Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第3章 禁書目録
25.July・Afternoon:『Philadelphia experiment』
不貞腐れたように訥々とリノリウムの廊下を歩く嚆矢、その後を歩く美琴、飾利、黒子。尚、彼女らがあの病室を訪れていたのは『涙子の診察が始まって、手伝いに来た受け付けの女性看護師に追い出された』からとの事。
脚の長さの違いから、大股で速歩きする嚆矢を追う三人は、ほとんど競歩に近い。
「対馬さん、そろそろ機嫌直してくださいよ~」
「別に……キレてないっすよ」
「それ完全に怒ってますよぅ、嚆矢先輩」
「しかも、かなり古いネタでですの……」
普段ならその事を気遣うだろうが、今は余裕がない。真面目な事をしている自分を見られるのは、軟派気取りの彼としては本気で恥ずかしいのである。
「失礼します」
「どうぞ」
そうして訪れた、涙子の病室をノックする。診察が終わったばかりの、彼女の病室で。
「あ、初春ぅ~! だけじゃなくて、白井さんに御坂さん、対馬さんも!」
佐天涙子の声が響く。何故か、酷く場違いに響く声が。それに、四人で答えながら。
『彼女』は、何の変わりもなく微笑んでいた。長い黒髪の、白い花飾りの佐天涙子は。
「やあ、君達。お友達の経過は良好だ、明日には退院できるよ」
「本当ですか?!」
「良かったですわね、初春?」
診療していた西之医師の言葉に、まず歓喜をもって応えたのは飾里。その後に、黒子が続いて。
「しかし、楽観はできません。あんな違法プログラムが、一体、人体にどんな悪影響を示すか……」
「確かに、まぁそうだが……基在君」
対し、複雑に思い悩む表情を浮かべた彼女──受け付けに居た、看護師。なるほど、確かに。彼女の心配する通りだろう、あらゆる病に楽観など許されない。
だが、だからと言って入院患者の前で、そんな不安になる事を言うなどと。
それに反感を感じたらしい少女三人が一斉に。『看護師長・基在』の名札を付けた、赤茶の髪に病人のように蒼白な黒縁眼鏡の女性────『基在 滅存』を見た。
当の看護師長は、全くもって歯牙にも掛けていないようだが。
「先生、次の患者の診療の時間です。行きますよ、ジェンキンス」
その看護師長の呼び声に、涙子の蒲団がモゾモゾと蠢く。そして、勢いよく────中から、茶色く長い『何か』が跳び出して看護師長の元へ。
彼女の体を、螺旋を描くように登ったそれは。
「あ────あれって!」
「わ、わ! もしかして、フェレットですか?」
「いいえ、ジェンキンスはオオリスです」
「まぁ、初めて見ましたわ……アニマルセラピー、というやつですの?」
まるで襟巻きのように、ほとんど黒に近い焦茶色のオオリスが看護師長に纏わりつく。『ジェンキンス』と呼ばれたその大栗鼠は、看護師長の肩から円らな眼差しを少女達に。
それだけでもう、三人は────いや、涙子を含めて四人は、見ただけでも分かる程にメロメロだ。
「何だろう、この敗北感……」
「はは……まぁ、可愛いものには勝てないよ、実際。『彼』が居ると居ないでは、患者の態度がガラッと違うからね」
長い胴体と尻尾の所為か、ちょっとした捕食動物くらいなら返り討ちに出来そうな体格。嚆矢としてもオオリスなど初めて見るので、それが正しいオオリスなのかどうかは判らないが。
そんな彼の心中を見透かしたように、『黒茶毛の大栗鼠』は長く鋭い前牙歯を見せながら、チチチと啼いて。
「ジェンキンスは、基在君の提案で飼い始めたセラピーアニマルでね。最初は半信半疑だったんだけど、今じゃ僕までメロメロさ」
「分からなくはないです、俺も撫でたいですから」
鷹揚に笑う医師の言葉に、首是を返す。これがこの世の真理『可愛いは正義』か。その動きは素早く、気付いた時にはもう飾利の肩に駆け登って愛嬌を振り撒いている。
困ったように喜ぶ飾利に頬擦りし、伸ばされた黒子の手に長い尻尾を擦ったり。同じく撫でようと恐る恐る手を伸ばした美琴が、その『電気』の為に拒絶するように尻尾で叩かれて落ち込んだり。
そんな美琴を、飾利、黒子、涙子の三人が苦笑しながら慰めたり。
緩やかな、穏やかな。気の抜けた炭酸飲料のような空気。昨日の地獄が嘘のような、平穏無事な現在を眺める。頑張った甲斐があった、と。
「コホン!」
そこに、咳払い。苛立たしげに髪を掻き上げた、そんな空気を険悪にする看護師長の。大栗鼠は、その仕草に従ってか、再び彼女の肩に登っていく。
「では、そろそろ回診に行かないとね。それじゃあ、またね、佐天君」
「あ、はい。ありがとうございました!」
やれやれとばかりに苦笑し、看護師長を伴い歩いていく医師の姿を見送る。その白衣が、扉の向こうに消えて。
「さて、それじゃあ……改めて」
気を取り直す為に、音頭を取る。いつも通り、軟派に。軽口を、懐に隠し持つカード。コンビニで印刷して数を揃えた、ステイルのカードから『話術』のルーンを刻んで。
「改めて、沙汰を申し渡そうか……『幻想御手』なんて違法プログラムに手を出した佐天ちゃん?」
「は、はい……あの、本当にその節は、ご迷惑を」
まるで、時代劇の奉行のように芝居掛かった口調で。今日、『風紀委員』に知らされた、『幻想御手』使用者への罰則を申し渡す。
「補習決定、夏休みが潰れるよ! やっちまったね、涙子ちゃん!」
「あう……や、やっぱり……」
「何が『やっぱり』ですの、それくらいで済んだ事が奇跡ですのよ、佐天さん」
ガクリと肩を落とした彼女、しかし、それで済めば安いもの。黒子が眉根を寄せながら言った通り、もしももっと大事に……例えば死人が出たり、原発に『幻想猛獣』が突っ込む事態になっていれば、幾ら被害者といえども彼女ら『幻想御手を使用した学生達』にも何かしらの懲罰があった可能性も零ではない。
それが、ほぼ無問責。確かに、貴重な夏休みを幾らか棒に振ったが、その程度で済んでいる。僥倖も僥倖だろう。
「まあ、お勤めに励むしかないか……あぁ~、夏休みも毎日、初春のパンツを確認するつもりだったのに……暇が無くなっちゃったよ」
「永遠に無くしてください、そんな暇!」
飾利の怒声と共に、朗らかな笑いが満ちる。やはり、努力の甲斐はあった、と。何と無しに、窓の外の青空を眺める。
今日も、また真夏日。その空の果て、雲一つ無い虚空。其処に────
「対馬さん、どうかしました?」
「あぁ……いや。何でもない」
微かに見えた気がした『緑光』、その瞬き。幻でなければ、音も無くこの一帯で一番高い電波塔に墜ちた────『緑色の雷光』。それを、気の所為として。
「そうだ、御坂。実は、頼みがあるんだけど」
「何です、改まって?」
記憶に残すのみで、意識の外に。今更、目新しいくらいでは心、踊る筈もない。
それよりも、秘めたる『作戦』の為に。『将を獲んとするなら、先ず馬を射よ』の格言に基づいて。
「この後、付き合って欲しいところがあるんだ。何、早けりゃ二、三十分で終わるからさ」
「はぁ……別にいいですけど?」
「あーら、お姉さまが行かれるのでしたら、私も参りますの」
と、即座に割り込んできた黒子。まるで、美琴を護衛するとでも言わんばかりに。警戒心剥き出しで。
「ああ、勿論。人が多ければ多いほど、ありがたいからね」
「スーパーの安売りか何かですの?」
それを、笑いながら受け入れる。余りにあっさりとした嚆矢のその物言いに、頭に『?』を浮かべる彼女から視線を外す。
時間は十四時半、太陽は南天の頂きに。クーラーの効いた院内を一歩出れば、都市は一日で最も暑い盛りである────…………
………………
…………
……
「現在時刻、十四時三十分────」
勲章代わりの懐中時計を片手に、逆の手に葉巻を燻らせる浅黒い肌の白人は呟く。革の上下に刃金の身を包んだ、強壮たる男だった。
サングラスの奥、其処に在るべきは鋭き眼光。しかし、スモークの強いサングラスからは、全く窺えない。まるで黒い穴のような、そんな気配すら。
「残る猶予は一時間半……その刹那、『風』と『雨』が来る」
弟子達に命じた結界、その構築完了までの残りは、あと少し。狙いは、既に絞っている。しかし、一人になるまで待つのも難しい
また、『魔に属する者』が獲物と関わった。今はまだ、『顕現段階』だが……あの獲物はいつ『次の階位』に登っても可笑しくはない。一刻も早く殺さなくては、均衡が破れる。
「……未来ある若人を、しかも、あんな小娘共となると些か気は重いが」
だが、だが。それと差し引いても、あれは滅ぼさねばならぬ。そうしなければ、目覚めてしまう。
人類初の殺人者となった『カインの末裔』にして、『神仏の敵』を背後に立たせるやも知れぬ、『虚空の月』に見詰められし、その男────“土星の円環の魔導師”の弟子である、その男は。
「クソッタレ、だな────全く。バカみてぇに盛りやがって。蕃神は、そんなに暇なのかねェ」
嘲るように笑って、葉巻を緑の雷光で一瞬にして焼き尽くして。取り出したる魔書、背後の虚空から。さながら手記の如き、薄く小さい。
しかし、しかし。その正体を知りうる者であれば誰もが震えよう。既に、周囲の空気すらもが発狂するように呪わしく震え、緑色の雷気に満たされている。
「この程度の不幸なら、世界中に転がってる。死は、すぐ其処に。狂気の戸口と同じ、狂える神々と同じ……何時だって手ぐすね引いて、舌舐めずりして待ってやがるんだ」
それこそは、世界最新。比類なき魔導書の一角、かの『死霊秘法』と並ぶ、或いはその先を行く『写本』の一部。
そうであると、『この世界の法則』では貶められたもの。彼自身が見聞きした、呪われた記憶の残滓。
「奴らを落胆させられるなら、無意味じゃねぇよ。なぁ────」
呟いた言葉を、全身から立ち上る緑の稲妻と雷鳴が掻き消す。時間迄にその身に、細胞の一つ一つにまでに行き渡らせようとでもしているかのように。
男────“牡牛座第四星の教授”は、虚空を睨む…………。
………………
…………
……
明日、退院予定となった涙子に別れを告げて。ほぼ毎日更新している真夏日の中、辿り着いた場所は……。
「『舶来雑貨 紅樓夢』……雑貨屋ですの?」
「ああ、そう。実はさ、妹の誕生日が近くて……けど、年頃の女の子に贈るものなんて想像つかないから、同い年くらいの意見を聞きたくて」
赤や金を多用した、如何にも中華風な外観のその店。しかし、事前のリサーチでは……某知恵袋で聞いたところ、最近一押しのアクセサリーショップとの事。
鈴のついた扉を開けて中に入れば、成る程、女生徒ばかり。一人で来ようものなら、即座に脱兎するところだっただろう。
「你好……あら、これは珍しい」
鈴の音を聴いた店員らしき女性……波の模様の藍色のチャイナドレスに肢体を包む、老亀や双魚の柄の黒い扇子で口許を隠した、艶やかな女性が此方を見た。
そして、目だけしか見えないが……確かに、穏やかに微笑んで。
「欢迎光临、素敵な貴方。どこかのお大尽かしら、可愛らしい女の子を三人も連れて……悪い人ね」
「いやぁ」
「『いやぁ』じゃありませんの。断じてそう言うものではありませんから、お気遣いなく」
結い上げた美しい黒髪の妖艶な笑顔と仕草で、小波の潮騒のような、睦言を囁くように美しい顔を寄せてきた女性。百合の花のように清楚な雰囲気でありながら、牡丹の花のように目を奪われる。
黒子の反駁にも、『あらあら』と微笑みを返すだけ。如何にも、『大人の女性』である。その、蠱惑的な体つき的にも。
「そう、妹さんのお誕生日祝いを。優しいお兄さんだこと」
「気紛れですよ、気紛れ」
流石に気恥ずかしくなる。この店の太々、『海 藍玉』と名乗った女性の誉めそやしに。
周囲の女生徒達からの目線もある。あまり、時間は掛けずにいきたいものだ。
「と、とにかく、参考までに飾利ちゃんは髪飾り、黒子ちゃんはリボンを。御坂は……適当に雑貨を見繕ってくれないか? 三人が欲しいもので傾向を掴むから、持ってきてみてくれ」
「あ、はい!」
「あまり意味はない気がしますけれど……」
言われ、飾利と黒子はアクセサリーを見繕いに行く。第一段階はクリア、第二段階に移行……という段で。
「へー、ほー、ふーん……成る程」
何やら、頭上に……彼女の電圧ではフィラメントが弾け飛ぶだけだろうが……電球でも点きそうな。
──くっ、流石は『頭良すぎて頭おかしい』と言われる超能力者の一人、御坂美琴……あれだけで、バレたのか?
そんな風に此方を見遣る、美琴が映った。不味いと、本能が警鐘を鳴らす。
「……な、何かな、御坂さん? そんなに見詰めて……駄目だぜ、オイラに惚れちゃあ火傷」
「無いです。あぁ、でも、対馬さんのそう言う律儀なトコは嫌いじゃないですけどね」
軽口を、軽くぶった切られた。『これが御坂美琴の砂鉄剣か』、等と無意味な事を考えて。
「……御坂。何か、欲しいものとか無いか?」
「えー、じゃあ、私じゃなくて対馬さんの妹さんが欲しいものとか」
「オーケー、好きなもん持ってこい」
「さっすがぁ、話分かる~」
溜め息混じりに首是した嚆矢を尻目に、ルンルンとばかりに美琴が店奥へ消えていく。
取り出した財布、マネーカード。恐らくは総動員らしい。
──まぁ、仕方無いか。元々そうする気だったし、付き合って貰ってる訳だし。
カウンターの近く、邪魔にならない位置で舶来品の雑貨を見て暇を潰す事にする。干支や、良く判らない動物など。様々なものを見て。カウンター奥から、此方を見る太々の視線を感じる。海のように深い、深意を探れない眼差しを。
頭を下げれば、微笑みながら下げ返してくる。涼やかな目元だけで、口は扇子で隠したままで。
だから、嚆矢には分からない。今まで、『聞こえていた声』の出所が、何処だったのか。
果たして、幾ら顔を寄せたからといって『扇子の向こう側』からの囁き声が、少女達の声に溢れた此処であんなに明瞭に聞こえるのか、とか。
「お待たせしましたの」
「おぅ、黒子ちゃん」
そこに丁度帰ってきた、黒子に意識を向けた為に。首尾良く第二段階を完了、第三段階へ。
「わたくしの好みで良いとのことでしたので、本当にわたくしの好みで選びましたの。本当によろしいのですの?」
「ああ、良いんだ……」
見れば、赤い更紗のリボン。箱入りの、諭吉さんが英世さんと式部さんに変わるお高めの奴だ。流石は常盤台の学生、身に付ける品一つとってもお嬢様であらせられる。
宜しい、やはり総力戦だ。総火の玉だ。神風アタックである。これを攻略しない事には、最終段階には進めない。
「じゃあ、これ下さい」
「あらあら、まぁ……うふふ、若いわね」
「ちょ、先輩……そんな、吟味もせずだなんて妹さんに失礼ですの!」
何かに気付いたらしい太々が、リボンと現金を受け取る。それを手早く『贈り物用』にラッピングし、嚆矢に手渡して。
「はい、黒子ちゃん」
「……え?」
そして、最終段階。リボンを受け取った彼はそれを、徐に黒子へと差し出した。
差し出されたリボンの入った包み、それを彼女は、ぱちくりと見詰めて。
「……は、嵌めましたのね。最初から、このつもりでお姉さまを出汁に」
「いやいや、妹の誕生日が近いのは本当。けど、まぁ、嵌めはしたかな。こうでもしなきゃ、受け取ってくれなさそうだし」
そう、昨日の礼。リボンを駄目にしてしまった事に対して。ハンカチは……リボンの値段の高さに目を回した事から勘弁して欲しい。
ただ、普通に渡しても受け取るまい。その為の、三文芝居。美琴と太々にはあっさりと見破られた程度の。
「……お姉さまが賛同したのでしたら、仕方ありませんの。お姉さまのお顔に、泥を塗る訳にはいきませんもの」
そして、『美琴が知っている事』が肝要だ。彼女の肝煎りとなれば、黒子は受け取らざるを得ない。実際は『知っている』だけだが。
そこまで判断して美琴に声を掛けた。黒子が付いてくる事、勘違いする事を見越しての作戦である。
──男としては、情けないの極みだけどな……まぁ、今はこれで仕方ない。
ついっと視線を逸らし、若干頬を赤らめて。礼儀正しく両手で受け取った彼女。
そして、照れたような困ったような表情で。身長差から、自然、上目遣いに。
「あ……ありがとうございます、ですの」
辛うじて聞こえたほどに小さい、蚊の鳴くような声で。そう、口にしたのだった。
………………
…………
……
「飢える────」
風が吹いている。ひゅう、ひゅる、と。耳朶に、名状しがたき風斬音を残して。まるで、何かを耳打つかのように、何かを囁きかけるかのように。
だが、耳を貸す者など誰も居ない。否、誰もが気付かない。その風がこの数区画全てに吹き荒び、荒天を人々に知らせている事に。
「飢える、飢える────」
同じく、入道雲が山の稜線から頭を出す。蛸のように頭でっかちな入道、猛り狂うかの如く、黒く隆々と。ゴロゴロ、ゴウゴウ、と。雷鳴と、饐えた土の臭いを忍ばせて。
だが、気に留める者など誰も居ない。否、誰もが気付かない。その雨雲が、『樹形図の設計者』の予報通りに人々に家路を急がせている事には。
「「飢える、飢える、飢える────!!」」
それは、風と雨。合わさって曰く、嵐と呼ばれるもの。川に架かる橋桁に凭れ掛かる黒い雨合羽の褐色髪の美青年が陰鬱に水面に向かい呪うように呟くものと。
風力発電塔の頂きに座した、黄色い襤褸の外套を纏う翠銀髪の美少女が大空に向かい燦然と、祈るように謳うもの。
「────“水神クタアト”!」
悍ましき水妖の気配を溢れさせる、人面皮の装丁の魔導書“水神クタアト”と。
「────“■■■■”!」
忌まわしき戯曲の音色を放つ『黄色い装丁の魔導書』を携える、その二人の魔導師に喚ばれしもの。
人の関心を払い、無意識を呼ぶもの。ステイルが仕掛けたものと同じ、『結界』と、数々の秘術に呼ばれるものだ。
人々は風に背中を押されるように、夕立の気配に家路を急ぐ。彼らの予定通りに。残り、十五分。最後の追い込みに。
畏れる師の命で、敬愛する師の為に。範囲は最小に、ピンポイントに絞って。完璧に、完全に指令を遂行する。
『兄貴。ボクは伯父貴に合流する、兄貴も予定通りに』
「ああ……では、俺も予定通りに。時計合わせ、三、二、一────今」
この先、無線封鎖。全ては『懐中時計』の示す、予定通りに。その『風』に乗り、鼓膜を揺らした囁き。風力発電塔の頂きから数百メートル彼方の橋桁に声を届けた、風を操る彼女ならば、その彼が呟くだけでも聞き取ろう。
風力発電塔の頂きの少女が、強風と共に消える。バサバサと、羽撃くような。或いは、紙片が風に拐われるような音を残して。
代わり、川面に歩み出た男。魔導書により水流を操り、川に沈めていた『防水加工』の大きなジェラルミンケースを引き揚げた。大型の金管楽器を入れるような、大きなモノを……担ぎ上げて、彼方の電波塔を。
「伯父貴、貴方は鼻白むだけだろうが…………“深淵の大帝”の加護が有らんことを」
僅かに、緑色の光に包まれた其所を見詰めて────
………………
…………
……
吹き抜けた風に、嚆矢は空を見上げる。黒い入道雲が、空の三分の一を覆っていた。どうやら、天気が崩れてきたらしい。
『樹形図の設計者』の予報通りに、もう間も無く夕立が来るらしい。再度吹き抜けた強い風、その孕む湿気の質が変わっている事を肌で感じた。
「嚆矢先輩……今、見ました?」
「ウウン、ミテナイヨ」
強い風はひらりと、土埃と共にあらゆるものを舞い上げる。例えば、目の前の花飾りの少女の、今は裾を押さえたスカートとか。フリル付きの檸檬色とか。
「…………(じー)」
「ホントダヨ、ズットソラヲミテタヨ」
疑わしげな瞳を向けてくる飾利、だが、変態紳士として女性に恥はかかせられない。シラを切り、ぴーひょろと下手くそな口笛を吹いたり。
買い物を終え、帰途についた四人である。目下、今の懸念はただ一つ。
「ああもう、いつまでやってますの! あのバスに乗り遅れたら、雨に降られながら帰る事になりますのよ!」
「うわっ、ヤバッ! バス、もうバス停に入ったわよ!」
前を走る黒子と美琴の言う通り、既に二十メートル先のバス停にバスが停車した。後は、モノの数秒で出発するだろう。チラリと懐中時計を見れば、『輝く捩れ双角錐』の妖しい輝きと共に、針は十五時四十五分を示していた。
どう考えても、走るだけでは間に合わない。飾利の手を引いて前を走る二人に追い付いたときには、もうバスの扉が閉まっている。それを見た黒子は、舌打ちながら。
「こうなったら……あれしかありませんの」
「分かってる、黒子ちゃん……俺が車道に飛び出して101回目のプロポ」
「あの、嚆矢、先輩……はふ、もう、白井さん、けほっ、居ません……よぉ……!」
そこまで言った時には、もう黒子の姿はない。何の事はない、空間移動でバスに到達、運転手に待って貰うよう交渉しているだけだ。
──いやぁ、便利だなぁ、空間移動……いつかウチの時空粘塊にも、それくらい出来るようになって欲しいねぇ。
『てけり・り。てけり・り?』
(別に呼んでねぇから。一般人の前で出てくんな、引っ込んでろ)
『てけり・り……』
思念に反応してか、血涙を流す寝惚け眼一つを浮かばせた影が一瞬沸き立つ。テレパシーで繋がるそれを思念で叱る。影は、寝落ちするように平面に還った。
因みに、手を引かれて息急ききらせながら走っていた飾利には、それは目に入らなかったらしい。
「ふう、セーフ……助かったわ、黒子」
「いえいえ、お姉様のためですもの」
「いやぁ、久々に全力疾走したな。クーラー効いてて極楽極楽」
「は、はひぃ……はふぅ……はへぇ……」
汗を拭いながら座席に座り、行く先を確認する。この先二つ目で飾利が、その先で自分が降りる事になる。美琴と黒子は、その五つ先。
「大丈夫ですの、初春……あら?」
「初春さん、大丈夫……って、あれ?」
「ふえぇ……へ、な、何ですかぁ?」
前の席の美琴と黒子の微笑みに、隣の飾利を。限界近く走った為にまだ荒い息の、開けた窓から新鮮な空気を吸おうとしている彼女を見遣った。
すると、すぐに二人が微笑んだ理由が分かる。その、彼女の特徴である花瓶のような髪飾り。そこに、鮮やかな蝶が一匹、留まっていたのだ。
「ちょっと動かないでくださいまし……まあ?」
「どうしたのよ、黒子……って、ええ?」
その蝶の羽を、そっと持つ黒子。勿論、美琴では逃げてしまうだけだから。
その黒子が、今度は驚いた顔を。続いて、美琴も。瞳を輝かせて。
「この蝶……千代紙ですの」
成る程、それは千代紙で折られた鮮やかな『蝶』だ。しかし、まるで生きているかのように、翅をバタつかせている。
思わず黒子が手を離せば、ひらりひらりと宙を舞い……再び、飾利の頭へ。
「うわぁ……可愛いですねぇ」
「これも、何かの能力なのでしょうか?」
「『念動能力』……ううん、『流体反発』? こんなに精密な動かし方は、何か専門的な能力かも?」
飾利はその蝶を愛でるように見、黒子と美琴はその能力が何かを解析しようと試みている。
そして、嚆矢はと言うと────誰にも聞こえない、バスの機関音に紛れるほどに小さな声で『解呪』のルーンを自らに刻んで。
「……『幻燈綺譚』、だよ。あらゆる文字、戯画を擬似的に、生命体のように動かす能力さ」
「『幻燈綺譚』……ですの?」
「聞いた事もないですよ、そんな能力……」
面倒臭そうに、嚆矢は蝶を捕まえながら口を開いた。聞き慣れない能力名に、黒子と美琴が口を揃えて。
「ああ────ウチの愚妹の稀少能力さ」
苦笑いしながら、蝶の折り紙を解く。一瞬、飾利が残念そうな顔をしたが、これはそういうもの。
よく、女子学生がやるもの。そう、凝った折り方の『秘密の手紙』だ。
「…………っ」
『解呪』により、嚆矢以外の他人に読まれぬよう、開く際に仕掛けられていた『発火』のルーンを無効とする。因みに、このルーンは『魔術』ではなく『能力』として効果を発揮するルーンなので、刻んだ者が害を受ける事はない。
中身を読む。そこには、実に簡潔に。万年筆を使ったらしい、達筆な草書体で。
『分かってるわよね、コウ兄?』
溜め息一つ。そして、四角く折り直して学ランの胸ポケットに仕舞う。
「妹さん、何て?」
「誕生日プレゼントの催促。一々煩いんだ。ウチは、高校まで携帯与えない主義だから何時もこれ」
「へぇ、でも、羨ましいかも。私、一人っ子だから」
微かに羨ましげに、美琴がそんな事を口にした。それは、恐らくは何の気なしに。
後の事を思えば、皮肉な言葉ではあるが。この時は、少なくとも。
「あ……私、此処です」
そこで、飾利の降りるバス停に。当然────
「じゃ、行こうか、飾利ちゃん」
「はい────って、先輩はひとつ先じゃ……」
「気にしなーい、気にしなーい。じゃあな、御坂、黒子ちゃん」
当然、変態紳士として嚆矢は彼女を送る事にした。美琴と黒子は二人だし、どちらも強力無比な能力者だ。よっぽどでもなければ、敵う者は居まい。
バス内から手を振る二人。それを見送って。
「さて、後十分で雨だ。急ごうぜ、飾利ちゃん」
「あっ……もう……強引すぎますよ、嚆矢先輩……」
有無を言わさぬまま、エスコートする。急げば、後十分でもギリギリ間に合うと、前回の“ドール讃歌”の時の経験で分かっている。そして、やはりそうなった。送り届けると同時に、風に乗り空を覆った雨雲はぽつぽつと、雫を落とし始めて。
余計な出費になるが、傘を買えば事足りる。そう、思い直して前を見据える────
「全く、さ────」
ひゅう、と。風が吹いた。濃い、潮の香りを孕んだ風だ。この学園都市では、感じ得ぬもの。
背後を見遣る。気付くよりも早く、速く。向けられていた二挺の『H&K USP Match』。制動器に照準器を内蔵したカスタム型の、二挺拳銃から撃ち込まれた弾丸の雨────!
『てけり・り! てけり・り!』
それを自動防御、沸き上がったショゴスの蝕腕二本が激しくのたうち、弾く。通常の弾丸ではこの鋼じみた影の怪異には傷一つ与えられはしないし、生半可な魔術や能力でも高能力に匹敵するその再生能力を突破する事は能わぬ。
拾った命、その眼差しを向ける。延び上がったショゴスの蝕腕を掴み────『賢人バルザイの偃月刀』を掴み出して。
「ハッ────これはこれは……!」
対峙する。しかし、参った。目の前の、翠銀の少女の姿に。偃月刀を向けただけで、己の『誓約』に、今も苛まれて。
吐き気がする。意に沿わない事を無理強いされているような、壮絶な不快感。
「何だよ、『カインの末裔』。ボクに見惚れでもしたかい?」
それを、知っているからこそ。翠銀の銃士娘は、勝ち誇るように軽口を。作り物めいた美しい顔容。まるで、神話に付き物の……天使の如く。
「ああ────勿論さ、可愛らしいお嬢さん。だけど、先ずは名前くらいまともに語り合いたいね。俺は、嚆矢だ。君の名前は?」
ならば、答えよう。期待には、応えよう。軽口には軽口を、不遜には不遜を。
二本目の偃月刀を握り、掴み出して。血涙流す影の眼、足下に魔法陣の如く溢れさせながら。
「戦前の名乗りか……知ってるぞ、サムライの流儀だろ? やっぱり、お前も“混沌”に染まりつつある、か」
「はァ……?」
「まぁいい、『メイドのミヤゲ』だ、教えてやるよ」
意味の分からない納得に、刹那、注意を奪われた。その一瞬に、黄衣をはためかせながら────少女は、その魔導書を。
「ボクはセラ。そして、これがボクの魔導書……」
黄色い装丁の、呪わしき戯曲の音色をもたらす、それを。
「────“黄衣の王”!」
呪われた戯曲、星々を渡る風を讃える魔導書を。名状しがたき、風の邪神の顕現を讃えた書を。
聞いた者を速やかな破滅に誘う、狂気に満たされた第二楽章を記せし“黄衣の王”を掲げた────!
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