ソードアート・オンライン 穹色の風
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アインクラッド 後編
星降る夜に、何想う
「というわけで、お願い! インゴット取りに行くの手伝って!」
「あのな……」
呆れて大きな溜息をこぼしたマサキの目の前で、エミが両手をパチンと鳴らしつつ頭を下げた。
マサキの生活習慣は現実世界での仕事柄かなり不規則だ。仕事の進捗次第で徹夜もするし、かといって完全に夜型というわけでもなく、用事があれば朝早くにも起きる。SAOの住人になってからは仕事に左右されることはなくなったが、数年続いていた生活習慣を簡単に変えるのは難しく、また変える必要も特に感じなかったため、マサキの生活は今もあまり規則正しいとは言えない。もっとも、トウマと行動を共にしていたこともあり、大体朝には起きて夜には寝る、という程度にはマシになったが。
そんなマサキだが、昨日はいつもより遅くまでフィールドに出ていたため、朝目が覚めたのも遅めの時間帯となり――マサキは現在、このことを心から後悔している――。今日は特に用事もなかったためにゆっくりと朝食か昼食か微妙な食事を摂った後、コーヒーを飲みつつ頭を覚ましていたところにエミがやってきてしまった。後は、冒頭の通りである。
「……何で俺なんだ」
「わたしが知ってる中で一番強い人だもん。それに、ギルドにも入ってないから融通きくかなって」
テーブルに頬杖をつき、不機嫌そうな視線で威嚇しつつ尋ねるが、エミはけろりとした顔で言い放つ。
「キリトとアスナは」
「二人とも今日は用事だって」
「そもそも、手伝ったところで俺に何のメリットがある?」
「これから一週間、マサキ君のお昼御飯がエミさん特製弁当にグレードアップ!」
「勘弁してくれ……」
朗らかに告げられた罰ゲーム以外の何物でもない予告に、マサキは嘆きながら椅子の背もたれに倒れこんだ。前髪をかき上げると同時にわしゃわしゃとかきむしりつつ、目線だけをエミに投げる。相も変わらぬ人懐こい笑顔の下に、噛み付く力は一トン以上と言われるワニですらパニックを起こして逃げ惑うレベルの獰猛な牙を隠しているのだから、人間の女というのは実に恐ろしい生物である。
マサキは椅子に深く腰掛けなおし、頬杖をついていた右手で今度は額を覆うように支えた。「昼食が」などとうそぶいてはいるが、この女がそれだけで身を引くものか。それをきっかけにその後の攻略や、晩飯にもちょっかいを出してくるに違いない。……端から見たら、アインクラッドでは珍しい美味い飯が美少女のオマケ付き――逆だろうか――でやってくるのだから、むしろ一石二鳥と思われるだろう。ちなみに、面と向かってそう言ってくる奴を見かけた暁には、マサキは喜んでその二つを譲ってやるつもりでいる。浮かれて手を出したが最後、腕までガブリと食いつかれること請け合いだが。
というか、そもそも何故マサキなのだ。彼女なら、もっと見た目も中身もいい男を幾らでも漁れるだろうに……。
「……弁当はいらん。それと、一々押しかけてくるのは止めろ。どうしても用事があるのなら、アルゴを通じてメッセージを送れ」
「それじゃあ、付き合ってくれる?」
「……それが守れるなら、な」
「やたっ! じゃあ、夜の九時に迎えに来るね!」
マサキが渋々頷くと、エミは顔をぱぁっと綻ばせてバネのように勢いよく立ち上がり、タタタッと軽い足音をたてて走り去った。と思ったら、閉める寸前だったリビングの扉から彼女の頭部だけがにょきっと生える。
「あ、そうそう、今ならサービスで今日の晩御飯が――」
「帰れ」
「ちぇ、せっかく新しいメニューを覚えたのに。……じゃ、お邪魔しましたー!」
エミの頭がリビングから消え、直後に玄関のドアがバタンと閉まる。ようやく出て行ったか……と、マサキは溜息を一つ。
しかし、まだ安堵はできない。彼女が今後アルゴを通じてアポを取るようになったとして、今日のような奇襲は避けられるようになるかも知れないが、その代わりタチの悪い鼠に恰好のゴシップを流してしまうことになるのだから。
マサキは頬の三本線を意地悪く波打たせたアルゴの顔を思い浮かべてげんなりしながら、テーブル上のポットから二杯目のコーヒーをカップに注いだ。気が乗らない脳みそをブラックの苦味で強引に回転させ、エミをより遠ざけるための次なる一手を考える。
カップの中身を半分ほど飲んだところで、ふと部屋の隅に設置された扉つきの棚に目をやった。アイテム類を保管できるインテリアだが、装備をもうずっと更新していないマサキにとってはあまり使う機会がなく、予備の回復アイテムや転移結晶を入れてあるだけのもの。それでもフロアボス攻略戦に赴く前と後に回復アイテムを補充するため、一週間に一度ほどは触っているのだが、棚の上に伏せられている一枚の写真立てとその周辺だけは、もう四ヶ月近くも触っていない。
……いや、まだ四ヶ月、か。
マサキは遠くを見るようにその写真立てを眺めながら、口づけたままのカップを再び傾けた。――こうやって、誰かの無茶ぶりに付き合わされるのも悪くない……そう思えていた時期が、自分にもあったな、などと考えつつ。
第四十八層は、層の殆どが一つの巨大なクレーターにすっぽり覆われている階層だ。その深さおよそ数百メートル、直径に至ってはおよそ七キロ強という凄まじい大きさで、僅かに残ったマップの端は山岳地帯になっている。殆どが岩地で構成されており、主街区はクレーターの縁から漏れ出た小さな川が底で合流して作った湖の中心に存在するのだが、迷宮区がクレーターの外側にあるために攻略パーティーは漏れなく険しい山登りとクライミングを存分に堪能させられる辺り、マップをデザインした人物の性根の悪さが滲み出ている。
閑話休題。クレーター内で最北端の村に転移したマサキたちが、更に北へ向かうこと数十分。切り立ったクレーターの側面にぽっかりと口を開けた洞窟が、今回の目的地であるフィールドダンジョン、《星空の回廊》であった。
このダンジョン、インゴットや各種鉱石の採掘ポイントが存在し、出てくる敵はゴーレム系が殆どと、全体的にはごく一般的な洞窟系ダンジョンなのだが、一つだけ異質な点があった。それは――
「綺麗……」
ダンジョンに入った途端、隣を歩いていたエミが足を止め、うっとりとした声を漏らしながら頭上に光る無数の光点を仰いだ。
――これが、このダンジョンの異質な点。ずばり、《星》が見えるのである。とは言っても、実際のもの――プログラム上の定義という意味で――ではない。洞窟の天井をびっしりと覆ったクリッター(背景扱いの小動物)のワームが青白く発光していて、それが星に見えるというだけのことだ。とは言え幻想的であることに間違いはなく、基本的に星というものを見かけないアインクラッドにおいては殊更貴重な光景と言える。
「さっさと行くぞ」
「あ、うん。ごめんなさい」
すっかり見惚れていたエミに声を掛け、探索を促す。彼女がこの《星》の正体を知っているかは分からないが、あえて口に出す必要もあるまい。
洞窟の探索自体は、何の問題もなく進んでいった。現れたゴーレムが攻撃モーションに移る間もなくマサキが蒼風で貫けば、エミ大振りの攻撃を易々と回避して、できた隙を逃さず出の早いソードスキルできっちり仕留める。精々が四十八層のフィールドダンジョンを攻略組二人で進んでいるのだから、当然といえば当然だが。
しかし、目的のレア鉱脈は行けども行けども見つからず。マップを文字通り隅々まで歩き回り、ボスモンスターが控えていた大部屋を探査してもヒントすら発見できなかった。もちろん二人も、事前情報からその鉱脈がある部屋に行くには何らかのギミックを解く必要があるのではと考えていたのだが、そもそもそのギミックらしきものが存在しない。高いハイディングレートで隠されている可能性も鑑みて《索敵》や《罠看破》スキルを使ったりもしたのだが、二人のスキル値をもってしても反応はなかった。これには他プレイヤーへの援助で数多くのダンジョンに潜ってきたエミもお手上げのようで、探索は早くも暗礁に乗り上げてしまうこととなった。
「うーん、見つからないねー……」
二人は一度安全地帯まで戻ると、その一角に腰を下ろした。何故かマサキのすぐ隣に体育座りで座ったエミが、ぐーっと両手を頭の上に上げて伸びをする。
「……何故そこに座る」
「え? だって、向き合って座ったら、今わたしスカートだから下着見えちゃうし。……見たかった?」
「もっと遠くに座れという意味だ。第一、イエスと答えたら、見せるのか?」
「答えてみたら?」
「やめておく。恐ろしい」
マサキが肩を竦めて答えると、少々小悪魔めいた表情だったエミがくすりと破顔する。
「あ、そうだ、コーヒー飲む?」
「持ってきたのか?」
「ここで淹れるの。そっちの方が美味しいかなって思って。これでも、料理スキルのおかげで結構美味しく淹れられるんだよ?」
そう言いながら、エミはストレージから二つのマグカップとランタン等の機材を取り出し、得意顔で床に並べてみせる。てきぱきとした動作で湯を沸かし、マグカップの上に置いたドリッパーに注ぎいれると、すぐに芳醇な香りが漂ってきた。
「はい、どうぞ」
手渡された金属製のマグカップを受け取って、一口。まろやかな苦味と一緒に、じんわりとした温かさが身体中に染みていくのを感じた。装備品のおかげで暑さ、寒さにはかなりの耐性を得ているマサキだが、だからといって体感温度が全く変化しないというわけではない。また、このフロアは平均気温が低めに設定されていることもあって、六月といえど温かいものは素直にありがたかった。
「どう? お味は」
「ああ、十分だ」
「良かった」
ほっとしたように笑い、自分もカップに口をつけるエミ。その横顔を、ランタンのオレンジ色の光が穏やかに照らす。
「そういえば、マサキ君は料理スキル取ってるわけじゃないんでしょ? あんなに美味しいコーヒー、どうやって淹れたの?」
それからしばらく二人は無言でマグカップを傾けていたが、カップに入ったコーヒーの殆どを飲み干した頃、エミが白い息を吐きながら訊いてきた。マサキはちょうど口に含んでいた分を飲み下してから答える。
「あれは俺が淹れてるんじゃない。あの味のコーヒーが出てくるポットを持ってるだけだ」
「そうなんだ?」
エミは驚いた声で言った。マサキが頷く。
彼女は左手だけで持っていたマグカップに右手を添え、視線を落とした状態で何かを考えるように動かなくなった。二人の間を沈黙がしんしんと流れていく。
「……でも、あの時のコーヒーがあんなに美味しかったのは……やっぱり、マサキ君が淹れてくれたからだと思うな」
やがて、エミが胸元に抱くように持ったマグカップを見つめたまま、ぽつりと呟いた。「何を馬鹿な」とマサキが言いかけるが、直前で踏み止まる。
まるで我が子を抱き締めているかのような柔らかな優しさが、彼女の横顔と、どこか遠くを見るようにほんの僅か細められた目元にランタンの光で揺らめいていて。今の彼女にそれを言うのは何となくはばかられるような気がして、マサキは仕方なく、喉奥で止めていた言葉を白く塗りつぶして吐き出した。
暫し、不思議な時間がマサキたちを包んでいた。お互いに言葉はなく、しかし重苦しい居たたまれなさがあるわけでもない、羽毛のような心地良い沈黙。少しでも風が吹けば、たちまち吹き飛ばされてしまいそうな。
しかし――否、だからこそ。マサキの中で彼女に対する警戒心が鎌首をもたげ始めていた。
思えば、第一印象はお世辞にもいいと呼べるものではなかった。彼女にとっての自分だって、そうだっただろう。
それが、いつの間にか、週に何度も鉢合わせするようになり、彼女が家に押しかけてくるようになり。あまつさえ、こうして今、二人でダンジョンに潜っている。冷静になって振り返ってみれば、おぞましさえ覚えるほどだ。
なのに、何故。自分は、今まで彼女を遠ざけようとしてこなかったのだろう。
何故彼女は、自分などと一緒にいるのだろう。
ちらりとエミに目をやると、マサキの心情など知る由もない彼女が、空になった二人分のマグカップをストレージの中にしまいこんだところだった。彼女は座ったまま、マサキと肩が触れそうな距離まで近寄ってきて、黒のソックスが包むすらりと伸びた両脚をスカートごと抱きかかえる。そして、天井から垂れ下がった数多の星々を仰ぎ、歌うように口を開いた。
「わたしね、最近思うの。アインクラッドって、こんなに綺麗な世界だったんだ、って。……おかしいよね、もう一年以上もいるのに」
彼女はくすりと笑いをこぼすと、抱えた両膝に乗せた顔をこちらに向ける。
「でも、最初はただ、寂しくて、怖くて……景色なんてまるで目に入らなかったのが、マサキ君にシリカちゃん……色んな人と出会って、無理しなくてもいいんだって気付いて。そうしたら、今まで見えてなかった綺麗なものが、全部見えるようになった。透明な水がどこまでも続いてそうな湖も、ふかふかの芝生が生えた草原も……だから今、毎日がすごく素敵で、楽しいの。……マサキ君のおかげ、かな?」
「……何を、馬鹿な」
――不味い。
背筋を危機感が駆け抜けていくのを感じて、マサキは穏やかな光を湛えた二つの瞳から、逃げるように顔を背けた。
目を伏せ、肺に溜まっていた空気を一気に入れ換える。膝の上で、ランタンの光に照らされたエミの脚が影になって揺らめいていた。
やや間が空いて、右肩に重みを感じた。マサキはそれがエミの頭であると瞬時に直感した。右腕が、石になったみたいに動かなくなった。
目を瞑って、息を長く吐き出しながら数度首を左右に振った。吐き出した息が、誰が聞いても分かるほどに波打っていた。
右腕が、彼女の腕に巻き取られる。
仄かな温かさが伝わってくる。今にも凍り付いてしまいそうな、底冷えする温かさが。
顔を背け、目を瞑り、耳を塞ぎ。可能な限り彼女の存在を遠ざけようとするマサキを嘲笑うように、エミの体温と感触がマサキの意識にしがみついて離れない。
折り重なる息遣い。
同期する鼓動。
惹かれ合うみたいに。
目や耳といった感覚器が顔にあることを、マサキは人生で一番恨めしく思った。もし末端に付いていれば、今すぐにでも切り落としてやれるのに。そんなものが頭部にあるから、人はそれを切り離せない。例え切ったとしても、落ちていくのは脳みその方だ。
「……マサキ君?」
「何故だ」
心配するようなエミの声を、マサキは努めて遮ろうとした。それでも耳に入ってきてしまうソプラノを掻き消すようにマサキは続ける。
「何故俺なんだ。今日だけじゃない、家にまで押しかけてくる日、食事を作ってくる日、フィールドまで付いてくる日――誰かと一緒に食事したければシリカがいるだろう、誰かと一緒に外に出たければアスナがいるだろう、いや、他にだって、お前と一緒に行動したがる奴なんてごまんといる。なのに何故、何故尽く俺なんだ――!」
息を荒げて吐き捨てたマサキは、同じ言葉を何度も何度も、オーバーヒートした思考回路に流し続けていた。
誰かと一緒にいるような人間ではないのに。
それができるような人間でも。
なのに、何故――
「……分かんない?」
同じ単語を何万回数えただろうその瞬間、まるで天使の奏でるハープのように涼やかに震えたエミの声が、熱暴走を起こしていたマサキの頭を急激に冷却した。突然我に引き戻されたマサキは、本来必要な思考力さえ失って、今まで必死に遠ざけてきた彼女を振り返ってしまう。
「何……っ――!?」
そして、振り返ったマサキの数センチ先――震えただけで触れてしまいそうな距離に、彼女の瞳があった。
システムが彼女にだけ特別製のプログラムを使っているのではないかと勘繰ってしまうほど美しい、宝石のような瞳。潤んだ表面に覚悟の光を宿したその中で、一瞬で吸い込まれてしまったマサキがひどく怯えていた。
「本当に、分かんない?」
繰り返された言葉は、現実のものだっただろうか。それすら分からない中で、しかしマサキは確実に理解していた。
彼女の言う言葉。瞳に浮かんだ感情。
それを告げられた時、自分は間違いなくその重みに耐えられないと。
――止めてくれ。
マサキは力の限り叫ぶ。しかし、どれだけ力を込めても唇は微動だにせず、掠れた息しか出てこない。既に、重圧で喉が潰れていた。
エミに抱かれた右手に、彼女の手が添えられる。
――止まってくれ。
「……わたしね、ずっとマサキ君のことが――」
頼む――!
両目を硬く閉ざして念じた瞬間、それまで全く力の入らなかった左手が反応した。マサキは咄嗟にその手をエミの肩に添えて引き剥がすと、絡め取られていた右腕を抜きながら飛び退くように立ち上がる。
「え……」
彼女が言おうとしていただろう最も重要だった言葉は、音になる寸前で驚愕に掻き消された。
静寂が二人きりの洞窟に満ちる。
マサキは震える足で立ったまま。エミはマサキの腕が入っていた空洞を抱いたまま、後ろによろめいた身体を右手で支えた状態で硬直していた。
重なっていた鼓動と息遣いは、余韻のように同じリズムで続いている。
紅潮していたエミの頬が青白く変わっていくのが微かな星明りで照らされ、それが時間の流れを証明する唯一の証拠としてマサキの両目に映っていた。
そのうちに、鼓動も息遣いも別々に分かれ。
最後まで繋がっていた視線は、それから間もなくマサキが切った。
「……辺りを見てくる」
マサキは目を伏せた勢いで身を翻した。動揺を隠せない、低く、震えた声だった。
「あ……っ」
エミの喘ぐような声から逃げるため、早足でその場を後にする。どうして走って逃げないのだろうと自問しながらも、マサキの足取りが速度を増すことはなかった。
後書き
どうでもいい話ですが、ここ十話ほど戦闘シーンを一切書いていないことに気付いて密かに戦慄しました。次は恐らく戦闘が入ると思いますのでお楽しみに。筆が訛ってないといいのですが……え? もとからヘタクソだろうって?
それはともかく、ご意見、ご感想等あると作者が喜びます。よろしければどうぞ。
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