真・恋姫†無双~現代若人の歩み、佇み~
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第一章:大地を見渡すこと その参
「信じられないわ・・・・・・」
日の光は完全に西へ落ち、赤く光っていた空は今は星々と月の光によって美しい輝きを放っている。雲はゆるやかに流れ時折月の表情を隠すが、隠れていてもなお自らの神々しさを地上へ届けるようかのように光る月は、えにもいわれぬ美麗さを感じさせる。
それらの光を一身に受けるのは、とある地上の町。その町の一角の宿にて心を尽くされた料理に舌鼓を打つ者達が居た。赤い光の中で行われた男による賊狩り。人の口には戸が立てられぬものであり、噂はすぐに町中に広まった。それが実際に行なわれたと知って町の者らは驚き、更に行ったものは若い青年ともだということに再度驚いた。中にはそれが『遊びの仁』だという事に驚きを隠せぬ者も居た。流石に思うは、噂をすぐさま流布させる商人の口の軽さである。これを持成すことは近頃落ち込み気味だった町を俄|かに活気だたせ、尚且つこれを気に財布の紐を緩める者がいるかもしれない。前者は主に町の者達が、後者は商人を中心とした者達が互いの利害を一致させ、この町の宿でも、高級の位に位置に値する場所にて宴会を開いたのである。
主役の仁ノ助は飲み食いが初日に限って食事代・酒代・宿代がタダ、助演の女性は酒代・宿代のみタダということで落ち着くことに、自分達の懐が寂しい民衆の金銭に対する熱い心が見えている。そんな中で開かれた宴会には二人の予想を反して、一介の町人らが用意できるとは思わない中々に見事な料理が出てきた。
それを見た感想の一つが先ほどの台詞であることは、しっくりとくるところである。
「ハフッハフッ・・・・・・信じられないわぁ・・・・・・ズズッ・・・・」
「「・・・・・・・・・・・・」」
再度毀れだした同じ台詞に、仁ノ助と料理を作る主人は信じられないような目を向ける。
よくよく考えればその台詞は正しいかもしれない。仁ノ助はただ一人で馬中の敵の中へ飛び込んで、うち三人を馬上にて殺したのである。その結果もさることながら、過程にいたってはまさに信じられないの一言に尽きる。疾走する馬の足をすれ違いざまに斬り払い、迫ってくる馬上の敵へ跳躍して剣を突き刺し、さらには馬同士で交差する瞬間にさらに一人を殺す。彼にとっては長年の経験から考えるの『たったこれだけのこと』であるが、はっきりいって無茶苦茶な所業である。
一般的な兵士はそもそも飛ばない。というよりも、馬上の敵と正面きって対峙することのほうがよっぽどおかしい。何よりも賞賛され、そして吃驚する事は、仁ノ助が怪我らしい怪我を負っていないという事だ。油断一瞬怪我一生ともいうように、僅かな怪我から死に至ることだって十分にある。特にこの時代は医療の発展があまりされてなく、怪我や病を負えば現代でいうところの漢方を飲ませるのが普通だった。もしも矢傷を負ってしまえば、それが原因で破傷風にかかってしまい死に至ることも、この時代では一般的なことであった。『経路』という目には見えないルートが全身をめぐって、気や水や血の流れを起こしている。これが滞ることこそ、すなわち不健康の象徴なのである。『中国医術の基本的考えは、悪いところを取り除くことや症状を抑えることではなく、身体のバランスと保つことである』という、陰陽五行論より発展された考えがここに現れている。そんな中で無傷で戦いを切り抜けた男が居れば、さぞ信じがたいことであることは疑いようがない。
女性はうんうんと頷いて、目の前の食机に置かれたラーメンに自己の姿を認めた。
スープの表面は程好く入り交ざったメンマが散らばり、チャーシューはよく焼かれて、スープに麺とよく絡むような肉脂を注いでいる。主役の一つである麺は先ほど味わったところ、スープの出汁をよく吸い込んでいるのが分かり、一口二口を噛み締めるほどに口の中に言葉にいえない満足感を広げる。チャーシューと共にかきこめば、肉の旨みが麺のこしと非常にマッチし、この世の天国を脳の中枢に思い描かせる。噛めば噛むほどに旨みが広がる味わい、これを知らぬ者ほど世で悲しいものはいない、彼女にそう思わせるほどに十分なくらいであった。極み付けはもう一つの主役であるスープだ。真の主役ともいうべきだろうか。わざわざ貴重な鶏を卸して出汁をとり、葱やしょうがを入れてさらに独特の味わいを作る。口腔に広がる暖かでこってり、それでいてキツくないスープ。汁に浮かんだ刻み葱がスープの味を飽きさせることを許さない。口に含めば誰もが必ずや目を見開くことであろう。次いでその完璧な味に頬を緩ませることであろう。女性もその類をもれず、スープをみつめて目尻と頬が緩んでいき、だらしない表情を作った。「またこれを飲めることになろうとは、私は世界一の果報者であるに相違ない。」ともいうように、女性はラーメンが入った器を手にする前に一瞬間を置き、考え改めたか手に箸を握り締めた。スープだけでは腹が満たない、合間合間に麺を食べることも忘れてはならない。女性は新たな標的に目を光らせ、思わずつぶやいてしまう。
「信じられないわぁ・・・・・・」
「それはこっちの台詞だ!!!!」
弾かれるように仁ノ助は椅子から立ち上がって改心のつっこみを口に出す。店の主人はうんうんと首を頷かせていることから、つっこみたいことはこちらにとっても同じらしい。
女性は至上の喜びを味わう行為を邪魔をされたことに目をぱちくりとさせながら、思わず仁ノ助の目を見つめた。数瞬ののち、頬が緩みが解かれて目には困惑の色を浮かべた。
「・・・・・・・・・もしかして、麺が真の主役だった?」
「そこが聞きたいんじゃなくて、こっちがつっこみたいのはお前の食う量だ!!!」
思わず自らが食した料理の数々を脳裏に想起し、それが盛られていた皿がタワーのように積み重なっていることを思い出し、そちらへ思わず目をやった。皿の数は種類を問わず大小含めて優に十五は下らないだろう。積み重ねられたそれは見事なバランスを保って机に鎮座している。
自らの戦果を誇るかのように鼻を鳴らして、自信満々に再度仁ノ助を見た。
「何驚いているのよ?こんなのまだまだ序の口よ」
「頼むからそろそろやめてください。お願いします、詩花様。」
先も説明したが、彼女の食事代は自腹である。二人で食べている立場上、料金の請求先に自分も含まれている事は明らか。もうこれ以上食われたら生活必需品すら買えない。
頭を垂れて腰をほぼ90度に曲げる彼を見て、自信気に満ちた顔に苦笑いを浮かべる彼女の名は錐琳|《すいりん》、真名は詩花|《シーファ》という。
先ほどの戦いに感謝の意を伝えた彼女に対し、「当然のことをしただけです。それよりも貴方が無事で何よりも良かった。」と返した仁ノ助に、謙虚な心を見出した彼女はいたく感動し、自らの真名をあっさりと告げたのである。当然そのあまりに軽い動悸に驚いて受け取れないと断ったが、斬り捨てた賊共の攻勢が馬鹿馬鹿しく思えるほどの熱意で迫られ、不承不承という感じに受け取ったのである。「この女は放っておくと行く先々で変事に巻き込まれそうだ」という、確信めいた思いがこの時、彼の心に自然と出た事を補足しておこう。
なんやかんやで食事を交えながら話をするうちに、口調から丁寧さが取れて地が出てくるまでに仲が良くなった二人は、店の主人から振舞われる料理に舌鼓を打っていた。
(にしても、近くで見るのと遠くで見るのとはぜんぜん違うな)
頭を上げて椅子に座り直す彼は、またラーメンに視線を注いで目を輝かせて口のか端から涎が毀れんばかりににやつく彼女を見詰める。
目元は柔らかな性格を携えるが如く作られており、今デレデレとしている眉は平時のときでは穏やかなカーブを描き、戦時には凛とした目つきを支えることを彼は両方とも知っている。目は大きく可愛らしい印象を十全に表し、鼻立ちもよく整っており美しさを欠かすことをない。赤い髪は全体的にショートカットに切られており、ボーイッシュでありながら自らの可憐さを強調している。町を歩けば十人中八人は彼女を見つめ直すであろう、そんな優れた容姿の者の特権を持つ一人が彼女であった。
ラーメンをかき込む姿すら思わず可愛いとも思えてしまう自分に呆れながら、仁ノ助は目を頭上にやって今後の自分の行動を考え始めていた。
「んじゃ、今は一人旅の途中ってわけなんだ・・・。ふ~ん、てっきり仕官先を探して大陸を歩き回っているかと思ったわ」
「仕官は確かに考えているけど、それはまだまだ先の話だな。今は旅すがら、大陸の情報収集を中心としているよ」
宴が終わって夜が更けて月の光が真上から差し込もうとするころに、二人は体験談を交えた昔話をして退屈を紛らわせていた。
二人は既に着心地の良い寝間着に着替えている。無論互いが着替えるところを見せても見てもいない。仁ノ助は詩花のその姿を見てスタイルのよさに目が奪われた。
世の男共が必ずその手に抱きたくなるであろう、特別大きくはないがそれでも豊かといえる胸に目がいってしまう。腹部と腰が鍛えられて引き締まっており、胸の大きさを控えめに強調している。臀部|《でんぶ》は肉付きがよく引き締まり、女性達がうらやむ色気を見事に出している。普段着の活発さの印象が強かったために、寝台に横たわる彼女から発せられる大人の色気が逆に新鮮であり、豊満な肉体を意識しないように努めようとする。
彼にとって不運なのは宿主の粋な計らいによって同部屋となったことだ。しかも大きめな寝台が一つだけである。詩花は無邪気に喜んでいた。「遊び人なら据え膳も食っちまえ」とニヤつきながら去っていった主人と、彼女の秘密の色気を知らなかった自分に思わずいらっとしている仁ノ助は、自らの緊張を紛らわせるかのように自分の体験談を面白可笑しく語っている。
この男、遊びの何とかといわれている癖して、未だにCherry BOYな一面を持ち合わせている。そんな仁ノ助の助平な葛藤を全く知らず、詩花は男の話を表情を二転三転変えながら興味深く聞いている。男の生々しい戦いの経験を聞けば顔を顰|《しか》めて、英雄もかくやといわんばかりの冒険譚を聞けばわくわくと続きをせがみ、食事代を払えずに皿洗いと店掃除をした情けない過去を聞けば間抜けな人だといわんばかりに腹を抱えて笑う。豊かな百面相に心打たれたのか、仁ノ助もついつい話を盛り上げていった次第であった。
彼女との話は延々と続くかと思ったが一つの疑問が仁ノ助に湧いて出た。
「そういや俺ばっかり話してたな。次は詩花の話が聞きたい」
自分ばかりの話では流石にネタも尽きてくる。会話が途切れてしまえば後は寝るだけになってしまう。それを避けるために、話す主体を入れ替えることにした。
突然昔話をする羽目となった詩花は、「あー・・・」と言いながら気まずそうに頭を掻いている。何やら彼女の虫にさわるようなことを言ってしまったらしい、そう思った仁ノ助は若干慌てながら会話を続ける。
「あ、いや、別に無理に聞こうってわけじゃないんだ。ただ俺ばっかり話すと飽「・・・の。」きて・・・え?」
言い訳に被せられた詩花の言葉に疑問符がついた言葉が漏れ出す。
「えっと・・・今なんて?」
「・・・・・・・・・出なの」
言い直した彼女の頬が若干の羞恥心を帯びて赤くなる。目は仁ノ助を方を見つめようとせず右側を向いて泳いでいる。
それでも完全に言葉を理解するには彼女の言葉は小さすぎた。改めて言ってもらうともう一度願いを口に出す。
「今・・・なんて?」
「いいいいい、家出なの!!!!!!!!」
完全に熟れた果実のように赤くなった顔を強調するように目を閉じた彼女は、思わず部屋中に広がるように叫んでしまう。羞恥心で心も頭もいっぱいいっぱいになり、嗚呼嗚呼と訳の分からぬ言葉を口に出しながら枕に顔を埋め始める。仁ノ助は二の言葉も継げず呆然としてしまう。昼間、あんなに一生懸命だったのは家出が最終原因?
思わず肩の力が抜けてしまい、溜息が漏れそうになる。しかし漏らしてしまったら最後、彼女にさらなる恥をかかせることになってしまう。それは幾らなんでも酷だ。そう思い、励ますような口調で話しかける。しかし口に出てしまったのは励ましの言葉ではなく好奇心であった。
「・・・・・・なんでか、聞いてもいいかな?」
「・・・・・・・・・・・・あたしの家、小さい商家なの」
彼女が枕に顔を埋めながら言葉を零す。訳ありのようである思い出話を話してくれる勇気に、感謝の念が湧いた。
「しょっちゅう金のことばかり考えて口に出す父上に苛立って、ある日家を飛び出して、それっきり町を転々として食いつないできたの」
「・・・・・・うん」
「・・・・・・でも何処に言っても寂しくて、やっぱり帰ろうかなて思ったの。んで、帰る前にもう一度自分の勇気を試そうかなって思って・・・」
「あいつらに襲われた?」
「そう。」
深い息が詩花の口から出される。事態は思ったよりも深刻だ。父上は自らの家族のために働いているのであろう。しかし彼女の目にはそれが人に媚びへつらって頭を下げる、情けなさと不甲斐なさに映ってしまった。自分に目を向けるときには、愛情ではなく金を媒介にして見ている気がしたのだ。ありのままの自分が父親の目に映っていないと思ってしまった彼女は、嫌気がさしてこのような事を起こしたのである。今更帰ることは彼女の思いを無駄にするようでもあるが、父親が彼女の行方を捜しているとしたらそれもまた心配である。
仁ノ助は思わず悩む。だがいくら待ってもそれらしい答えが出てこない。彼はあえて言葉を口にせずに、彼女の独白を待った。やがて彼女がまた溜息と共に言葉を紡いだ。
「……あいつらは初めはあたしが乗っていた金毘|《きんび、愛馬の名前》に目をつけて、次にあたしの体のほうに目をつけたの。気持ち悪い顔でにやついてきて、怖くなって金毘を思い切り走らせて逃げたら追いかけてきて……」
「そして町につく手前のところで、俺と出会ったと」
詩花はその時の賊の笑みを思い出すだけで不快なのであろう、不快感と怒りがない交ぜとなった雰囲気が彼女から発せられる。
だが彼女にとって運が良かったのは、事態の打開に幾つもの幸運が重なった事だ。賊どもが乗っていた馬は駄馬だという事、愛馬は足の速さは良馬と比べれば劣るが体力はそれ以上にある事、賊共のいづれもが騎射ができる腕前ではなかった事、そして賊共が彼女の追跡を中断する強い理由が存在した事だ。いづれか一つの理由が欠けていれば、彼女の身が危険に晒される可能性が著しく上昇していたであろう。この時代を生きるには実力以上に運も重要であることが如実にわかる。
先ほどまで部屋の中に存在した暖かな空気が沈黙によって床に沈溺する。今場を占めているのは気まずげな重い空気。次に何を話したらいいかわからぬ仁ノ助は、彼女に顔を見られていないのをいいことに、顔をはっきりと曇らせて唸りながら新たな話草を探している。対する詩花も自分の話が終わった事を沈黙によって意思表示している。
やがて彼は何も思いつかなかったのか、不自然な口調で始まりながら話題を強引にを転換した。
「……そ、そいうえば、俺明日にでも買い物を済ませて、明後日の朝には町を出ようと思っているんだ」
「……」
「…ええっと、商人の人達に旅で得た小道具やら情報やらを売り買いしてな、衣服とか武器とかを新調するのが予定なんだ」
身振り手振りおどおどしながら彼が話していく。
彼は昔を振り返るに、ここ半年は洛陽からほぼ真東、徐州刺史陶謙が治める地より西の方へと向かってゆっくりと歩みを進めてきた。途中途中の町村で日雇いの仕事や短期の荒事を中心に金稼ぎを行っていき、また人の依頼にしっかりと付き合ったりしながら時を重ねてきたのだ。このような拙速な行動をしてきたのは、彼の知識にある出来事が思い当ったためでもある。
昨年の夏の終わり、旧暦の6月頃に、日南郡南方諸国から使者が参上し、洛陽にて饗応|《きょうおう》がされたとのことが商人らから明らかとなったのだ。
覚えていることが未だ正確であれば、あと一月もしないうちに太平道大方の地衣にある、馬元義が中常侍の封?・徐奉らと内応するも教団内部からの密告で事が露見し洛陽内で車裂きの刑に処される筈。同時に綿密な取り調べにより張角の道術を行っていた者千人以上が処刑され、張角に対する拿捕命令が下され、これに対して張角は予定していたより一月早い二月に決起をするのだ。この一連の動きによって遂に『黄布の乱』が起こされて、中原全土に戦禍が広がり次の重要な出来事である、対董卓連合軍結成の下地が出来上がる。自らがこの乱世の中心に飛び込む気は大して無いが、それでも現代にまで伝わる三国時代の幕開け、そして決して滅びない数々のドラマを生んできた英傑たちとの邂逅。図らずともこの渦中に自分が参加できるまたとない機会であることは明らかである。仁ノ助の内心は戦禍を憎む気持ちよりも、それらに対する憧憬や好奇心を中心とした興奮が占めていた。「もしかしたら自分が彼らのような大人物となるかもしれない、はたまた彼らの下となって戦うことになるののも悪くは無い。それ以上にこの時代を自分の力で生き抜きたい。」
これらのことが彼の脳裏を強く占められており、彼が『遊びの仁』となるまでに活躍してきた最大の理由でもあった。
その彼の心を未だ知らずに枕に顔をうずめる詩花。彼が自分の予定をあーだこーだいううちに、彼女を覆う雰囲気から棘がとれてくるのが感じられた。
ひょっとしたら先ほどの不快感が消え去って、自分の話にまた耳を傾けているのか。
(よし!これで大丈夫!)
彼は安堵感を胸に自らの話を続けようとするが、その意をなにかの健やかな息が挫いた。不意を打たれたように口を動かそうとするのを止めて、首を傾げて詩花の方を見る。顔は枕にうずめることをようやくやめて横を向いている。胸が健康であることを示すように呼吸音とともに上下に動いている。自分の疲れを癒すために口から幸せそうな息が洩れる。
(あれ?)
頭にわいた疑問を解消するために、寝台に横たわる彼女の表情を確かめることを顔を覗き込む。そしてそれを確かめると、頭に片手を置いて思わずため息を出した。詩花は既に寝息を立てていたのだ。安心しきって気持ち良さげに眠る彼女を起こすような、邪推な真似をする気は毛頭無かった。色々な町を回ってきて路銀を稼いできても、今日のように暴漢達に命からがら追われる事は惹起してこようとしなかったのであろう。体の内にはぬぐいがたい疲労が鬱積し、それが今不快感とと共に吐き出されて眠気がきたのだ。
(まぁ、別にいいか。)
疲れている体をゆっくりと休めることもまた喜びの一つである。今は静かにして置いてあげよう。そう思った仁ノ助は彼女が眠る姿を見て頬を緩める。今日一日で驚くくらいに色々な姿を見てきた気がするが、今の姿は案外彼女に一番似合っているのかもしれない。何をするわけでもなく、ただぼおっと体を伸ばして羽を広げる姿。乱世に向かって飛び込むには今少し時を過ごしてより成長する必要があるだろう。彼女に風邪を引かないように布団をかけ直す。
少しも身じろぎしないことからぐっすりと眠っていることがわかる。そこまでのことをして、ふと肝心なことを思い出した。
(・・・・・・食事代、明日払うことになっていたんだっけ・・・・・・)
宴の食事代だけで既に彼の持ち合わしている金銭を軽くオーバーしている。商人と売買を行ってもひょっとしたら足りないなんてこともありうるかも。思わぬ頭痛を覚えてしまった彼は恨めしげに詩花を見るが、怒る気がしてこなかった。寧ろ彼女の今後の行動が心配にってきている。
目を僅かに覆う髪の毛を掻き揚げてやると、彼女は少しみじろぎをした後に口元が僅かに和んだ。よく眠るものだと感心しながら、彼は彼女に背を向ける形で寝台に横になった。無防備に眠っている女性を襲う趣味は彼には無いが、それでも自分の後ろに可憐とも美麗ともいえる女性がいることにドギマギとする。今夜は熟睡するのに一苦労しそうだ。月の黄色い光が部屋の中を煌かせる中で静かに寝息を立て、集中して眠る努力を始めた。
天下を襲う津波は未だ彼らを飲み込んではいない。
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