渦巻く滄海 紅き空 【上】
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百十 湖畔で交わす
ちりん。
鈴が鳴る。
谷底へ真っ逆さまに堕ちゆく我が身を、紫苑は他人事のように見ていた。
(―――助かる?)
浮遊感。
無重力状態のまま、紫苑は双眸を閉ざした。瞼の裏で、巫女の身代わりとして死んでいった者達の姿が浮かぶ。
(また、救われるのか…――それとも、)
一瞬の浮遊感の直後、周囲の光景がめまぐるしく変わる。紫苑は数瞬ナルトに助けを求めようとして、手を伸ばし、そして、やめた。
(―――死ぬのか)
実際は凄まじい勢いと速度で墜落しているにもかかわらず、紫苑には時が止まったかのように思えた。瞳に飛び込む光景はどれも、岩肌が複雑に絡み合う絶壁で、周りを取り囲む全てが彼女の眼にスローモーションで映し出される。
(―――死ねるのか)
耳を圧倒する轟々とした風音の中で、鈴の澄んだ音だけが異様に鳴り響く。警報を打ち鳴らす美妙な音色を手の中に閉じ込め、紫苑は身を捻った。前方に広がる闇が彼女を迎え入れようと大きく口を開いている。
(もし、ここで、このまま死ねるなら―――)
巫女の身代わりになって死ぬ者はいない。少なくとも魍魎に世界が壊されるまでは、死なずに済むかもしれない。
世界が終わるまでは、皆、生き延びられるかもしれない。
彼らの寿命を少しでも延ばす事が出来るのなら…――。
瞳を閉ざす。諦めの境地を通り越し、もはや全てを悟って、紫苑は眼を瞑る。死の恐怖は無かった。
「ナルトも、里の者達も……今暫く死なずとも」
瞬間、背後から伸ばされた、白く細い、それでいて力強い腕が彼女の想いを打ち破る。
紫苑の身体を包み込んだナルトが空中で身を捻った。体勢を入れ替える。
直後、谷底の湖に高い水柱が立ち上った。
ポタポタ、と水が滴る。
谷底に広がる大きな湖。そこへ自分が下になるように墜ちたナルトは、湖傍の木立の下に紫苑をそっと座らせた。
紫苑は何も言わない。ナルトもまた、一言も発することはなく、彼女に背を向けた。
紫苑は顔を下に向けたまま、絶望的な心地で小さく呟く。
「―――助けなきゃ良かったのに…」
彼女の心の底からのその一言は、湖の傍らで佇むナルトを、ほんの僅か硬直させた。
「そうすれば、お前は死なずに済んだ……少なくとも魍魎によって世界が破壊されるまでは」
「…―――かもな」
一瞬の苦笑の後、ナルトは肌に貼り付く濡れた髪を掻き上げた。頭を軽く振って、髪に滴る水を払う。
飛び散った露の玉と、彼のその横顔に、紫苑は数瞬見とれた。
「でも俺は…―――死なない」
何処か彼方を見据え、断言する。その力強い声音には、ナルトの決意の強さを確かに露わにしていた。
どうしてそこまで言い切れるのだろう、と紫苑はためらい、ナルトから顔を逸らす。彼の強さが紫苑には眩しかった。だからこそ眼を逸らす紫苑には、ナルトの内面の弱さには微塵も気づけない。
運命を受け入れようとしないナルトに、紫苑はなんだか躍起になって反論した。
「無理じゃ」
「無理じゃない」
「ならば、私が死ぬことに…」
「お前だって死なせない」
意地になって言えば言うほど、即座に否定され、紫苑はナルトをキッと睨み返した。
「どちらかが死なねばならぬのじゃ!」
「そんなもの、誰が決めた」
「何度も言わせるな。これは運命…――」
眼を瞑って反論していた紫苑は、ぱっと顔を上げて、思っていた以上に近いナルトの顔に、ドキリとした。
「―――俺が守る」
自分の間近にあるナルトの顔。髪の毛に滴る雫が金色に輝き、その濡れた前髪から覗き見える意志の強い青の瞳が、紫苑の顔を覗き込んでいる。
反射的に紫苑は身体ごとナルトから逸らした。彼女の心臓は、体内ではっきり聞こえるほどドキドキ高鳴って煩かった。
「…そ、そんなこと出来るわけが…」
「信用しろって」
とても優しい声が彼女の耳朶をやわらかく包み込む。
赤く染まった頬を見られぬよう紫苑はナルトに背を向けたまま、大木の幹に爪を立てた。激しい動悸を、大きく深呼吸することで落ち着かせ、紫苑はようやっと振り返る。
死ぬ運命を、信用などという曖昧なもので変えてみせるなどと綺麗事を言う彼に、もう一度現実の無情さを知らしめるつもりで、紫苑は口を開き、そのまま一言も発することもなく閉ざした。
ナルトは背を向けていた。
紫苑をおぶさる体勢で屈んでいる彼は、肩越しに振り返ると彼女を静かに促した。物言わぬその背中が、紫苑には酷く力強く頼りになるものに思えた。
紫苑は引きつけられるようにナルトの背におぶさる。胸元に差した鈴が、ちりん、と鳴った。
「ナルト…」
「うん?」
ナルトの首に回した自分の腕を紫苑はぎゅっと握り締めた。
「…―――約束しろ」
守ってくれるって。運命を変えてくれるって。死なないでくれるって。
万感の想いを、約束、という一言に全て詰め込んで、紫苑は願う。彼女と彼女の想いを背負い、ナルトはすっくと立ち上がった。
「ああ。約束する」
その約束がどれのことを指しているのか、決して口には出さなかったけれども。
封印の祠の前を埋め尽くす幽霊軍団の武人達。
ひしめき合う青銅の石像を、紫苑を背にしたナルトは俯瞰していた。
谷底の湖から崖を駆け登り、再び祠のある岩場に舞い戻って来ていた彼は、眼下の光景を静かに見下ろす。陰鬱なその場で漂う空気がナルトの濡れた髪を冷ややかに撫でた。
「どうする?」
初めて祠を前にした時と同じ台詞で問う紫苑に、ナルトは何も答えずそのまま軍団目掛けて突っ込む。何の計画も無しか、と紫苑は怒鳴ろうとして舌を噛みそうになり、慌てて唇を噤んだ。
頭上の岩場から飛び出してきたナルトに気づいた幽霊軍団の兵が一斉に槍を掲げる。風を切って振り翳された槍を軽く避けたナルトは、空中で紫苑を腕に抱きかかえ直した。
そうして驚異的な跳躍力で、封印の祠の前に着地する。その衝撃で祠に張り巡らされた注連縄が大きく揺れた。
祠の入り口で慎重に下ろされた紫苑は、戸惑い気味にナルトを見返す。
「行け」
有無を言わさぬ強い口調で、ナルトは封印の祠の奥を指し示した。
「行って、お前の…巫女の義務を果たしてこい―――紫苑」
祠に近づく幽霊軍団を、決して紫苑に寄らせまいとしながら、ナルトは彼女に背中を向けた。その背はやはり変わらず、力強く頼もしいものだった。その姿に、紫苑は希望の光を確かに見た。
踵を返して祠の奥へと姿を消した巫女を、ナルトは背中越しに感じ取って、ふっと微笑んだ。
「頑張れよ……巫女さん」
祠の入り口から続く石造りの道を抜けた紫苑を待っていたのは、溶岩が湧き立つ広大な空間と、そして、長年巫女の宿敵である存在だった。
「……大きく、なったな…」
不気味な声に導かれ、紫苑は弾かれたようにその声の主を見た。全身の震えが止まらず、額からは溶岩による暑さが原因ではない汗が滴り始める。
洞窟の奥に座り込むその男性の姿を目にした途端、紫苑の胸元の鈴が警報音を掻き鳴らした。
「改めて、若き巫女に挨拶をしておこう…」
気だるげに顔を上げた男は、かさついた唇に弧を描いた。生気の無い顔が軽く顎を動かすと、男の両隣に控えていた幽霊軍団の兵が二体、紫苑に向かって近づいてくる。
後ずさりした紫苑は、背後からも聞こえてきた音に、ぱっと後ろを振り返った。洞窟の出入口を塞ぐように、此方へ歩いてくる青銅の石像が二体。
前からも後ろからも、ズシンズシン、と重低音の足音を響かせて幽霊軍団の兵が紫苑に迫り来る。
「我が名は黄泉……かつてお前の母――弥勒に野望を阻まれし者」
下はぐつぐつと煮えたぎる溶岩。その上には迷路のような通路が続いている。
踏み外せば、マグマの中に落ちてしまうという危険な場所で、紫苑は周囲を見渡した。四方から迫る幽霊軍団の兵に、顔を引き攣らせる。
「復活した【魍魎】を率いた我らは世界をその手に掴もうとしていた。お前の母…――巫女さえいなければ…ッ!」
積年の恨みが込められた黄泉の声音が、紫苑に呪詛のように降りかかる。
その声を聞きながら、紫苑は迷路のような通路を必死で走った。重い足音を響かせて、紫苑一直線に歩いてくる幽霊兵から逃れようと、ジグザクとした道をあちこち駆ける。逃げながらも紫苑の手は胸元の鈴をしっかり握り、彼女の唇からは無意識に助けを求める言葉が零れた。
「ナルト……っ」
ナルトは来ない。だって封印の祠に集っていた幽霊軍団の数は尋常じゃなかった。あれだけの数を全て倒してくるなんて、流石のナルトも時間がかかるだろう。
それでも猶、紫苑の唇から零れ堕ちるのは、彼の名前だけだった。
気づいた時には、彼女は通路の一番端に追いやられていた。右も左もわからぬ場所で闇雲に逃げていた紫苑の背後には道は無く、ただ赤々と燃える溶岩の海がボコボコと唸っている。
じり、と後ずさる彼女の足元の小石が、煮えたぎる溶岩の中に落ち、一瞬で溶けた。
「来るな…来るな…ッ」
瞳の無い眼窩に不気味な光を爛々と灯した武人が、槍を大きく振り上げる。絶体絶命の危機に、半狂乱になった紫苑は「来るな!!」と声高々に叫んだ。
すると、急に、鋭く眩い光が紫苑の胸元から迸った。
紫苑を追い詰めてきた幽霊兵はその光を浴びせらせたかと思うと、急にゴトンと音を立てて崩れ落ちた。同じように残り三体の兵達も青銅の胴体を断ち切られ、光が奔った場所から順に音を立てて倒れてゆく。
光は、紫苑に迫る脅威を瞬く間に粉砕すると、静かに紫苑の胸元に返ってくる。
りぃん、と美しい音を奏でる鈴は、その美妙な音色とは裏腹に、青銅の石像を見るも無残なほどズタズタに引き裂いた。
目の前で急に砕かれた幽霊兵を、呆然と見やる紫苑に、黄泉の呆れ返った声が届く。
「なにを驚いている?まさか知らんのか、己の力を…」
「―――紫苑様!」
黄泉の嘲笑に、誰かの声が重なる。紫苑はゆるゆると顔を上げた。己の名を呼んだその人物が此方に駆けてくる。
紫苑が助けを求めてやまない彼は、心配そうに彼女の許へ走り寄ってきた。
「ナルト……」
「ご無事ですか、紫苑様」
幽霊兵が粉砕された衝撃で、座り込んでいた紫苑に彼は手を差し伸べる。ほっと安堵した紫苑はナルトの手を掴もうと、指を伸ばした。
封印の祠前の数多の幽霊軍団をもう倒してきたのか、と問い掛けようとして、彼女は胸元の光がまだ消えていない事に気づく。
その脳裏に、封印の祠に辿り着く寸前に視た、予知夢の光景が再現された。
「紫苑様…?」
幾度も見た、あの金が倒れゆく光景。
それを彼女は見ることしか出来ない。
止めることも防ぐことも出来ず、ただ己の眼に焼き付ける。
一瞬の光景が紫苑の脳裏に強い印象を与える。否定しようもない衝撃的な事実が彼女に予知の正しさを突き付けていた。
光が乱舞し、斜光がナルトの首元を横切る。
ずるり、と音がした。
鮮血が舞う。ナルトの首元から迸るソレが、彼女の視界を真っ赤に染める。
それは紛れも無く、紫苑の鈴から放たれた光によるものだった。
後書き
大変お待たせしました!!
端折ればいいのに、好きなシーンだから事細かに書いてしまう…ナルトの台詞は今回ほぼ変えてないです。
劇場版ナルトの天然タラシ具合ェ…。
今回あまりにも不穏な終わり方なので、年内中にあと一話くらい書き上げたい所存であります。短いですし、ほぼ映画と同じ(最後以外)ですしね…。
映画編、長々とありがとうございます!申し訳ありませんが、あともう暫しのお付き合い、どうぞよろしくお願いします!!
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