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至誠一貫

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第一部
第六章 ~交州牧篇~
  七十五 ~交州~

 予章郡を出て、更に我が軍は南下を続けた。
 不穏な動きは各地で見られたが、我らの接近と共に悉く、逃げ去ったとの事。
 本来なら有象無象の類も全て討伐しておくべきなのであろうが、此所は私の管轄する州に非ず。
 それに、糧秣の問題も根本的に解決した訳ではなく、我が軍には相変わらず然したる余裕はない。
 紫苑の援助が得られたのは大きいが、それとて交趾まで無補給で辿り着くのは無理であろう。
「朱里。そろそろか?」
「はい。州境は超えたと思います」
 目印がある訳ではなく、手製の地図で推測するより他にない。
 風景がも急激に変化する訳でもなく、荒野が続くばかりで邑も見当たらぬからな。
「歳三殿。前方の偵察に向かいます」
「うむ、頼む」
 疾風(徐晃)と、星が手勢を率いて飛び出して行く。
 軍としての規模が大きくなってきた為、疾風の担う役割も必然的に増えていた。
 斥候役として実績のある星が、こうして動く事も多くなってきている。
「歳三様。このまま交趾まで向かわれるおつもりですか?」
「いや。州都は番禺(ばんゆ)であったな?」
「ええ。……では、番禺に?」
「そうだ。交趾が事実上の中心である事は存じているが、そこまで軍を動かす余裕はない」
「なるほど。確かに、それがいいでしょうね」
 紫苑は、頻りに頷く。
「愛紗、鈴々、彩(張コウ)。よもやとは思うが、周囲の警戒は怠るな」
「御意!」
「任せろなのだ!」
「ご案じめさるな。殿には指一本触れさせはしませんぞ!」
 兵の士気も、まだ高いままのようだ。
 ……紫苑の補給が効いたのは事実であろう。
 飢えに苦しむのは、何よりの大敵だからな。
「主! 前方八里に砂塵を確認しましたぞ!」
「そうか。稟、合流地点はその辺りであったな?」
「はい。恐らくは南海郡太守、士武殿の手勢かと」
「よし。星、旗を確かめて参れ。これを使え」
 双眼鏡を手渡すと、星はすぐさま馬を返した。

 その日の夕刻。
 我が軍は、士武の軍と合流を果たした。
 ……いや、正確には異なるが。
「土方様ですね。交趾郡の太守、士燮です」
「初めまして。南海郡太守、士武です」
「同じく合浦郡太守、士壱です」
 よもや、士燮一族揃って出迎えるとはな。
「土方だ。此度、交州牧を拝命した。よしなに頼む」
「私達の方こそ、ご指導ご鞭撻のほどお願いいたします」
 予想は出来た事ではあるが、士一族皆、女子(おなご)であった。
 やはりこの時代、優れた者は女子に多い、という事か。
「それでは、番禺までご案内致します」
「うむ」
 見たところ、手勢は五千程か。
 無論、これが全軍ではあるまい。
 番禺より程近い場所という事もあるが、何より全軍を引き連れてくる意味は何処にもない。
 糧秣の無駄であり、異民族などへの備えが手薄になるだけだ。
 兵も装備が特に目を引く事はないが、訓練は行き届いているようだな。
「しかし、噂に聞く土方様をこの目で見られるとは。感に堪えませんわ」
「ほう。噂とな?」
「そうです。黄巾党を各地で撃破し、荒廃した魏郡を見事に立て直した手腕。この地でも、聞き及んでいますよ」
「なかなかに詳しいではないか」
「はは、この地は交易商人が多数出入りする地です。そんな風聞の類ならいくらでも入ってきますよ」
「……私はただの武人。功績は皆、私と共に在る仲間の力に拠るものだ」
「確かに、ひとかどの御仁が多そうですね」
 と、士燮は皆を見渡した。
「ですが、皆さんの意思でこうして土方様について来ているのでしょう? そうでなければ、このような辺境まで一緒に来る事はないと思いますが」
「士燮殿。辺境と仰せですが、それはただ単に洛陽から離れているだけの事。この地に住む人々からすれば、辺境などと卑屈になる必要もなく、またそんな事も思っていないと思いますが」
 稟の言葉に、士燮はゆっくりと頷いた。
「そうでしたね。ですが、誤解しないで下さい。私はこの交州が好きですし、この地にいる事を卑下するつもりはありません」
「なら、それでいいじゃありませんか。歳三さんも、そんな考えは持たない御方ですから」
「そうだよね、愛里(徐庶)ちゃん。士燮さん、仰る通り、私達は確かに、自分の意思でこうしてご主人様についてきています。でも、その赴任先が仮に五胡や鮮卑だったとしても、それは変わりません」
「お兄さんがどういう人物なのか、それはおいおいわかる事ですからねー」
「……なるほど。本当に慕われているのですね、土方様は」
 士燮は微笑みを浮かべた。
為人(ひととなり)は、これより見させていただきますが」
 士姉妹は揃って跪いて、
「ようこそ、新たな州牧様。我ら一同、交州の民に成り代わり、歓迎致します」
「……うむ。私の方こそ、頼りにさせて貰いたい」
 何と言っても、この者らは土着の豪族。
 土地の事情に通じているのみならず、この地を支配してきたという実績は認めざるを得ない。
 良き関係を築けると良いのだが、な。


 数日後。
「あれが、番禺城です」
「前の刺史は、確か張津という人物と聞いているが」
「はい。……故人を悪く言うのは憚りがありますが、お世辞にも良き刺史様とは言えませんでしたね」
 士燮がそう言うと、二人の妹も同感とばかりに頷いている。
「ほう。理由を聞かせて貰えぬか?」
「は。張津様は、荊州刺史、いえ今は州牧の劉表様と仲違いを起こしていました」
「ふむ」
「ただ、疎遠と言うだけならばまだ問題はなかったのですが、張津様は度々、荊州侵攻の為の兵を起こされました」
「……州の刺史には、軍事権はなかった筈だが?」
「はい。土方様が仰せの通りなのですが、この交州は事情が違いまして。『南越国』の事はご存じでしょうか?」
「些かは」
 稟や朱里らに訊ねれば良いだけかも知れぬが、士燮の話の腰を折る事もあるまい。
「遠い昔、秦の末期にこの辺りを支配していた国です。漢の世になり、征伐されて滅亡しましたが」
「そして、この地は交州となったという訳か」
「そうです。ただ、その後も一度、徴姉妹による支配が三年ほどあり、その時も朝廷から将が派遣され、再び征伐される事となりました」
 辺境の地故、遠い洛陽の命に従わぬ雰囲気があるのやも知れぬな。
「そのような事情もあり、またこの交州は異民族と接する地でもあります。ですから交州刺史には、特に軍事権が与えられていました」
「なるほどな。だが、張津はその権利を本来の目的ではなく、私怨を晴らす為に使っていたというのだな?」
「その通りです。我々にも、幾度となく兵を供出するよう命令がありました。お陰で、犠牲となった兵は決して少なくはありませんでしたが」
 無念そうに、唇を噛み締める士燮姉妹。
「だが、張津は私が交州牧に任ぜられる前に、他界したのであろう? 戦死したという事か?」
「……いえ」
 顔を上げた士燮の眼は、どこか冷めていた。
「そのような御方でしたから、部下からの信望もなかったようで。些事が切欠で、反乱が起きて呆気なく討ち取られました」
「部下の反乱?」
「ええ」
 ……あまり、語りたくないようだな。
 事の真相は、後で風に調べさせるとするか。
「さて、どうぞお入り下さい。ただ……」
 と、士燮は後に従う軍勢に眼を向けた。
「わかっている。愛紗、彩」
「御意!」
「直ちに!」
 以心伝心、多くを伝えるまでもない。
「やはり、兵らの顔つきが、心なしか穏やかに感じます」
「ふふ、疾風さんもそう思いましたか。長い道のりでしたが、漸く辿り着きましたからね……」
 しみじみと言う愛里。
 確かに、遠い道のりであったな。

 番禺城。
 そして、番禺の街。
 それらを目の当たりにして、私は己の迂闊さを呪うより他になかった。
 ……先入観は常々危険と己に言い聞かせてきたつもりであったが、どうやら私もまだまだのようだ。
「士燮。この城壁は?」
「はい。先ほどお話しした、南越国の時代に築かれたものと言われています」
「……壮大だな」
「全長は約十二里あり、街は完全に城壁に囲まれています」
 十二里という事は……私の感覚で行けば一里半。
 それでも、長大な事には変わりはないな。
「南は珠江に面しています。ご覧になりますか?」
「うむ」
 頷いた士燮は、城門を通り抜けていく。
 襄陽や陳留、ギョウに比べれば絶対的な人口は少ないものの、街の活気はかなりのものだ。
 店頭や露天に並ぶ商品は種類も豊富の上、見慣れぬ物も多い。
 人々の顔立ちや肌の色も様々で、同じ漢の国内とは思えぬ程、異国情緒が漂っている。
「はわわ、凄いね愛里ちゃん」
「そ、そうだね……。街全体が活気に溢れている感じがする」
「にゃー。あれ、美味そうなのだ」
「あ、鈴々! 歳三殿のお許しなく勝手に行動するでない!」
 ……物珍しいのは、どうやら私だけではないようだな。
「どのみち、城に参れば良い話だ。皆、好きに見て回るが良い」
「やったー! よーし、食べまくるのだ!」
 真っ先に飛び出して行く鈴々。
 この場に愛紗がいたら、真っ赤になって追いかけ回していそうだな。
「土方様。それで宜しいのですか?」
「構わぬ。気遣いは無用だ、皆思い思いに行動せよ」
「……大胆な御仁ですね、ふふっ」
 士燮は可笑しそうに言った。

 結局、稟に風、星が私について来た。
 疾風と山吹(糜竺)、それに紫苑は何やら調べたい様子であったし、朱里と愛里は知的好奇心を満たしに向かったようだ。
 そして、士壱と士武は、先に城内へと戻っていった。
「これが珠江か」
「そうです。川幅は四里程あります」
 城壁のすぐそばまで、川が迫っている。
 地形を巧みに利用した天然の要害、そう呼ぶに相応しい構えだな。
「相当な繁栄を誇っていたのでしょうね、南越国は」
「ですねー。版図も南まで広がっていたとか」
「私もそこまで行った事はないが。士燮殿は、他国に出た事はおありか?」
「いいえ、趙雲様。これでも歴とした漢の官吏、外交官でもないのに勝手に国外には出られませんよ」
 手を振る士燮。
「だが、異国の者が皆、穏やかとは限るまい? 時に争いになるのではないか?」
「仰る通りです。特にこの番禺は海にも面していますから、海賊が襲ってくる事もあります」
「それはあるでしょうね。ですが、陸の賊はどうなのですか?」
「賊と言いますか、異民族が侵入してくる事はままあります。南からもそうですし、西から山越も」
「やはりですか。それでも、それらにこの地を蹂躙させていないのは、このような城壁だけではありませんよね?」
 ふむ、流石は稟だな。
 私がいずれ訊ねようと思った事だが、それを読んだか。
「はい。……無論、軍としての備えを怠らないのが第一です」
 そう言いながら、士燮は星を見る。
「む? 何か?」
「いえ。我が軍には、趙雲様のような優れた将はいません。ですから、兵の練度を高めると同時に、異民族に通じた軍にする必要があります」
「なるほどー。異民族さんからも、兵士さんを雇い入れたりしているとかですねー?」
「ふふ、お見通しのようですね。その通りです」
 ただ敵対するよりも、取り込んでしまった方が対応はしやすいという事か。
 内通する者を作る危険はあるが、そこは御する者の腕次第という事なのであろう。
「それだけではありませんけどね。見て下さい、この川の流れを」
 全員が、珠江に眼を向けた。
「緩やかに、蕩々と流れていますよね。これと同じ事です、異民族との付き合いも」
「常に自然体、という事でござるな?」
「ええ。異民族と言えども人間、言葉の壁があったとしても、此方が身構えれば相手も警戒します。ですが、逆の事を徐々に進めていけば……どうでしょうか?」
「それが、極意という事か?」
「ふふ、極意などと大それたものじゃありません。私達にとっては、それが当たり前なだけですよ」
 その当たり前の事を、出来ぬ輩が多い故に、異民族との諍いが絶えぬのだが。
 まだまだ、秘事があるのやも知れぬな。
「そう言えば、土方様も異国の方と伺いましたが」
「耳が早いな。その通りだ」
「随分、あっさりとお認めになるのですね」
 意外そうに、眼を丸くする士燮。
「既に陛下もご承知の事。今更隠すつもりもない」
「しかし、異国の方となれば、何かと差別されたり、好奇の目で見られるのでは?」
「やむを得まい。だが、その事で何か不便を感じた事もない」
「…………」
「それに、妬みや恨みは避け得ぬ生き方をしてきた。今もこうして、それを受け入れているつもりだ」
「お三方は、土方様が異国の方であっても、思う事はないのですか?」
「いえ。歳三様は優れた御方。異国の出であろうとなかろうと、私には関係ありませんね」
 稟が口火を切ると、風と星も続いた。
「風にとっては、お兄さんはお兄さんでしかありませんから。大陸中を回って、お仕えし甲斐があると見定めた御方ですしー」
「拙者も同様。この槍を託す御方は、他にはござらぬ。この国の者で、主以上の人物はおらぬ、そう信じておりますからな」
「……そうですか。慕われているのですね、土方様は」
 士燮は一人頷くと、
「さ、では城へご案内します。ささやかではありますが、歓迎の酒宴にお招きしますわ」
 そう言って、微笑んで見せた。


 その夜。
 ……ふと、妙な気配を感じて目覚めた。
 敵意という物ではないが、誰かに見られている気がする。
 何処かの間諜か?
 隣で寝息を立てている愛紗は、気付いておらぬようだが。
 だが、間諜ならば疾風か、その手の物が黙ってはいまい。
 と、天井から何かが舞い落ちてきた。
 紙片に、何かが書かれている。
 ……そういう事か。
 愛紗を起こさぬよう、私はそっと臥所を抜け出した。

「夜分に申し訳ありません」
「いや、構わぬ。だが、疾風らの眼をかいくぐるとは大したものだな」
「いえ。まだまだ未熟者です」
 低く抑えた声で話すのは、明命。
「して、用向きは?」
「はっ。予章郡の一件、睡蓮様から改めてお詫びとお礼を、と」
「……その為に、わざわざお前を寄越したと申すか?」
「……それは口実です。失礼、お耳を拝借したいのですが」
 こうまで抑えた話し声、周囲に聞こえる筈などないのだが……余程、内密の事のようだ。
「わかった」
「失礼します。お答えは、首の動きだけでお願いします」
 そして、耳元で囁く。
「まだ、定かではありませんが。山越族の背後に、支援者がいるという情報を掴んだのです」
「…………」
「ただ、山越族に連なる土地は、ここ交州のみです。……私の言う意味がおわかりでしょうか?」
 私は、首を縦に動かした。
「まだ、士燮さま一族が絡んでいるという確証はありません。これから調査を行いますが、くれぐれも油断なさいませんよう」
 再び、首肯する。
「また参ります。では、これにて」
 そう言い残し、周泰は闇に消えた。
 ……異民族との融和を掲げる士燮ならば、山越族と繋がっていても不思議ではない。
 だが、その結果として睡蓮が手を焼いているのであれば、看過出来ぬ事になる。
 これまでの印象では、そのような悪辣な企みを巡らすようには見えぬが。
 ……いや、結論を急ぐべき事ではないな。
「歳三殿」
 この声は、疾風か。
 素早く、私の傍へとやって来た。
「気付いていたか」
「はい。残念ながら、気付いたのは私だけのようですが。手の者は皆、手玉に取られたようです」
「うむ。あれだけの優れた隠密、それもやむを得ぬ事だ」
「……は。ところで歳三殿、何を耳打ちされていたのでしょうか?」
 どのみち、話しておかねばならぬ事だ。
 私は明命より聞かされた話を、余さず語る事にした。 
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