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第二章
第二章
「一月。十五で去るにしてはあまりに短い時間だ」
「ですが今父上御自身が仰ったように」
「わかっておる」
彼は言うのだった。
「これはな。よく」
「母上はどうされていますか」
今度は母について尋ねた。
「今日は御一緒に行かれたのですね」
「その通りだ。だが」
「だが?」
「駄目だ」
顔を下に戻して首を横に振っての言葉だった。目は強く閉じている。
「泣くばかりで。どうしても」
「無理もありません」
「たった一人の娘だったのだ」
「ええ」
「御前にとっては。一人だけの妹だな」
「可愛い奴です」
言葉は過去形ではなかった。
「本当に」
「そうだな。だが」
「父上、もう」
まだ無念の声を出そうとする父を制止した。
「これ以上の御言葉は」
「そうだな。言っても仕方のないことだ」
「残念ですが」
市五郎もまた項垂れる顔になってしまっていた。彼もまた己の中の悲しみをどうしても否定できないのだった。それに何とか耐えているのである。
「では今宵は」
「これで終わるのだな」
「はい」
先程までの静かな声に戻って頷いていた。
「これで。もう」
「そうか。ではゆっくりと休むがよい」
「父上はどうされますか」
「わしもそうしよう」
白峰もまた息子に対して述べた。
「もうな。夜も遅い」
「それが宜しいかと」
「だが。このままでは眠れぬ」
しかしこうも言うのだった。
「少し。飲む」
「左様ですか」
「よければ御前も付き合うか」
市五郎に顔を向けて問うた言葉だった。
「どうだ」
「いえ、私は」
しかし彼はそれを断るのだった。その首を小さく横に振って。
「遠慮させて頂きます」
「そうか」
「ですがくれぐれも御気をつけて」
こう父に忠告もしたのだった。
「あまり深酒になると」
「わかっておる。それは気をつけておる」
「それでは」
「うむ。ではまた明日な」
「はい。それでは」
父子はこう言葉を交えさせて別れたのだった。その夜市五郎は己の部屋の褥の中で眠れぬ夜を過ごした。だがその長い夜が終わり次の日になり朝の稽古やら食事やらを終えると。身支度を整えてすぐに車を出した。行く場所は彼にとってはもう一つしかなかった。
車を泊めたのは大きな、見るからに見事な病院の駐車場だった。そこに車を泊めるとすぐに病院に入る。病院の中は白く清潔なもので如何にも病院といった面持ちだった。その病院の静かな廊下やエレベーターを進みそうしてある部屋に入った。その部屋はというと。
「佳代子、寂しくはないか」
「兄さんね」
「ああ、そうだ」
その静かな微笑みを向けて病室の白いベッドにいる少女に応えた。黒く長い髪は彼と同じものだった。見ればその顔も彼をそのまま幾分幼くしたような感じで鏡合わせと言ってもよい程だ。その少女が白いベッドの中に横たわり彼に顔を向けているのだ。その横の台には花瓶があり紅い花が咲き誇っている。彼はその彼女に対してあるものを差し出してきた。
「今日はな」
「ドーナツなのね」
「ああ。好きだったよな」
「ええ」
ミスタードーナツの箱が彼の手にある。少女はその箱も見て微笑みを見せたのである。
「有り難う。今日も来てくれて」
「毎日来るって言ったな」
礼を述べてきた妹にこう返しながら彼女のベッドの側に椅子を置いて座った。部屋にいるのは二人だけで完全な個室だった。部屋も白くやはり清潔であるが生命の匂いは何処にもなかった。完全に無機質で味気のない、そんな部屋に二人でいるのだった。
「だから。気にするな」
「そうなの」
「そうさ。それでドーナツだけれどな」
「うん」
話をドーナツに向ける。佳代子もそれに応えて頷く。
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