樹界の王
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17話
幼い頃のボクにとって、人の世界はとても残酷なものだった。
機械的に、等間隔に植えられた街路樹。
それを見てしまったボクは隣を歩く父の手を強く握って、助けを求めるように父の顔を仰いだ。
「お父さん。どうして、樹を磔にするの。あの樹、苦しんでる」
街路樹たちは、通りに面した建築物から逃れ、太陽の光を浴びようと車道側へと傾いていた。しかし、その傾きに耐える為に本来伸ばすべき根が、狭い植桝によって阻まれ、その樹体は大きな負担を受け、悲鳴をあげていた。それはまるで、拷問のようだった。
「何故、と言われると中々答えられないけど、強いて言えば景観がいいからだよ」
父は少し考えてから、そう言った。
景観が、いい。その意味が、ボクにはわからなかった。
「ケイカン?」
「景色だよ。ああいう自然があれば、綺麗に見える。だから、ああやって車道の横に植えるんだ」
ボクは、立ち並ぶ街路樹を呆然と見つめなおした。
自然など、どこにもなかった。均等に並んだ街路樹は、全てが同じ個体であるように均一な姿に揃えられている。かなりの傷が樹体に見られ、人工的に成長を抑制されているのだとわかった。根そのものも大きなダメージを負っているに違いない。健康的な状態ではなく、とてもその樹木が成長できる環境ではなかった。
「お父さん、だって、あんなに、あの樹たちは苦しんでる。それを綺麗だと思うなんて、おかしい」
父はボクをじっと見下ろした。探るような目だった。
「カナメ、植物に心はない。苦しい、と感じる知能は存在しない」
どこか突き放すように、父は言った。この時の父は、まだボクの感応能力を空想の類だと解釈し、信じていなかった。
「……でも、ボクには苦しそうに見える。悲鳴はあげないし、泣いたりはしないけど、落ち着きが無い。生きる道を必死に探してる。体力も相当落ちて、もう、長く生きられない状態になってる。それは多分、苦しい事だと思う」
父はじっとボクを見つめた後、ふう、と小さく息をついた。それから父はしゃがみこんで、ボクの頭をくしゃりと撫でた。
「カナメは随分と面白い言い回しをする。本当に植物の心が見えているんじゃないか、と思う時があるほどだ」
なあ、と父はボクと同じ目線で、正面からボクを見つめた。
「カナメは、あの街路樹を助けたいと思うか。あれを植えた人間は、悪だと思うか」
父の目があまりにも真剣だった為、ボクは慎重に言葉を選んだ。
「……ううん。だって、弱肉強食だから。強い種族が、弱い種族を支配する。それは、自然な事だと思うから。でも、磔にした樹を見て、景色がいい、と思う事はおかしいよ」
ボクの言葉に、父は微笑んだ。
「カナメは評価と感情を区別する事ができているようだな。良いことだ。でも、そう思わない人も、いっぱいいるんだ」
そして、父は立ち上がって、街路樹を見つめる。
「あの街路樹は、苦しそうに見えるかもしれない。実際、生存に適した環境ではなく、劣悪な生育環境だと私も思う。でも、植物は悲しいとか、苦しい、とは感じない。彼らは人とは違う理屈で生きていきて、私達と同じような感情を持つことはない、いいかい、カナメ、ここを間違えれば、植物の政治的利用というものが始まるんだ」
「政治利用?」
唐突な話題に、ボクは首を傾げていた。父はどこか馬鹿馬鹿しいような笑みを浮かべて、自虐的に笑った。
「植物にクラシック音楽を聞かせればよく育つ、といった話を聞いたことがないか?」
似たような話はいくつか聞いたことがあった。ボクが頷くと、父は疲れた笑みを浮かべた。
「古今東西に似た話が転がっている。クラシックは善で、ロックが悪だとか、そういう時代があったんだ。あのダーウィンも、植物と音楽の関係について調査したことがあった。最もダーウィンは後にそれをまぬけな実験と呼称しているが、そうではない人間も多くいた。つまり、クラシックの優位性を植物を以って証明しようという人間が数えきれない程いた。そうした方が都合がいいんだ。いい音楽、悪い音楽。それを科学的権威によって正当化しようという動きがあって、植物はその流れに飲み込まれた。杜撰な実験環境、方法、計画。そして、他の研究室での再現性のない科学的欠陥を持った実験だったが、そうした一連の動きが大衆に植物がまるで音楽を解する、という間違った理解を与えてしまった」
父はそこで息をついて、コンクリートの間から生える雑草を見つめた。
「植物は身近な生物だ。しかし、主体的に意見を発する事がない。だからこそ、私達は勝手に植物の代弁をしてしまう傾向がある。水やりをした後に気持ちよさそうだね、と話しかけてしまうのは、その人間の価値観を反映したものだ。植物の価値観は反映されていない。暖かい太陽の下にいる植物を気持ちよさそうだと感じても、実際は二酸化炭素の不足から太陽光を有効活用できず、その紫外線によって身を危険に晒しているところかもしれない。私達の代弁というものは、往々にして植物の意思と無関係なところから発生し、植物の真意を無視してしまう。私達が持つ共感能力や感情移入は人間に合わせたものであって、その共感能力の対象として植物は適さないからだ」
ボクは父の言葉を何とか理解しようと、じっと聞いていた。
「カナメは学者になりたい、と以前に言っていたね。それならば、これだけは覚えておいて欲しい。カナメが植物と近しい立場になればなるほど、奇妙な連中が近づいてくる事になるだろう。植物の価値観を無視し、それを自らの政治的価値観の為に利用しようとする連中だ。だから、これだけは覚えておくべきだ。植物は人による干渉を求めていない。人は生存率に影響を与える外的要因の一つでしかなく、そこにイデオロギーは存在しえない。善も悪も、人の持つ評価基準でしかない。そこを間違ってしまってはいけない。いいね。カナメ。思いやりとは、相手を理解するところから始まるんだ。理解した風に安易に擬人化すれば、目が曇ってしまう。それ以上の理解を妨げてしまう。ありのままの植物を受け入れなさい」
目が、覚める。
勢い良く身を起こすと、森の香りが鼻腔をくすぐった。
辺りはまだ薄暗い。
隣には、目を閉じたまま動かないラウネシアの姿があった。亡蟲の迎撃後、ここまで戻ってきてラウネシアから果実をもらい、そのまま眠った事を思い出す。
ボクはラウネシアの樹体に背中を預けて、小さく息をついた。
まだ父が元気な時の夢。
懐かしい、と思った。あの時の言葉が、ボクと植物の関係を決定づけたと言っても良かった。あの時の父の言葉があったから、ボクは植物に対する理解を更に深める事ができた。感応能力による植物の感情というものが、一種の擬似的な物であることに気づいて、不必要な対話を行う事もなくなった。ボクにとって、父は偉大な植物学者だった。
本当に植物の事が好きな人だった。恐らくは母よりも、植物を愛していたのだろう。だから、破綻した。両親が離婚したのは、ボクが十歳の時だった。
ボクは父の言葉を反芻し、そして自虐的に笑った。
ラウネシアは、きっとボクの手助けを必要としていないし、それを望んでもいないだろう。
でも、ボクはこの戦争の行く末を、一つの結果を知っていた。
亡蟲がその答えに気づかないのであれば、火力に優れたラウネシアは亡蟲の侵攻を最後まで退ける事ができるだろう。
しかし、亡蟲がその答えに辿り着いた時、パラダイムシフトが起きた時、ラウネシアは敗北してしまう。
この森が、死んでしまう。
それは、ボクの望む未来ではない。
幼少期から、友達らしい友達は由香しかいなかった。人の心は覗けない。それが、ボクと人との距離を遠ざけた。
何度も何度も植物だけの世界を夢想した。お伽話のような空想を、ボクはずっとしてきた。そんなものが存在しないことを分かっていても、どこかで都合が良い世界を望んでいた。
この森の生存を望むのは、ボクの為だ。ラウネシアの為ではない。
ゆっくりと立ち上がって、背伸びをする。
薄暗い中、ボクは使えそうな木の枝を拾い集め、罠を作り始めた。
道具が限られている中、あの体格を持つ亡蟲を殺傷するには至らないだろうが、そんなものを作る必要はない。敵の機動力を削いで、大量に作れる簡易的な罠でいい。
それから、亡蟲がある戦闘教義に辿り着く事を見越して、今から準備を進めるべきだ。ラウネシアに進言する必要がある。
しかし、ラウネシアがボクの意見を受け入れるかは分からない。安全保障というデリケートな部分において、部外者の意見を聞き入れる可能性は低い。
ラウネシアの火力を無効化する術を目の前で実演するべきか。しかし、下手に動けば危険分子とみなされるかもしれない。ラウネシアを破る方法がある、という点については暫くは伏せる方が無難に思えた。少なくとも、ラウネシアの性格をよく知らない段階で、そこに踏み込むべきではないだろう。
ナイフで木の枝の先を削りながら、身の振り方を考える。
このナイフも刃がこぼれてしまえば、もう使えなくなってしまう。あらゆる物資は有限で、貴重なものだ。あのトゲトゲの植物の一部をナイフとして加工することも検討しなければならなかった。
当分は忙しくなりそうだった。
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