至誠一貫
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第一部
第六章 ~交州牧篇~
七十四 ~揚州騒乱~
「ご主人様。黄忠さんから書簡が届きましたよ」
朱里が抱えてきた書簡を受け取り、中を改めた。
「…………」
「……あの。ご主人様?」
不安げな朱里に、私は書簡を手渡した。
「自分の眼で確かめるがいい」
「あ、はい。……あ」
「策が功を奏したようだな、朱里」
「はいっ! 良かったです」
ホッと胸を撫で下ろす朱里。
三人の一致した見解、それは黄忠を上手く動かす事である。
成り行きとは申せ、私は黄忠と知己を得ている。
しかも、黄忠が私に持っている印象は、決して悪いものではないと見て良い。
……それ以上の感情を抱かれている気もするのだが、それはこの際、頭から追い払うとしよう。
まず、劉表麾下の武官だが、黄忠以外には蔡瑁、王允、黄祖、文聘、王威と言ったのが主な顔触れとなる。
このうち、蔡瑁と王允は水軍の指揮官で、陸戦は不得手と聞く。
黄祖は江夏太守であり、此度のような事態で任地を離れる可能性は低い。
そして、文聘は荊州北部の守将。
王威は正直、どのような人物かすらも定かではないが、風曰く、
「そうですねー。宦官さんよりは強いぐらいみたいですよー」
……つまりは、然したる人物ではないようだ。
となれば、劉表の命に応えられる将は、黄忠以外にない、という事になる。
ましてや、黄忠は武のみの人物ではなく、思慮深く、人当たりも柔らかだ。
劉表とて、無用に恨みを買うような真似は好まぬであろう。
黄忠の方から、此方の意を汲んで行動する可能性もあったが、推測で動くよりも手を打っておいた方が良い。
そう考えると、黄河渡河以来の事は、正に僥倖であったと言えるな。
「もう一段の策も、上手く行けばいいのですけど」
「案ずる事はあるまい。黄忠が太鼓判を押したのだ、信ずるに値しよう」
……む、朱里がまじまじと私を見ているようだが。
「どうしたのだ?」
「いえ。ただ、ご主人様は凄い御方だと思いまして」
「何故そう思うのだ?」
「はい。ご主人様が黄忠さんと懇意にされていなければ、この策は成り立ちませんでした。劉表さん麾下の、他のどの将の方でも駄目だったと思います」
「ふむ。だがそれは偶然の産物。私ならずとも、成し得た策ではないか?」
「いえ、そうとは思いません。謙遜なさっても駄目ですよ、私にはわかっていますから」
謙遜ではないのだが、な。
……嬉しそうな朱里を前に、あまり不毛な議論をしても仕方あるまい。
「歳三様。あ、お取り込み中ですか?」
稟が、顔を覗かせた。
「いや、構わぬ。何かあったか?」
「はい。実は」
と、声を潜める。
「糧秣の事なのですが……。このままでは、交州に着く前に尽きてしまう恐れがあります」
「見込みとしては、どの辺りまで保つのだ?」
「そうですね。今の消費量で行くならば……此所でしょうね」
稟は、地図の一点を指さした。
「予章郡か」
「無論、見込みですので更に先に進める可能性もありますが。ただ、大きなずれはないかと」
「これだけの人数ですからね。建業でかなりの量を補給して貰えたのですが……」
「やむを得まい。我らは公用で動いている、それを名目に糧秣の補給を頼むより他にないな」
「ただ……」
「どうしたのだ、稟?」
「……はい。揚州南部は孫堅様の影響もあまり及ばず、また荊州に雪崩れ込む事が出来なかった黄巾党がかなり活動した地でしたから。耕作地が荒廃している可能性がありますね」
「つまり、睡蓮(孫堅)の威光を以てしても、郡太守らが従うとは限らぬ。そう言いたいのだな?」
「仰せの通りです。尤も、ない袖は振れない、という事もあります。此方としても無理強いは出来ませんね」
稟の申す通りだ。
権力を笠に着るような真似は好まぬし、さりとて力づくで入手すれば睡蓮の面目を潰すであろう。
まずは、状況把握からだな。
「稟、朱里。まず予章郡の現状を」
「それなら、もう間諜さんを送りましたよー」
そう言いながら、風が背後から現れた。
「はわわわ、ふ、風さん?」
「い、何時の間に?」
「それは乙女の秘密なのですよー」
……私も、全く気付かなかったのだが。
疾風のように、隠密たる素養でもあるのだろうか。
「ただですねー。あまり楽観は出来ないと思いますけどね」
「ならば、周囲の郡ならばどうだ?」
私の言葉に、三人は難しい顔をする。
「揚州南部は、異民族も入り込んでいる地域です。状況は似たり寄ったりでしょう」
「稟さんが言われる通り、治安の問題もありますけど……。農耕が盛んとは言えない地でもあります」
「逆に、此方の食糧を狙っての襲撃があるかも知れませんねー。あくまでも、可能性ですけどね」
いずれにせよ、難儀する事だけは変わらぬのか。
「では風。予章郡の状況把握は任せて良いのだな?」
「はいー」
「よし。糧秣の問題となれば、お前達だけでなく、愛里や山吹にも知らせておくべきだな。朱里と稟は対策を講じるように」
「御意です」
「はっ」
全く、次から次へと難問だらけだな。
……交州が、斯様に遠いとは。
皆の手前、弱音を吐く訳にはいかぬが。
数日後。
風が派遣した間諜により、予章郡の様子が明らかとなった。
「郡太守が殺害されただと? 本当か、風?」
思わず、愛紗が叫んだ。
「事実のようですよー。疾風(徐晃)ちゃん、そうですよね?」
「ああ。私の方でも調べたが、間違いないようだ」
「しかし、如何に軍権のない太守とは申せ、呆気ないとしか言えませぬな」
「でも、官軍はそんなに弱いのか?」
「残念ですが、このあたりの官軍は賊にさえ手を焼く程度なのですよ。鈴々」
「ですが、ご主人様。これでは補給計画を練り直すしかありませんね……」
だが、軍は既に予章郡に差し掛かっている。
ここから進軍の向きを変えるとなれば、無用な混乱を招く恐れがある。
「風。首謀者の名は?」
「はいー。サク融さんという方のようですねー」
知らぬ名だ。
「仮にも郡太守を討つ程の輩だ。素性を詳しく調べておけ」
「御意ー」
「歳三殿。ですがこのまま予章郡に向かうのは得策ではありませぬが」
「疾風の申す通りです、殿」
ふむ、皆は反対か……当然の反応ではあるが。
「いえ。寧ろ、このまま進むべきと思います」
「何を言うのだ、山吹(糜竺)! 無用な諍いは避けるというご主人様の方針、忘れた訳ではあるまい?」
「まぁ、落ち着け愛紗。話は最後まで聞いてやらんか」
「し、しかしだな、星」
「愛紗。私も同感だぞ」
「む、むう……。わかりました」
顔を赤くしながら、愛紗は腰を下ろした。
「山吹、続けよ」
「ありがとうございます。確かに愛紗さんの言う通り、予章郡にこのまま向かえば、反乱軍との衝突は避けられないでしょう」
サク融とか申す者が、何を意図してこのような暴挙に及んだのかはわからぬ。
だが、一旦事を起こした以上、大軍を率いている我らが侵入すれば、黙っている筈がない。
「ですが、仮にも正式な郡太守を殺害するという行為は、誰がどう見ても朝廷への反乱です。これを誅する事は、何ら咎めを受けるものではありません」
「それ自体に異論はない。だが、我が軍にはその余裕がない事も、わかっているのではないか?」
彩の言葉に、山吹は小さく頷く。
「そうです。ですから、それを逆手に取るんです」
「……なるほど。わかりました」
「にゃ? どういう事なのだ、愛里(徐庶)?」
「私が答えてしまってはいけませんよ。山吹さん、続きをどうぞ」
「はい。節約しても、交趾まで保たないのであれば、戦いは余裕のあるうちにすべきです。それはいいですね?」
皆、頷いた。
「無論、詳細を調査してからになりますが。太守を殺害するような者に、まともに庶人を統治できているとは思えないのです」
元別駕従事の言葉だ、説得力という点では群を抜いている。
その証拠に、あれだけ物を言いたげだった愛紗らが、すっかり押し黙っていた。
「本来であれば、州牧の孫堅さんが対応すべき事案ですが。事が急を要するとあれば、徐州と同じ手が使えるかと」
「事後承諾という形にして、孫堅殿の依頼で反乱者を征伐する……そうですね?」
「ええ、稟さん。それでまず、予章郡での補給が受けられる可能性が出てきます」
「まず、という事は……まだ何かあるのか、山吹?」
「あります。反乱軍征伐となれば、周囲の官軍も協力しない訳にはいかないでしょう。援軍という点もありますが」
「なるほどー。援助は何も、兵だけじゃなくてもいいって言えますしねー」
「ですね。糧秣の援助を求められますね、近隣の州牧さんや太守さん達にも」
ふむ、そういう事か。
山吹の策、なかなかのものではないか。
「歳三さん、如何でしょうか?」
「うむ、私に異存はない。その様子だと稟、風、朱里、それに愛里も同様だな?」
ならば、決まりだ。
「風、疾風。予章郡の調査を至急行え」
「御意ですよー」
「ははっ!」
「星。書状を認める故、愛里と共に荊州へ参れ」
「お任せ下され」
「はいっ!」
残った者にも、それぞれに指示を与えていく。
天佑、と言っては語弊があるが、この機を逃すべきではない。
最大限、活用させて貰うまでだ。
そして、予章郡に到着。
「土方様! 邑より煙が上がっております!」
「そのようだな。彩(張コウ)、様子を見て参れ」
「はっ!」
双眼鏡で見る限り、人の気配は感じられぬ。
賊に襲撃された可能性もあるが、風らの調査ではこの一帯に該当する集団は存在しないとの事である。
となれば、下手人は自ずと限られてくる。
そのまま、邑に向けて進軍を続けた。
「疾風。サク融についてわかった事は?」
「はい。前揚州刺史、劉ヨウ殿の下にいた武官だったとの事です。ただ、無闇に庶人に対し乱暴狼藉を働いたとの事で放逐され、この予章郡に辿り着いたとか」
「武官か。ならば、郡太守を武で倒したのも頷ける話だ」
「この予章郡を乗っ取ったのも、やはり庶人からの収奪を目的としていたようです。恐らく、あの邑も」
武官と言うよりも、賊と呼ぶ方が相応しい輩のようだな。
劉ヨウは睡蓮の圧力に屈し、劉表の下へ落ち延びたという話だが……放逐したとは申せ、そのような者を抱え込むとは。
「……殿。やはり、邑人は皆殺しにあっていました。女子供まで」
戻った彩は、無念さを隠そうともしなかった。
「その報い、必ず受けさせてやるまでの事だ。全軍、行くぞ」
「応っ!」
我が軍には、元賊軍にいた者も少なくない。
だが、その中でも狼藉を働いたり、無用に血を流した獣はおらぬ。
そのような者は、我が軍への加入を認めず、全て討ち果たしていた。
寧ろ、同僚がそのような真似をする事を苦々しく思っていた者の方が多い程だ。
……今また、眼前に同様の光景があるのだ。
サク融とその一味に対する怒りが、皆の士気を否応なしに高めていた。
程なく、敵軍との接触を果たした。
「総勢、凡そ七万との事です」
「我らよりも大軍か。だが、所詮は烏合の衆、恐るるに足らんな」
「愛紗の言う通りなのだ。あんな奴ら、けちょんけちょんにしてやるのだ!」
敵は、鶴翼の陣を敷いているらしい。
大軍ならば、確かに有効な陣形だ。
……だが、一糸乱れずに指揮を執れるかどうかは、また別問題であろう。
「稟。どう動く?」
「はい」
クイクイ、と稟は眼鏡を直してから、
「まず、中央に強烈な一撃を与えましょう。鈴々、良いですか?」
「合点なのだ!」
「そして左翼には愛紗が、右翼には彩。我らは魚鱗の陣で、そのまま敵と対します」
「確かに魚鱗の陣は中央突破に優れているが……。包囲されて各個に撃破されはせぬか?」
「彩の懸念は尤もです。ただし、敵は寄せ集めに過ぎず、しかも大半は正規軍とは比較にならない賊の類です」
「しかし、もし敵に多少なりとも軍略の心得がある者がいたらどうなる?」
「そこも考えてあります。歳三様、お任せいただけますか?」
自信ありげな稟。
風や朱里が何も言わぬ以上、私がそれを撥ね付ける理由は何処にもない。
「良かろう。ただし、一兵たりとも逃してはならぬ戦いだ。そう心得よ」
「御意です」
そして。
地鳴りと共に、敵の大軍が押し寄せてくる。
「皆殺しだ!」
「官軍なぞ、ぶっ殺せ!」
賊は勢いづいたまま、迫ってきた。
「ううー、突撃したいのだ」
「鈴々ちゃん、駄目だってば」
どうやら、敵軍は数を恃みに、接近戦を挑むつもりのようだ。
矢も射かけては来るが、本数が少ない為然したる被害もない。
「稟、まだか!」
「まだです。もっと引きつけて下さい」
愛紗や彩も、手勢を抑えつつ敵を睨み付ける。
本人らも焦れているのであろうが、今はジッと、その時を待つ。
賊共の顔が、はっきりと識別できる距離になった。
「今です!」
「全員、伏せろ!」
私の声を合図に、立っていた兵が一斉に地に伏せた。
そして、
「放てっ!」
続いて山吹の号令が響き渡る。
ヒュンヒュンと、大量の矢が周囲に向けて放たれた。
「ぎゃっ!」
「ぐっ!」
命中精度よりも、制圧を目的とした矢の一斉射撃。
その為に、賊から見えないように弓兵を配置していた。
しかも、持たせたのはただの弓ではなく、連弩である。
必中を期さずとは申せ、これだけの至近距離で、しかも敵は密集しているのだ。
バタバタと、矢に当たり倒れていく。
「よし! かかれっ!」
「応っ!」
満を持して、鈴々、愛紗、彩が飛び出して行く。
「うりゃりゃりゃりゃりゃっ!」
「はぁぁぁぁっ!」
「せやっ!」
三人を中心に、賊は次々に宙を舞い、草が血で染まっていく。
「くそったれ!」
それをかい潜って襲い来る賊もいるが、それは私自身が率いる兵が防ぐ。
「ふんっ!」
「ぐがっ!」
無論、兼定の餌食になるだけの事であったが。
「わーっ!」
「わーっ!」
乱戦の最中、賊の両端から鬨の声が上がる。
疾風と愛里が率いる部隊が、鶴翼の外側から襲いかかっていた。
「は、挟み撃ちだぜ!」
「くそっ、卑怯だぞ!」
「卑怯はお前達であろう! この青龍偃月刀の錆となるがいい!」
鬼神の如き働きを見せる三人の猛将に、賊はじりじりと押されていく。
更に、賊の背後で砂塵が上がった。
同時に、矢が敵に降り注ぐ。
「星と、黄忠殿が到着したようですね」
「ああ。全員、気を緩めるな!」
「応っ!」
と、そこに何者かが突っ込んでくるのが見えた。
「テメェか! 俺様の邪魔をしやがったのは!」
大きな剣を手にした、身分のありそうな男が私を憎悪の眼で見ている。
「貴様が、サク融だな?」
「そうだ! ここは俺様が支配する土地だぞ。交州牧だか何だか知らねぇが、余計な事しやがって!」
「だったら、どうだと言うのだ? 貴様の行為は立派に皇帝陛下への反逆だが」
「やかましい! こうなったら、貴様だけはぶっ殺す!」
大きな刃風が、襲いかかってきた。
受けずに、それを躱す。
「ほう。力だけはあるようだな」
「この優男が! そんなチンケな剣で、俺様に勝てると思うなっ!」
「ふっ、チンケかどうか、試してみるか?」
「ほざけっ!」
ブンブンと、サク融は剣を振り回す。
威力はありそうだが、腕はさほどでもないな。
「ならば、此方から参るぞ」
「けっ!」
兼定を構え、間合いを一気に詰める。
「はっ!」
「そんな剣なぞ、叩き折ってやるわっ!」
ガキン、と剣がぶつかり合う。
……だが、この兼定を受けたのが、貴様の運の尽きだったな。
無論、倒れたのはサク融。
折られたのは奴の剣であり、兼定は見事、奴の脳天を切り裂いていた。
「敵将サク融、この土方が討ち取ったり!」
「黄忠、礼を申すぞ」
「いいえ。間に合って良かったですわ」
敵を掃討し、劉表の援軍との合流を果たした。
黄忠自ら率いてくるとは意外であったが、どのみち交州に向かうのであれば、妥当なところであろう。
「それにしても、酷い有様ですね……」
「敵を皆殺しにした事か?」
「……いいえ。庶人に対する、サク融の所業ですわ。人の命を、営みを何だと思っていたのでしょうか」
「……うむ」
「本当に、ありがとうございました」
と、黄忠は私に深々と頭を下げた。
「礼を申すのは我ら。何故、頭を下げる?」
「少なくとも、これ以上この地の庶人が苦しむ事はなくなりましたから。そのお礼ですわ」
「ならば、これでお相子だな」
「はい。土方様、お礼ついでに、真名もお預けしますわ。以後、紫苑とお呼び下さいませ」
「……わかった。私の事はどう呼んでも構わぬぞ」
「ええ。では、歳三様とお呼びしますわ」
紫苑を介して、劉焉に対して打った手も、功を奏したとの知らせが、数日後に届いた。
劉焉麾下の厳顔が、交州に向かったとの事だ。
「桔梗なら心配要りませんわ。私の親友ですから」
と、当人が自信たっぷりに断言する以上、問題はなかろう。
こうして、揚州での一騒動は、幕を下ろした。
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