クルスニク・オーケストラ
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第十楽章 ブレーン・ジャック
10-3小節
ボロボロ、ですね。リドウせんぱいも、わたくしも。
ほうぼうの体だけど、それでも、こうして生きてマクスバードの港に戻れただけでも、儲け物。
だって今日の戦闘でルドガーたちに殺されたエージェントは、もう戻らない。もういない、どこにも。
そも、アルクノアに偽装させた時点で、死ねと命じたようなもの。チャーリー、サイモン、クラリス……《レコード》がなくても忘れないから。
考えながら、リドウ先生の手をお借りして船着き場に移ろうとして――
あ、ら? どうして、かしら。視界が回る。セカイが回る。ああ、ごめんなさい、リドウせんぱい、支えさせてしまって。
あら? あら、あラ、アら? ナに? どうシテ、体、動かナイの?
「ジゼル? おい、ジゼルっ」
せんぱいが、よんでる。早く立たなくちゃ。立たなくちゃ、なのに、意識が墜落、して……
どうしてわたくし寝てるのかしら。
目を覚まして真っ先に浮かんだ疑問がそれでした。
「ようやくお目覚めかよ。気分はどうだ?」
リドウせんぱい。いらしたんですか。ええと、気分、気分はですね……あら?
右手が、動かない? 右足も? 足はケガをしたから分かりますけど、手には何もないはずなのに。
「やっぱり動かないか」
せんぱい? 何かご存じですの。わたくしの体、どうなってしまったんですの。
「お前の《呪い》、ついに体にも影響し始めたってこと。記憶の種類には手続き記憶ってのがあってな。計算やら読解やらの作業を司る部位で、俺たちにとっては武器の使い方やら戦い方が入ってるとこでもある、だーいじな場所だ。《呪い》は脳の記憶領域を上書きする仕組みだ。そこまで到達したんだよ、精霊の《呪い》が。今回ので『右手を動かすための手続き』が塗り潰されたんだろう」
「もう、動かないんですか」
「動かそうと思えばできるだろうが。――自分で見てみな」
左手だけで何とか起き上がって右腕を見下ろす。――黒い。
「時歪の因子化……?」
「船でお前、フル骸殻に変身したろ。そのツケだ。動かせても、ユリウスみたいに痛みでまともに機能しないだろうよ」
ああ、これが。これがユリウスせんぱいの抱えてらした。同じ身の上になってようやく理解できましたわ。こんなものを背負ってあの人は今日まで、笑っ、て――
「――泣くなよ。時歪の因子化なんて、今さら泣くほどのことでもないだろ」
「すい、ませ」
どんなにか痛かったでしょう。どんなにか恐ろしかったでしょう。それなのにわたくしたちにもルドガーにも、笑って平気なフリをなさって。それを知って、泣かずになんていられないんです。
もちろんわたくしも時歪の因子化の痛み自体は知っています。でも、だからこそ、ユリウスせんぱい――
リドウ先生はわたくしが泣き止むまでそばに付いていてくださいました。
「……すみません、でした。もう、大丈夫です。業務に戻ります」
「必要ない。お前の仕事はもうないから」
「え?」
「お前が寝こけてる間に、社長に報告しといた。《呪い》による機能不全と、実はフル骸殻だったこと。よくも俺にもヴェルにも隠し通したもんだ。『仲間にウソをつかない』って《ルール》はこれでアウトだな」
わたくしの中で何かの底が抜けたような気がした。
忘れていました。ビズリー社長は役に立たない駒を生かしておくほど寛容な方じゃありません。だから、せんぱい方は身を削ってクラン社に奉仕してきたんだもの。
「正確には、お前のすべきことは1個しかなくなったから、後は自由にしろって社長からお達し」
そんな社長が、わたくしが戦えなくなったとお知りになったら、《魂の橋》は必然的に――
「そうだよ。《橋》になるのはお前だって決まったんだよ。ジゼル・トワイ・リート」
右足を引きずってエレベーターに乗って、最上階の社長室へ向かった。呼び出されてもいないのに。
社長室を、ヴェルがするようにノックしてから、中に入る。ビズリー社長と、ヴェルが、いた。
「社長。リドウ室長から《橋》になるのがわたくしだと通達を頂きました。本当ですか?」
「お前でも命は惜しいか」
「いいえ。ただ、確証が欲しいだけです」
「《魂の橋》候補はお前と、ユリウス、リドウ、ルドガー。今までは内臓黒匣の負荷で先の永くないリドウを《橋》にする方針でいたが」
社長は椅子をお立ちになって、背を向けました。
空を見上げてらっしゃるのか、ガラスの反射を利用してわたくしを見ておられるのか。
「リドウからカルテが上がった。ジゼル、お前の脳は《クルスニク・レコード》に圧迫されて、肉体の稼働に支障を来し始めたそうだな」
「相違ございません」
「しかも、お前はフル骸殻に達しており、それを申告しなかった」
「おっしゃる通りでございます」
「これを受けて私は、ジゼル・トワイ・リート、お前を《魂の橋》にすることを決定する。異存はあるか」
大きく息を吸って、吐いた。先もってリドウ先生に告げられていたのが功を奏しましたわね。思ったよりショックは少ないです。
「ございません。わたくしの魂、祖国のため、人類の未来のためにお役立てください」
わたくしを顧みたビズリー社長は、いかにも満足したという風情で歩み寄って来られました。
差し出される、大きな掌。
「記録エージェントの任務、ご苦労だった。普通の骸殻能力者と異なるハンデを持ち、任務遂行は生半可ではなかっただろう。今日までよくやってくれた。お前をエージェントに雇った判断は間違いではなかった」
「身に余るお言葉です、社長」
手を差し出し、社長と握手した。手を握り合うというよりは、すっぽり包み込まれた。
「わたくしのほうこそ、精霊に呪われた小娘を何年も重用していただいて、感謝の言葉もございません。家以上に、親元以上に、クランスピアはわたくしにとってのホームでした」
握手が解けた。いよいよもってジゼル・トワイ・リートの生き延びる道が――閉ざされる。
「実行はいつになさるのですか?」
「諸処の手続きをすませて人事を整えてからになる。場所はマクスバード/エレン港だ。カナンの地の出現次第、私は《鍵》の少女を連れてかの地へ向かう」
「了解しました。死後わたくしは、かの地から社長とエル嬢のご無事と大願成就を、僭越ながら見守らせていただきます。ご武運を、お祈り申し上げます」
「最期まで変わらんな、お前は」
「……変われずに今日まで来てしまいました」
永の暇乞いもそこそこに。わたくしは社長室から退出した。
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