能面
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第一章
第一章
能面
市五郎は今日も舞っていた。前の日もその前の日もだった。
「精が出るのう」
家の稽古場で夜遅くまで舞っていると。不意に後ろから声をかける者がいた。振り返るとそこには厳しい顔の白髪頭の男が立っていた。
「今日もまたな」
「父上」
その女と見まごうばかりの顔をその男に向けての言葉だった。白い着物が実に似合う。黒い髪はまさに烏の羽根の色であり艶が見事だ。白い顔は流麗でまことに女のものとしか思えなかった。その顔を男に向けているのだった。
「いよいよ公演ですので」
「だからなのか」
「はい」
静かに父に対して答える。
「その通りでございます」
「次の公演での演目は御前にとっては」
「初演です」
また静かに答えた言葉であった。
「だからこそ今こうして」
「稽古を積んでおるのだな」
「なりませんか」
今度は彼が父に対して問うた。
「それは」
「稽古はし過ぎるということはない」
その厳しい顔に相応しい父の言葉だった。
「それは前から言っていたな」
「如何にも」
市五郎はやはりここでも静かに答えたのだった。答えるその声もまた高く艶があり女のそれに近かった。それでいて男であるのでそこにえも言われぬ妖しい美貌があるのであった。
「そういうことだ。それはよい」
「それは、でございますか」
「だが。稽古だけでは駄目なのだ」
彼はここに注文をつけてきた。
「稽古だけではな。わしはいつも言っているな」
「心でございますか」
「その通りだ。心がなくては駄目だ」
こう息子に対して言うのであった。
「心がな。海老川白峰」
これが彼の号であった。
「その家においては舞いに心がなくてはならん」
「それもまた承知しております」
「心は。様々にある」
彼はさらに言った。
「怒りもあれば笑いもある」
「その通りです」
「優しさもな。そういった心も忘れてはならん」
「存じているつもりですが」
「では今日も言って来たのか」
「はい」
またしても静かに答える市五郎だった。しかしその声の色が微妙に違ってきていた。
「その通りでございます」
「左様か。今日もか」
「父上は」
「わしもだ」
彼もまた同じであるというのだ。
「わしも。行って来た」
「それでは」
「聞いているな」
見れば白峰のその厳しい顔に苦渋が浮かんできていた。
「あれは。もう」
「ええ」
市五郎のその流麗な顔にもまた父と同じものが浮かんでいた。その顔がまたこれ以上になく悩ましげで媚惑的なものさえ見せていた。
「長くはないな」
「私もそう思います」
そしてこう父に答えたのだった。
「あれでは」
「運がなかった」
父は言った。
「こう言ってしまえば。どうしようもないが」
「まことに。誰のせいでもありません」
「病ばかりはどうしようもない」
白峰は天を仰いだ。腕を組み目を閉じてしまっている。だがそれでも天を仰ぐのだった。仰がざるを得ないものが彼にあるのだった。
「こればかりはな」
「まことに」
「まだ。十五だ」
彼は言うのだった。
「十五で。あの病とはな」
「つい一年前まであれだけ元気であったというのに」
「これも天命か」
また天を仰ぐ父だった。
「やはり。これは」
「病は天命ですか」
「そう思うしかあるまい」
無理に自分自身に言い聞かせている言葉であった。
「そう思うしかな」
「ですね。これは」
「次の公演まで持てばいいが」
「お医者様の言葉では難しいとのことです」
市五郎は父とは正反対だった。項垂れての言葉であった。
「それも。もってあと」
「一月か」
「そういったところのようです」
こう父に告げるのだった。
「佳代子は」
「そうか。一月か」
父はその声をさらに沈痛なものにさせた。
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