背後から掛けられた声に、パッと振り返った。
夕日の輝きに負けず劣らずの金色の髪。そこだけ青空が広がっているような、鮮やかな色をした瞳。カーソルには、【Neige】と表示されている。その5文字の名前と、相変わらずの雰囲気にほっとし、胸を撫で下ろした。
あれほど気持ち悪さぐるぐると渦巻き、視界は黒く染まっていたというのに、彼の柔らかな声音を聞いた瞬間、すーっと嫌な感覚は消えていく。
「ああ……、ネージュ」
「キカちゃん……、どうしたの? 何か顔色悪いよ、大丈夫?」
「……平気よ、何でもないわ」
彼は表情を暗くすると、私との距離を詰めてくる。大きな手が顔に伸ばされ、ふわりと包まれた。
……あたたかい。
私は詰まっていた息を吐き出し、ネージュを安心させるために笑う。
「本当よ。……本当に、大丈夫だから」
「キカちゃんの“大丈夫”は、信用出来ない」
「全く、心配性なんだから……。信じてちょうだい」
「無理」
ムッとしたような顔のまま、バッサリ切られてしまった。迷う素振りもなくすぐさま返されてしまったので、返事に窮する。蒼穹の2つの瞳があまりにじっと私を覗き込んでくるので、思わずさっと目をそらして逃げた。
話題を、早く変えないと。空回りする思考を内心で叱咤した。
「あ、あなたこそ、どうしたの?」
「へ? あ、ああ、うん。キカちゃんの姿をみつけたから……」
「そうじゃなくて……、あなた、私に用があって声をかけたんでしょう?」
「ま、まあ、……そう、なんだけど」
歯切れの悪い答えに、チラリとネージュの顔を窺う。彼は眉を顰めて、思案するような顔つきをしていた。正直、彼にそんな表情は似合わない。
大方、出会った時の私の様子から気遣ってくれているのだろう。咄嗟に失敗した、と思った。
見せるべきではなかった。誰の目があるか分からない外で、出すべきではなかった。失敗、してしまった。いくら動揺したとはいえ、直前のエギルたちとの会話で思考が通常運転ではなかったとはいえ、平静を装っているべきだった。そのまま、何食わぬ顔をして今夜泊まる宿を探して、早々に寝てしまえば良かったのに……。
「ネージュ?」
「……あ、ごめん」
明らかに上の空な口調で、私も苦笑してしまう。
「……あなた、まさか、街の中で迷ったの?」
ぴくり、ネージュの肩が揺れた。蒼の目が真ん丸になり、こちらを捕える。眉はさらに八の字になり、ぎゅっと口が引き結ばれた。
それはそうだろう。完全に話題を変えに掛かっているのだ。いくらふんわりとした性格のネージュとはいえ、それくらい分かっている。現に彼は、どうするべきなのか困って、押し黙ってしまったのだから。あんなにお喋り好きな彼が、口を開かないのだから。
ごめんね、ネージュ。
心の中で謝罪を言いながら、それでも私は笑顔を作る。笑え、笑え。完璧に笑え。
ふいに、ネージュの顔が柔らかくなった。あ、と思った時には、
「そうなんだよー! いやー、ホント困っちゃってね!」
カラカラと明るい笑い声を上げ、さっきまでの神妙な表情が嘘だったかのように白い歯を見せて笑う。私の頬に触れていた手を片方頭の後ろへ持っていき、ポリポリと掻いていた。
そんな彼の優しさに、針で突かれたような痛みが胸に広がる。しかし、無駄にしてはいけない。言いたいことを飲み込んでくれたネージュに、私も返さなければ。
心底呆れた、という顔と口調をすぐさま作った。
「もう、そんなことだろうと思ったわ」
「え、バレてた?」
「当たり前じゃない。分かりやす過ぎよ」
「あっちゃー、……じゃあ、キカちゃんに助けてもらおうかなー」
「しょうがないわね。良いわよ」
――――本当に助けてもらったのは、私のほうのくせに。
ゾワリと悪寒の伴う囁きが耳朶を撫でる。つい強張りそうになった表情を笑顔に保ち、
「で、どこに行きたかったのかしら」
「ええっとね……」
ネージュの隣に立ち、夕日に背を向けて歩き出した。すると、スッと彼の手が伸びてきて、私の右手が包まれる。反射的に横を見れば、子どもが悪戯に成功した時のように表情を輝かせる金髪の青年がいて。
「ちょっと、何を……」
「こうやって手を繋いだ方が安心するでしょ?」
「あ、安心って!」
「ほら、れっつごー!!」
レッツゴーって、案内するのは私なのですが。
出かかった言葉を呑みこみ、代わりに小さく笑った。ザワザワと身体を這っていた冷たい感覚は、吹っ飛んでしまったので。
翌日。私の足は、昨日約束した広場に向かっていた。
しかし、ハッキリ言って来ていないだろうと思う。あれだけ異質な思考に困惑していたのだ。昨日の今日で普通の対応が出来るとは思えなかった。
これは、もしかしたら明日のボス戦は休むことになるかもしれない。その場合実質ドタキャンしたということになるだろうが、私の存在が隊の――――正確にはある特定のパーティーの連携を崩す恐れがあるというのなら、致し方が無いのではないだろうか。幸い、ボス戦参加希望者の名簿を作っている様子は無かった。おそらく私一人が欠けたところで、気付く者はあの五人だけだろう。
――――と、そんな事を考えながら歩みを進めていた私の足が、広場の端が見えたところで自動停止する。
「うそでしょう……?」
自分の唇から、か細い声がこぼれた。視界に映るのは、屈強な五人の男たち。その雰囲気は和やかで、刺すようなものは何一つない。見知らない人たちならば、気にせず隣を通り過ぎて行っただろう。
……そう、知らない人であったならば。
己の目に曇りなく映る五人を、私は知っている。昨日、私が勝手に険悪な雰囲気を作り出し、勝手に背を向けて立ち去ったから者たちで間違いない。
私は、どうすることもなくその場にただ突っ立っていた。何度が道歩く人とぶつかり体が揺れるが、そちらの方に気が向かない。
何故、あそこに彼らがいるのだろう。今まで出会って来た人々に、あのような人たちはいなかった。普通の思考回路を持つ人が行動するならば、私のことを遠ざけるのが道理のはずなのに。
胸の内に、モヤモヤとした形を持たない、けれどしっかりと突き刺してくる不安が溢れだした。正直言って怖い。この先へ行きたくない。
あまりに予想外の光景のせいで、私の足裏は完全に地面と一緒に固定されてしまった。
だが、いつまでこうしてはいられない。私はひとつ息を吐いて、足を地面から引っ剥がす。
一歩、一歩、ゆっくりと近づいていく。足を踏み出す度に、ドクン、と大きな胸の鼓動を感じた。
いつでも逃げられるように。どんな暴力を振るわれても、耐えられるように。ソロリソロリと、警戒しながら近づいていく。
すると、そんな私に気が付いたのか、目の前の五人の内の1人がこちらを指差した。
自分の肩が自然と跳ねたのが分かった。足が逃走する道を探して動き出そうとするが、なんとか押さえつける。体が鉛と一体になったようだ。ひどく重い。
何て言われるのだろう。どんな表情をされるのだろう。蔑まれたり嫌悪されたりするのは慣れているとはいえ、自らそこへ向かうのは気が引けた。
「……おはようございます」
なるべく目を合わせないように、顔を俯けながら朝の挨拶を口にした。きっと、とても小さくて聞き取りづらいだろう。それほど自分が緊張していると思い知らされて、けれどどうすることも出来ずに身構える。降り注ぐだろう刃から己を守れるようシールドを張る。
しかしそれは、考えもしていなかった方向からぶっ壊された。
「おう、キカ! 待ってたぜ!」
「おはよう、キカ」
「やーっと来たか、遅いんだよ!」
「どうした、腹でも壊したかー!?」
「ばぁか、ンなわけねーだろ」
「はは、そりゃそうだ!」
私を迎えたのは、罵倒でも、責め立てる言葉でも、ましてや距離を置くような言葉でもなく。朝の挨拶に相応しいと言えるような、日常会話そのもので。
「ど……して」
またしても予想外の出来事に、目を丸くすることしか出来ない。思考が停止する。
これは、どういうことだ。何故私は、こんなにも明るく、まるで当たり前だとでも言わんばかりに受け入れられているのだ。
なんで、なんで――――。
「なんで、……ここに来られたのですか?」
あの会話内容では、私を気味悪がってもおかしくはない。誰も彼らを責めることは出来ないはずだ。
だから、彼らは今日、この広場へは来ない。明日のボス戦でも、一緒にパーティーを組むことは出来ない。そう、思っていたのに。
「は? それはどういう意味だ?」
「どうって……、そのままの意味よ! ……そ、それに、待ち合わせの時間なんて決めていなかったじゃない!」
それは、“来ないだろう”と予想していた理由の一つだ。私は昨日、場所は口にしたものの、時間までは言わなかった。残念ながらフレンド登録はしていないためフレンド・メッセージが来ない事は当然なのだが、同じ層ならば――――現段階で第1層しか移動出来るわけがないのだから分かるはずだ―――送ることが出来るインスタント・メッセージでも連絡が来ることはついになかった。そのため、今までの自分の言動を考え見てそう結論付けていたのに、見事すぎるくらいに覆されてしまった。
「お前の性格なら、嘘はつかないだろ?」
「……はあ!?」
「そうそう。絶対に来るだろーっていうのが、俺たち全員の考えだったよ」
男たちが言う言葉に、エギルがうんうんと頷き、
「だから、あとは根気だ。ここで待っていればそのうち来るだろ、ってな」
「……な、なんて効率の悪いことを……」
「まあ、今こうしてちゃんと落ち合えたんだから、俺としては満足だがな」
「…………念のために聞いておくけれど、インスタント・メッセージを送ろうって考えはなかったのかしら?」
私が恐る恐る問いかければ、エギルがあっと声を上げる。何だその反応。まるでその、名案を聞きました、みたいな顔は!
「そう言われたら、確かにその方法があったな」
「いや……いやいや、ちょっと待ってちょうだい。 まず真っ先に思いつくのがそれだと、私は思うわよ!?」
何なんだ、何なんだ彼らは。単に抜けているのか、それとも私を和ませようとでもしてわざとやっているのか。
なんにせよ、ムキになるのが馬鹿らしくなってきた。大きくため息をつきながら、それでも最後にひとつ、どうしても確認しておきたいことを問う。
「……私の考えが狂っていること、理解しているのよね?」
これで「何のことだ?」なんて言われた日には、即行自分が拠点としているあの村まで戻ってやる。そう固く心に決めながら、若干睨み上げるようにエギルを真っ直ぐ見つめる。しかし彼はそれに全く臆した様子は無くて、少し悔しかった。
「考え方なんて、人それぞれだろ。確かに、そりゃ……一般的な考えと比べるとキカのはちょっと変わっているかもしれないが、俺にそれを否定する権利はない」
むしろ否定することの方が問題だろ、とエギルは豪快な笑みを浮かべた。
偽りの色は見えない。エギルの後ろにいる男たちも、同様に晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。瞬間、ネージュのそれと被って見えて、口を引き結んだ。
しかし、その明るい笑顔を、ネージュの時のように素直に受け入れることが出来なかった。包容力のあるその雰囲気に、腹の底から真っ黒でねっとりとしたタールのような苛立ちが湧き上がる。知らず知らずのうちに拳を固く握りしめていて、ふるふると震えていた。
「……ヒトなら、恐ろしいものには触れたくない、理解出来ない存在には近づきたくない――――そう考えるのが普通ではないかしら」
つい剣を含む声音が己の口から飛び出す。しかし取り繕うことはせず、ギッと鋭く目を細めた。
「は? ……おい、何を……」
「だって、そうでしょう? かなり拡大解釈すれば、幽霊や怪奇現象の類かしら。誰だって、そんなものには関わりたくないって思うのが当然の心理でしょう?」
「お、おいおい。自分を幽霊とかと同じ部類にするなよ……」
「“私”には、それが一番適している表現だと思うのだけれど。……違うかしら?」
私は、世界から逸脱した存在だ。そんなもの、“幽霊”だと、“化け物”だと表現しても、間違ってはいないだろう。
私の考えは、通常の人たちからすれば、吐き気すら覚えるものなのだろう。だが、そんなものを気にして、改める気など毛頭ない。しかし、周りはそうはいかないのだ。気にしないことなど、出来ないはずはなのだ。
足並みを乱す存在は排除する。調和を壊す存在は弾き出す。異物が混じれば取り除く。不穏なものとは距離を置く。理解出来ない、受け止められない存在は拒絶する。相容れないと感じれば繋がりを断つ――――。
それらは、身を守るための当然の行動。もはや脊髄反射と言っても過言ではない。どんなに恐れ知らずな人間でも、本当に“恐ろしいもの”を見たり経験したりすれば、咄嗟に自身の体を守ろうとする。それと一緒なのだ。
合っているとか、間違っているとか、そういう次元ではないのだ。それが“当たり前”なのだ。それが“世界”なのだ。
私たちが生きている、世界なのだ。
私は少し小首を傾げながら、色黒の顔を見上げた。ずいぶん彼らを困らせてしまったらしい。昨日と同じ様に、難しい顔をして固まっている。
……これだから、私はいけないのだ。和を壊すことしか出来ない自分に、苛立ちの矛先が向かう。
睨んでいた目を伏せると、エギルたちへ向けて頭を下げた。
「……ごめんなさい、少し言いすぎたわ」
「い、いや、そんな謝らなくても!」
「いいえ、私が悪いの。ごめんなさい」
彼らはきっと、とても懐が深いのだろう。それだけなのだ。……それだけ、なのだ。
「キカ……」
「だから、と言ったらおかしいかもしれないけれど……。ご迷惑をおかけしたお詫びに、一つ、間違いを訂正して差し上げます」
エギルから、半歩離れる。そして、目を丸くしている彼らに背を向けてから、肩越しに口を開いて、少しいたずらっぽい笑みを作った。
「私、結構嘘吐きよ?」
そう、私を利用するくらいの気持ちで掛からなければ、トゲで怪我をしてしまうほどに。
「ほら、行きましょ。早くしなければ時間が無くなってしまうわ」
クスクスと笑い声を作りながら、後ろにいる五人を急かす。バタバタという足音を聞きながら、私は青い空を見上げた。
それから私たちは足早にモンスターたちが待つフィールドへと出て、当初の目的であった連携についての確認を始めた。
やはり、パーティーメンバーとこういう日を設けられて良かったと思う。ボス戦へと突入する前に一日置いてくれたあの青髪の指揮官に、胸の中で感謝の言葉を送った。突発的にパーティーを組むことはあったが、実質今までずっとソロだった訳だし、何よりSAOにログインするまでこの手のゲームをしたことは無かったのだ。明らかに知識が不足していたのだった。
エギルたちとの戦い中でそれらを補いつつ、幾度目かに遭遇したモンスターへ剣を振った瞬間。
ぶわっと、青白い光が舞い上がった。ほっと息をつくと、辺りにレベルアップを知らせるファンファーレが響き渡った。
だが、私の頭の中は白だけが覆い尽くしている。何も思わない。何も感じない。ただ右から左に音が流れていき、機械的にそれを聞いていた。
すると、ゴツゴツとしたたくましい大きな手が、私の肩を叩く。
「レベルアップおめでとう」
手と同時に掛けられた声に、振り返る。そして、口元を緩めてから、エギルの瞳を見て言った。
「ありがとうございます」
ついでに、と、軽く頭を下げてみた。
しかし、顔を上げてみれば、どうもエギルは困った表情をしている。周りにいる四人も、似たり寄ったりの顔だ。
……ああ。
私の反応から、うまく盛り上がることが出来ない、と言ったところだろうか。こういう時は、どうすれば良いのだろう。というか、「おめでとう」と言われたのだから、「ありがとう」と返せば間違ってはいないはずなのだが……。私はどこかミスをしただろうか?
「……あ、あの……」
「そ、そういえば、キカって左利きなんだな!」
「えっ?」
沈黙に耐え切れず口を開いたところで、妙に明るい声で言葉が被せられた。まったく文脈がないそれに、自分でもらしくないなと思う素っ頓狂な声が出た。もっとも、この発言をしたルークという茶色い短髪の男の方が焦っているようだが。
「……それが、いかがなさいました?」
「あーいや、武器を左手に持っているだろ?……左利きって珍しいなと思ってだな……」
思考を通常運転に戻しながら尋ねれば、相当苦し紛れだったらしく、なんとも歯切れの悪い答えが返ってきた。
……左利きということだけで騒ぐなんて、学生ですかあなたは。
――――と、一瞬口が滑りそうになるが、そのくらい空気がまずかったのだと解釈する。
右の腰に下がる曲刀を手に取った。少し、彼らの体がぴくりと動いたような気がしなくもないが、綺麗さっぱり無視してニッコリと笑顔を作る。
「いいえ、私、本当は右利きですよ。ちなみに、両利きでもありませんし、何か特定の行動だけ利き手が違うってわけでもありません。システム的に動かない、なんてことでも無いですよ」
左手で曲刀をもてあそびながら、「ほら」と言って、右手をグー・パーと数回動かして見せた。彼らはポカンと口をあけ、フリーズしたかのように動きを止めた。しかし、やがてその表情は驚愕にかわり――――、
「つまり、利き手とは逆で武器を持っているのか! 相当難しいはずだろう!?」
「全く危なげなく剣振るっていたよな!?」
ぐわっと身を乗り出して、今にも掴みかかられそうな勢いで五人に迫られる。
……特にエギルさん。あなたは素晴らしいほど迫力満点なのですから、そんなに目を見開かなくても十分です。
少しばかり勢いに圧倒されながら、それでも笑顔を保ちつつ、何の気負いもせずに言った。
「だって、曲刀を手にした瞬間から左手だったもの。一週間もそうしていたら、慣れてしまうのがふつうじゃないかしら」
しかし、さらりと口にした発言が、まったく不足なく、爆弾と同じ威力を持っていたようで、彼らはもう口をパクパクとするだけで声すら出ていない。
さっきまでの静けさはどこへ行ったのか。ただ、盛り上がっている、というのには少し空気が違う。端から見れば、違和感を覚える光景かもしれない。
およそ2分。
なんとか落ち着きを取り戻しつつあるエギルに問うた。
「そんなに驚くことかしら?」
「……そりゃ、びっくりするってもんだろ。遊びでプレイスタイルを変えることもあるだろうが、この生死に関わる世界でなあ……」
「そう、かもしれないわね。何が起こるか分からないのが、この世界だもの。……でも私は、“無駄”なことはしないわ」
私は、無駄が大嫌いなのだ。
行動しているからには、ちゃんと相応しい理由がある。
「だって、右手でしか出来ないことがあるでしょう?」
「右手?」
「そう。……まあ、ふさがったからと言って、完全に出来なくなることではないのだけれど……」
私にとっては、“それ”をすばやく出来ない方がまずいから。
「それって……、何だ?」
「ふふ、何でしょう?」
漫画ならクエッションマークがいくつもエギルの頭に浮かんでいるだろう。自分の右手をながめながら首を傾げている。私は苦笑いを作りながら、
「解らなくても別段困るわけではないのだから、そんな真剣に考えなくてもいいわよ。……さて、もうそろそろ行きましょうか。もうすぐ迷宮区に着きますし……」
片足を前へ出し、……しかしそこで言葉も動きも止まった。エギルとルークが、驚いたように私を見ている。
「どうした、キカ」
「い、いえ……クエストログが……」
「ログ? 何か出てきたか?」
「こっちは何も出てないぞ」
場を一気に不穏な空気が包む。エギルが不可解そうに眉を顰め、他の面々も不安げな顔を私に向けてきていた。
「キカ、それに何て書いてあるんだ?」
静かに、……いや、恐れを滲ませたような押し殺した声で問いかけられる。おそらく、全員の脳裏に、あの血の色をした空が過ったのだ。
この世界は、何が起こるか分からない――――そう、私が口にしたばかりなのだから。
それは私も同じで、恐怖にも似た言い知れぬ感情が体の中心で渦巻く。カラカラと、口の中が乾くような感覚に襲われながら、何とかその一言を紡いだ。
「“当選おめでとうございます”」
いよいよ全員に緊張が走る。クエストログには、あまりにも相応しくない文面だ。というか、そもそも“当選”とは何のことなのだ? 私は何に選び出された?
「キカ、一応聞いていいか?」
「……何かしら」
「お前、今何かクエストを受注しているか?」
「いいえ、何も」
簡潔に淡々と答えたが、内心は穏やかでは全くない。
何だ、これは。何だ、この嫌な予感めいたものは?
「――――キカ! 戦い方については十分確かめられたし、もう主街区に戻ろう!」
強張った表情のルークに思い切り腕を引かれる。慌てて彼らを見渡せば、皆一様に青白い顔色をしていた。
この異様な事態を考えれば、確かに街へ一旦戻ったほうが良いかもしれない。今やるべきことは親睦を深めることなどではなく、情報を集めることだ。
私もそう結論付け、頷き返そうとして――――、
「……え?」
目の前が、体が、青白く染まっていた。体の底から浮き上がるような感覚が迫ってくる。
これは、“あの日”と同じ感覚だ。あの、チュートリアルの会場へと強制的に飛ばされた時と。
「キカ!!」
青い光が一層強くなった刹那、エギルのがっちりとした腕が伸ばされる。私はそれを掴もうとして、しかし、叶うことはなくフッと視界のすべてが青でいっぱいになった。
* * *
ピーチチ、チチチ。鳥たちの囀りが、聞こえた。
知らず知らずのうちに閉じていた瞼を少しずつ持ち上げると、最初に飛び込んで来たのは深い緑だった。その次に、茶色。
そこでようやく、ここは森の中なのだということを理解する。
「こ……ここは……?」
見たことの無い場所だった。そりゃあ行ったこと無いエリアくらい当然あるだろうが、それにしたって不思議な空間なのだ。しかし、あんな強制移動をされた先だ。“普通”なわけが無い。
状況に呑まれたせいでいくらか早くなっていた鼓動を押さえつける。大丈夫、落ち着け。こういう時こそ冷静に行動すべきなのだ。
森の澄みきった空気を深く吸いこむ。ふーっとゆっくり吐き出しながら、辺りを見渡し始める。
木々が覆い茂り、前も後ろも道とは言えない道が続いていた。一応道から逸れて森を掻き分けて進むことも出来そうだが、先に行けば行くほど暗く、何があるのか全く見通せない。また、目視した限り複雑に木が乱立しているようで、最悪迷ったら出て来られるのか不安だ。ここは、素直に開けた道を歩くべきなのだろう。
試しにマップを開いてみたが、案の定というか、自分が立っている周辺以外何も表示されていない。マッピングしろということなのだろう。無言でウィンドウを消す。
耳を澄ませば、演出であるはずの鳥たちは楽しそうに歌っていた。色鮮やかな彼らは自由に飛び回っていて、思わずため息をつきそうになる。青々とした葉がまた一枚、静かにひらりと舞い落ちていった。
「どうすればいいのだろう……」
どこかを目指せばいいのか、それとも何かを見つければいいのか。イベントかクエストである可能性が高いというのに、肝心のストーリーは一切進まない。かといってアナウンスも無い。右下のログは完全に沈黙しており、八方塞がりだった。
……もし、もしこれが何かのバグだとして。同じ現象に陥った人はいるのだろうか。というか、この普通では無い世界で、そんなバグを修復出来る人はいるのだろうか。そもそも気付ける人がいるのだろうか。
普通のゲームであるならば、GMに連絡するのが常套手段であろう。しかし、今のこの世界で、果たしてそんなものが機能しているのだろうか?
「……ッ」
電流のようなものが足先から頭のてっぺんに目掛けて駆け抜けた。
もし、マップのどこに存在しているかも分からない場所にいるのが、私一人だけだとしたら? エギルたちが街に戻っても、この現象を誰も聞き入れてくれなかったとしたら? 他に突然消えた人がいたとしても、プレイヤーにはどうすることも出来ない問題だったとしたら……?
「まさか、このまま……」
先ほど消したばかりのウィンドウをもう一度表示させ、メッセージ作成画面を出してみる。だが、予感していた通り、送信ボタンは押せなかった。それは、ここがどこかのダンジョンであるということを意味しているのか。はたまた、通常であればプレイヤーが侵入出来ないようなエリアへ来てしまったということなのか?
嫌な予想ばかりがどんどん膨れ上がっていく。頭を振って払拭しようと試みるが、消えるどころかますます強くなるばかりだ。平静さを維持しようとすればするほど、手足が冷えていく。思考が絡まり、まともに働いてくれない。
こんなの、私でも対処法を知っているわけないじゃないか。
「……はぁっ、は、……っ、ぁ」
目の前が真っ暗になった気がした。ぐわん、と大地が揺れる。
――――駄目だ、駄目だ駄目だ。冷静になれ。乱されるな。落ち着け、考えろ。慌てたらそこまでなのだ。何も進展せず、事態は悪化するだけなのだ。だから、鎮まれ。
「仮にここがダンジョンだとして……、普通のマップを繋がっていたとするならば、もしかしたら知っている道に出るかもしれないわ」
“もしかしたら”を多大に含むその仮定を、自身に無理やり飲み込ませる。ねじ込ませる。
……そう、それならば、ここに留まっていても仕方がない。とりあえず歩こう。幸いマップ機能は動いているだ。スタート位置に戻って来ることは出来る。
己に言い聞かせ、そろりと足を踏み出した。どっちへ行こう。どちらが正しいのだろう。前か、後ろか――――。
早くも迷いが生まれて眉を寄せる。が、その瞬間、ガサリという、私が発したものではない物音がいやに鮮明に耳を打った。間髪入れずに振り返ると、私と目が合ったそのプレイヤーは口をあんぐりと開けていて。
「……き、キカちゃん!?」
何かこのシチュエーション、昨日もあったような気がする。
そんな的外れなことを思った瞬間、全身の力が抜けてその場にへたり込んだ。ひどく狼狽した顔でこちらへ駆け寄ってくる姿を両目で捕えながら、金色の青年の名前を呟く。
「……ネージュ……」
ああ、なんてことだろう。足が、力の入れ方を忘れたと言わんばかりに動かない。
私へと差し伸ばされる優しくて大きな腕を、ぼうっと見上げていた。