至誠一貫
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第五章 ~再上洛~
五十三 ~三軍筆頭の勇者~
翌朝。
我が軍と袁紹軍は、黄河に沿って西へと出立。
率いるのは星、愛紗、鈴々、そして風。
典韋も、そのまま軍と共に去ったようだ。
……別行動を取る私を、どのように思ったのかは知らぬが。
私と疾風(徐晃)、稟は城門のところで、見えなくなるまで見届けた。
……流石に私一人での官渡行は、皆が納得せぬのはわかりきっていた上、調査も兼ねている以上、同行者は欲しい。
戦術と戦略両面に強い稟と、身軽で様々な調査に長けている疾風、この二人が望ましかった。
……が、それを言ったところで、他の者がすんなり納得する訳がない。
ただ、全軍での渡河が事実上不可能な以上、軍は予定通り進ませる以外になく、軍を率いる将はどうしても必要でもあった。
最後は籤を引かせて、漸く決着を見た。
細工などしても風に見抜かれるだけなので、運を天に任せたのだが、思惑通りに顔触れが決まるという結果に。
我ながら、妙なところで運が良いらしい。
「しかし、歳三殿。よく袁紹殿が別行動を承諾しましたな?」
「確かに、切り出した時は引き留められたが。何とか、説き伏せる事が出来た」
「……それが成就しなければ、こんな真似は不可能ですからね」
稟が、溜息をつく。
「済まぬな。我が儘を通す格好になってしまったようだ」
「いえ。確かに危険がないとは申しませぬが、歳三殿も目的あっての事。ならば、何も言いませぬ」
「それに、歳三様はここ暫く働きづめ。少々、気分転換を兼ねるのも悪くありませんからね」
「……そんなに、私は根を詰めているように見えるか?」
「根を詰めているかどうかはともかく、歳三殿は真面目で几帳面な御方。そう見られても仕方ありませぬ」
「主が勤勉なのは良い事でもありますが……。歳三様はもっと、ご自身を労るべきとも思います」
新撰組時代に比べれば、今の私はまだ、私一人で切り回さねばならぬ事が少ない分、楽ではあるのだが。
寧ろ、皆に苦労をかけているのではないか、とすら思えてしまう程に。
だが、稟も疾風も、冗談で言っているのではないようだ。
「……わかった。少し、気をつけるとしよう」
「そうして下さい。歳三殿に何かあれば、皆が悲しみます……無論、私自身もです」
「私がこの智を尽くす、唯一無二の御方なのですから。ご自愛下さい」
仲間に心配をかけるとは……私もまだまだ、至らぬな。
「さあ、乗った乗った」
渡し船、と呼ぶには少々大がかりな船に乗り込む。
三人だけの上、公用ではないので、所謂乗合船である。
全員が旅装姿、誰かに気付かれる恐れはあるまい。
「はいはい、ちょっと失礼しますよ」
商人の一行が、ぞろぞろと乗り込んできた。
思っていた以上に、乗客は多いようだな。
立錐の余地もない、とまではいかぬが、だいぶ喫水が下がった気がする。
「そろそろ出航するようですね」
「うむ。往来が殊の外激しいな」
「それは、歳三殿の功ですな」
と、疾風が微笑む。
「私の功?」
「そうです。もともと、黄河の流域は豊かな土地。治安さえ安定すれば、自ずと人が集まります」
「そして、北岸は我らが冀州。……後は、おわかりでしょう?」
「……私は、為すべき事を行ったまで。功とは思わぬ」
「ふふ。歳三様は変わりませんね」
「全くだ。だからこそ、お仕えし甲斐があるとも言えるな」
「……冷やかすのは止せ」
だが、こんな一時も悪いものではない。
そんな事を思いながら、私は岸壁に目をやった。
「待って下さ~い」
と、一人の女が手を振りながら、駆けてきた。
船員がそれに気づき、纜を解く手を止める。
「早く乗りな!」
「済みません、助かりました」
女は頭を下げ、船内に飛び込む。
当然、乗客全ての視線を浴びる格好になっている。
……その殆どが、その容姿と胸元に集まっているようだが。
妙齢のようだが、それでいて若々しい印象を受ける。
美人と言って差し支えない顔立ちをしている。
それに加え、人間離れした大きな胸が、その存在を誇示。
男ならば、惹かれて止まぬところであろうな。
だが、私はそれ以上に、身のこなし、隙のなさが気になった。
弓を背にしているあたり、武官には相違なかろう。
「疾風。あの者、どう思うか?」
「恐らく、歳三殿が感じられた通りかと。かなりの遣い手と見ました」
「うむ。稟、見覚えはあるか?」
「いえ。ただ、素性は気になりますが……。何者でしょうか?」
そんな思いを感じ取ったか、女は此方へと近づいてきた。
「あの。ここ、宜しいでしょうか?」
どうやら、我らの隣に陣取るつもりらしい。
「……構いませぬが」
「そうですか。では、失礼します」
女は微笑むと、懐から手拭いを出し、額を拭いた。
「ふう……」
一息つきながらも、やはり隙は感じられぬな。
よく見ると、小指の根元にタコが出来ている。
得意とする得物は、背にした弓で相違あるまい。
夏候淵や祭、大史慈は既に面識があるが、それ以外の弓遣い……か。
そう思っていると、女が私を見た。
「あの。私の顔に何かついてますか?」
「いや、見事な弓をお持ちのようですな。つい、見入ってしまったようで、ご無礼仕った」
「いえ、お気になさらず。でも、この颶鵬に目を付けられるなんて、なかなかの眼力をお持ちですわ」
そう言いながら、女は弓を下ろした。
「宜しければ、お名前をお聞かせいただけますか? 私は荊州の住人で、黄忠と申しますわ」
……その名には、無論聞き覚えがある。
老いてますます盛ん、と言われた五虎将の一人。
ならば、弓が得物でも納得がいく。
しかし、老齢に達しているとはとても思えぬな。
……何故か、年齢を確かめるのは危険という予感がする故、それ以上は詮索するまい。
「拙者、関興と申す者。此方は、義妹の関索。それから共に旅をする戯志才でござる」
稟は嘗ての偽名だが、私と疾風は、新たな偽名を使っている。
予てから、打ち合わせておいた通りだ。
私の知る歴史では、関興も関索も関羽の息子だが、この世界では無論、実在しない。
「失礼ですけど、皆さん旅をなさっておいでですか?」
「然様。拙者と義妹、大陸中を見聞している道中にござる。戯志才は仕える主探し、目的は違えど旅は道連れ、という奴でござれば」
「そうでしたか。私は、公用の帰り道なんです」
と、黄忠。
「公用ですか。では黄忠殿は宮仕えされておられるとか?」
「ええ、そうですわ。……でも戯志才さん、私の主はお奨め出来ませんわ」
「何故でしょうか?」
「見たところ、貴女様は軍師をお望みのようですね。私がお仕えしているのは、荊州刺史の劉表様ですが……」
既に荊州刺史は劉表が務めている、そこは私の知識とは異なるが。
ただ、黄忠は確かに荊州の出、そのまま劉表に仕えたのは変わらぬようだ。
疾風と稟は、互いに顔を見合わせている。
「黄忠殿。荊州刺史の劉表殿、と申せば、教養に優れ、善政を敷く御方……私はそう聞いておりますが」
「それに、荊州は豊かで、先の黄巾党の騒乱でも、殆ど荒れなかったとも言われていますね」
二人の言葉に、黄忠が頷く。
「そうですわね、それは事実です。……ただ、劉表様御自身は温厚な人物で、それを良い事にいろいろと企んでいる者もいますので」
思い当たるのは、蔡一族であろうか。
劉表亡き後、劉琦と劉琮で後継者争いが起こり、ほぼ全軍が曹操に降る形となった筈だ。
「……ですが、劉表殿は皇帝陛下の一族にも当たる名家。庶人が苦しんでいないのなら、良い事ではありませんか」
「……ええ。戯志才さんの仰る事はごもっともですわ。ただ、劉表様は病がち、あの御方に万が一の事があれば、荊州はどうなるのか……」
黄忠は、深くため息をついた。
「貴殿は武官ながら、荊州の行く末を憂いておいででござるか。……しかしながら、見ず知らずの我らに、そのような事を話しても良いのでござるか?」
すると黄忠、妖艶な笑みを浮かべ、
「それなら心配していませんわ。関索さんと戯志才さん程の方をお連れの貴方様が、そんな矮小な御方な筈がありませんもの」
「……随分、拙者を買い被られているようですな?」
「あら、これでも人を見る目はあるつもりですわ?……それに、今のままでいいのか、私自身悩んでいるところですから」
芝居だとしたら大したものだが、言葉や仕種に嘘は感じられぬ。
目の前の黄忠が、あの黄忠だとすれば、私とも何かの縁があるのやも知れぬが。
しかし、今は名を偽っての道中。
今少し、人物を見定めた方が良いのかも知れぬな。
如何に大河とは申せ、川幅は半里程度、と言ったところか。
程無く、対岸へと到着。
船を降り、大地を踏みしめる。
黄忠も、我らの後に下船した。
「関興さんは、これから何方へ?」
「さて、気の向くまま足の向くまま、ですかな」
「あらあら、羨ましいですわね。宜しければ、途中までご一緒させていただけませんか?」
「……貴殿は公用と伺いましたが。戻らずとも宜しいのですかな?」
「確かに、公用は公用ですわ。ただ、私自身の用と言いますか、目的もあるんですわよ」
そう言いながら、黄忠は私を見た。
「公私混同はあまり感心とは申せませぬな」
「確かに仰る通りですわね。ですが、これは劉表様にもお許しいただいての事です」
「それと、我らとの同行を望まれる事が、どう繋がると?」
「はい。まず、私が命じられたのが、冀州の魏郡をこの眼で確かめてくる事です」
身構えようとする疾風を、私は目で制した。
「ほう。武官である貴殿に、そのような命を?」
「ええ。関興さん、旅をされている、と仰せでしたけど。今、大陸で盛んな街を挙げてみていただけますか?」
「……まず、洛陽。それから陳留、襄陽。それに、ギョウでござるかな?」
「はい。洛陽は正直、寂れ行く一方ですが……他の街は違いますわ。特に目覚しいのが、陳留とギョウでしょう。違いますか、戯志才さん?」
「いえ。その通りでしょう」
稟は淀みなく答えた。
「特に劉表様は、ギョウの目覚しい発展に強い関心を持たれていまして。それで、私に視察をお命じになったんです」
「黄忠殿。義兄上の質問に答えていないようですが」
「あら、ごめんなさい。確かに私は武官ですけど、これでも娘がいるんです。子を持つ母親としてどう映るか、劉表様はそれがお知りになりたいと」
子持ちにしては、若々しいが。
……む、年齢の事を考えた途端、脳裏で警鐘が鳴らされるのは何故なのだろうか?
「それに、こんなご時世ですから。私ならばこうして単身でも心配ないだろう、と」
「それが公用でござるか。では、私用とは?」
「それなんですけど……」
上目遣いに、私を見る黄忠。
……よもや、とは思うが。
「その、ギョウにおわす太守様に、一度お目にかかりたかったのですわ」
「……魏郡太守に、でござるか?」
「そうですわ。黄巾党を壊滅させた武功は勿論、腐敗しきっていた魏郡を見事に建て直し、大陸でも有数の発展に導いた土方様。荊州にいても、そのお名前は何度も耳にしました」
「…………」
「今のこの大陸で、そこまで有能な殿方は私は存じ上げません。それで、どのような御方なのかと。……ただ、既に洛陽に向けて出立された後との事で、残念ながらギョウでは」
「然様でござるか」
「でも、関興さんにお会い出来ましたわ。図々しいと思われるかも知れませんけど、何故か、貴方様が気になるんです」
「拙者はただの旅人。買い被り過ぎでござろう」
「いいえ。船の上でも申し上げましたけど、私、人を見る目には自信がありますから」
「…………」
「宛もなく、と仰っていましたが。宜しければ、荊州をご案内しますわ」
黄忠は笑顔でそう言った。
……無論、荊州などに向かう訳には参らぬ。
だが、無碍に断れば、要らぬ疑いを招きかねないのも事実。
我ながら、上手い言い訳が浮かばぬ。
そう思い悩んでいると、
「黄忠殿。……貴殿を信じて、お話させていただきますが」
稟が、そう言い出した。
「戯志才殿!」
「関索殿。こうなった以上、仕方ありませぬ」
何やら、策があるらしい。
ここは、任せてみるか。
……しかし、疾風もまた、微塵も動揺せぬとは流石だ。
真っ正直な愛紗や鈴々では、こうはいかぬな。
「何でしょうか、戯志才さん」
「……実は、我々はある目的を帯びて、洛陽に向かっているところなのです」
「目的、ですか?」
「はい。旅を装っていますが、それは世を忍ぶ仮の姿なのです」
「…………」
ゴクリ、と唾を飲み込む黄忠。
「その真の目的は……」
と、その時。
「キャーッ!」
絹を切り裂くような悲鳴が、辺りに反響した。
「義兄上!」
「うむ!」
疾風は、手近な建物の屋根に飛び乗った。
「あっちです!」
「よし。参るぞ!」
「お待ち下さい。私も参りますわ」
咄嗟の事だ、断るのも不自然だ。
「では、助力をお願い致す。戯志才、警備の兵がいる筈だ、探しだして知らせよ」
「はいっ!」
私と黄忠は、疾風に従って走り出した。
「お願いです! そ、その子だけは返して下さい!」
「うるせぇ! いいからさっさと有り金と船を用意しろ!」
街外れの一角で、黄巾党の残党と思しき男が、喚き立てていた。
手にした剣を、抱えた子供に突きつけながら。
そして、母親なのだろう、女が必死の形相で、子供に手を伸ばしている。
「義兄上。どうなさいますか?」
「見過ごす訳にはいくまい。……ただ、相手が多過ぎるな」
二、三十名程、人相の良くない奴が集まっている。
疾風の突破力で抜けられるか……。
だが、不用意に近づけば、子供に危害が及ぶやも知れぬ。
「関興さん。私にも、お手伝いさせていただけますか?」
と、黄忠。
「だが、貴殿の得意は弓でござろう? この場面で、どうされるおつもりか?」
「ふふ、弓は遠距離射撃だけが取り柄じゃありませんよ?」
意味ありげに笑うと、黄忠は矢を番える。
「関興さん、関索さん。合図と共に、あの子供を」
「……よし。では黄忠殿、お任せ致しますぞ」
そして、
「はあっ!」
気合一閃、黄忠は矢を放った。
「ぐわっ!」
倒れたのは、子供を抱き抱えている男ではなく、その背後にいた男だ。
当然、賊共の視線は、そこに集まる。
その隙に、間断なく矢は放たれる。
……見事なまでの、速射技だ。
その都度、喉や額を貫かれた賊が、バタバタと倒れた。
「今です!」
「応っ!」
こうなれば、迅速さで疾風に及ぶ者はおらぬ。
私も兼定を抜き、賊へと向かった。
賊が兵らに引っ立てられるのを横目に、私はその場を後にする。
……目立ってはならぬのに、思わず身体が動いてしまったな。
「疾風、稟。参るぞ」
「はっ!」
「御意」
此処での長居は無用。
黄忠は頻りに礼を述べる親子や、事情を聞きたい兵らに捕まっている。
我らの動きには気付いたようだが、そのまま立ち去る事にした。
「歳三様。この辺りの視察も結構ですが、手短に済ませるべきかと思います」
「私も稟に賛成です。素性が知られると、厄介です」
「……うむ。そうしよう」
黄忠とは、またいずれ再会する事になろう。
私には、そんな確信があった。
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