夜の冷たい風が吹く。しかし、建物からは温かな光が漏れており、雰囲気を和らげていた。私はそれにささやかな安堵を抱きながら、隣に立つ青年を促す。
「さあ、街に着いたわよ。どこに行けばいいのかしら。案内してちょうだい」
しかし、彼は私の顔を見つめ返すばかりで何も言わなかった。じっと、こちらを食い入るように見ている。居心地の悪さが勝り、私はパッと視線を外した。
私の声が聞こえなかったのだろうか。ちょうど夕食の時刻が迫っている。そのせいか主街区は人がごった返していて、人々の話し声が入り混じり溢れかえっていた。きっと、喧騒に呑まれて、聞こえづらかっただけなのだろう。
「ちょっと、ネージュ、聞こえてる?」
「……あ、ああ、うん」
「もう、しっかりしてちょうだい。ちゃんと連れて行ってよ」
相変わらずボーっと私を見てくるので、彼に苦笑を向けながら背中を軽く押した。ネージュはそれに弾かれたように体を跳ねさせ、先ほどから幾度となく見てきた笑顔よりもいくらかぎこちない笑顔を浮かべる。
「あ、ごめんね、そうだね。……こっちだよ」
言うやいなや、何の前触れもなく腕が掴まれた。グイッと強く引っ張られ、そのまま脇道に入る。薄暗く、明らかに人気が無い。しかも向こうから人がくれば、両者ともにギリギリまで壁際に寄らなければすれ違えないだろう。それほど細くて高い壁に囲まれた道を、ネージュに腕を引かれズンズン進む。人のざわめきが、どんどん遠くなった。
訝しみながら彼の後ろ頭を見詰める。さっきまでの穏やかな彼の雰囲気が、偽りのものだったかのように感じられてしまった。つーっと、暑くもないのに何かが頬を伝い落ちる。
あんなにしゃべっていた彼のその口からは、今は何も出てこない。二人分の足音だけが不気味に響いている。
「ちょっと……、ねえ!」
「近道だから」
ざわりとしたものが背中に走り、非難の声を掛ける。けれど返ってくるのはあまりに短くて。とっさに右の腰に下がる剣を掴もうと手が伸びる。だがすぐに、街中ではそれほど意味を成さない事を思い出した。しかも、そもそもネージュに掴まれているのは左腕だった。思わず歯噛みする。しっかりと力が込められた手は、この狭い空間で振りほどけそうにない。ならばと、空いている右手の指を振った。メッセージ作成の画面を開く。宛て先を唯一フレンド登録している“彼女”にし、あとは送信ボタンを押すだけという状態まで持っていった。きっとこれを受け取った彼女ならば、その情報網で何とかしてくれるだろう。だが、まだだ。もう少しだけ。
私は短く息を吐き出すと、ウィンドウから指を離して、視界を塞ぐ背中に目をやった。作成したメッセージを破棄出来たら良い。そう思いながら、少し声を固くして再び声を投げる。
「ネージュ?」
「どうしたの?」
「……どこに行くのかしら。街の中心から離れて行っているようだけれど」
「うーん、内緒」
「そう」
空を見上げてみれば、暗い赤色と深い藍色が入り混じっていた。もうすぐ完全な闇に包まれるだろう。ますます不気味さが増していた。思わず眉をひそめ唇を噛み締めた時――――、ふわり、と甘い匂いがした。
「着いたよ」
その声に、開きっぱなしにしていたウィンドウを慌てて閉じる。顔をバッと上げた。瞬間、言葉が消える。
「……え」
目を見開いた先、そこには……。
一面の、花畑が広がっていた。
色とりどりの花々が、街灯の淡い光に照らされている。ヒラヒラと舞うソレが、幻想的な雰囲気をさらに引き出していた。私の両目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……こ、こんな所が……」
「そう。あんな細い道を通る人ってなかなかいないし、ここに来るまでに何回も分かれ道があるからね。人が全然来ないから、静かで良い所だよ」
「これを、見せたくて……?」
「うん。キカちゃん、好きそうだから。……気に入ってくれるかどうか心配で、つい無言になっちゃったけど」
……ああ、そういうことだったのか。
変に警戒してしまった自分がおかしくて、喜ばせようとしてくれた彼に申し訳なくて、私は眉を下げて笑った。ネージュはそれにニコリと返し、掴んでいた私の手を名残惜しそうに離すと、花畑の方へ近づいていく。よく見ればちゃんと舗装された小道もある。透き通る小さな池も合わさって、大分かわいらしいスポットだった。あまり人に見られないなんて、惜しい。……まあでも、たとえ彼と私しか知らなかったとしても、それはそれで良いと、ぼんやり思う。
「キカちゃん」
「何?」
「……怖がらせて、ごめんね」
「そ、そんなことないわ。大丈夫よ」
ドキリとしながら、軽く手を振って誤魔化そうとする。けれど彼は私が疑念を抱いていた事に気付いていたようで、申し訳なさそうな表情を崩さない。
「気にしないで、本当に平気だから」
「そんなわけには……、――――ああ、そうだ!」
当然嬉々とした声を上げて両手を打ち合わせたかと思うと、ネージュが私の手を握って身を翻した。私はぎょっとして、
「ちょっ、ちょっと、ネージュ!?」
「こっち来て!」
「もう……」
引っ張られるまま彼に付いて行った。今度は後ろではなく、隣を。約束の30分がもうそろそろ過ぎようとしていたけれど、思考の彼方に投げ捨てた。
進行方向の先には、これまた可愛らしい小屋。どうやらNPCの店らしい。暗くて看板が良く見えなかったが、近づくにつれ文字がハッキリとしてくる。
「花屋?」
「うん。耐久値はそんなにないけれど、香りとか形が本物そっくりなんだ」
「へえ、面白いわね」
「ちょっと季節感バラバラの品ぞろえだけどね」
説明しながら手早く買い物を済ませると、こちらを振り向いた時には、その手の中には一つの花束が収まっていた。
「はい、どうぞ。付き合ってくれたお礼」
「あ、ありがとう……」
差し出された小ぶりの花束を、おずおずと受け取る。発表会だとか表彰式だとかで、数えきれないくらい花束は貰ったことがあるのに、彼から受け取る花はどうしてだかものすごく緊張した。視界が埋まるくらい大きくて立派な花束よりも、ネージュから手渡されるそれの方が格段に嬉しくて、私の胸を強く揺さぶる。
「……綺麗」
「喜んでくれたみたいで、良かった」
やわらかい香りに、私は笑んだ。
「これは……、スイートピーかしら」
「正解、分かるんだ」
「そりゃあ、まあ……。それにしても、本当に季節感がおかしいのね」
肩をすくめて言う。それに対して彼は苦笑いを返してくると思ったのだが……、予想に反して笑い声は聞こえなかった。私は首を傾げ、目を瞬かせながらネージュの両目を覗き込む。途端、きゅっと体が引き締まった。
視線が固定されたかのように外せない。それほど、清廉で濁りの無い碧い宝石が、私を一直線に射抜いていた。生唾を飲み込む。
「ネージュ?」
「……ねえ、キカちゃん。スイートピーの花言葉って知ってる?」
「は、花言葉? ……ええと、確か」
突然に振りに、私は慌てて脳内の膨大なデータをひっくり返す。女の子らしさがほしいと嘆いたスグとともに、花について勉強していた時期があるのだ。
思考時間は数秒。いくつかある花言葉からそれっぽい答えを弾きだした私は、若干戸惑いながら彼の瞳を見つめ返す。
「スイートピーの、花言葉は」
『ほのかな喜び』。
私がそう口にすると、ネージュが一層優しげに相好を崩した。
*
その日からネージュは、私が拠点とする村へ毎日のように訪れるようになった。
私は何をするというわけでもなく、笑いながら、時には冗談を交えながら楽しげに話す彼の話を、ただ聞くだけ。けれどそれもまあ悪くない時間で、ネージュと出会ってニ週間が経つ頃には、あの草原で自然と待ち合わせるようになっていた。
今日も私が迷宮区から戻って来ると、あの清純な黄金色が目に入る。内心その姿にホッとしつつ、歩く速度を速めて彼に近づいた。
「あなたも飽きないわね」
「あはは、……こんばんは」
「こんばんは、ネージュ」
あなたはきっと知らない。一週間と少し前までは、村に戻って来る時間なんて一定ではなかった。むしろ、迷宮区に籠ることなどあたり前だったというのに……。
今はこのささやかなこの時間が、ほんの少し、本当に少しだけ、多分血球ひとつ分くらいだけ楽しみなのだ。口が裂けても言ってやらないけれど。
「よくこんな所に何度も来られるわね。何もないじゃない」
「何も無いなんて、そんなことない」
彼は私が隣に腰を下ろすのを目で追いながら、ハッキリと言い切る。そして、とんでもない事をのたまった。
「君に会えるじゃないか」
「……ばっ、バッカじゃないの!」
ああ、感情表現がオーバーなこの世界が憎たらしい。大声で暴言を吐く私の頬が火照る。自分でも分かる。彼の前で真っ赤な顔を晒しているはずだ。それなのに、おかしそうに笑いう彼は言葉を止めない。
「僕ね、キカちゃんのこともっと知りたいんだ。前も言った通り、僕は何も知らないからね」
「…………よくそんな恥ずかしいことが言えるわね」
「ん、何の事?」
「いいから、さっさとその口を閉じなさいよ!」
バシンと思い切りネージュの肩を叩く。痛い痛いと、顔を綻ばせながら彼は痛がるフリをした。その様子を、目を細めて呆れの視線を送る。
ただ、私も、ネージュもその場から立ち上がることはしない。何も言わずに肩を触れ合わせて、きらめく星々を見上げる。
これが、約二週間かけて作り上げた彼との関係だった。およそ一ヵ月前――――この世界に入る前の私からすれば、考えられないような事だと思う。協力者を作ることは出来ても、“友人”や“仲間”なんて、自分とは縁遠いものだと思っていたのに。
「……それで、今日はどうしたの?」
「うーん、特に何もないなぁ」
「まったく、あなたって人は……。というかいつも思うのだけれど、あなた、ちゃんとレベル上げとか攻略はしているの?」
何だかんだ言いつつ、迷宮区近くの村まで通って来られるのだ。それなりにレベルのあるプレイヤーのはずだ。刺々しさの中に若干の心配を潜ませて、青年に問う。
「ちゃ、ちゃんとやってるよ」
「本当かしら」
「ホントホント」
「……へえ」
「な、何か顔怖いよ、キカちゃん?」
「そんなことないわ。あなたの気のせいよ」
「だから、その笑顔が怖いんだってば。……そうだ、なら今度パーティー組もうよ。一緒にレベル上げでもしない?」
「…………別に、良いけれど。どうしてそんな話になるのかしら?」
ネージュは自分の胸をドンと叩き、
「僕がちゃんと戦えるって所を見せてあげるよ!」
「……はあ? ますます意味が分からないわ」
「いいから、いいから! ……それに、キカちゃんだったら――――」
「私だったら……何よ」
「……ううん、何でもない。でもきっと、良い子だからキカちゃんとも仲良くなれる……」
ふっと、哀しげで苦しそうな面持ちになった。彼はコロコロとその表情を変えるが、こんなつらそうな顔は見たことがない。
私はつい眉をひそめる。ネージュには似合わない。
「……そうそう、今日街で聞いた事なのだけれど」
「うん?」
「明後日、第一層フロアボスの攻略会議をトールバーナの広場で開くらしいわ。何でも、もうそろそろボス部屋を見つけられそうなんですって」
「そ、そうなんだ」
ピクリと、ネージュの肩が小さく跳ねる。あまり見ないその様子に、今度こそあからさまに苦い顔をしてしまった。……この話題は失敗だっただろうか。コミュニケーション能力が欲しいと、これほど思ったことはない。
「……キカちゃんは、参加するの?」
「え、ええ。そのつもりよ。……あなたは?」
「僕は……」
言いづらそうに口ごもり、顔を伏せる。言い切るのを躊躇っているかの様子だった。私は瞬時にそれを察すると、彼の肩に頭を乗せ、なるべく明るい声音になるよう気を付けながら音を発した。
「出来ないならそれでいいんじゃないかしら。誰かに無理強いされるようなことでもないわ」
「で、でも」
「それに、中途半端な覚悟で来られる方が迷惑よ」
ネージュの言葉をさえぎり、厳しい毒をぶつける。彼の顔がぐしゃりと歪み、噛み締められた唇が震えていた。
言い過ぎだ。……分かっている、そんな事は。
困惑に揺れるネージュをギロリと睨み返した。ぐつぐつと鍋を煮込んでいるかのように、身体の中が熱い。喉の奥が辛い。腹の底から湧き上がるその感情を、隠すことなく彼へ向けて放出した。
ピリピリと肌を薄く裂く空気に、先に耐えくれなくなったのはネージュだった。吐息まじりに自嘲の笑みを滲ませると、
「……本当、情けないなぁ。それこそ、カッコイイ所を見せるならボス戦で――――」
「やめてちょうだい!」
何を言い出すのか。鋭い声を上げ制止をかける。驚愕したような真ん丸のスカイブルーの目が向けられた。困惑の色を深め、ウロウロと視線を揺れ動かしている。
私はその様子に眉をぎゅっと寄せると、深呼吸をして激しく暴れまわる炎を消火しにかかった。
「……き、キカちゃん?」
「……やめて」
「何を、言って……」
「そんな事をされるくらいなら、私はネージュの強さを知らないままで良いわ」
「でも、僕はそれじゃあ!」
「駄目よ。反論はさせない。……許さない」
強さとは、何も“ステータス”だけでは無いのだ。彼はすでに、十分示してくれているではないか。
その、清らかで優しい心で。
「ネージュ、聞いて」
「……うん」
背けていた顔を正面へと戻し、瞬きをする光をぼんやりと見上げた。ざあざあと、木の葉が鳴く。
「アンタはね、ヘラヘラ笑っている方が、ずっとずっと似合っているんだから」
ネージュは何も返してこなかった。驚いているのだろうか、怒っているのだろうか、それとも別の感情を抱いているのだろうか。分からない。分かるわけがない。それでも私はいつものように反応の予想をしながら、服の裾を握りしめて続ける。ゆっくり、ゆっくり、言葉の一つひとつを噛み締めながら。
「私、ネージュと過ごす時間、嫌いじゃないのよ」
「……僕もだよ。僕も、楽しくてしょうがないんだ」
いつもよりも低いトーンの声が空気を震わせる。ああ、と私は目を伏せた。
「キカちゃんと一緒に居ると、すごく楽しくて。不安も、疲れも忘れられて――――」
「だったら、その日々をあなた自身の手で壊さないで」
私の、時間を壊さないで。
……認めよう。認めてしまおう。
私も、確かに楽しいと感じていた。
幸歌や慎一と歩いた夜の帰り道と重なる。彼らと過ごす居心地の良さと、ネージュとの時間は同質のものだった。何がどうしてこうなったのかは分からない。けれど多分、ネージュの眩しさが無視出来なかったのだ。
「あなたは、笑っていればいいのよ」
彼は雪だ。白くて、目が痛いくらい眩しい。手の平に舞い落ちると、スウと水へ変わる雪だ。一点の黒も無い。笑顔も、その口くちから紡がれる言葉の一つひとつでさえ、優しく体に触れる白い結晶――――。
「……あ」
“ネージュ”。その、名前は。
パッと顔を上げ、その整った顔を凝視する。
「もしかして、あなた……」
「な、何? なんか付いてる?」
「……いえ、何でもないわ。気にしないで」
「う、うん」
戸惑うネージュに苦笑いをし、背中を軽い調子で叩く、ポンポン、と。
「ネージュ、ひとつだけ言っておくわ」
「ん」
軽く打っていた手を止め、彼の上着をぎゅうっと握った。
「死んだら許さない」
ネージュが息を呑んだのを感じる。けれど顔を上げることは出来なくて、視線は彷徨った。彼の上着から手が離せない。
「……許さないわ」
焦りにも似ていた。心臓が、突き破りそうな勢いでバクバクと鳴る。手はやっぱり離せない。……力を抜いたら、彼がフラリとどこかへ消えていきそうで。儚く溶ける雪のように。
「死なないよ」
やがて、すっと伸びてきた手が私の両手を包む。いたずらっぽい笑みを浮かべた。自嘲の笑みではない、綺麗な、雪白の笑顔。
「僕は死なない。キカちゃんに嫌われたくないからね」
そうして彼は、約束だと、必ず守ると、力強い声音で口にした。
――――そう、言ったのに。
次の日、いつもの時間になっても彼は現れなかった。
空が藍色のベールに包まれても。光り輝く砂が散りばめられても。NPCである老人の家から、灯りが消えても。
私は嫌な予感を押さえつけながら、そろりと時刻を確認する。痛いほど寒いのに、冷や汗が伝った。
……別に、会う約束をしているわけではない。たまたま早く帰った私が、ふらりと立ち寄ったネージュと会っているだけ。約束など、交わしていない。強制しているわけでもないのだ。そうだ。そもそも、毎日ここへ来る彼がおかしい。
だからきっと、彼にも休みは必要だろう。私も、一人になる時間が欲しかったのだ。会いたくなくても、ネージュが来るのだから蔑ろにするなんて出来ない。仕方がない、ただそれだけの理由で付き合っていた。大丈夫、大丈夫。ネージュにだって乗り気でないことはある。疲れて、今日はこの草原には寄らず真っ直ぐ拠点へ帰ったのだ。
だから、だから、だから――――。
ぐわんぐわんと揺れ、黒く染まる思考を無視した。送信出来ないメッセージなんて知らぬ存ぜぬを押し通し、意識の外へ投げ捨てる。言葉を並べて不快感の払拭を試みた。
けれど、消えない。それどころか嫌な感覚は増すばかりで。
こんなこと、今までなかった。しつこいくらい、私に付きまとっていたのに。
ギリと唇を噛んだ。“向こうの世界”だったら、確実に血が滲んでいるはずだ。痛みがチラリとも襲わないことにさえ、苛立ちを覚えてしまう。固く目をつぶり、自身の服を握りしめる。
ブルリと身体が震えた。おそらく寒さのせいだ。いつもの場所に腰を下ろし、ストレージからブランケットを引っ張り出して首まですっぽり埋まる。薄水色の毛布を、あらん限りの力で握りしめた。
どれくらい経ったのだろう。いつの間にか浅い眠りに入っていた私は、草を踏む音で勢いよく振り返った。
そこには、息を切らせた青年が立っていて。目を見開いて、私をしっかりと視界に入れていて。見慣れたその柔らかい金髪に、ぐっと喉を詰まらせる。
「き、キカちゃん、どうして――――」
「ネージュ!」
ブランケットを翻して彼に詰め寄った。凝然と立ち尽くすネージュを睨み上げ、早口で捲し立てる。
「あなた、いつも勝手に来るくせにこれはどういうことよ! 一体どこに行っていたの!」
私は、何に怒っているんだ。彼はただの、よく話すプレイヤーではないか。
頭の片隅で嘲笑する声が聞こえる。しかしそれを跳ね除け、彼へと言葉を投げつけた。
「ちょっ、ちょっと待って、キカちゃ……っ」
「だいたい、今何時だと思っているの。どうしてこんな夜中に、フィールドを歩き回って……!」
「待って、落ち着いてキカちゃん!」
「私は至って冷静よ! それなのにあなたは、ネージュは……」
「……ッ」
「…………私が……っ」
ああ、止めろ。これ以上は、口に出してはいけない。
そんな必死の叫びは、空しく消え去る。
「私が、どれだけ心配したと思って――――」
「え……?」
ネージュの口がポカンと開かれる。漏れ出た驚きの声に、私はバッと後ろへ下がって距離を取った。
細かく震える手で、口元を押さえる。さーっと、血の気が引いていく感覚がした。慌てて体ごと彼から背け、逃げの体勢になる。そのまま片足を後ろへ引き、
「……ごめんなさい、忘れて」
「キカちゃん!」
逃亡を図ろうとした私は、しかしネージュに肩を掴まれたことによって阻止された。
「待って、待ってよ、キカちゃん。逃げないで」
「逃げて……なんて、いないわ」
「だったら、僕の話を聞いて」
お願い。と、懇願するような声音が重ねられる。チラリと横目でネージュの表情を確認すると、いやに真剣な顔をしていた。何だか悪いことをしている気分になり、私は身体の向きを直すと、真正面から彼の瞳を見据える。すると彼は安堵したかのように肩を撫で下ろして頬をほころばせた。
「……ねえ、キカちゃん?」
「何よ」
「もしかしなくてもさ、僕が来るのを待っていてくれたの?」
笑いを噛み殺す様を隠しもせずに、ネージュが楽しげに問うてくる。そのストレートな質問に私はすぐさま顔を背けた。青空を溶かした目で見ないで。
「そ……、そんなことあるはずないでしょう。ちょっと星を見に来ただけよ」
「星って、……もうずいぶん前に雲で隠れちゃってるよ?」
確かに、寝てしまう前はあんなに光り輝いていたのに、今は厚い雲で覆われていた。明らかに天体観測をする天気ではない。
「……夜風に当たりたかったのよ」
「そんな薄着で、ブランケットまで被って?」
眉を八の字にして、ネージュが腕を伸ばしてくる。避ける間もなく、彼の手が私の頬に添えられた。
「……冷たいね」
「大丈夫よ。いくら冷えたって、何も問題は無いわ」
「そんなことない。問題ならあるよ」
「……どんな?」
「へ?」
「どんな問題が、あるっていうの」
つい険のある口調になった。ネージュはそれを気にする様子はなかったが、浮かない表情で私を見てくる。私は訝しみ、首を傾げた。
「ネージュ?」
「……待たせちゃって、ごめんね」
「は? ……だって、これは」
「君のことを、あたためたいのに。逆に冷やしてしまった」
「……ッ」
慈愛に満ちた蒼穹を向けられ、息を呑んだ。なんで、一体どうして、そんな目をして私を見ているの。
戸惑いとともに溢れる疑問。しかし先ほどのように、この両足は、……私の意志は、逃げることをしなかった。
ネージュの手が、優しげな手つきで私を撫でてきた。頬に温もりがじんわりと浸透してくる。あまりに心地が良くて、そのあたたかさを甘受する。
「もう1時を過ぎているじゃないか。こんな時間まで僕を待っていたなんて、不用心過ぎるよ。てっきり僕は、もう寝てしまっていると思っていたのに」
私が放った言葉と同じようなことを言うと、撫でつけてきていた大きな手が私からブランケットの端を奪った。ぐっと力を込められ引き寄せられる。私は特に抵抗はせずに、数歩分ネージュとの距離を詰める。さらに近くなった彼の顔を見上げ、そして怪訝に思いながら問いかけた。
「ねえ、ネージュ」
「ん?」
「……私がこの草原にもう居ないと思っていたなら、どうしてわざわざ来たの?」
モンスターが湧かないこのエリアは良い。しかし、何故危険を冒してまでこの場所まで来たのか。
そういえば、私が彼の姿を見た時、ネージュは息を弾ませていたではないか。まさか、走ったのか。何故? 時間を割き、危ない橋を渡り、それでもここへ来る。どうして? そこまでの理由が、ここにあるというのか。
ネージュは、一体、何を――――。
「……会いたかった、から」
誰に、とは問えなかった。ひゅっと、喉を空気が通り抜ける。信じられない気持ちで、彼の宝石のような輝きを放つ蒼を見詰めた。
黄金色の青年は、じっと私を捕えていて。それが、聞くまでもない答えで。
「君に、……キカちゃんに、会いたかったんだ」
困ったように笑いながら、しかし晴れ晴れとした口調で、一片の迷いもなく言い切った。それは、私をフリーズさせるのには事欠かない。茫然としたまま、彼の言葉に耳を傾ける。
「もう今日は諦めてた。でもそれでも、……君が居なかったとしても、ここに来たかった。会いたかったんだ。明日何があるか分からないこの世界で、少しでも時間を削りたくなかった」
たった、それだけの理由で。こんなにも、必死に?
「……馬鹿じゃないの」
「うん」
「そんな、いつでも会えるじゃない。またしつこく私に会いにくればいいじゃない。……“明日”なんて考えないで、今を考えなさいよ」
「うん、そうだね」
クスクスとおかしそうに笑い声を上げる。私は呆れてしまって、けれど憎めないその純直さが傍にあることに安心した。
ふっと、表情が緩む。
ああ、やっぱり、あなたの2つの瞳はとても綺麗だ。
「ネージュが無事で、本当に良かったわ」
私の目と、彼の目が交わる。その瞬間、ネージュのそれが驚いたように見開かれた。
「……やっぱり、来て正解だった」
ふわり、とその柔和な表情をさらに柔らかく崩して笑った。
「やっと、僕の目を見て笑ってくれたね」
毛布がバサバサとはためく。黄金色の髪の毛が舞って、私の髪の毛もなびいていた。あんなに埋め尽くしていた嫌な感じは、もうどこにもない。
「何よ、それ」
自然に弧を描く口元が自分でも不思議だった。
「あなたって、本当におかしな人」
真っ暗な草原を照らすように、2人分のささやかな笑い声が夜空を包んだ。いつの間にか重くて厚い雲はどこかへと流れ去っていて、宝石たちが瞬きを繰り返している。
私はそれを肌で感じながら、穏やかで、ゆったりとした時間に、そっと体の力を抜いた。