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至誠一貫

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第一部
第四章 ~魏郡太守篇~
  四十三 ~棄民~

「…………」
 私は今、二通の書簡を前にしている。
 一通は、月から。
 そしてもう一通は、何進から。
 この書簡、書かれている内容には共通点がある。
「歳三様、失礼します」
「稟か。入れ」
「はい」
 手にしていた竹簡を私に差し出そうとして、稟は机上に気付いたようだ。
「あ、申し訳ありません。何か、お取り込み中でしたか?」
「いや、構わぬ。……むしろ、丁度意見を聞こうと思っていたところだ」
 私は、稟の竹簡を受け取り、机上の書簡を二通とも、稟の方へと押しやった。
「拝見しても宜しいのですか?」
「うむ」
「では、失礼します」
 素早く、稟は書簡に目を通す。
 ものの数分で読み終えたらしく、顔を上げた。
「月殿が、少府に任ぜられるのですか」
「そうあるな。……少府とは、どのような官職か?」
 稟は眼鏡を持ち上げて、
「九卿と呼ばれる高官の一つで、宮中の財務を司るのが職務です」
「ほう。中郎将から、更に出世という訳か」
「そうですね。ただし、朝廷の高官であり、宮中に賊する事になりますから」
「……洛陽に行く事になる、という事か」
 そして、もう一通の、何進からの書簡。
 其処にも、月の少府任命について、触れられていた。
 違うのは、その裏事情について書かれている事だ。
「協皇子の強い意向で、か。あの御仁を御輿に、と考えている宦官共の事だ、これは拒むまい」
「ええ。月殿はご自身も優れた人物、また麾下の人材も揃っています。ですが、百戦錬磨の宦官の事です、その月殿を逆に利用し、何進殿に対抗する為の手駒、と企んでいるのでしょう」
 協皇子と月は、かねてからの知己の間柄。
 これは、月が書簡で明かしている。
「つまり、協皇子は頼れる後ろ盾が欲しくて月さんを都に呼んだのですが、宦官さん達はむしろ自分たちの戦力として操ろうとしている、と。で、何進さんはそれで権力闘争が激化したり、月さんが巻き込まれるのを懸念しているという訳ですかー。奇々怪々ですね」
「ふ、風? あなた、何処から?」
 よいしょ、と机の下から、見慣れた金髪が現れた。
 ……何の気配も感じなかったのだが、私とした事が不覚を取ったのであろうか。
「心配無用ですよ、お兄さん。風が、神出鬼没なだけですから」
 本当に言葉通りならば、立派に間諜が務まるな。
 尤も、そんな事をさせるつもりは微塵もないが。
「月殿も、かなり困惑されているようですね」
「うむ。優しき奴故、協皇子の為にも動きたいのは山々であろう。だが、月ほどの者が宮中に赴けば、即ち火種となる」
「断り切れないでしょうねー、勅許を断るとなれば相応の理由が必要ですし」
「何進殿はそれを避けたいと思っておいでのようですが……」
 何進の書簡には、切々とした思いが綴られていた。
 無用な権力争いは好むところではないが、彼が動けば全て、妹である何太后と、弁皇子の為、と取られてしまう。
 本人にそのつもりがなくとも、宦官らはそのように見せようと暗躍するだけであろう。
「それに、陛下はお加減が優れぬようだ。確たる後継も定まらぬ中だ、まさに今月が赴けば、火中の栗を拾うようなものだ」
「ですが、勅許を覆すなど不可能です」
「何進さんのお気持ちもわかりますが、風達でもいい知恵は浮かばないのですよ」
 月には詠がついているが、やはり同じであろう。
 それに、決断するのは月本人。
 苦悩の様は記されているが、最後には受諾するしかあるまい。
 それは、何進もわかっているのであろうが、一縷の望みを託して、このような書簡を送ってきたという事であろう。
「……一度、月に会っておく必要があるな」
「でもお兄さん、此処から并州は遠すぎますね。それに、お兄さんが長期にギョウを離れるのは好ましくありませんよ?」
「わかっておる」
「それに、袁紹殿がその間に動きを見せる可能性もあります。月殿には申し訳ありませんが、我らはそちらを優先せざるを得ません」
「……何とも、歯痒い事だな」
 やはり、連合軍結成は避け得ぬ運命なのであろうか。
 ……些か、暗澹たる思いを禁じ得ぬ。


 翌日。
 渤海郡より、嵐(沮授)と星が帰還した。
「二人とも、ご苦労であった」
「本当だよ、全く。疲れるったらありゃしない」
「おや、書簡と睨み合いから解放されて楽だ、と言っていたのは何処の誰だったかな?」
「せ、星! 余計な事バラすんじゃない!」
 気ままな二人、ウマが合うようだな。
 珍しく狼狽する嵐に、場に笑いが広がる。
「さて、では報告を聞こう」
「あ、そ、そうだった」
 嵐は居住まいを正した。
「まず、袁紹は州牧を狙う事を隠す素振りは全くないね。それどころか、堂々と宣言されたぐらいだよ」
「主が、その折には傘下に入る事も、信じて疑わぬようでしたな」
 その話ならば、あれだけはっきりと拒絶した筈なのだがな。
 案の定、皆が呆れている。
「懲りない御仁ですね」
「全くです。ご主人様を何だと思っているのだ」
「それは、今更とやかく申すまい。嵐、続けよ」
「はいはい。どうも、その事ばかりに注力しているみたいで、渤海の復興は殆ど手つかずって印象だったな。城自体は、かなり手を加えている最中だったようだけど」
「嵐、それは防備を固めている、という事か?」
「それも少しは見られたよ、彩(張コウ)さん。けど、袁紹が指示したってより、顔良あたりが自発的にやっているって感じだったけどさ」
「兵の装備は確かに充実していたように見えましたな。ただ、練度は今一つ、白蓮殿の軍にも見劣りするでしょう」
「星ちゃん、さらっと酷い事言いますねー」
「にゃはは、でも白蓮お姉ちゃんの軍は、確かに弱いのだ。騎馬隊だけは強かったけど、その他は大した事ないのだ」
「全てを一人でこなさなければならないのでしょうから、調練が行き届かないのでしょう。袁紹殿の場合は、単なる怠慢、と言われても仕方ありませんが」
 話が逸れてきたな。
「渤海の現状はわかった。それと、袁紹の影にいる人物は如何であった?」
「それなんだけど……」
 と、嵐は言い淀む。
「まさか、袁紹本人が全て画策していた、と申すのではあるまいな?」
「んな訳ないじゃん。いるにはいるらしいんだけど、正体が掴めなかったんだ」
「面目次第もござらん。鎌をかけてみたのですが、顔良に遮られましてな」
 無念そうな二人。
「なかなか、尻尾を掴ませぬか。疾風(徐晃)が探り出せぬ程だ、余程の者と見て良いな」
「ますます、気になりますね。袁紹さんとの関わりが切れない以上、何としても確かめておいた方がいいですね」
「愛里(徐庶)様の言う通りですが……」
 では、どうすれば良いか、となると。
 搦め手を攻めても無益、とならば、正面攻撃しかあるまいな。
「嵐、星。袁紹は、私を拒絶する様子はない、それで間違いないな?」
「ああ。旦那の事嫌ってるなら、そもそもおいら達に会おうとはしないだろうしさ」
「ですな。少なくとも、袁紹殿にはそのような芝居は不可能でござろう。兵士にも、我らを警戒する様子はまるでありませぬ」
 ならば、次の一手を打つとするか。
「……風、愛里、鈴々。渤海に出向く、共に参れ」
「歳三さん? わたしも……ですか?」
 愛里は戸惑ったように言う。
「そうだ。何か不都合があるか?」
「い、いえ……。ただ、わたしは文官、お役に立てますでしょうか?」
「お前の才は、皆が認めるところだ。それに、お前は袁紹に顔を知られておらぬからな」
「風は、お兄さんが炙り出した人物の目利きをすればいいのでしょうか?」
「流石だな。お前と愛里、二人がかりならば万全であろう、頼むぞ」
「は、はい」
「御意ですー」
「お兄ちゃん。鈴々は何をすればいいのだ?」
「無論、我らの警護を頼む。お前なら問題あるまい」
「了解なのだ!」
「他の者は、留守を頼むぞ」
 皆、大きく頷いた。


「此処が渤海郡……ですよね?」
 愛里が、呆然と立ち尽くす。
 無理もあるまい、私が最初に魏郡で目にした以上の光景が、そこにあるのだ。
「これでは、徴税もままならないでしょうねー」
「酷すぎるのだ……」
 冀州よりも食糧事情の悪い幽州ですら、ここまで凄惨ではなかった。
 村と思しき場所で、人の姿が全く見当たらぬのだ。
 畑は枯れ、手入れされた気配すらない。
 ガアガアと、鴉の鳴き声ばかりが木霊する。
「……参るぞ。我らに出来る事は、何もないのだ」
「……はい」
 そう、看過するしかないのだ。
 如何に袁紹の治政が劣悪であろうと、それを糺す権限はない。
 そして、その為に苦しむ庶人にも、手を差し伸べる訳にもいかぬ。
「袁紹さんは、この事をご存じなのでしょうか?」
「知っているなら、普通は何とかしようと思うのだ」
「普通は、ですけどねー。でも、あの袁紹さんですからね」
「……だが、国の礎は民。それを顧みぬ者は、為政者たる資格はない」
「……当たり前の事なのですが、どうしてそれを理解しない方が多いのでしょうか」
 沈痛な表情の愛里。
「このような地獄絵図は、永遠には続かぬ。……そう、信じる他あるまい」
 私は、手綱を握り締めた。

「止まれ!」
 不意に、行く手を遮られた。
 不揃いの得物を手にした集団で、人数は五十名余、と言ったところか。
 男ばかりではなく、女子(おなご)も混じっているようだ。
「何用か?」
「此処を通るなら、通行料を置いていけ」
 先頭の女子(おなご)が、叫んだ。
「通行料だと?」
「そうだ。とりあえず、有り金と食糧全てだ」
「お前達、山賊なのか?」
 鈴々がそう言いながら、蛇矛を構える。
「山賊ではない!」
「ならば、何故通行料を要求する? 見ての通り、我らは公務中だが?」
「そんな事は関係ない。皇帝だろうが何だろうが、此処を通りたきゃ、通行料をいただくまでだ」
 白昼堂々、このような者共が大手を振って歩くとは。
 治安など、まるで守られてはおらぬという事か。
「お兄ちゃん。やっちゃっていいか?」
「待て」
 単なる山賊や野盗の類にしては、荒んだ空気がない。
 それに、風や愛里らに目もくれぬというのは、何とも解せぬ。
 私は、馬を下り、連中の前へと出る。
「理由を聞かせよ。何故、問答無用で襲わぬ?」
「手向かいしないならば、無用な殺生をするつもりがない。見たところ、金と食糧がなくとも不自由はなさそうだからな」
「ほう。それは、我らが官吏だからか?」
「そうだ。貴様らは、あたしら民から搾取するだけ搾取し、自分達ばかりがぬくぬくと暮らしている。それを返して貰う、ただそれだけだ」
 そう言って、女子(おなご)は反りの大きな剣を抜いた。
「鈴々、相手をしてやれ。ただし、殺すな」
「合点なのだ!」
「あまり、あたしを舐めない方がいいぞ? おチビちゃん」
「鈴々はチビじゃないのだ! 行くぞ!」
 蛇矛を水車のように、ブンブンと振り回す鈴々。
 それを見て、女子(おなご)の顔が引き締まった。
「うりゃりゃりゃりゃりゃっ!」
 怒濤のような鈴々の突き。
「くっ! な、なんて速さだ!」
 必死の形相で、女子(おなご)はそれを受け止めている。
「愛里。どう見る?」
「は、はい。鈴々ちゃんを相手にするには、実力不足かと。程なく、勝負がつくでしょう」
 確かに、まともに討ち合うなら、そうであろう。
 ……だが、あの女子(おなご)……何かを窺っているようだ。
 鈴々に押されるように、じりじりと下がっていく。
「逃げてばかりじゃ、勝てないのだ」
「う、うるさいっ!」
「なら、止めなのだ!」
 鈴々は蛇矛を構え直すと、女子(おなご)に向けて踏み込んだ。
 その時。
「にゃあっ?」
 足元がいきなり崩れ、鈴々の姿が消える。
 ……落とし穴を仕込んでいたか。
「鈴々ちゃん!」
「おおー!」
 愛里と風が、同時に叫んだ。
「油断大敵だぞ、おチビちゃん」
 女子(おなご)は、蛇矛を踏みつけて抑えながら、剣を鈴々に突き付けた。
「は、放せなのだ!」
「嫌だね。さ、このおチビちゃんを助けたければ、言う事を聞きな」
 女子は、私に向けて言い放つ。
「……いいだろう。暫し待て」
 私はそう答え、腰から皮袋を外した。
 さりげなく、愛里に視線を送りながら。
「金は、全てここにある」
「よし。こっちに投げて寄越せ」
「良かろう。……受け取れ」
 女子(おなご)の足許に、袋を投げた。
 ドサリ、と音がして……女子の、遥か手前に落ちた。
「届かないじゃないか。おい、そっちのおチビちゃんに持って来させるんだ」
「愛里」
「は、はい!」
 愛里は、皮袋のところまで駆けていく。
「お、おわわわわわっ!」
 そして、盛大に転んでしまう。
「おいおい、大丈夫か?」
「あいたたた……」
 一瞬、女子の視線が逸れた。
 その隙に、私は足下の石塊を拾い、女子に向かって投げつけた。
「!」
 咄嗟に、女子(おなご)は剣でそれを払う。
「何しやがる!……あ」
 剣が、半ばからポキリと折れた。
「愛里!」
「はいっ!」
 転んでいた愛里、素早く起き上がると、懐から小刀を取りだし、女子に投げつけた。
「うおっ!」
 見事に躱したが、当然、身体は動いてしまう。
「へへーん。形勢逆転なのだ」
 鈴々がその隙に、穴から這い出て、蛇矛を手にした。
「さて、まだ戦うか?」
「ひ、卑怯だぞ!」
「落とし穴を使うお前に言われたくないのだ」
「ぐ……」
 折れた剣では、もはや、鈴々の攻撃は防げまい。
「それに、戦えるのはお前一人であろう? 無駄な抵抗は止せ。大人しくすれば、危害は加えぬ」
「……わかったよ。あたしの負けだ」
 女子(おなご)は、剣から手を離した。

 兵が縛り上げようとしたが、私はそれを止めさせた。
「何故、このような真似をした?」
「……仕方なかったんだ。見ての通り、畑は荒れ放題、それなのに官吏共は何もしてくれない。じゃあ、どうやって生きろって言うんだ?」
 女子(おなご)の叫びは、切実だ。
「お前ら官吏は、あたし達全員に死ねというつもりなのかよ!」
「そのような事は言わぬ。……だが、お前は一つ、思い違いをしているようだ」
「何?」
「私は、この渤海郡の官吏ではない。また、郡太守の袁紹とは、何の縁もない」
「…………」
「このお兄さんはですねー。魏郡の太守さんなのですよ」
 風の言葉に、女子が驚愕した。
「じ、じゃあ……。アンタがあの、鬼の土方?」
 ……また、その二つ名か。
「お兄ちゃんは鬼なんかじゃないのだ。とっても優しいのだ」
「そうですよ。歳三さんが太守になられてから、魏郡がどれだけ立ち直った事か。同じ冀州にいるあなたなら、少しはご存じではありませんか?」
「……ああ。そうか、アンタが……。済まなかった」
 女子(おなご)は、頭を下げる。
「お前は、この渤海郡の民なのだな?」
「……そうさ」
「ならば、共に参るが良い。私はこれより、袁紹に会いに参るところだ」
「……あたしを、突き出すつもりか?」
「いや。お前のその想い、袁紹にぶつけるが良い。少しは、目が覚めるやも知れぬからな」
 女子は、ちらりと仲間達に目を遣る。
「……なら、頼みがある。アイツらを、アンタのところで受け入れて欲しい」
「この渤海郡を出る、と申すか?」
「どのみち、此処にいれば餓死するのを待つだけだ。それなら、生きる希望を持てる場所に、連れて行ってやりたいんだ」
 必死に、女子(おなご)は訴えかける。
「風、愛里。どうか?」
「とりあえず、袁紹さんの出方如何ですが。預かるだけなら問題ないかと」
「民の移動は、禁止されている事ではありませんし。それに、この様子では戸籍管理も杜撰と思われます」
「……よし。鈴々、半数の兵と共に、この者をギョウへ連れて行け。元皓(田豊)に書簡を認める故、ギョウに着いてよりは奴に任せよ」
「いいけど、お兄ちゃんはどうするのだ? 鈴々がいなくて平気か?」
「袁紹の本拠まではあと僅かだ。戻ったら、愛紗に手勢を連れて此方に来るよう、それも書簡を認めよう」
「わかったのだ」

 鈴々が去るのを見届け、私達も出発した。
「ところで、名は何と申す」
「……まだ、言えない。アンタの言う事を、全部信じた訳じゃないんでね」
「そうか。ならば、無理には問うまい」
 私の答えが意外だったのか、女子(おなご)は驚いた。
「いいのか、それで?」
「うむ」
「お兄さんは、そういう方ですから。あ、風は程立ですよ」
「わたしは、徐庶と言います」
「……ああ」
 名も知らぬ道連れと共に、私は荒涼とした渤海郡を、袁紹の元へと進み始めた。 
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