クルスニク・オーケストラ
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第十楽章 ブレーン・ジャック
10-2小節
その時、誰かが剣をリドウ先生に向けて振り下ろした。空かさず骸殻に変身して間に割り込んで、刀身を掴んだ。変身中ならこういうことをしても手は切れません。それより。
「エルちゃん……」
「これ! 止めてよ! ねえ、ジゼル!」
エルちゃんはわたくしが掴んだ剣を取り返そうと、必死で剣を引っ張ってる。可愛いお嬢ちゃん。そんな小さな力で大人に敵うわけがないでしょうに。
「大人気だねえ、偽者」
「ニセモノなんかじゃない! ミラはミラだよ!」
剣を引っ張る。エルちゃんは悲鳴を上げて前にまろび出た。そのエルちゃんをキャッチして担ぎ上げた。
「はなして、はなして!」
「エルっ!!」
ごめんなさいね、エルちゃん。
エルちゃんを手近な雛壇に押しつけて、取り上げた剣で手首の布地を刺して磔にした。これでこの子の動きは封じられた。
「小さいお子さんをあまりいじめないであげてくださいな」
「情が移りでもしたか?」
「かもしれませんが、室長もお分かりでしょう?」
リドウ先生だって、本物の《鍵》がエルちゃんだってご存じでしょうに。趣味が悪うございましてよ。
リドウ先生は肩を竦められて、仕事の顔に戻った。
「ルドガーは殺すなよ。分史のマクスウェルだけ殺れ」
「承知しました」
「やっ……やめて! ジゼル! やだぁ!」
ごめんなさいね、エルちゃん。今ばかりはその悲痛な訴えを聞いてあげられない。今のわたくしは一人のエージェントで、リドウ先生の部下なの。
骸殻を解いて、ルドガーとミス・ミラが辛うじて捕まっている位置まで歩いて行く。
ルドガーは恐れの色濃くわたくしを見上げて来た。ミス・ミラも同じ。マウントを取っているのですもの。わたくしのナイフの一振りで、どちらもこの奈落へまっさかさま。
「ジゼルっ、本当に……!」
「『本当に』今から彼女を落とします。痛い思いをしたくないなら、彼女の手を離しなさい」
「できる、かよ!!」
「そう。なら仕方ありませんね」
やれと言われたのはミス・ミラだけですから、ルドガーが繋いだ手にナイフを刺してミス・ミラだけを落としましょう。
「~~っあんた言ったじゃないか! どんな行いでも、本人が覚えてる限り無かったことにはならないって! あんたこれでいいのかよ! ミラを生贄になんてして、平気でこれから過ごせるのかよぉ!!」
《このガキ! 補佐がどんな気持ちで今回の任務を》……やめなさい、《レノン》。ルドガーの言うことを教えたのも、今、ミス・ミラを葬ろうとしているのも、他でもないわたくしです。
「――もうすぐなのよ。長かったクルスニクの悲劇を、《レコードホルダー》たちの悲しみをようやく昇華できるのよ。それを阻む者がいて、葬らなければ進めないのなら、そうするしかないじゃない」
わたくしの中に在る、報われなかったクルスニク一族の魂たちにハッピーエンドを。わたくしはそれを目標に今日まで生きてきた。
あの日の公園で、強く誓ったの。
それをここで終わりになんてできない。
恨むなとは申しません。安らかに眠ってとも申しません。
ナイフを持った右手を振り上げ……
ドシュッ。血が飛び散った。
え――?
わたくしの右手のナイフが、わたくしの足を刺していた。
一拍遅れて痛みが来た。思わずその場に膝を突いた。
「あ、う…くっ、…ああ、あああ!」
どうして!? よりによってこんな大事な時に……! 右手が言うことを聞かない!
「《似せ者だろうとミラさまを傷つける奴は許さない!》 ――い゛ギッ!?」
《レコードホルダー》……! 何て場面で邪魔をしてくれるの。痛い、自分で刺した足が痛い。やめて、抉らないで。この体はわたくしのものよ。離して! 《離すもんか!》 返して! 《ダメ!》
「ア、ア゛、アアアアアアァァッ!!」
懐の時計を無理やり起動する。防具がいるの。今のじゃ足りない。この《レコード》に侵されないように。「わたくし」を守る鎧を、殻を、お願い、与えて――!
骸殻が、解ける。
その場に崩れ落ちる。あたまがいたい。ハンマーで脳みそを内側から叩かれてるみたい。
それでも顔を上げて、見た。
――さながらそれは、天空をそのままヒトの形に象ったような、ヒトならざる美。ミス・ミラと同じでいて、それでも決定的に異なる。
これが本物のマクスウェル、本物の精霊の主。
正史世界のミラ=マクスウェルはエルちゃんに歩み寄った。悠然と。向こうにリドウ先生がまだいらっしゃるのに。
マクスウェルがエルちゃんを磔にしていた剣を抜き去る。エルちゃんはその場にぺたんと座り込んだ。
くっ。ここで倒れるわけには参りません。精霊のマクスウェルが現れた今、戦況は著しくリドウ先生に不利。リドウ先生が今日ほど長時間変身しているなんて初めて。内臓黒匣が保ちません!
もつれる手で携帯注射器を取り出して、後頭部に乱暴に打ち込む。
ナイフを手に。目は霞んで焦点を結ばない。頭は石を詰められたみたいに重い。
それでも、ジゼル・トワイ・リートは分史対策エージェントなのよ。
「やあっとお出ましだね。ミラ=マクスウェル」
リドウ先生が骸殻を解除なさった。――了解です。
「相応の礼をさせてもらう」
「大歓迎――と行きたいが、生憎、時間切れだ」
リドウ先生がホールの四方にあらかじめ仕掛けておいた煙幕装置を起動なさった。
ホールが白い煙で満たされる。
「その勢いで《道標》集め、ヨロシク」
「勝手なことを!」
勝手なのは貴方よ、ルドガー。クラン社の、分史対策室のエージェントでありながら、上司の命令も聞けず、あまつさえ剣を向けるなんて。通常業務なら懲戒免職ものでしてよ。
あちらの視界がゼロの間に、わたくしたちは離脱する。足をやってしまったわたくしは、他のレディエージェントと合流次第、肩を借りた。
用意しておいた脱出艇を目指して、出血が止まらない右足も駆使して意地で走る。
付いてくる足音は、船に来た時より少ない。くっ……ごめんなさい。わたくしたちが至らないばかりに!
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