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私立アインクラッド学園

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第二部 文化祭
  第56話 結末

 舞台袖に戻った明日奈が、すぐさま和人に抱きついた。その頭を和人が優しく撫でるのを、まりあは黙って見つめていた。

「キリトくん……わたしの想い、伝わった?」

「……ああ、しっかり伝わったよ」

「よかったあ……わたし、この想い、キリトくんに届けーって……すごく……すっごく気持ちを込めて歌ったから……伝わってて、本当によかった……」

 子供のように泣きじゃくる明日奈。彼女のそんな姿を見るのは初めてだった。

「お取り込み中のところ悪いけど、お2人さん。次は直葉の出番だから、そこ通してくれませんかねー」

「わわっ! ご、ごめんね直葉ちゃん……!」

 明日奈は慌てて飛び退き、手で顔を押さえながら控え室に引っ込んだ。和人がその背中を追わなければ、恐らく次の出番まで帰ってこなかったことだろう。

「もうアスナってば、意外とお茶目で恥ずかしがり屋なんだから」

 里香がからから笑うと、明日奈は肩を竦める。

「だ、だってー……」

「はい、わかったわかった。直葉、ブチかましてこーい!」

「あたしは何をブチかませばいいんですか! ま、まあはい、分かりましたよ……ブチかましてきます……」

 直葉は苦笑いを浮かべ、舞台へと登った。




 風妖精(シルフ)の少女リーファの、空を飛ぶことへの憧れ、飛ぶことの楽しさを描いた明るい曲だ。
 巻き上がる歓声。自分が作曲した曲が歌われ、感動を与えることができるというのは、音楽家であるまりあにとって実に喜ばしく、誇らしい事だった。
 照れくさそうに頬をかきながら、直葉が戻ってくる。里香はロボットのような動きで、ガタッと椅子から立ち上がった。

「そ、そういえば次はリズだったね……」

 苦笑いを浮かべる明日奈曰く、里香はああ見えてものすごい"緊張しい"なのだと言う。
 明日奈は里香の隣にそっと寄り添えば、にっこりと日だまりのように微笑んだ。

「リズ、頑張って。わたしも一緒に、ここから歌うから……わたしがついてるよ」

「アスナ……分かったわ。ありがと、アスナ。なんか勇気湧いてきた。結城だけに」

「ふふ。いつもの、ううん、いつも以上の調子が出てきたみたいね。それじゃ、頑張りなさいよ!」

 明日奈がどんっと里香の肩を押す。舞台に飛び出した里香は、柔らかい笑みを浮かべた。



大丈夫! あたしに任せてよ

ダイレクトに背中押してあげる

頼りにされちゃ張り切っちゃうじゃない

ハッピーエンドも請け負いましょうか?



 里香の瞳は、涙で光っていた。
 先ほどのものとは違う、少し切ない涙だ。



ねえ、そこにいるのがあたしだったら…

そんなこと考えるの でも

らしくないはずのあの涙は

思い出の中輝いて…


きっと大事なものは一つだけ

絶対好きな気持ちだって

チャンスだよすぐに伝えなきゃでしょ

Cheer My Friend!


だって大切な二人だから

ずっとずっと応援するよ

運命のいたずら 乗り越えたから

きっともっとBe My Best Friend



 歌い上げた里香は、明日奈に向けてぐっと親指を立てた。明日奈も同じような仕草をとる。
 どうして里香はこんなにも強くいられるのか──これまでまりあは、何度そう思ってきたことだろう。しかし今日、ようやく分かった気がする。
 里香は、初恋を諦めているのではない。現に、明日奈の歌を聴いて悲しい涙を流していた。それでも、ただ、心から親友の恋を応援しているのだ。強いとか弱いとか、そんなことは問題じゃない。
 まりあは無意識のうちに、小さく呟く。

「……か、ず、と……」

 それは、まりあの歌を初めて褒めてくれた人の名前。まりあをこんなにも明るい世界へ連れ出してくれた人。そして──まりあが初めて淡い恋心を抱いた相手。

「ふっ……ぇぐ……」

 笑わなければ。今だけは、笑顔で明日奈と里香に労いの言葉を掛けなければ。お疲れ様って、言わなくちゃ。
 そんな気持ちとは裏腹に、まりあの目から次々と感情が溢れ出し、雫となって流れていく。

「まりちゃん、どうしたの!?」

 まりあの異変にいち早く気がついた明日奈が、慌てて駆け寄ってくる。
 かつて、彼女をこんなにも至近距離で見たことがあっただろうか。
 明日奈の煌めくはしばみ色の瞳は澄み渡っていて、気品や育ちのよさ、年頃の女の子らしさを自ずと感じさせた。
 ──勝てない。わたし、勝てないよ。
 明日奈と和人が付き合っていることを知っても尚、和人が自分の方を少しでも振り向いてくれることを望んでしまう、汚い気持ち。明日奈の目を見ていると、そんな醜い心が洗われていくようで、余計に虚しくなっていく。
 ふと顔を上げると、里香が苦い笑みを落としていた。恐らく、まりあの思考を全て察しているのだろう。里香は泣きじゃくったまりあの頭をぽんと撫でるように叩くと、明るい声で言った。

「まりあがあたしの歌にそんなに感動してくれるなんて感激だわ。あんた、歌上手いんだって? キリトから聞いてるわよ」

「キリト、が……?」

「ええ。あんたがいない間でもね、まりあって凄いんだぞーって、もう天才の域だよーってね」

「ほ、本当に……?」

 驚いて和人を見ると、彼は照れくさそうに目をそらしていた。

 ──ああ、もう、泣いてしまいそう。

 憧れの男の子が、自分のいない時にも褒めてくれている。まりあにとってこんなに嬉しいことはない。どんどん目頭が熱くなることを感じる。

「ありがとう、キリト……」

 そう言ったまりあの声は微かに濡れていた。茶色い目から、はらりと、甘い感情が流れ出していった。
 和人は戸惑いながらも微笑み、首肯してくれた。そして、まりあの元へと近づいてくる。ついに和人は、まりあのすぐ傍まで到達してきた。

「な、なんですか……」

 警戒するような声音で言うと、和人はニッと笑みを浮かべた。

「いってらっしゃい。頑張れよ」

「えっ? 行くって、どこに……頑張るって、どこで……?」

 そのときふいに、和人がまりあの背中をどんっと押した。その勢いで、まりあは舞台へと飛び出してしまう。
 それまで黙っていた明日奈が、慌てて言った。

「な、何してるのよキリトくん! まりちゃん、早く戻っておいで」

「は、はい……」

「まりあ」

 名前を呼んだのは和人だ。まりあは反射的に、舞台袖へと戻ろうとする足を止めた。
 観客席がざわつきの色を帯び始める。

「おまえ、音楽が好きなんだろ? まりあの尊敬する、有名な先生が観にきてるんだろ? なら、俺よりもまりあが舞台に上がるべきだ」

 その言葉に、まりあははっとした。和人の言っていた"いいこと"というのは、きっとこのことだったのだ。
 まりあは嬉しさに再び目を細めたが、最大の難点を思い出し、俯く。

「で、でも私、歌は苦手だし……そもそもBGMすらないんじゃあ……」

「音楽は歌だけじゃないだろ」

「え……?」

「そこから先は自分で考えるんだ。舞台に何か、楽器があるだろうけど」

 舞台を振り向くと、一台のグランドピアノがあった。黒い表面に少しだけ傷が入っていて、使い込まれているのだということがわかる。まりあは半ば吸い寄せられるように、その大きな楽器へと足を進めた。
 鍵盤は少し黄ばんでいるが、試しに押してみると、綺麗な音を奏でた。よく調律されている。
 もう止まらなかった。まりあはピアノとセットである椅子に腰を落とすと、思うままに、やりたいがままに演奏を始めた。

 ──即興曲。
 曲にも、物語と同じように、起承転結がある。曲も1つの物語文であると言えるだろう。

 即興で作りながら弾き続ける曲に込めたのは、和人への想い。
 和人に出会えた喜びを表した、明るくどこか切ない《起》。
 次いで、和人への想いに気づいてしまったときの驚きと、それにより次第に速くなる鼓動を表現した、はねるような《承》
 彼に恋人ができたことを知ったときの哀しみ。その恋人が自分にはないものばかりを持った学園一の美人だとわかったときの、更なる絶望感。それが自分の大切な友達であるというもどかしさ。愛情の渦巻き。儚い恋を描いたのが、«転»。
 そして──«結»。まだこの恋を終えたくない、諦めたくないと、心のどこかで思っていた。きっと、今だって思っていることだろう。
 しかし、まりあでは和人を幸せにすることなどできない。
 和人と並び立つ強さを持った者でなければ、彼の隣で共に歩んでいくことは許されないのだ。
 和人には幸せにはってほしい。和人は明日奈と生きていくことによって、いくらでもそれを掴むことができる。それは、まりあの大切な友達である明日奈も同じ。だから──ありったけの想いをこの曲に込めて、今、ゆっくりと手を膝に戻した。 
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