蒼き夢の果てに
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第6章 流されて異界
第130話 赤い瞳
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第130話を更新しました。
次回更新は、
12月16日。 『蒼き夢の果てに』第131話。
タイトルは、 『太極より……』です。
「さつき、無事だと良いのだけど――」
普段は良く晴れた青空に等しい表情の彼女……なのですが、この時はまるで何かが足りないと言いたげな――この場には完全にパーツが揃っていないかのような雰囲気。まるで、隙間から吹き込んで来る風に身を立てて居るかのような表情で小さく呟いた。
そう。確かに、ここには何かが足りなかった。
「まぁ、あいつは殺しても死ぬようなヤツやない、と思う」
せやから、多分、大丈夫やろう。
かなり不安げなハルヒに比べて、お気楽極楽な雰囲気で答える俺。ただ、それまでは確かにハルヒに向けて居た視線をごく自然な雰囲気で外し、何処か遠くを見つめる形に変えた事が……俺の現在の心を口調以上に物語って終ったかも知れない。
相馬さつき。この世界では相馬家……相馬太郎良門に端を発する、と称している旧家の術者。その能力などの詳しい事は分からないが、おそらく現状での弓月さんよりも高い。もしかすると神代万結や有希と互角かも知れない能力を有して居る術者。
少なくとも俺と闘気をぶつけ合って、まったく引けを取らなかったのは間違いない相手でした。
ただ――
昨夜の事件。夜の三時過ぎに行われた犬神の襲撃の際に、有希や万結。そして、俺が施した各種の結界がすべて破壊されたのですが……。
尚、俺の結界は、身内なら自由に越える事が出来る代物。但し、身内以外は絶対に越える事の出来ない仕様。流石に朝には解除する必要はありますが、それでも事件と直接関係のない部外者にウロウロされるよりは、結界内に侵入されない方を選ぶべきだと考えましたから。
それに、そもそも、夜中に若女将の部屋の付近や、少女客しかいない客室の辺りをウロウロする人間の方が不審者だと思いましたしね。
それで、その破壊された結界。俺が施した三つの内、ひとつは確実に内側から呪符を剥がされる形で解除されていました。
そして、後のふたつは燃やされて居たので……。
平安期に関東圏で……帝に弓を引く、と言うレベルの戦の話。この事件に俺たちが関わり始める直前に相馬の姫が消える。その後、術の基本がまったく分かっていない犬神使いが何故か結界の内側に潜り込み、結界を解除して仕舞う。
何となく、この事件のカラクリは見えて来たような気がする。
ただ問題なのは、相手の目的が表面に現われている目的だけなのか、それとも――
太陽に……と言うか、高気圧に愛されまくっていて、常に明るい陽光に包まれたかのような容姿に、今は薄い翳りのような物を纏わせている彼女に視線を移す俺。
俺たちをこの地に招き寄せたのは、表面上は弓月さん。なのですが、これだけの御膳立て……例えば、弓月さんの親戚が事件に巻き込まれている。俺たちに取っては、ハルヒの口から温泉旅行がどうのこうのと跳び出した途端に始まった事件。有希が、何らかの事件が始まる可能性があると言った十二月十八日に始まった事件。そして、相馬家所縁の者に取っては、承平天慶の乱に関わりの有る事件は絶対に見過ごす事など出来ないはず。そう言う事件が起きて居る地に招き寄せられた相馬さつき。
これだけの御膳立てが、単なる偶然によって整う可能性は低い。まして、球技大会の時には、そう言う御膳立てを簡単に整える事が可能だと思える相手とも遭遇している。
もし、ヤツの目的が、犬神使いが意図して居る目的と違う場合。いや、具体的にハルヒに対して何らかの働きかけが行われる事を期待しての事件だった場合は……。
「何。何か気に成る事でもあるの?」
何を深刻そうな振りをしているのよ。本当は何にも考えていない癖に。
状況が状況だけに、普段とは少し違う対応のハルヒ。しかし、そのすぐ後に、余計な言葉を継ぎ足す事は忘れない。
……深刻そうではなくて、本当に深刻な状況と言うヤツなのですが。
有希やタバサとの行動が多かった上に、元々、俺は俺と同格や、少し年上の仲間と行動する事が多かったが故に、どうしても場の雰囲気に対する配慮が足りない面があるのかも知れない。
知らず知らずの内に、眉根を寄せて真剣な表情でハルヒを見つめていた事を少し反省する俺。
ただ、そうかと言って……。
「あぁ、そろそろ腹が減ったかな。そう考えていたんや」
この事件の本当の狙いはお前かも知れない。……などと言う訳には行かない。まぁ、俺に言われたとしても、普段の言動が冗談半分、真面目が半分ぐらいの感覚なので、完全に信用されるとは限りませんが。
ただ、この場で俺の口から出る情報は、普段の俺の言葉の五倍増しぐらいの説得力がある可能性もありますが……。
この場で、霊的な事件に対する経験が一番多いのは俺か有希。但し、ハルヒが信頼を寄せているのは、口先では何を言って居たとしても間違いなく俺。
その俺が難しい顔をして居ては彼女を不安にさせるのも仕方がない。
そう考え、場の雰囲気と自らの思考を変える為のこの言葉。もっとも、相変わらず、その場の思い付きの台詞。
但し、現実として昼飯抜きだったのは事実。
更に……。
「ほら、別行動だった万結も合流したから」
御預けだった昼飯に行くとするか。
公園の表の入り口方向からゆっくりと近付いて来る神代万結を指差しながら、そう続けたのでした。
☆★☆★☆
室内に漂う木の香り。温かな電灯色の明かり。
但し、本来はふたり以上の泊り客用の部屋は、俺に取っては広く、そして和室としては、少し冷たく感じる部屋であった。
普段とは違う意味で静かな室内。何時も聞こえているページを捲る音と、彼女の気配を感じない時間。そんな、何故か、少し重い身体に鞭を打つかのように立ち上がり、用意してあった上着を手に取る俺。
その瞬間――
「入るわよ!」
起きて居るんでしょ?
言葉が終わるよりも前に開く襖。そう言えば、廊下に面した戸の方に鍵を掛けていなかったので、入って来ようと思えば簡単に入って来られたか。
有希や万結。それに、弓月さんがやって来る可能性があった上に、今、この旅館には他の泊り客が居なかったが故に、鍵など掛ける必要はないか、そう考えて少しばかりルーズにして居たのですが……。そう言えば、コイツが居たな。
「あのなぁ、ハルヒ。もし、俺がズボンを履いている途中だったら、どうする心算だったんや?」
但し、こいつが侵入して来ようが、どうしようが、これからやる事に変わりはない。そう考えて、言葉のみで暇人の相手をしながらも、上から順番にボタンを留めて行く手を休めようとはしない俺。矢張り、ひとつ留めればひとつ分だけ、精神的に引き締まったような気がして来る。
時刻はそろそろ夜の十時過ぎ。今年の冬至日は十二月二十二日。
つまり、後二時間足らずで古の邪神の召喚が行われる可能性がある、……と言う事。
「別に気にしないわよ。見られても減るような物じゃなし」
パタパタと足音の五月蠅い館内用のスリッパを脱ぎ捨て、そのままズカズカと俺の部屋に侵入してくるハルヒ。旅館に備え付けの浴衣に、綿入れ袢纏を羽織る姿。おそらく、既に入浴も済ませ、もう寝る準備はオッケーと言う感じか。
但し、普段と同じく、俺の都合など一切無視。コイツの頭の中では俺の基本的人権に対する考慮などほとんどなし。その辺りは通常運転中と言う事なのでしょうか。
もっとも、少々の我が儘ぐらいならそのまま流せば良いだけ。細かな事にイチイチ目くじらを立てていても意味がありません。
確かに度を越せば問題ですが、彼女の方もその辺りも心得た物で、俺に対して少しの我が儘を言うだけで、俺以外の他人に迷惑を掛ける事は余りありませんから。
「……って、おいおい。見られるのは俺の方であって、減るか、それとも減らないのかを判断するのも俺の方だと思うのですがね」
そう考え、敢えてハルヒのボケに乗ってやる俺。
それに、確かにハルヒのヤツは俺に着替えを視られたとしても平気かも知れませんが、俺の方は……別に気にしませんか。
聖痕などと言う怪しい痣が身体のアチコチに刻まれているし、少々、目立つ傷痕が残っているのも事実なのですが。
一番下のボタンを留めながら、そう思考を続ける俺。
そんな俺の正面に立ち、上から下に視線を移し、そしてまた、俺の顔に視線を戻すハルヒ。尚、この一周の間に値踏みされたのは間違いない。
表情はやや呆れた、……と言う表情。ただ、心の方はそうでもない感じ。納得した、と言う感じではないけど、好感は得ている、とは思う。
但し、彼女自身がこれから何をやりたいのか、は分からないのですが……。
「あんた、何よ、その格好は」
これから学校にでも行く心算なの?
何時も通りの憎まれ口。ただ、口ではそう言いながら――
「昨夜のアイツとは正反対の服装やろう?」
一歩、俺へと近付き、片手で留めようとしていた襟のホックを――留めてくれた。
一瞬、北高校の制服ならば良かったかな、などと考えたりもしたが、それも後の祭り。割と自然な動きで俺の間合いに入って来られたのは、彼女としてはかなり思い切った行動だったのかも知れない。
コイツはへそ曲がりで、今までは自分の方から距離を詰めようとはしませんでしたから。
事ある毎にネクタイを掴もうとしたり、背後から忍び寄って背中を叩こうとしたり。自分は此処に居るよ、と言うかのように強く主張はするけど、自分の方からは決して必要以上に近付いて来ようとはしない。飼い猫が飼い主の気を惹こうとして、テレビやパソコンの画面を見えなくしたり、広げた新聞紙の上に寝転がって見せたりする状態のよう。但し、自分の方からは絶対に近付いて来る事はない。飼い主の方から手を差し伸べてくれる事をずっと待って居る。
そんな感じ。
本当にこの涼宮ハルヒと言う名前の少女は人間関係に於いて、どうにも不器用で……。
それでも……。
ハルヒの人間性の考察はどうでも良いか。それに、積極的に動かれると困るのは俺自身。
そう考え、少しマズイ方向に傾きかけた感情とその他諸々を強制的にリセット。未だ詰襟に手を当てたまま、やや上目使いに俺を見つめるだけの少女に対して、言葉を続ける俺。
……いや、むしろこの妙に静かな空間の居心地が悪く、少し場を乱す為に言葉を続けたのかも知れない。
「身長も一般的な高校一年生の中では飛び抜けて高い。確かに、身体に付いて居る筋肉の量は多くは見えないけど――」
それでも軍服系の詰襟の学生服は良く似合う。ついでに首も、詰襟が映えるぐらいには長い。
蒼髪、蒼紅の瞳。そこに、本来なら実際よりも細く見える収縮色の黒は、俺に取っては少しマイナスの要素。通常よりも華奢に見える可能性も大きいのですが、其処はこの身長がカバーしてくれる。
これで猫背ではなく、ちゃんと真っ直ぐに立てばそれなりのイケメンが出来上がる……はず。……多分。
ハルヒは兎も角、タバサからは好感を得ているし、有希も俺の体型に関しては好意的。
但し、今の台詞で、ちゃんと場を乱す事が出来たのか疑問なのですが……。
もっとも、これが今回の服装の意味。今回の服装のチョイスは動き易さなどではなく、すべて見た目。
動き易さを重視するのならジャージでも着た方が余程マシです。
今までの敵は、中世ヨーロッパの最新流行レベルの相手。こいつらは俺の美的感覚から言うとサーカスの道化師か、それともアメリカンヒーロー物に出て来る狂気の仮面を被った敵役。こんな連中を相手に見た目の美醜を競っても意味はない。……と言うか、論点が違い過ぎて話しにならない。
しかし、それが今回はいきなりのヒップホップ系。流石に今回に関しては、普段通りのあまり考えていない服装よりは、少し気に掛ける必要があるでしょう。
「これで、あの見た目は蘇芳優。中身はおそらく平安時代の――平将門の配下よりも強そうに見えるやろう?」
昼過ぎ。あの銘文の刻まれていない庚申塚の前で、白昼夢を見た後に合流した神代万結が持って来た情報。
それは――
先ず、彼女が持って来たのは最初の被害者の写真。その写真に写って居たのが、昨夜俺とハルヒが出会った犬神使いだった――と思う。確かに写真に写った人物と、昨夜出会った人物との容姿に関してはまったく同じ。病的なまでに白い肌。線が細い、と表現される顎。肩幅も狭く、身体が全体的に小さく感じられる。
ただ……おどおどとした雰囲気が写真からでも伝わってくる細い目と、昨夜出会った青年の目。何処から出て来るのか分からない根拠のない自信に彩られた……一種、狂信者に近い雰囲気を感じさせる瞳が、まるで別人のような雰囲気を作り出していた。
この瞳は、あの白昼夢の中に登場しただまし討ち、……と思しき状況で殺された侍の瞳と良く似て居たように思う。
確かに、中身が本当にあの白昼夢で見た平将門の残党らしき男性だとは限らない。しかし、俺が件の犬神使いの青年に対して蘇芳優と呼び掛けた際に、まったく反応を示さなかったのは事実。
それに、少なくとも今現在の俺の気を読む能力を、完全に誤魔化す事はかなり難しいので――
可能性としては自分の事を完全に忘れているのか、もしくは姿形は蘇芳優だが、中身……つまり、魂の部分が違うか、のどちらか。
おそらく、魂と魄。それに、霊的な物質で造られた肉体。そのすべてが、それぞれ別の存在から作り出されたモノなのでしょう。
魂の部分は平安時代にだまし討ちの如き状況で殺された人物。
魄の部分は一九九八年に猟奇的な方法で自殺した人物。現実として現れた部分に関しては自殺として処理されて居ますが、これは科学が支配する表面上の世界では自殺としか処理する事が出来なかった事案。魔法と言う、科学では再現出来ない方法が関わって来て居たとすると、別の答えが見付かるかも知れない事件。
このふたりは明らかに人間。どちらも簡単に死亡したようなので、この部分に間違いはないでしょう。まして、少なくとも一九九八年に自殺した人物に関しては、間違いなく死後、荼毘に付されている。この状態から仮に起き上がって来たとしても、肉体の部分は既に存在していない。
そして肉体――現在、犬神使いとして存在している肉体の部分は、人間以外のほぼ不死に近い回復能力を持つ何モノか。おそらく、その生命体の能力が、あの犬神使いが示した不死性の理由だと考えられる。
「呆れた。あんた、そんなクダラナイ理由で、詰襟の学生服なんかで戦いに行く心算だったの?」
相変わらず、そっと抱き寄せればアッと言う間に両腕の内側に捕らえられる位置に立ち、俺の事を上目使いに見つめるハルヒ。
彼女から発するのは、まるでごく薄い香水のような香り。タバサに感じたような、懐かしさに支配され、鼻の奥が痺れて行くような感覚に包まれる香りではない。有希や万結の、何故か心が落ち着くような物とも違う。
嫌悪感を覚える物ではない……。しかし、何故だか胸に微かな痛みを覚えた。
そんな香り――
「そもそも、そんな事をしなくても、あんたなら楽勝でしょう?」
あの程度の相手は。
俺の心の動きなど寸借する事のないハルヒ。もしかして――。いや、それは違う。一瞬、脳裏に浮かぶ不埒な予測を即座に踏みにじる俺。
それに、昨夜の戦闘を特等席で経験した彼女ならこの結論を得て当然。素人目にも、それと分かるぐらいの差は見せつけた、と思いますから。
もっとも、
「まぁ、そのぐらいの心の余裕は持っても良いのとちゃうか?」
これから生死を掛けた戦いに出掛けるのやから。
「昼間の内に多少の小細工を施して置いたけど、そんな物は無効化される可能性の方が高いし」
昼間の別行動で万結が持って来た情報のもうひとつがコレ。
最初の自殺者、蘇芳優。東京の大学……偏差値が高い訳でもない。そうかと言って低い訳でもない、普通の私大の文系の学部に通っていた人物。但し、多少、精神的に不安定化して――常に何かに怯え、最後は「赤い瞳が――」とだけ言い残して家を出、そのまま自殺して果てた。
……と、まぁ、この手の事件の典型的な最初の犠牲者となる人物なのですが、彼が残した写真の中で最後に撮ったと思われる一枚。
一九九八年にならデジタルカメラは存在して居たのですが、流石に万結が手に入れて来たのはフィルムカメラで写した一枚。但し、ピントはズレ、素人目に見ても映像的に綺麗に写って居るとは言い難い一枚だったのですが――
「――あの庚申塚のある場所に行くのよね」
万結の持って来た写真を見たハルヒからの一言。
そう、万結が持って来た写真にはあの庚申塚を中心にした風景が写って居たのですが、それ以外に……。
「流石に、あの白昼夢の最後に現われた赤い瞳が、ピンボケ写真とは言え最初の死者が撮った写真の中心に写っていたら、其処に行くしかないでしょ」
まして、この一連の事件の起きた場所……この旅館の位置も含めて、その場所をそれぞれ東西南北に当てはめて線を引くと、その中心に当たるのがあの公園。これだけの情報があるのなら、その事件の起きて居る時間――
この四年の間は、冬至が起きて居る正にその時間帯に事件が起きて居る以上、今年もその時間帯に事件が起きると考えて間違いない。そう考えて、万結が合流した後は、昨日からずっと動き詰めだった身体を休息させたのですから。
ここまではチームとしての理由。
そして、ここから先は俺個人の理由。
あの赤い瞳には見覚えがある。最果ての絶対領域。ハルケギニアから追放された際に送り込まれた世界。すべての世界に隣接すると言われている世界で出会った蛇。まるで世界樹のような巨木に纏わり付き、その樹を枯らそうとしていたかのような蛇の瞳にそっくりだったような気が……。
確かに、現実的に考えるのならば蛇の瞳に似たような、などと言う曖昧な物はないと思う。多分、人間の目から見ると、すべての蛇の瞳がそっくりに見えると思うから。
そう思うのだが……。
……矢張り気に成る。
「あんたの事だから、あの瞳の正体にもある程度の察しは付けているんじゃないの?」
嫌な思い出。実際、殺されていたとしても不思議ではない状況を思い出し、知らず知らずの内に眉根を寄せていた事に気付く。
あの状況ではハルケギニア側では俺を蘇生させる事は不可能。そもそも、死体が存在して居なかったから。残して来た右腕を触媒にしての再召喚が一番確実なのでしょうが……。
それも未だ為されてはいない。
少し……。かなり悪い方向に徐々に思考が傾いて行く。
いや、俺は未だ負けた訳ではない。少なくとも俺は未だ戦っている。戦っている間は、未だ本当に負けた訳ではない。
「ちょっと、聞いているの!」
ほとんど自らに言い聞かせている状態。正に、心ここに在らずの俺。そんな俺に、少し苛立ったような彼女の声。
「あ、ああ、聞いている。あの赤い瞳については――」
聞いては居るが、考えてはいなかった。そう言う雰囲気が良く分かる答え方。
ただ、あの最果ての絶対領域で見た赤い瞳を持つ巨大な蛇は、その自らの尾をかじる、と言う姿からウロボロスに類する蛇だと思います。が、しかし、今回の召喚事件で犬神使いの青年が召喚しようとしているのは多分、そいつではない。
アレは……。
「おそらく蛇神。それも現在まであまり詳しい情報の残っていない正体不明のヤツ」
もしかするとあの青年の魂の部分。平安時代の関東圏。蝦夷との戦いの最前線辺りで生きて居た人間に取っては有り触れた神なのかも知れませんが、現代に生きる俺に取っては名前やある程度の属性は分かっていても、其処から弱点を見付け出せるようなメジャーな神性ではない。
それでも……。
「まぁ、心配するなって。俺の見立てでは、明日の午前二時にはケリが着いて居る。間違いなく、こんな訳の分からん邪神召喚事件は失敗に終わって居るから」
かなり楽観的な予測を口にする。同時にテーブルの上に置いてあった腕時計を取り、時間を確認。時刻は未だ十時半前。慌てずとも、あの公園には余裕を持って着く事が出来る。
もっとも、そんな事などせずとも時間は未だ十分にある事は分かっている。ただ、このままハルヒに、あっさりと抱きしめる事が出来る距離に居られる事は色々と良くない。
「それで?」
ゆっくりと座布団の上に腰を下ろし、ハルヒを見上げる俺。ついでに、テーブルの上の菓子器からひとつ饅頭を取り出した。
「何が、それで、よ?」
俺が離れた瞬間、ほっとしたような、それでいて何か不満があるような、ひどく複雑な雰囲気を発したハルヒ。
しかし、それもほんの一瞬。直ぐに、何事もなかったかのような平静を装いながら、同じようにテーブルの一辺に腰を下ろした。
……やれやれ。
「何をしに俺の部屋にやって来たのか、と聞いているんや」
菓子器からもうひとつ饅頭を取り出し、それをハルヒに向けて軽くトス。
この行為自体に意味はない。まして、手で渡すよりも、よりフレンドリーな雰囲気を演出出来ると考えたから行った事。
ただ、彼女の目的は分からない。昨日から少し緊張した雰囲気だった。更に、今回の旅行には朝倉さんや朝比奈さんが同行していないので、話し掛ける相手も居なかったので、単に他愛もない会話を交わせる相手として俺のトコロにやって来た。この可能性が高い。
次は何か、俺が気付いて居ない情報に彼女が気付いた。この可能性もある。
俺は万能ではない。今回の事件や、昨夜のあいつに関して、何か見逃した事が有るかも知れない。更に、彼女しか経験していない事もある。
最後は、最終決戦の場に自分も連れて行け、と言い出す事。
但し、その可能性は――
その空中にゆっくりと上がった饅頭を片手で見事にキャッチ。
「あの犬神使いについて気付いた事があったんだけど――」
しかし、受け取った饅頭の包みを開く事もなく、手の中で弄びながら答え始めるハルヒ。
「あいつに捕まって居る間中、キツイ獣の臭い――多分、犬の臭いの中に、何かが腐ったような臭いを感じたわ」
何かが腐ったかのような臭い。基本的に悪神、邪神の類は悪しき臭いを発している、と伝えられている事が多い。そんな連中の一柱に加護を受けている以上、あの犬神使いも同じような臭いを発して居たとしても不思議ではない。
それに、……とひとつ言葉を挟んだ後、
「あいつに触れていた浴衣に、何か青い体液のような物……臭いから多分、膿だと思うけど、それが付いていたのよね」
かなり自信がないのか、最後の方は少し声が小さく成って行くハルヒ。
もっともハルヒが、自分の判断に自信が持てない理由は分かる。そもそも人間の膿で青い膿など聞いた事がない。
但し、それは人間に、と限定した場合だ。
「成るほど」
ハルヒの言葉に小さくひとつ首肯く俺。腕は胸の前に組み、考える者の姿勢。
ほぼ不死身に近い回復力に、青い膿に覆われた皮膚。剣技などの技術に長けている訳でもなく、更に術に長けている訳でもない。但し、運動能力などは非常に高いスペックを現す。確かに、ヤツ……犬神使いに相応しい肉体と言う事か。それにしても、洒落が利き過ぎているな。
あの犬神使いに能力を与えた邪神がヤツならば、この状況も強ち不思議ではない。
「ありがとう、相手の正体がおぼろげながら掴めたよ」
正体が判ったトコロで、有効な対策が建てられる相手ではない事が分かっただけ、なのですが、それでもソレはソレ。
感謝や謝罪は素直に口にして置いた方が良い。妙にぎくしゃくさせても意味はない。
ただ――
何故か一仕事終えた雰囲気のあるハルヒを見つめる俺。コイツはどうにも、不器用で――
「何よ。何か言いたい事があるのなら、言ってみなさいよ」
既に普段の調子を取り戻し、妙に上から目線の台詞に戻っているハルヒ。もっとも、この上から目線も、細かく見て行くと俺に対する時以外はあまり目立たないのですが。
まぁ、俺以外の他人にあまり迷惑を掛けるような真似をしていなければ問題はないか。
「おまえ、意外に現実主義者だな」
ハルヒはどうだか知らないが、俺の方の緊張感はゼロ。そして、その雰囲気のままに口にした内容は、表面上の涼宮ハルヒと言う名前の少女を知っている人間に取っては、おおよそ説得力ゼロの内容の台詞。
当然――
「はぁ? あんた、一体あたしの何処を見て居たら、あたしの事をリアリストだと言う台詞が出て来るのよ?」
怒った、と言うか、呆れたと言う感じの答え。しかし、コイツ、この程度の……表面上を取り繕っただけの演技で俺を騙し通せると思って居るのか?
「だったら、何故、今夜の最終決戦の場に付いて来たい、と言わない?」
昨夜の俺とあの犬神使いの戦いを見たお前なら、俺とアイツの実力の違いは分かったはず。
まして、今夜の場合は遭遇戦ではない。初めから準備をして行く事が出来る戦い。この状況と昨夜の戦いでの俺と、あの犬神使いとの能力差を考えると、準備さえ整えればハルヒの身の安全を担保した上でも、圧倒的な能力差で勝てる可能性が高い、と考える可能性も低くない。
ハルヒは異界化現象など知らない。こちらの準備などあっさり無効化してしまう現象が起きる事などは想像すらしていないだろう。
「少々無茶だと言う事が分かっていても、こんなチャンスは一生に一度あるかないか。まして、その場所は異世界からの訪問者。邪神召喚が為されようとしている場所」
不思議を探す事に血眼に成って居る人間とすれば、自分の生命と引き換えたとしても、見に行きたいと考えたとしても不思議ではない。
「まして俺は我が儘を言いやすい人間。ここはダメ元で我が儘を言って来ても不思議ではない」
もしも、ハルヒがどうしても付いて来たいと言ったのなら、俺はその方法を、文句を言いながらでも考えたでしょう。
しかし、彼女はそう言い出さず、敵の正体を類推出来る情報を言って来ただけで終わらせた。
名探偵さながらの俺の推理。但し――
「良い線突いて居る心算かも知れないけど、あたしはこれから連れて行け、と言おうと思っていたのよ」
あんたの言うように、こんなチャンスは二度とないかも知れないのだから。
矢張りへそ曲がり。そんな事は小指の先ほども考えていない癖に。
何故なら、
「お前、その格好で着いて来る心算か?」
流石に二日連続でその格好は辛くないか?
割と真面目な表情で、現在の彼女が着ている綿入り袢纏と、その下の浴衣。更に、既に靴下も脱ぎ、素肌を晒している足を順番に指差す俺。
この状態から、これから着替えるから待って居ろ、と言われても、現実的に考えて、俺が彼女を待つ訳がない。
素直にハルヒを置いて出掛けるだけ、です。
「それとも、俺の目の前で生着替えでも披露してくれる、とでも言うのか?」
流石にそれは勘弁してくれ。俺は自分の死刑執行書にサインをする心算はない。
実際、ハルヒが起きて居ても何も出来る事はない。故に寝て居てくれた方がコチラとしても楽。矢張り、仙術の行使には余計な気……妙に高ぶった気を強く発する部外者が傍に居られると気が散って、普段の実力を発揮出来ない可能性も出て来ますから。
特に今夜の戦いは珍しい術を使用する心算。それに相棒の方の問題もある。
ぶっちゃけ、出たとこ勝負の部分すら存在する今夜の作戦。ここで、ハルヒのような部外者を戦場の直ぐ傍まで連れて行くのは勘弁、と言う気分なのですが。
座り心地が悪いのか、綺麗な正座を所謂、横座りと言う形に足を崩すハルヒ。おそらく、座った時は直ぐに退散する心算だったのに、長い話に成りそうだと判断したのでしょう。
その様子を確認し、小さくひとつ首肯く俺。時間は大丈夫。
「昨夜の戦い。お前、自分の所為で負けたと考えている。そう言う事やな?」
昨夜の戦闘シーンをつぶさに思い出せばこの結論に到達したとしても不思議ではない。
ただ……。
「あれはハルヒの所為やない。決められる時に決めなかった俺の所為。それ以上でも、以下でもない」
確かにある程度の説得は必要。有無を言わさず倒して仕舞っては相手に悪い気が溜まる一方で、何時まで経っても浄化など出来ない事になる。
しかし、それは話が通用する相手まで。あの犬神使いの魂は千年以上も前に殺され、その後、ずっとその恨みを持ったまま庚申塚に封じ続けられた魂。おそらく其処には、今回ヤツが召喚しようとしている邪神のアプローチもずっと受け続けた事でしょう。更に、魄の部分はかなり脆弱な精神の現代人だと思うが、肉体部分に関しては人語の通じないクトゥルフの魔獣。コイツに関しては一切の交渉など不可能。
魂の存在から見れば現代人など、直接自分と関係のない、まるで異世界の人間。
肉体を構成する存在から現代人を見ると、それは餌。それ以上の存在ではない。
今となってなら分かる。あいつらには最初から交渉の余地などなかった、と言う事が。
……だって、と小さな声で何か言い掛けて、そのまま黙って仕舞うハルヒ。
「まぁ、ハルヒが表面上はどう装うとも、根っ子の部分では未だリアリストだったと言う事が分かっただけでも今回のミスは価値があった、と言う事やから」
最終的に邪神の顕現さえ許さなければ何とかなる。
普段と同じ、少しいい加減な雰囲気で答える俺。但し、相手……犬神使いと、それ以外の出方が分からない以上、今夜は何が起きるか分からない状態。
今のトコロ分かっているのは、今回の邪神召喚で必要な条件は生け贄が最低、後一人必要だ、と言う事だけ。まして、生け贄が捧げられる時間もおおよその時間は分かっている。
距離がどの程度の影響を及ぼすか分からない以上、今、生け贄に求められている条件は、公園から西の方角に住む土の属性を持つ人間と言うただひとつ。
尚、大きな意味で言うと人間はすべて土の属性に分類されるのですが……。
流石にこれ以外にも、俺たちが気付いて居ない条件と言う物が有ると思うのですが……。しかし、流石にこれ以上、誰かを召喚作業の生け贄とさせる訳にも行かない。
確かに、俺たちには全人類を護らなければならない謂れはない。まして、例え生け贄を得られたとしても、ハルヒを生け贄として捧げられない限り、危険な魔物や邪神が顕現する可能性は非常に低い。
現在、昨夜の犬神使いや、犬神は現われて居ますが、あいつ等は神格も能力も非常に低いが故に顕現する事が出来ただけ。高位のモノが今回の召喚に応じて顕われる事はないでしょう。
それぐらい、今回の邪神召喚には根本的な部分に瑕疵がある、と言う事。
しかし、それはそれ。昨夜ヤツを取り逃がした責任が自分にあると、ハルヒが考えているのならば、余計な死者はここから先はひとりたりとも出す訳には行かない。
「どうせ自分の所為で俺に迷惑を掛けたとか、似合わない事を考えた挙句に今回のような結果に成ったのやろうけど――」
コイツは俺の知っている限りで最低一度、世界を作り変えようとしている。もし、自分の所為で無関係の人間が邪神召喚の犠牲となったと考えたとしたら……。
再び、世界を作り変え兼ねない。
もし、そう成る可能性が出て来たのなら――
「オマエさんは、オマエさんのやりたいようにやったら良い。最初からそう言って居たと思うけどな」
俺の手でケリを着けなければならない。そう言う約束に成って居た。
口調は相変わらずお気楽な雰囲気。但し、内容はかなり真面目。聞き様によっては、お前の我が儘ぐらい全部聞いてやる、と言う風にも聞こえる内容――
視線はハルヒの瞳に固定したまま。更に、考えている内容がかなり深刻な内容だけに、かなり強い瞳で見つめていたような気もする。
俺の視線を受けて、一瞬、怯んだかのようにハルヒが視線を外し、その微かな動きで背中まである長い黒髪がふわりと揺れた。但し、それも一瞬の事。まるで、俺の視線に怯んだ事が恥で有るかのように同じような瞳で俺を見返す。
いや、これは睨んでいる訳ではない。おそらく真剣な表情と言うヤツ。
「ねぇ、ひとつ聞いても良い?」
後書き
え~と、すみません。今回始まったハルヒとのシーンは長くなります。
ここまでに出来なかった内容がかなり説明される事となるので……。
それでは次回タイトルは『太極より……』です。
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