潮の様に満ち、引く予兆を見せなかった。ラプサーラは顔を覆う。ベリルはそっと去った。食料の配給が始まったが、ラプサーラは動かなかった。
暫くすると誰かが来た。草を踏む足音の重さから、ベリルではないと思った。何よりその、禍々しい気配から。
顔を上げたら闇だった。足もとにカンテラが置かれ、その火の向こうにミューモットのいかめしい顔が現れた。中年の魔術師は紙に包まれた干し肉と、保存用のパンを寄越した。
「食っとけ」
彼は無愛想に言う。
「これが最後の食料だ」
ラプサーラは無感情になるよう努め、受け取る。
「じゃあ、新シュトラトはもうすぐなの?」
その質問をミューモットは鼻で笑った。
「まだ三分の一も進んでねえ」
黙りこみ、じっと食料を見る。
どうして兄さんの事は助けてくれなかったの?
そう質問したかったが、答えが怖かった。運が悪かったで片付けられるのが堪らなく恐ろしかった。もっと深遠な意味が欲しかった。深い理由付けが。
それでいて、ベリルの言う事が正しいのだと、頭ではわかっていた。
占星符を捲れば意味がわかるだろうか?
星が意味を与えてくれるだろうか? 神が?
意味があり、人が死ぬのか。あるいは死に意味などなく、全ては運でしかなくて、意味を求める方が馬鹿げているのか? ラプサーラは一晩うなされる。
夜が明けても行軍は開始されず、救出部隊を待った。ベリルはそばにいたが、話しかけてはこなかった。謝らなければならないとわかっていた。しかし、話しかける事はおろか、彼の顔を直視する事さえできなかった。兄が死んだのに生きているベリルが憎くて仕方なかった。彼が親切な人物である事はわかっている。彼が死ねばよかったわけでもないと思っている。
それでもどうにもならなかった。死にゆく兄に対して無力だった、ベリルの事が憎かった。
移動開始を待つ間、ミューモットが食べられる草と食べられない草を教えてくれた。これは良い気晴らしになった。
「あのぎざぎざの葉っぱについてる黄色い実は何?」
「あれはやめておけ。食えん事はないが、一定の割合で毒のあるよく似た奴が混じっている。素人にはまず見分けがつかん」
「あんたは何の玄人なんだい?」
そばで聞いていたベリルが口を挟むが、ミューモットは歪んだ笑みを浮かべるばかりだった。ベリルは肩を竦めるだけで追究はしなかった。
ミューモットはマントの下に、鞘のないダガーをちらつかせていた。その刃も柄も黒く塗られており、一目で暗殺用だとわかる。彼が何者なのか、ラプサーラは知りたいとも思わなかった。願いは一刻も早く目的地に着く事だけだった。
日が高くなるまで待つが、魔術師二人を投入した救出部隊はついぞ戻って来なかった。食料の欠乏もあり、この場に留まる事はできなかった。
救出部隊を待たずして、デルレイは行軍を開始する。
四日目、今度は先行する偵察部隊が先頭集団に戻って来ない事態が発生した。デルレイはやはり、偵察が戻るのを待たず前進を決断した。
ひどい胸騒ぎがした。星図が何かを囁いているから、今すぐそれを広げて意味を読み取らなければならないという強迫観念に駆られた。ミューモットとベリルはラプサーラの近くにいて、何かを囁きあっている。
やがてベリルが馬に跨り、列の先頭に走って行った。間もなく行軍は、森の中で止まった。
「どうしたって言うの」
ミューモットは「さあな」ととぼけて答えない。ラプサーラは占星符が入った荷袋を胸に抱き、列の先頭に走った。軽んじられるのも、何も知らずに歩かされるのも、我慢ならなかった。
「ベリル」
ようやく彼の名を呼べた。
「ベリル!」
白髪の魔術師は兵士に囲まれて、デルレイと共にいた。兵士を押しのけて現れたラプサーラから、ベリルは緊張して顔を背けた。
「何だい」
ラプサーラは彼のぎこちなさに傷つく自分の心を感じた。
「それはこっちの台詞よ。何だって言うの」
「いいところに来た」
デルレイが馬から離れ、歩み寄る。
「娘、今この場で星占を行えるか」
「無意味ですよ、隊長。星占は個人の生死は占わない」
「そういう物なのか?」
「ええ。よほど人間界で影響を及ぼす人物でもない限り。そんな事をしてもこの先に待ち構える物は変わらないでしょう」
ベリルはちらりとラプサーラを見たが、またすぐ目を逸らした。
「罠が仕掛けられている。血銅界の魔術の罠だ。偵察部隊はそれにやられた」
「どうしてそんな事がわかる?」
「俺が魔術師だからですよ。仕掛けた奴の顔だってわかります」
ベリルは肩を竦め、
「そういう物ですよ」
魔術師の言を疑うつもりは、ラプサーラには毛頭ない。デルレイは渋い顔をするばかりだ。
「俺が先行します。許可をください」
「魔術師は貴重だ」
「わかってます。その能力の発揮しどころですってば」
「リヴァンスとドミネを救出部隊に同行させた以上、君は我が隊で動かせる最後の魔術師だ。我々は君を失うわけにはいかん。わかっているだろうな」
「重々承知の上です。行けるところまで行きましょう、隊長」
デルレイはベリルが列の先頭に立つ事を許可した。ラプサーラはデルレイを警護する兵の真後ろを歩く。いつの間にかミューモットが背後についていた。気が付いた時、得体の知れない物をこの男から感じ、背筋が冷たくなった。
森の坂道の途中で行軍が止まった。兵士たちの頭越しに、坂の下で立ち止まるベリルの後ろ姿が見えた。彼は森が終わる場所で立ち止まり、片腕を上げて進むなと合図をしている。後ろのミューモットが意味ありげに呻いた。
兵士たちとデルレイがベリルのもとに集まる。ラプサーラもそっと近づいた。ベリルの目の前には平原が広がっていた。ラプサーラは道の脇にそれ、木々の合間から前方を窺った。
見るに堪えない物がそこにあり、慌てて目を閉ざした。その為、赤く血塗られた草と点々と飛ぶ蠅以外、何も見ずに済んだ。一度意識してしまうと、蠅の羽音が耳を打ち、腐臭が鼻を襲う。カラスもしきりに鳴いていた。ラプサーラは道に戻った。デルレイが口を開く。
「何が見える?」
「こりゃひでぇや」
ベリルは馬から下りて答えた。
「この平野一面に、点々と術が敷かれています。踏んだら発動するように。彼らは――」
と、言い淀む。
「踏んだらああなるのか」
デルレイは偵察部隊の兵士達の死体を見ながら顎を撫でた。
「ベリル、俺はどうも魔術に詳しくない。血銅界の魔術師を擁するグロズナの軍事組織は何だったか?」
「〈リデルの鏃〉の一党ですよ。よりによって一番狂信的な奴らです」
「もう一つついでに聞こう。その罠は踏まなければ発動しないんだな?」
ベリルが目を瞠る。その顔から血の気が引いた。
「答えろ。踏まなければ問題ない。そうだな」
「はい、ですが――」
「ですが、何だ」
「踏まないように歩くとなると、相当注意深く歩かなければ……しかも一人ずつ歩かなければ不可能です。隊長、二万の人間がですよ? まさか一列になって? 冗談じゃないっすよ」
「無論、冗談ではない」
魔術師が左手を固く握りしめるのを、ラプサーラは見た。
「リデルの鏃の一党はナエーズ中心部を拠点にしている。これを突破しさえすれば、以降はグロズナの影響力の薄いナエーズ北部に入る。どのみち引き返す事はできん」
デルレイはミューモットを呼んだ。
「貴様もここまで来て、協力せんとは言わんな、魔術師」
「いいだろう」
「ベリル、引き続き先頭に立て。ミューモット、馬に跨れ。人と馬にとって安全な道を後続に示せ」
ベリルが身震いする。ミューモットが前に出て、彼の馬に跨った。ラプサーラは眩暈を感じながら、その場に踏ん張った。
隠れる場所もない平原を。二万の人々が。一列で進む。
峠から見下ろした矢の嵐が、否応なく思い出される。足が震え、止まらなかった。
ベリルが、握りしめた左手を額にかざす。
彼は歩き出した。右手から、魔術の光の粒がこぼれ、後続に道を示す。ミューモットが馬に乗り、その後ろに続いた。
白昼、死の一列縦隊はこうして始まった。
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