私立アインクラッド学園
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第二部 文化祭
第54話 偽物の歌声
今朝、少しだけホールを覗いてきた。
人の少ない、静かなホールの端席に、緊張しながら腰を落とす。
私立校なだけあって、立派なホールだ。文化祭が始まるまでにはまだ時間があったので、父兄の数もまばらだった。改めてこのホールの空間の広さを実感する。自分の作った歌が、このステージで歌われるのだと思うと、まりあは嬉しくも、少しばかりむず痒い気持ちになった。
「マーリア、何してんのよ」
「ひゃっ」
声を掛けられ、慌てて振り向くと、少女の姿があった。アインクラッドでは珍しい、カスタマイズを施していない制服を、少しだけ気崩している。背丈はまりあとそう変わらない。顔立ちも、まりあと同い年くらいで、世話見のよさそうな雰囲気だった。
しかし、会った覚えはない。フレンドリーな性格なのだろうが、そもそもまりあはこの女生徒に名乗った覚えもない。何処かで関わったことがあったにせよ、ほとんど初対面で呼び捨てにするというのは、あまりにも失礼ではないだろうか。とは言え、残念ながらまりあはそんなことを言えるような性格ではない。小言の代わりに、まりあは相手の質問に答えて訊ねた。
「いえ、特に何も。あの……失礼ですが、何処かで関わったことがありましたか?」
まりあの言葉に、女生徒は目を丸くすると、直ぐ様納得したように頷いた。
「……ああ、なるほどね。ごめんごめん、《こっち》では話したことなかったっけ。あたしよ、あたし。ユ・キ・ノ」
「ユキノ……? ええっ、ユキノ!?」
「そうそう。やっぱり気づかないわよね、ごめんなさい。マリアが《あっち》での姿とまったく同じだったから、思わずいつも通り声掛けちゃった。驚かせたわね」
《ユキノ》というのは、まりあがアルヴヘイムで仲よくしている友人の名前だ。まりあと同じ種族を選択していて、ピアノを得意楽器とする。まりあは敬語を外して話す程に、その妖精に対してすっかり心を許している。
目の前の女生徒の姿と、音楽妖精の少女ユキノの姿は、一見大きく違って見えた。しかし、よく見ると、意思の強そうな瞳や表情は、アルヴヘイムでの彼女の姿とぴったり一致していた。
「う、ううん、気にしなくていいよ。確かにちょっと驚いちゃったけど、こっちでもユキノと会えてすごく嬉しいし」
「そう? アルヴヘイムトップクラスの音楽家さんにそう言ってもらえるだなんて、光栄だわ」
「や、やめてよ。全然そんなことないから……あっ、申し遅れちゃったね。えっと、私、桜まりあって言います」
そう言って、小さくお辞儀をする。
「へえ、まりあって本名だったのね。なんか春っぽい名前……あはは、そういうバカみたいに礼儀正しいとこも、アルヴヘイムと全然変わんないね。あたしは雪島美冬。どう、寒そうな名前でしょ」
「ふふ、寒さに強そうなお名前だね」
「褒め言葉として受け取っておくわ。っていうか、まりあ。あんた、目的もなしに此処へ来てたわけ?」
「う、うん。暇だったし……心の準備っていうのもあるけど」
「はは、私もそんな感じだよ。今日は、あのヴェルディ先生がウィーンから来日して、うちの文化祭見にくるみたいだし」
「……ヴェルディ、先生が……?」
「そ。エミリーE・ヴェルディ」
エミリー・E・ヴェルディ。
まりあが心から尊敬している、世界的に有名な女流音楽家である。しかし、そんなトップスターとも言える人物が、どうしてアインクラッドの文化祭に来るというのだろう。
そんなまりあの心情を読み取ったのか、美冬はにこっと微笑み、言った。
「なんかさ、茅場学園長の知り合いなんだって。すごいよねー、うちの学校って。あんた、ヴェルディ先生のことすごく慕ってるわよね。知らなかったっぽいとこが逆に意外なんだけど」
「ぜ、全然知らなかった……どうしよう、ますます緊張してきちゃった」
「ほう、やっぱりまりあは歌うの?」
「う、ううん。そんなこと、恥ずかしくてできるわけが──」
そこで言葉を止めた。
美冬が知っているのは、恐らく《音楽妖精のマリア》の事だけ。桜まりあの、たかが知れた歌声のことなど知らないだろう。ここで「恥ずかしいから人前では歌わない」などと口にしてしまえば、マリアのイメージを崩すことになりかねない。
まりあは作り笑いを浮かべた。
「えっとね、そうしたいところなんだけど……最近ちょっと喉の調子が悪くて、文化祭では歌わないことにしたんだ。代わりに作曲係かな」
「あら、それは残念。まりあの本物の歌声、聴いてみたかったなー」
「こ、今度、幾らでも歌ってあげるよ」
「さっすがまりあね。それじゃああたしは、そろそろ準備しなくちゃだから、この辺で失礼するわ。またね、まりあ。あんたの作った歌、期待してるね」
「……うん。またあとで」
まりあは力なく手を振った。
──まりあの本物の歌声
マリアの歌声は、あくまでも偽物。作り物の声。桜まりあのものではない。
何気なく言ってみただけであろう美冬の言葉は、まりあの胸に深々と突き刺さっていた。
何分間、こうして座っていただろうか。
和人に声を掛けられなければ、きっとずっと動かず、中庭のこの噴水の縁に座り続けていたことだろう。まりあの隣に腰掛けた彼は、呟くような小さな声で言った。
「なにかあったのか?」
「へっ……?」
あまりにも予想外な質問に、まりあは一瞬呆気にとられた。
和人が、尚も真剣な表情で言う。
「いや、なにもないならいいんだ。ただ、さっき、ちょっと元気がないように見えたからさ」
「キリト……」
和人はきちんと、まりあのことを見てくれている。そう思うと、なんだか嬉しくなった。
「……別に、なにか困ってるってわけじゃないんですよ。ただ……」
まりあは、今朝美冬に言われたことを全て話した。
「……ヴェルディ先生は私が最も尊敬する音楽家さんですから、私の作った歌を聴いてもらえるだなんて、ものすごく光栄なんです。ただ……」
「突然すぎて驚いたってわけか。……俺、いいこと思いついたかも」
「いい、こと?」
まりあが首を傾げると、和人は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ま、本番までのお楽しみってやつさ」
和人がくすくすと笑うので、まりあはつられて愛想笑いをするしかなかった。
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