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第三章
第三章
「今日は十個買って来たからな」
「十個!?そんなに買ったの」
「食べきれないか」
「とても無理よ」
苦笑いで兄に返す佳代子だった。
「そんなになんて」
「今日食べなくてもいいからな」
微笑んでそんな妹に告げる。
「今日だけじゃないからな」
「そうよね。今日だけじゃないわよね」
「ああ、そうだ」
また微笑んで告げた言葉だった。
「明日もあるからな」
「明日・・・・・・」
佳代子は彼の明日という言葉を聞いて不意に考える顔になった。
「明日かしら」
「明日?何がだい?」
「明日。退院できるかしら」
こう言うのである。
「明日には。どうかしら」
「そうだな。明日はまだ無理だそうだ」
妹の今の問いには言い繕った。
「まだな」
「そうなの。まだなの」
「けれどもうすぐだ」
また言い繕った市五郎だった。顔は笑っていたが心は別だった。今その心を笑顔という仮面で隠しているのである。
「もうすぐ。退院できるからな」
「そうよね。もうすぐよね」
「ああ、そうだよ」
優しい声で答える。
「もうすぐだからな」
「退院したら。私ね」
兄の言葉を受けて笑顔になる。そしてその笑顔でまた言うのだった。
「行きたい所があるの」
「行きたい所?」
「ええ、そうなの」
その微笑みで言葉をさらに続けるのだった。
「行きたい所があるの」
「遊園地かい?それとも何処か旅行にかい?」
「お芝居よ」
だが彼女が告げた場所はそこだった。
「お芝居の場所。お兄ちゃんとお父さんが出ている」
「そこか」
「ええ、そこよ」
笑みがさらに優しいものになった佳代子だった。
「お兄ちゃん達のお芝居見たいの、また」
「それでいいのか」
「ええ、御願い」
願いさえしてきた。
「行っていいよね」
「ああ、勿論だ」
また笑顔を作って妹に答えた。
「チケット。用意しておくからな」
「招待してくれるの」
「演じるのは私だよ」
あえてまた妹に対して言った。
「その家族だとチケットはどうにでもなるものだ」
「そうなの」
「そうだ。だから安心して病気を治すんだ」
「うん。じゃあそうするわ」
「御前は絶対によくなるよ」
笑顔という仮面は被ったままだった。
「絶対にね。わかったね」
「ええ。わかったわ」
佳代子もまた笑顔で兄の笑顔に応える。だが彼女はそれが仮面であることに気付いていなかった。市五郎も気付かせることはなかった。この日はそれで別れ次の日には家族三人で来た。白峰だけではなかった。市五郎とほぼ同じ顔をしている和服の女性も一緒だった。彼と佳代子の母である小夜だった。彼女はやつれた顔を化粧で必死に隠したうえで娘の部屋に来ているのである。
病室への廊下を歩きながら。市五郎が母に対して声をかけてきた。
「母さん」
「ええ」
「休んでる?最近」
母を気遣う顔を向けてこう問うたのだった。
「どうなの?最近」
「一応は」
そのやつれた顔での言葉だった。目にも疲れが色濃く今にも倒れそうだ。化粧でも中々隠せないものがそこにはあるのだった。
「休んではいるわ」
「だったらいいけれど」
「けれど。どうしても」
声にもまた疲労が色濃かった。
「それでも」
「そう。やっぱりね」
「佳代子は。自分のことは知らないのよね」
「そうだよ。あいつはね」
顔を一旦正面に戻して少し俯いての言葉だった。
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